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異聞エズラ記 Ⅰ

あらすじ

 紀元前四五八年、ペルシアの王アルタクセルクセス・ロンギマスス(=アルタシャスタ)王の治世第七年、正月(第一の月)の一日、律法学者であり、写字生でもあるエズラは、王命により、七千人近いイスラエルの民(ユダヤ人)を引き連れてバビロンからエルサレムに帰還した。
 
 エズラにとって、かつてのユダ王国=パレスチナは未踏の地であった。

 物語は、ペルシアの占領地であっても入植を望む民を引き連れ、ユダ王国の領土であった最南端の町ベエル・シェバを訪れるところからはじまる。

登場人物

  エズラ……のちに旧約聖書を編纂する律法学者。(三○歳)

  ザドク……エズラの弟子(十九歳)

  メシュラム……随行員の長(三五歳)

  サライ……砂漠に生き埋めになっていた少年(十二歳)
       ネフリィムと呼ばれている。

  カライ……サライの兄(十八歳)


序章

 主の戒めの言葉、およびイスラエルに賜った定めに通じた学者で、祭司であるエズラにアルタシャスタ(=アルタクセルクセス・ロンギマヌス)王の与えた手紙は、次のとおりである。

「諸王の王アルタシャスタ、天の神の律法の学者である祭司エズラに送る。
 今、わたしは命を下す。わが国のうち(領域)にいるイスラエルの民およびその祭司、レビびとのうち、すべてエルサレムへ行こうと望む者は皆、あなたと共に行くことができる。

 あなたは、自分の手にあるあなたの律法に照らして、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の議官(顧問官)によってつかわされるのである。かつあなたは王およびその議官(顧問官)らが、エルサレムにいますイスラエルの神に真心から捧げる銀と金を携え、バビロン全州であなたが獲(え)るすべての金銀および民と祭司とが、エルサレムにあるあなたがたの神の宮(神殿)のために、真心からささげた供え物を携えて行く。

 それで、あなたはその金をもって雄牛、雄羊、小羊およびその素祭(小麦など穀物を捧げる)と潅祭(ワインなど飲み物を捧げる)の品々を気をつけて買い、エルサレムにあるあなたがたの神の宮の祭壇の上に、これを捧げなくてはならない。

 また、あなたとあなたの兄弟たちが、その余った金銀でしようと思うよいことがあるならば、あなたがたの神の宮のみ旨(むね)に従ってそれを行なえ。

 またあなたの神の宮の勤め事のためにあなたが与えられた器(王と議官から賜った精銅の器)は、神の宮に納めよ。
 そのほかあなたの神の宮のために用(もち)うべき必要なものがあれば、それを王の倉(くら)から出して用いよ」
  エズラ記17章11―20節より

  

第一章 神の子・エズラ


   1

 ゆらゆらと形をかえる、蜃気楼のつらなる砂漠を静寂がおおっていた。万物は地にかしづき、神秘は世界の外にあった。創造主である神のみが、その御手に光と闇を有していた。

 第七の月の初旬、暑さが増し、パレスチナ各地で多量の露が降りる。

 先頭を行くザドクは、ラクダを止め、すぐ後ろを来るエズラを振り向いた。堅牢な砦のある町ヘブロンの市場で買い求めたイチジクを、差し出す。

「ベエル・シェバに入る前に、町の周辺に住むシメオン族の長老が先生にお目にかかりたいと申していると伝え聞いておりますが、いかがなさいます?」

 エズラは伏した目を上げると、微笑み、首を横にふった。

 イチジクはいらないのか? 長老との面会を嫌がっているのか? ザドクはラビ(祭司)・エズラの意志がどちらを拒んでいるのか、迷う。

「シメオンの方たちには、お目にかかりますよ」

 ということは、イチジクはいらないらしい。

 被り物(フード)からのぞく、エズラの端正な顔面は、砂漠から風で運ばれる黄色い土埃で汚れ、額帯(ひたいおび)の下の目に疲労の色がにじみでている。

 ザドクは、エズラの体調が心配でならない。

 比類なき師と敬う、エズラと出会ったのは半年前だった。

 寒さのやわらぐ正月(第一の月)の一日に、ペルシアの王都の一つであるバビロンを発ったエズラは、七千人余の同胞を率い、八○○㌔の行程を徒歩て聖都エルサレムにのぼってきた。

 第六の月の初旬だった。

 帰還民の先頭に立ち、正装で神殿域の広場に入ってきたエズラは麗しい人だった。彼には髭がなかった。口まわりは若い女の肌のように見えた。ユダ部族の男子は十三歳で成人式(バル・ミツバァ)を終えたのちは、生えてくる髭をのばし放題にしている。ザドク自身は母親が嫌がるのでむさくるしくないように整えていた。

 エズラは唇の色も赤い。

 喧騒の中、ザドクはエズラの前にぬかずき、「母はフェニキア (現レバノン)からの帰還者ですが、私は十九年間、この地で育ちました。先生のもとで、律法を学びたいのです」

 広場を埋め尽くす帰還民の話し声が、ザドクの声をさえぎる。

 諦め、立ち上がろうとするザドクの頭上に、やや高い、細い声がふってきた。

「母上は、婦人の中庭におられるのですか?」
 女と子供は、これから入る神殿のイスラエルの庭には入れないしきたりがあった。
「お父上はいずこに?」
「……」ザドクは返答につまった。
 交易に携わる母親は帰還民に関心がなかった。ザドクの父親の話を、母は口にしたことはなかった。
「こちらの会堂(ジナゴーグ)で、学ばないのですか?」
「……」
 ザドクと母親は、ユダ部族の同胞から反感をもたれていた。エルサレム市内の邸宅に住み、大勢の使用人にかしずかれる暮らしぶりのせいだった。
「神殿の中を、案内をしてもらえますか?」とエズラは言った。
 ザドクは顔を上げた。「もちろんです!」
「約束の地シオン(ダビデの都市)に至るまで、主の導きがあり、平安のうちに旅することができました。通行税も課せられませんでしたよ」

 エズラの声は、竪琴の音のようにザドクを魅了した。神殿前の広場に、エズラと二人きりでいるような錯覚を覚えた。

「人の住める場所ではない!」傍らに立つ髭面の男が濁った声で怒鳴った。「祖父が存命であれば、このようなありさまを看過すまい」

 セシバザル(=ゼルバベル)の長子の子孫だと名乗る、メシュラムは喚き散らした。「城壁は崩れ、神殿の障壁(ソーレグ)には亀裂が入り、聖所も荒れ放題だ。これが、夢見た聖都かっ」

 メシュラムの言葉通り、神殿とは名ばかりで、敷石さえ満足に敷かれていない。広場には物乞いと娼婦と男娼で溢れ、帰還者の目を引こうと躍起になっていた。

 約八○年前(紀元前五三九年)、バビロニア王国を滅ぼしたキュロス王は即位と同時に、難攻不落のバビロン攻略に功績のあったセシバザルを総督に任命した。ユダヤ人として、はじめて高位についたセシバザルは、かつてネブカドネザル王に掠奪された神殿の金銀の器をキュロス王より賜り、エルサレムに帰還し、神殿や城壁の再建を試みたが、セシバザルに力を貸す同胞は限られていた。修復作業は未完に終わり、所在のわからない神の箱(アーク)と同じ運命をたどったのか、返還された神の器もいずこかに消えた。 

 モリヤ山に建つ神殿は、昔日の姿を喪っていたが、神聖な趣はとどめていた。そのことが、さらなる寂寥感となった。

「フェニキアの豊穣の女神・アスタルテを崇拝するユダヤ人も数しれません」ザドクは弁明した。「盾と棍棒をもった像が城内だけでなく、城外の耕作地の至るところににあります」
「年々、税が重くなっているので、ペルシアの水の女神・アナーヒターへの反発があるのでしょう」エズラは言った。「あなたが、気にすることではありません」
「先のペルシア王が、ギリシアとのいくさで敗北したからですか?」とザドクは訊いた。
 心ない問いかけにも、エズラは微笑み、
「新王になって物の値段が、二倍になったせいです。陛下に科(とが)はないのですが、戦費に要した金銀があまりに多すぎました。この数年、バクトリア(現アフガニスタン)とエジプトが反旗を翻し、鎮圧に手間取りました。この不安定な状況を少しでも、改善したいと陛下は望んでおられます。私への多大なご温情も、帝国の安寧を祈願されてのことです」

 神殿内で寝起きしている、祭司の長である氏族(地侍に近い)のマルキが祭司職の衣服をまとった一群を引き連れ、柱廊階段をゆっくりと下りてきた。

「遠いところ、よく来られた」
 口では言うが、マルキは戸惑いを隠せない顔つきでいる。
「主のお導きに感謝しております」
「ところで、大祭司はいずこに?」
「バビロンで安寧に過ごされておられます」
「バビロンにおいて、サンヘドリン(ユダヤ人の高等法廷)が設けられたという話は誠ですか……」
「主の御心によるものです」
 エズラは詳細を語らなかった。

 ザドクは母親から聞いていた。ペルシア帝国の創始者であるキュロス王の民族解放令によって、バビロンに住むユダヤ人は減少するどころか、ユダの地から移り住む者たちで増加したと。

「この地に帰国する者たちが、何千人もいるとは思いませんでした……」マルキは言った。「ユダの地では、日々の糧にも困る者ばかりです。物盗りが横行しております」

 エズラはバビロンにおいて、ユダヤ人を裁く法律(祭司法典)を制定し、かつてモーゼが定めたサンヘドリンを再組織した。大祭司を頂点に、祭司、年長者、部族長、書士など七○人によって構成されていた。この組織は、名称を変え、現代に至るまで引き継がれている。

「レビ人祭司は、二四組にわけられておりますか?」エズラはたずねた。「塩は貯えられていますか?」
「かろうじて……」マルキは言いよどむ。

 エズラは帰還者のうちの上級祭司を呼び、レビ人祭司ら二○人と、ネティニムと呼ばれるイスラエル人ではない奴隷二二○人を呼び集め、一刻も早く神殿の内外を浄(きよ)めるように命じた。

「精銅製の鋳物の海(二つ水盤)、ヤキンとボアズ(二つの塔)はすでにないのか……」上級祭司はつい昨日のことのように嘆いた。「バビロニアのネブカドネザル王に溶かされた……」

 エズラは帰還者の男子らとともに、イスラエルの庭に入り、神殿前に備えられた祭壇に塩を撒き、雄牛、雄羊、小羊、雄山羊を捧げた。
 ネティニムの奏者が、楽器を鳴らし、歌手が合唱する。
 角笛が鳴り、焼燔台で家畜が焼かれ、煙が立ちのぼると、感極まった帰還者らはこぞって、むせび泣いた。号泣し、髪や髭を引き抜く者もいた。

  2

 ザドクは翌日から、帰還者たちを、エルサレム近郊の都市に入植をすすめるエズラの手伝いをした。金細工人、小売商人、香油商人らの住居は市内に容易に見つけられたが、牧羊と農業に従事する者たちを受け入れる周辺地域はなかった。カナン人などの諸部族の牧羊者、わけてもアラブ人がこれを許さなかった。

 富める者たちは物見遊山にでも訪れた気持ちだったのか、参詣すませると、急ぎバビロンに引き返した。エズラの許可なく、ついてきた両替商は、気づく前に姿を消した。

 早急に、何人(なにびと)も耕していない土地を探さなくてはならない。

 帰還者の大半は、バビロンでの生活基盤をすでに失っていた。砂漠の広がる、エジプトとの境界に近いパランの荒野に入植するしかなかった。バビロンで貧しく暮らしをしていた者も少なくなく、落胆の色は隠せなかった。彼らの希望は、先祖の耕作地を手に入れることだった。
  
「ダマスカスに逗留されておられる総督閣下、ならびに川向こう(ヨルダン川の東)の州知事に陛下より賜った勅書を、お渡しせねばなりません」
 エズラは、資金援助を、ユダヤ人の役人ではなくペルシア人の高位の者に求めた。パレスチナは、シリアとフェニキアとキプロス島で一つの州(サトラ)とされている。服属国一二七ヵ国。二O州に分けられている。その中でも、最重要視されている州である。当然、総督(サトラップ)も王族が赴任している。

 ザドクは驚愕した。多額の路銀を求めることもだが、ペルシア人の総督や知事が、エズラの要求を聞き入れたからだ。それほどの権力が、エズラに付与されていることに恐ろしさすら覚えた。

 エズラは祭司らと見識ある人びとをエルサレムに残し、神殿広場を埋め尽くした一団とともに、ユダの飛び地と呼ばれたベエル・シェバへと旅立った。

 ザドクは案内役をつとめることになった。母親が雇うキャラバン(隊商)について、ユダの各地を回り、見知っていた。

 しかし――、

 エズラの肩ごしに見える、メシュラムの黄ばんだ顔面が視野に入った。後方には、ひと目で最後尾まで見通せない人数の同胞の群れが続いている。モーセがヘブライ人を率いて、紅海を渡ったときも、このようだったのかもしれない。

 彼らは後戻りできない。

 ザドクは嘆息し、メシュラムを振り返り、少し休みましょうと声をかけた。日に何度も、同じ言葉を繰り返している。

「時が無駄だ」
 随行員の長であり、レビ人祭司の一人でもある、メシュラムはさえぎった。父祖をたどればタビデにつらなる氏族(貴族)であるという自負が、彼に横柄な態度をとらせている。

「ベエル・シェバの兄弟は数は少ないが、われわれがバビロンを発ったときから、この日を待っていたのだ。いっときの猶予もない心持ちでいるはずだ」
「人びとに会う前に、ひと息いれたほうが……」
「年寄りの頭(かしら)は短気だ。連中の機嫌を損ねるわけにはいかん。もめ事を起こす兄弟団を操っているのはおそらくやつらだ」
「お言葉ではございますが、わが師のお疲れのご様子を彼らに見せるより、気力に満ちたお姿で目通りするほうが良策かと思われます。彼らは自らの有する土地を、帰還者に収奪されると危惧しているやもしれないからです」

 エルサレムから南端の町ベエル・シェバまで約一○○㌔。ラクダで一日半の行程であったが、徒歩の者に速度を合わせるので日数を要する。最初の町、ベツレヘムの牧草地で一夜を明かし、さらに南へ向かい、海抜一○○○㍍の高地にあるヘブロンを仰ぎ見る低地では数日、過ごした。ザドクは、ヘブロン市内にある始祖アブラハムが葬られた洞窟にエズラを案内した。

 エズラは両目を閉じ、聖句を唱えた。「わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない (創世記24:3)」

 ザドクは、ユダヤ人と他部族の婚姻を阻止することはもはや不可能だと考えていたが、アブラハムの墓に誓うエズラの信念の固さに驚きつつ聞き入った。

 岩地の高山をつらぬく細い道を上り下りし、乾いた荒地で天幕 (テント)を張り、寝泊りしながら耕作地のつきる砂漠にたどり着いた。

 ベエル・シェバまで数㌔の地点に達した。

 ザドクとメシュラムは、斥候役をかって出た。ラクダに鞭を入れ、休息できる場所を探した。
 メシュラムは、「このような土地で、どうやって糧を得よというのだ」と愚痴った。「なんのための帰還だったのか」
「わが師は、何事も主の思召しだとおっしゃるはずです」
 ザドクが告げると、
「ふた言目には、わが師だな。律法学者であり、大祭司アロン(モーセの兄)の家系につらなるエズラ殿がご立派なことは先刻承知しておる。しかし、私とてセシバザル総督の子孫、本来なら首長たる者。故あって、祭司となるべく、数えられない部族として育てられ、いまにいたっている。レビ族は、十二部族の上に位置しているのだ。そのことを忘れるな」
 ザドクは口をつぐんだ。
「いや、なに、ラビ・エズラのご高名を軽んじて言っているのではない」
 メシュラムはそう言って、たるんだ顎を上げて笑ったが、充血した目頭に気性の激しさがうかがえた。

 メシュラムは引き返し、エズラに大声で伝えた。「先を急ごう。あと少しだ」

 この男が、休息をとることに反対するのであれば、従うしかない。

「私のことなら、気にしなくてもよい」エズラは二人に言った。 「ただ、女や子供もいるので、ひと休みしてはどうかと思う」
「ラビ・エズラがそうおっしゃるなら――」とメシュラムは承知し、後につづく従者に、そのむねを伝達した。

 師と仰ぐエズラのたたずまいに、苛立たしげな気配は微塵もなかった。広い額ととともにガリラヤの湖面を思わせる静けさに満ちた眼差しに侵しがたい威厳があった。

 何人も逆らえない。

 ザドクは西に傾きかけた太陽を仰ぎ見る。黄土の砂丘の彼方に目を懲らす。少し前から砂漠の道を急ぐことに不安と焦燥を感じていた。

 エズラはザドクの心を察したようにラクダの首をやさしく叩き、澄んだ声でザドクに言った。「ユダヤの神は祭司職のレビ族をはじめ、われわれ十二の部族を一つの民とみなし、よく助けられる。生ける神のご意志を信じましょう。行く手に災いはないと、バビロンを後にしたときから固く信じています」

 蜃気楼と見紛う、日輪の光芒はいまや砂漠の平原をほとんど水平に流れていた。背後にひろがる地平線は急速に翳りをおび、深い闇に覆われようとしていた。極度の疲労に苛まれているのか、敷物もしかずに、その場に倒れこむ民が続出した。

 エズラはザドクとメシュラムを伴い、小高い砂丘にのぼり、砂塵の波に洗われる小さな黒い石の一群を目にした。

「なんだ、あれは」メシュラムは楽しげに言った。
「人の頭です」
 エズラの言葉に、メシュラムは顔色をなくした。
「……どういうことだ!」
「捨て置きましょう」ザドクは震える声で言った。
「生きている者がいるかもしれません。確かめてください」
 近寄ることを避けようとするザドクに向かって、エズラは穏やかな声で命じた。ザドクは動けない。メシュラムはラクダの歩みを止め、息を殺している。

 エズラはラクダから滑り降り、黒い石と見えた頭髪の頭を一つ一つ抱き抱えるようにして呼吸の有無を確かめた。黒く縮れた髪は頭部に貼りついている。ザドクは目を閉じようとした。生き埋めにされたのだ。話に聞いたことはあったが、間近で目にするのははじめてだった。

「この者は――」
 ひざまづいたエズラの手が止まっている。見ると、エズラの膝に灰色の髪が広がっている。
「生きている……」
「まさかっ」ザドクはラクダから転げ落ちると、師のそばに駈け寄った。

   3
 
 枯れ木と見紛うぎょうりゅうの木がそこかしこに見える。
 水のない地域でも育つ、この木の枝には、小さな葉と白い花が蛇のうろこのように張りついている。
 行く当てのない帰還者たちを、四方八方に曲がりくねった枝をのばしたぎょうりゅうの木が出迎えた。

 みな、歓声をあげた。

 エズラはメシュラムとザドクに、ひと足先に、町へ行くと言った。
「陽は陰っております」ザドクは引き止めた。
「子供を見捨てられません」
「私も一緒にまいります」
「ふむ、しかたがないな」メシュラムは言った。「年寄りどもが、夜を撤して待っているやもしれんからな」

 かつてシメオン族の領地であったベエル・シェバは盆地の町だった。水源には困らなかったが、攻撃されたとき、防御がむずかしい。町に住む人びとは、こぞって逃げ出す。この町から五方向に道は伸びている。
 西に向かえば、南北の交易路の起点ともいうべき要衝の地、ガザへ行きつく。西に行けば、塩の採れる塩の海(死海)へ至り、南に向かえば、エドム山地を越え、昨年、反乱を起こしたばかりのエジプトへ至る。

 一帯には、異なる部族が混淆して居住していた。

 三人は日乾し煉瓦の防壁に囲まれた町の門前で老人らと対面した。

 篝火(かがりび)が燃えている。

 町が一望できる、防壁の上部には見張り台があり、長槍を持ったペルシア兵の姿が見え隠れしている。辺境の町に、ペルシア軍の三個大隊五○○人が駐屯しているのは防衛と徴税をかねていた。

 昔日の面影は失せているが、エジプトはいまだ大国である。ペルシア帝国に対して、エジプトは三度、反旗を翻した。最初の反乱で、キュロス王の後を継いだダレイオス大王が戦死した。二度目は、クセルクセス王が“サラミスの海戦”でギリシアに敗れた直後だった。三度目は、現王アルタクセルクセスの即位と同時にエジプトは歯向かった。
 対岸のギリシアの都市国家群と同盟を結び、いつ、攻めあがってくるか予測できない。この町の守備隊は、いくさの気配を察するやいなや、一個師団が待機しているガザに直行しなくてはならない。

 ユダ部族の多くは町中に居住していない。ペルシア帝国と戦った過去はないが、従ってもいないからだ。この地に帰還者を入植させる意図が、ザドクには理解できない。

 黒い帽子をかぶり、杖を持った老人はザドクに抱きかかえられた少年を目にして表情を固くした。憤怒の色さえあらわにした。

「たとえモーセの子孫、亡き大祭司セラヤの一族であっても、その者をともなってこの門は通れませんぞ」

 身の丈をはるかに越える鉄製の門扉が目の前にそびえている。

「ベドウィンに捕らえられた幼い者たちがどうなるか。知っておいでのはずだ」老人は折れ曲がった腰をのばした。「もし助かっても、それがどれほどの屈辱か……」

「この少年をご存じなのですか?」
 エズラの問いに、老人はうつむき、
「この者は、荒地の山に住んでおる」老人は白い髭を引っ張った。「ペルシア軍の助けがなければ、わしらの村は全滅じゃった。今頃、だれも生きておらん。その者を大地に返し、われわれの案内で裏門へ回りなされ」
 メシュラムはラクダの首をまわし、「アルタシャスタ王より、全権を委ねられたわれわれに裏門に回れというのか」
「物分かりの悪いお人じゃな」 
「われわれを阻む者などいない」
「どなたであろうと、わしらは同じ穴のむじなだ。“地の民”も “離散の民”と同じ憂き目を見ておる。今夜にでも、町の外に住むわしらのところへおいでなされ」
「私はラビ・エズラを補佐する者。レビ族の末裔、名はメシュラム」
「レビだ、祭司だと、なんになる。もはやわしらに安住の地はないんじゃ」
 老人の口調には自嘲が感じられた。市内に住めるのは、地主、貴族、商人、鍛冶職人、そして彼らの使用人。異臭のする牧羊者や小作人は、市外に住むことが定められていた。

 エズラはラクダを跪かせ、静かに降り立った。

 老人の背後にいた小柄な男がエズラの前に進み出た。「神の子と噂されるラビ・エズラにお目にかかれる日を、わしらベニヤミンの者は一日千秋の思いで待っておりやした。それを無駄にするつもりですかい。それとも、わしら部族の掟に口出しするのも祭司の特権と言うつもりか!」
「私とて、あなたと同じイスラエルの民であることに変わりありません。こうしてお話できる日を切望しておりました。しかし、この少年にはまだ息があります。掟がどうあれ、見殺しにはできません」
 小柄の男は声高に言った。「ここはペルシアの占領地であっても、村には集会所もある。子を為せぬ者(宦官)を救ってどうするつもりなんだ」

 老人らも険しい視線で、エズラを見た。

 メシュラムは彼らに聞こえるように、「盗人の部族が何を言う」と言った。

 ザドクは小声でエズラに告げた。「ハビロンの宮廷におられた先生はご存じないと思います。ベドゥインに拉致された男子はすぐに売れれば、命はとりませんが、そうではないとき、男根を切り取り、生き埋めにします」
「子をなさぬ者は、生きるに価しないと?」
「いえ……それは……」
 ザドクは、エズラが宦官であることを、失念していた。

「幸い、この子は、傷つけられていない」エズラは言った。「この子は、ベドウィンに襲われたのではない。折檻された傷跡がある」
「くそ……」小柄な男はつぶやいた。「こいつは、ネフィリム(化け物)なんだ」

 ザドクは訝しんだ。少年の衣を剥いで確かめた者はいない。

 門の上から様子を窺っていた兵士は身を乗り出した。「何者だっ」
「王の長(行政長官)のおなりだっ」メシュラムは野太い声で、門扉をこじ開けようとするかのようだった。
 兵士は背伸びをし、威嚇した。「地面にぬかずくのはどっちだ。ユダヤ人めっ」

 老人らの顔に苦渋の色が浮かんだ。自らをイスラエルの民と称したが、バビロン捕囚後は他の民族から、ユダ王国に由来し、ユダヤ人と呼ばれるようになっていた。

「面倒なことにならねばよいが……」
 髭に埋もれた小柄な男は落ちくぼんだ両目をしばたいた。
 砂漠に埋められていた少年の生死など眼中にない気配がありありと見えた。
 ザドクは困惑し、唇をかんだ。

「怪我人の手当てが先ですが――」
 まずは城門を開けてもらいましょうと、エズラはつけ加えた。

 ザドクの腕の中の少年の長い睫は動く気配はない。死んではいないが、生きているようにも見えない。灰色の髪もさることながら透き通る肌の色が、ザドクの鳶色の目を釘づけにする。彼は思わず、しっかりしろ。もうすぐ楽になると胸のうちでつぶやいた。
 死を意味しての言葉だった。

   4

 エズラは折り畳んだパピルス(羊皮紙)の書状を懐から取り出した。
「私はメソポタミア全域を支配するペルシアの王、アルタシャスタ王の臣下、エズラと申す者です。陛下より、この地の行政長官の地位を賜りました」
「ユダヤのくせに、寝言を言うな」
「陛下の印章を印した書状です」
「いまに泣きを見るぞ。さっさと――」
「これを――」
 エズラは書状をメシュラムに手渡した。
 メシュラムは受け取った書状を掲げると、響きのいい声で読み上げた。
「諸王の王アルタシャスタ、天の神の律法の学者である祭司エズラに送る。今、わたしは命を下す。わが国のうちにいるイスラエルの民およびその祭司、レビびとのうち、すべてエルサレムへ行こうと望む者は皆、あなたとともに行くことができる(エズラ7:13)」

 老人らは一様に怯えた眼差しで辺りに目を配った。それは自国の国土を戦いで失った民の性(さが)だった。行政長官は司法権を有し、州知事に劣らない役職名だった。

「あなたは、自分の手にあるあなたの神の律法に照らして、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の顧問官によってつかわされるのである(エズラ7:14)」

 兵士は見張り台からいなくなった。

 老人らはため息とも感嘆の声ともつかぬ吐息をもらし、互いに言葉を交わした。
「上の者を呼びに行ったらしいな」
「いや、もっと近くから、見るためだろうよ。ペルシアの兵隊と言えども、王の側近とじかに接した者は少ないだろうからな」
 強弁をしていた小柄の男は頷き、「レビびととちがって、王の右腕と称されるだけのことはあるな」

 わし鼻のメシュラムは、目つきの悪い小柄な男をひと睨みしたが、威勢のいい声は途切れることはない。

「また、あなたとあなたの兄弟たちが、その余った金銀でしようと思うよい事があるならば、あなたがたの神のみ旨に従ってそれを行なえ(エズラ7:18)」

 扉がわずかに開いた。老人らは一斉に咳払いをはじめた。エズラは手を挙げ、メシュラムの朗読を止めさせた。
 エズラはゆっくりと歩を運んだ。
 慌てた様子がないのは兵士の一群も同じだった。胸当ての背中にマントをはおった隊長を先頭に兵士らは門の外へ出てきたが、エズラの一行に向き合うと、それぞれが立ち話をはじめた。隊長は号令をかけない。従って整列する者もいない。隊長の頬には歴戦の兵士らしく深く長い傷跡がある。

 エズラは兵士らを見渡し、
「守備隊の兵士諸君の出迎えを、心から感謝します」
 微笑むと、
「駐屯地における、諸君の精励を陛下ならびにバビロンの人びとは常に心に止めています。このたび、この地において暮らす、イスラエルの民へ陛下のご温情を伝えるために、われら三人はまかり越しました」

 エズラの目には、王以外の何者の命にも服しない不退転の決意がはっきりと見えた。

「私――エズラは、写字生でありながらバビロンの宮廷において陛下のお側近くにお仕えする栄誉を得ました。また、聖なる地エルサレムに帰国するにあたっては行政長官という身に余る役職を拝命したばかりでなく、われわれの先祖アブラハムの井戸のある当地、ベエル・シェバへの視察もお許しいただきました。そのご恩顧に報いるためにも、われわれユダヤびとの罪と汚れを取り除き、陛下の御ために力を尽くす民となさすよう、この地においても民を導く所存です。何にもまして、陛下のご威光は不滅です。われわれに対する陛下の信頼も末長く損なわれることはありません。その証しともいうべき、陛下の書状には次のように記してあります」

 エズラはメシュラムから書状を受け取り、「われ、アルタシャスタ王は川向こうの州のすべての倉づかさ(財務官)に命を下して言う『天の神の律法の学者である祭司エズラがあなたがたに求める事は、すべてこれを心して行なえ』(エズラ7:21)」
 読み終えると、彼は王への賛美の言葉を繰り返した。しびれを切らしたのはペルシア兵のほうだった。

「行政長官のおいでを歓迎する」と隊長はおもむろに告げた。
 
 門が開いた。

 徴税のために訪れていた徴税官が姿を見せると、エズラは姿勢をただした。
「偉大な陛下の書状を、ご視察中の徴税官にお示しできることを誉れに存じます。陛下こそ、王の中の王。メソポタミア全土を治めるにふさわしいお方です」
 そして、言葉を継いだ。
「われわれの預言者は陛下の末長い治世を予見しております。生ける神が、陛下を祝福されているのです。それゆえ、主のしもべであるわれわれユダヤびとは何分かの権利を有し、記念碑を持つことができる次第です」

 徴税官は隊の者を一瞥し、いかにも面倒だというように唇の両端を下げて見せた。言葉はなくとも、徴税官の真意は誰の目にも明らかだった。

 エズラは澱みのない声で言った。「われわれの神の手は、われわれの上にあって、敵の手および道に待ち伏せする者の手から、われわれを救われるのです(エズラ8:31)」

 徴税官は肩を怒らせ、エズラの前から立ち去った。彼の尊大な態度を訝しむ者はなかった。エズラに与えられた行政長官という呼称を、その名の通りに受け取っている者は若い弟子一人だけだ。
 本来であれば、徴税官は地域の税を徴収し、州知事に治めるのが役目。行政長官は不正があれば、徴税官を裁き、罰する権限をもつ。彼らは知っているのだ。罰すれば、命を落とすと。

「門を開けさせろ。行政長官のお通りだ」

 守備隊長は部下に命じ、欠伸をもらしながら小柄な男に話しかけた。
「あいかわらず、ぞっとする髪の色だな」
 小柄な男は眉一つ動かさない。
 守備隊長はザドクに抱えられた少年に向かって、顎をしゃくった。
「行政長官のおかげじゃないか。おまえの大事な息子をお救いくだされたんだからな。こっそり埋めたのに、だいなしだな」

 ザドクは、たったいま水面から引き上げられたような少年の青白い顔と、乾いて縮んだ男の額をまじまじと見比べた。

  

第二章 神に抗する者


   1

 第八の月の下旬、乾期は続いていたが、時おり小雨が降った。

 褐色の峰に太陽が沈む。
 干上がった川床(ワジ)をわたった突風は昼と夜をわかたず、熱砂を運んでくる。芥子粒にひとしい少年の姿が荒れ狂う砂塵の真っ只中に浮かんでは消える。
 まだ成人に達しない年齢だが、ベエル・シェバを出奔し、荒野にさ迷い出た。

「死ぬもんかっ」

 少年は叫び、腰の革袋を口にくわえた。ひび割れた唇で、吸い口を噛みしめるが、一滴の水も喉を潤さない。

「ううっ……」

 水は昨夜のうちに飲みつくしていた。地滑りをおこす地表に、手とひざを突いた。黄土の砂塵が顔面を激しくなぶる。

「どっちへ行けば、いいんだよ」

 日没とともにあらわれた雲の塊は天の星を覆いつくし、北の方角が見定められない。手にした杖を砂の海に突き立てるが、押し寄せる風と流砂に押し倒される。
 死にたくないと一心に思った。
 頭を覆ったターバンを脱ぎ捨てると、杖の先にくくりつけ、小さな風よけを作った。

「……塵にされて、たまるかっ」

 灰色の髪が烈しい風に舞う。頭をねじ込むようにして、風よけの中にもぐりこみ、悪天候をののしった。

「くそったれ」

 腹ばいになり、額の前に腕を回し、杖を支えた。吹きすさぶ砂塵は熱く、侵入者の息の根を止めようと押し寄せる。

「息ができねぇ……」

 熱い砂粒が大波となって襲いかかる。必死で頭をもたげるが、焦るほどに矢束にくくりつけた風よけが、顔に張りつく。死ぬかもしれないと思った次の瞬間、全身を貫く激しい感情が心に沸きたった。

「神の子に会うまでは、どうしたって死なねぇ」

 波打つ砂丘が視界のかぎりつらなり、四肢をかばってくれるものは影すら見えない。

「立て、立つんだよ……」自らを鼓舞する声が砂の砦に響く。

 つかみどころのない大地に手足を打ちつける。宿もなく、道もなく、食糧もなく、ほとんど眠りさえせず難儀に陥った十日余りの出来事が脳裏をよぎる――。
 
 行く先々に、禿鷹が群がり、腐臭が漂っていた。泥煉瓦の家々の並ぶ村で手に入れたラバを乗りつぶしてからは、命あるものに出会うことは稀だった。
 平地の村々では多くの餓死者が出ていた。あらたに入植した帰還者たちも例外ではなかった。
 日照りは執拗で苛酷だった。
 少年の住む山地の村ではぶどう、なつめやし、いちじくが実った。夏の間、エドムへ出稼ぎに出ていた男たちが、大麦を背負ってもどってきたおかげで住人は生きのびた。
 ベドウィンが押し寄せるという噂が伝わった。

 辺境の地に半遊牧民として暮らす人びとは老いも若きも、いくさの話を好んだが、ベエル・シェバに駐屯しているペルシア軍に武器を取り上げられているせいで戦闘の経験のあるものはいなかった。

 定住地をもたないベドウィンは乾期に入り家畜の大半を疫病で失うと、パレスチナ南部の村々をつぎつぎと襲うのが習わしだった。

 時の覇者であるペルシア帝国の権勢さえも、「王の道」と呼ばれる交易路と遠く隔たった僻地には及ばない。ラクダを駆って掠奪を繰り返す砂漠の禿鷹にとって殺し奪う行為は、農民が田畑を耕す作業に等しかった。

「ベドウィンだろうと、なんだろうと……平気さ。おれには神の子がついているんだ」

 少年は九死に一生を経たのち、父と村人によって、それ以前にも増して自由のない暮らしを余儀なくされた。物心ついたときから、暴力に晒されて育った。
 母親は少年を産んだのちに死んだ。
 ベエル・シェバに近い平地の村が襲われたと知った父親は突然、母親を殺したおまえは罪人だと言い出した。折檻され、生き埋めにされた。

「……神の子が罪人を助けるはずがねぇ」

 思いとは裏腹に、突然、カライの苦しみ悶える姿が目にうかぶ。怒りとも悲しみともつかない感情が心を占める。カライが自ら招いた災厄だと思う反面、カライの自分へ示した一度きりの心遣いを思うと心は千々に乱れる。唯一、確かなことは、変わり果てたカライの姿を目にした父はけっして少年を許さない。罰するために追ってくるかもしれない。逃げるしかなかった。
 村にとどまり、事実を話すべきだったのか。

「どうすりゃ、よかったんだ」

 杖を握りしめたままうつぶせになった。死への恐怖と罪の意識が少年の全身に重くのしかかった。

「……もう、だめかもしれねぇな」

 灰色の頭髪を左右に振り乱すと、大きなため息をついた。

 十日前の夜――。

 少年は臼と杵で、大麦をすりつぶしていた。明日の朝までにし終えないと、殺されるかもしれない。恐怖で手足が思うように動かない。

 歳の違いもわからない、兄のカライはぶどう酒の入った皮袋を手にぶらさげ、やってきた。いつものように酔っている。

「おい、ネフリィム。ベドウィンと戦える勇者など、この村にいると思うか」

 少年は驚いてカライを見上げた。兄がなぜここへやってきたのか。
 こっそり覗きにきた姉妹は忍び笑いをもらした。

 その夜、男たちはこぞって集会所に集っていたせいで、女たち二人は手持ち無沙汰だったのだろう。歳の離れた姉はいつものように、少年がいたぶられるさまを目にしたがった。

 カライは少年のそばに歩み寄り、いきなり、殴った。「臼や杵では役にたたん。自分の身は守れんぞ」
 息が酒臭い。
「ネフィリムがいるから、よそもんが来るのさ」と姉が言った。

 村人の誰もが、灰色の髪の少年をネフィリムと呼んだ。その名は、天上から追放された堕天使と人の娘との間に生まれた一族の子孫を指すものだった。異様な者、化け物の別名だった。

「ネフィリムの魂胆はわかってるぞぉっ」

 カライは執拗だった。少年の手から杵を奪い、持ち上げ、殴りかかった。少年はかろうじて体をかわした。

 いつもの年なら、今頃は年に一度のぶどうの収穫を祝って、男は女の衣服を身につけ、女は男の衣服で装い、豊穣の神・バアルのために踊り狂う。しかし、ベドウィンの襲撃に備え、話し合いがもたれていた。

「言ってやろうか」カライの足元はふらついている。「犠牲の血を、連中は家の鴨居と柱に塗りたいのさ。それで死神が通り過ぎると思ってるんだ。ところが、村には、あいにく子羊がいない。いても犠牲にしない」

 少年は作業を続けた。父親の顔が頭をよぎる。

「おれたちの先祖はユダのベニヤミン族だそうだが、掟に嫌気がさしてエルサレムから逃げ出したんだ。それがどうだ。こっそりバアルを拝みながら、ユダの神のしきたりは真似るんだからな。どこの馬のホネともわからん部族のやりそうなことだ。おまえもそう思うだろ」

 酔ってからむカライに対して、少年は耐えがたいものを感じていた。父の唯一無二の後継者であるカライは、少年を奴隷扱いした。

「いまになって、一人残らず、神頼みだ」

 胸にとどくほど顎髭の生えたカライは懐中に忍ばせた短剣を取り出し、少年の顔の近くでひらひらさせた。姉妹はわざとらしい悲鳴を上げた。カライは短剣を頭の上にかざした。ランプの灯りに切っ先が反射した。

「村の連中は、だれかさんを血祭りにしたくて、がん首そろえてるのさ」カライは少年の前に短剣の鞘が投げられた。「拾え!」

 少年は鞘を拾い、体の揺らぐカライに差し出した。カライは受け取り、妹に向かって投げた。少女はとびのいた。
 少年は立ち上がり、戸口に向かった。

「待て!」カライは少年の前に立ちはだかった。「このおれが、いずれはおまえの主人になるってことを忘れたのか」

 兄は、少年の関心を自分に向けようとしていた。

「ぼっちゃま、お許しを――」姉は神に祈るように頭をたれた。

 カライは笑い、「おまえを捧げ物にすれば、バアルの神はおれを祝福するかな?」

 からかっているように見えて、その目は笑っていなかった。

「いや、化け物の臓物なんぞ、犬も食わん」カライは少年の顔に口を寄せた。「バアルの神は生贄を望んでいるんだ」

 少年は、カライの胸を両手で押しのけた。弾みで、カライの手の短剣が落ちた。姉妹はその音に驚いて、ひぃと叫んだ。そして、笑い声を上げた。

「うるせぇ。なにが、そんなにおかしいんだ」カライは女きょうだいに向かって怒鳴った。

「薄気味悪いったらありゃしない」姉は、カライと歳の変わらない妹の頭に額を寄せた。「さっさとやっちまってほしいね。疫病神なんだよ、ネフィリムは」

「姉さんが思うほど、こいつはひ弱じゃないぜ。おれの目は真実を見抜き、予言者に勝るんだ。誰にむかって、死神がとりつくのか、しっかり見ておくんだな」

 カライは剣を拾い、逆手に持って、妹に斬りかかった。少女は悲鳴を上げ、逃げ回った。

 姉がカライの前に回りこんだ。「カライ! 気でも狂ったのかい」
「ベドウィンは、こんなもんじゃすまないぞ。子供はとっつかまえられて売りとばされるか、生き埋めにされるんだ」
「やめてよっ」姉は激怒した。「あんたは殺す相手を、まちがってるよ!」

 集会所にいる父親にきょうだいの声は届かない。少年はかまどのうしろに隠した杖をつかんだ。身長で及ばないカライに対して、素手で立ち向かえない。

 身構えた。

「へぇ。おれをどうにかする気か」カライは少年の手から杖を奪い取り、足元に投げ捨てた。「おまえの敵は、おれじゃない」

 カライは、戸口の前で、薄笑いを浮かべていた姉を指差した。「こいつが、おまえの母親を殺したんだ」

 姉は見たこともない哀しげな眼差しになった。

「こいつはな、おやじと寝てんだよ。おまえの母親は、おまえを産んですぐに死んだんじゃない。おまえが物心つく前に、焼き殺されたんだ!」

 姉はカライに歩み寄り、髭面の頬を叩いた。「嘘つくんじゃないよ。みんなで決めたことだ。あの女は、あたしたちを呪った。だから、父さんは、あの女を罰した。あの女は死ぬ間際に、後継ぎをもつことはないと言ったんだ。おまえがいるのにさ」
「さすがに、青い顔になったな」カライは姉の肩をつかんだ。

 少年は薄々、勘づていた。三○歳をとっくに過ぎた姉は嫁がない。父は姉を妻か側女のように扱っていた。親族しかいない、この村では、めずらしいことではなかった。

「教えてやろう。おまえの母親はおやじに買われた奴隷女だ。わけのわからん呪文を唱え、魔術をつかったそうだ」カライは少年の顔を見据えた。「あの女は、地の底でいまも生きているんだ」
 少年はわけがわからず、怖気づいた。「何を言ってるんだよ」
 姉が言った。「人の心まで操る、恐ろしい女だった。なんだって、思うようにできた。くやしいけどね」
 カライは薄い唇をゆがめて嗤い、姉の顔を見つめ、「あんたの産んだ子供は死んだ奴隷女に呪い殺されるんだ」
 姉は少年に言った。「ネフリィム、あんたを憎いと思いつづけてきた。いつか、こういう日がくると思っていたよ」

 姉は妹の手を引き、土間を出て行った。

 カライは人気がなくなると、少年の細い顎を片手でわしづかみにした。
「おまえはいつだって真実を見ようとしない。わかりきったことさえ、その目で確かめようとしないんだ。だから、おれのはらった代償に心を動かしたことがない。ただの一度も……」
「何が言いたい……」
「ネフィリムのくせに、生意気なんだ。その目で、唇で、おれやおやじを地獄へ送ってやろうと企んでいるんだ。黄泉の国へ行くのはおまえのほうだ」
「黄泉の国?」
カライは言い放った。「この顔を……おぞましいと思わぬ者などいない。この肌も、瞳の色も、この髪もおれたちベニヤミンのものじゃない」

 部族の多くの者はカライがそうであるように、茶褐色の瞳の色に黒く縮れた髪をしている。

「おまえは、神に呪われているんだ――いや、愛されているのかもしれんな。神は怒りと愛を同時に表すお方だものな。どのみち生きることも死ぬことも、神の手のうちさ。どうにもできゃしない」
 カライは少年の首から手を離し、みぞおちに一撃をくわえた。
「見よ。神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない(ヨブ記5:17)」

 少年は前のめりに倒れた。

「おれが、後生大事にしてきたものを、おれの手でケリをつけるんだ。なんの罪科がある」

 這って逃げる少年の胴体を、カライは踏みつけ、蹴転がし、眉間に痛烈な一撃を加えた。少年の顔面は鈍い音を立てた。

「おまえを罰することで、おれは義を守るんだ。わかるか」
 カライは少年の衣に手をかけた。
「何をする!」
「噂がほんとうかどうか、確かめてやるのさ」

 粗布の衣は苦もなく引き裂かれた。

「やめてくれ……」少年は必死で抗った。
「脱げっ」
 数えきれない平手打ちが、いたいけな頬を見舞った。
「かんべんしてくれよ」
 涙ながらに懇願したが、カライの手は容赦しない。しかし、少年の下着が剥ぎ取られ、華奢な裸身がほの暗い灯りのもとにさらされると、兄の唇から呻き声がもれた。

「おまえは……何者なんだ」口元が歪んでいる。

 少年自身、そのものが、何であるのか知り得なかった。他の少年と著しく異なっているだろうことは想像できた。見ることも触れることもしなかった。もしも、植物に生殖器があるなら、このような形状になるではないかと思わせるような形をしていた。

「神が、許すはずがない」とカライは言った。

 象牙色の性器は両性を象徴しているようにも見えるが、厳密には二つの性のどちらにも属さなかった。父や村人が、少年を忌み嫌った真の理由を、ついに兄も見知った。

「おまえは生きている限り、ヨブのように自分の生まれた日を呪うんだ」
「生まれた日がわからねぇのに、どうやって呪うんだ」
「おまえは母親と同じように杭にかけられ、焼き殺さる」
「ネフリィムだからか!」
「知っているか。おまえを呪う者は祝福され、祝福する者は呪われるんだ(創世27:29)」
 カライは自ら発した言葉を恐れるように身をよじった。目は熱を帯び、声は上擦っている。
「だから、神の子はおまえを見捨てて行ってしまったんだ……」

 カライは乱れた灰色の髪をわし掴みにし、少年を引き倒すと、馬乗りになった。ネフリィムの反抗心を萎えさせる呪文はただ一つしかない。

 神の子――。

「……化け物に目をかけるやつなんていない」カライは少年の顔を両手ではさんだ。「おれは……やつと違う」

 生臭い息が少年の頬にかかる。悪寒が、少年を襲った。

 カライは少年の耳元で言った。「犠牲になりたくなかったら……その唇で、おれの名を呼んでくれ」
 カライの吐息は浅く、骨の見える胸板は病人のように打ち震えている。自由を奪われているのは少年ではなく、肉を繋げようとする側だった。
「おれを受け入れろ……」
 少年の性器は想像をこえる形状を保ったままだった。神に禁じられた行為を犯すことは別のものへの隷属を意味した。
「おれが人間でありつづけるには、おのれの欲情を聖なる行為に高めなければならないんだ」

「清めてやる」とカライは言った。

 少年は無言だった。

「……おまえが、わるいんだ……」

 思いを遂げることができないカライは、幼児のようにすり泣きをはじめた。「おれは、おまえの兄じゃない……おれたちに血の繋がりはない……おれと妹は、姉の産んだ子供だ……おまえの母親は買われたとき、すでに身篭もっていた」

 少年は組み敷かれた下半身を引き離し、引き裂かれた衣服をまとい、杖を拾い上げた。カライは死人のように土の床に長くなっている。
 少年は冷ややかな眼差しで見下ろした。

「そんな目で見なるなっ」カライは両手で顔をおおった。
「おれに触れるやつこそ、汚れてんだ」少年は吐きすてた。
「おまえは、おれのものだ」カライは半身を起こし、少年の足にすがりついた。その手と指は小刻みに震えている。「おまえは明日、焼き殺される。それでもいいのか」

 父からも、出ていけと脅迫されつづけた。

 どうすれば逃れられるのか。自らを投げ捨てたいと、なんど思っただろう。少年は自分の周囲に広がる目に見えない壁をひしひしと感じた。檻に捕えられた獣と同じだ。胸が潰れるような思いにとらわれた。このまま一生、生きることも死ぬこともままならない境遇に置かれるのか。

「おれは、苦しい……」カライは涙を流す。「助けてくれ」

 少年には、わかっていた。カライは犯したいと本心から言っているのではない。犯されたいと望んでいるのだ。その証拠に、少年の足元に擦り寄るカライの胸は火のように燃えているのに、眼差しは小動物のように怯えている。

 少年はカライの首に手をかけた。「……わかったよ」

 カライは熱に浮かされたように、殺してくれとうわごとを言った。 
 どうにでもなれという自暴自棄の心に、少年は取り憑かれた。次の一瞬、カライの喉首に置いた自分の手が何者かに捕えられたような感覚に襲われた。全身が、実体のない大きな存在に抱きすくめられたように感じられた。

 カライが語りかけてきた。「メネ・メネ・テケル・ウパルシン……」

 意味不明の言葉だった。それを打ち消すように、異なる声の言葉が、耳の奥で聞こえた。

……目を覚ませ……

 なんども聞こえる。なんだろう、これは。心とは別の奥深いところで、何者かが少年の心を揺り動かす。魂が呼び覚まされるような声の響きは全身を奮い立たせる衝撃がある。誰だ。何者かが、自分に向かって呼びかけているのだ。

……おまえはわれわれの一族、打ち倒す者……

 カライは少年の変化に気づかない。

……目覚めよ、啓示を打ち砕く戦士……

 その声は少年の脳髄を覆った。

「さあ。早く、やってくれ。おまえの手でおれの苦痛を取りのぞいてくれ。おまえが生き埋めにされたとき、わかったんだ。おれは生きていけない。おまえが大事なんだと……」

 大事。その言葉が、少年の怒りをかった。この憤怒は相手の存在を消滅させることでしか解消されないほど強かった。胸に突き刺さる憎悪はすべてを超越した。

 大事だから、慰み者にしたいと言うのか……。

 少年はカライの望み通り、彼の背後を犯した。カライは少年の性器が自分のものと変わらず、欲情することを知り、狂喜した。
「おれと寝たおまえは、一層、汚れたのだ。神にも、見捨てられる。だから、おれと逃げよう。なっ」
 かき口説くカライの言葉を、少年は黙って聞いていた。
「わかってくれたのかっ」カライは少年を抱き締める。「ともに――ここから逃げよう」

 少年は自分がいままで何を耐えていたのか、ようやく気づいた。イスラエルの民の信ずる、神の名において、汚名のもとに生きることが運命だと思い込まされていた。そうじゃない。少年はカライの投げ捨てた剣を手にすると、ゆっくりと向き直った。

 カライは自分のために、剣を拾ってくれたと思ったようだ。

「すまないな。もう二度と、無理強いはしないと誓うよ」

 カライは立ち上がり、剣を受け取ろうとした。少年は何かに引っ張られるような錯覚に捉われていた。目覚めているが、意識の半分は眠っているような感覚だった。

 カライは兄としてではなく、少年の愛を望んでいる。疎ましさがつのる。心の声に従うだけでよかった。

「死にてぇんだろ」

 剣はそのもの自体に意志があるがごとく、カライの下肢に向かって吸い込まれた。剣を下肢に突き立てたまま、カライは後ろへのけぞった。老木が朽ちるように倒れたが、ほとばしる鮮血はカライの性器を深紅に染めた。

「ネフリィム、何をする……」

 押し殺した声が、愉悦の声に聞こえた。鮮血は白く濁った精液と混じり合い、土の上に広がっていった。

「ネフリィム……一緒に」

 殺したんじゃない。少年を意のままに操る、何者かの仕業なのだ。ついさっき、姉は少年を産んだ母親は、心を操る女だと罵った。
 内なる声は母なのか。その声は耳奥を突き抜け、意識をつかさどる脳髄から発っせられた。少年は口を開くだけでよかった。

「カライ、おまえは一人で地獄へ墜ちるんだ」

 心臓を切り裂く一瞬、身がすくんだ。天空と暗やみの間に呑み込まれるような恐ろしさで、呼吸さえ忘れた。

「メネ・メネ・テケル・ウパルシン……」

 カライはふたたび呪文のような言葉を口にし、かすかに笑みを浮かべた。兄を傷つけたという怖れは微塵もなかった。胸の奥で眠っていた重苦しい思いが命を吹き込まれ、生き生きと動きだしたように感じる。身内にひそむ黒い翼が大きく羽を広げ、翔び立とうとしているようにも――。
 
「ガザへ行こう」カライは血にまみれた手を差し伸べた。「おれと二人で……」

 アベルを殺めたカインは神を怖れて逃げ惑うが、いまの少年は神を怖れない。カライは自ら死を求めたのだ。カライは少年との絆を情欲に求め、心を求めようとした。天啓のようにある考えがひらめいた。兄は神の目を恐れ、弟の手を借りて下肢を刺し貫いたのだと。

「おいらのせいじゃねぇ」少年は置物を見るように傷ついたカライを見下ろした。「そうさ……」

 殺めた瞬間の記憶もない。不思議な言葉だけが、耳元でこだましていた。選択の余地はなかった。父やカライにおのれの運命をゆだねるつもりはなかった。解き放たれた憎悪が、快楽にも似た心のおののきで少年の心を満たしていた。

「ざまあ見ろ」少年は戸口に向かった。
「……金を……もっていけ」息も絶えだえの声が背後からした。「おれの懐に皮袋がある……その金を持って、早く逃げろ……」
 カライは激しく咳き込み、泡の入り交じった真っ赤な血溜りを吐いた。
「兄さん……」走り寄り、抱え起こした。
「はじめてだな。兄さんと言ってくれたのは……いや、そうじゃない……」

 助けを呼ぶために、立って行こうとする少年をカライは引き止めた。

「誰も、呼ぶな。呼べば、おまえは殺される」カライは少年の手首をつかんだ。「いままで何人もの男が、おまえを買い取ろうとした。おれはいつか犠牲が必要な時が来るから、その日まで売るなと助言したんだ。親父の目を誤魔化すために、つらくあたるしかなかった。おまえはおれの光だった」
「そんな……」
「逃げろ、ネフリィム。村長のおやじは明日、おまえを犠牲にして、この災厄から逃れるつもりだ。馬鹿なやつさ」
「ねぇちゃんを呼ぶよ……」
「ガザヘ行け。おまえがいつも言っている、神の子がいる。もう一度、おまえを救ってくれるかもしれない」
「このままじゃあ、死んじまうよ」

 少年はカライの傷口に手を当てがった。

「早く、行け……。待て。そのまえに祝福を……」カライは少年の頭の上に右手を置いた。「ヤハウェ(ユダヤの神)がおまえをエフライムやマナセ(ヨセフの息子たち)のようにしてくれますように」
「兄さん」
「父親が息子に与える祝福の言葉だが、このさいだ、いいだろ?」
「ありがとう」
「……おまえの母親は、天のみ使いと見紛うほど美しい女だったそうだ」
「見たのか」
「おまえを見ればわかる。おまえのほんとうの名前はサライ……争いを好む者という意味だ。生まれた日は第八の月の一日だ。十二歳になったばかりだ」

 カライは目を閉じた。蒼白の額に死神が忍び寄っている。もう誰も止めることはできない。少年は言葉を忘れ、カライを見つめた。カライは胸の前で捜し物でもするように手を動かした。

「おれが好きか、サライ?」
「……」
「もういい――行け」

 少年はカライの懐から皮袋を手にし、岩山の凹地に建つ家の外へ逃れ出た。サンダルもカライのものをもらった。
 その夜から砂漠で行き倒れるまで、不思議な声は聞こえなかった。

「おいらを気にかけてくれる者なんて、もう、どこにもいやしねぇ……呪われてんだ」

 漆黒の闇が四方から迫ってくる。
 ほどなく濃密な闇がやってきた。

   2
          
 神に呪われた子が生死の境をさ迷っているちょうどその頃、神の子と崇められるエズラはザドクとメシュラムを伴い、ペルシア帝国の前線基地のある、ガザに入城し、広場での閲兵のあと、宿舎となる建物に案内された。
 ペルシア軍の司令官・バルーフは、三人を兵舎の一室に連れて行き、傷のある頬に笑みを浮かべて言った。

「久しぶりですな。転任地でも、お会いしようとは――まずは、ゆっくりとおくつろぎください」
「ご厚意に感謝します」

 エズラは礼を述べ、見回した。寝台が一つあるきりで、椅子もない。行政長官の地位にふさわしい処遇とは言い難かった。

「ご不満ですか。この砦では、この部屋が来客専用なんですがねぇ」
 司令官の言葉づかいは横柄な態度に似合っていた。

 エズラは微笑した。「夜は一人静かに過ごすことを心がけています。そのように計らってください」

 バルーフは上目づかいにエズラの表情を見ていたが、彼の毅然とした態度に恐れをなしたのか、ザドクとメシュラムのために別の部屋を用意すると言いおき、出ていった。

「あたりまえだ」メシュラムは腹立ちを隠せない様子だったが、ザドクは黙って部屋の隅に控えた。

 エズラは独りになると、固くなった筋肉を解きほぐすように粗末な衣服を脱ぎ捨てた。床に砂埃が舞う。エズラは顔と手に香油を塗り、バビロンの宮廷で着衣していた丈の長い上質の衣に着替えた。そして、頭をたれ、祈りを捧げた。

「大いなる神よ。この地のユダヤびとに祝福をお与えください。わが岩、わが贖い主なるヤハウェよ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、あなたの前に喜ばれますように」

 寝台に腰を落ち着け、目を閉じ、瞑想に耽った。そうやって、長旅の疲れを癒した。思い返せば、ペルシアのアルタシャスタ王の許しを得て、バビロンを去って八ヵ月経つ――。

 ユダヤ人の精神的支柱である神殿の修復と城壁の再建を期して、エルサレムの地を踏んだが、短い間に揺るぎない意志をもつ信仰集団を組織することは容易ではなかった。苦渋に満ちた日々だった。入植者たちが日照りのせいで、飢えて死ぬさまを目にしたとき、おのれの不甲斐なさに涙した。水と食糧を得ようと奔走したが、数千人に配布するすべはなかった。ここまで足を運んだのも、兵士にために保存してある兵站の一部を分けてもらうためだった。

 王国を失って以来、ユダヤ人はパレスチナの各地に移り住んでいた。彼らの中にはユダヤ人であることをひた隠す者さえいた。そのような状況下で、再建に伴う資金援助を同胞から得ることはたやすくなかった。エズラとて所詮、囚われ人の末裔である。

 運よく、アルタシャスタ王の寵遇を得てペルシア帝国の治下・エルサレムにおける破格の権限を与えられたが、この地の兵士らにとって、エズラの盛名などなんの意味もなさない。

 彼らには迷惑な客人民族の一人としてその目に映ずるのだ。そうでなければ、生殖能力を持もない宦官風情と侮っているか。

 官吏さえ処罰できる権限を有する行政長官に任命されたことも、権力者にありがちな気紛れだと思っているのだ。

 出迎えに現われた司令官のバルーフはエズラに一礼するどころか、ろくに言葉を交わすこともなく、一旦は立ち去ろうとした。賓客を迎えるラッパは鳴らしても、その対応は下級官吏に対するものであった。

 腹立ちはなかった。

 長年の信仰で悪意と蔑視に甘んじることに慣れていた。屈辱感に耐えることになんの支障もなかった。同時に、敬意と称賛にも臆することがなかった。ユダ部族の祭司門閥の子として生まれ育ち、宮中に召し抱えられたエズラにとって、幼少時からつましい暮らしと華美な衣服が違和感なく身辺にあった。

 いかなる境遇にも心を動かされないよう、学ぶことで精神を鍛練してきた自負がある。物心のついた頃に、先の王の下問に対して立ちどころに記した詩文が御意に叶ったために、王子の即位に際し、側近くに仕えることを許された。

 自ら望んで、宦官となる施術を受けた。

 宮廷に仕える者の中にはペルシア人、メディア人を問わず、幼い彼を悪しざまに言う者が後を絶たなかった。高位の人々の心ない対応も厭というほど味わった。しかし、いつの場合も個人としての己れを感じることは極力避けてきた。弱冠十六歳にして、その学識で取り立てられ、拝謁を賜うた者のそれが矜持であった。

 先の王クセルクセスの時代の書記官長がユダヤ人であったことも幸いした。彼の助力なくして、祭司法典は成らなかった。しかし、先の王が、エウリュメドン河畔でギリシアに再び敗れ、暗殺されたとき、運命の暗転を恐れた。

 十八歳で即位した現王に、重用される僥倖(ぎょうこう)を得た。

“王の友”であることはややもすれば同族の者を裏切ることになりかねない。エズラは宮廷にあっても、ユダヤ人であることを忘れなかった。“ヤハウェ”こそ、生ける神であると王に説くとともに、信仰の自由を求め続けた。

 薄氷を踏むような年月だった。

 バビロニア王国の囚われ人となったユダ部族は首都バビロンへの移住を許された後も、われわれは大いなる神、ヤハウェに仕える唯一の民であると標榜しつづけた。ユダという部族名から、ユダヤ人という民族を総称する言葉さえも生むほどにバビロンにおけるユダヤ人は民族の存続と自立を願った。

 その過程で、為政者を批判する預言者があまた生まれたが、エズラは為政者と敵対する預言者ではなかった。為政者は彼にとって、あるじであるとともに保護者であった。

 上級祭司であったエズラの父も、幼いエズラにユダヤ人の指導者としてあるべき姿勢を常に説いた。王に従いながら神に忠実であること。それは時に、重荷や矛盾を感じる因になったが、いま思うと、民族を律するための法(トーラー)を父から教えられなければ王の信頼を得られなかったろう。生き延びられなかったろう。

 エズラは過ぎた日々を思うと、重苦しい感慨に心身が苛まれる。後悔はない。ただ、さまざまの讒言を避けるために、誤解される言動は極力さけたこため、誤った憶測を生んだこともたしかだった。

「――先生、夕食をお持ち致しました」

 ザドクが盆を持って入ってきた。エズラはこの十九歳になる弟子をこよなく愛していた。裕福に育った者のみが持つ、思い患うことを知らない明朗闊達な気質に救いを見いだしていた。

「このような物しか、ご用意できませんでした。明日はなんとか致します」

 ザドクは陰りのない笑顔を見せると、食卓となる寝台に、パンとぶどう酒と乾し肉を並べた。

「あなたも、いっしょに頂きませんか」
「ありがとう存じます。せっかくですが、いまから、祭司バジルライの自宅に出向かなくてはなりません」
 ザドクは身をかがめて、答えた。
「よろしくお願いしますよ。夜の更ける前に、この地に暮らすイスラエルの民に会って話をしたかったのですが、司令官の反対があって残念です」
「先生が貧しい人々を扇動し、反乱を起こすとでも思っているのでしょう」
「祭司の口添えがなければ、司令官は許可しないつもりのようです」
「煩わしいことです」ザドクは眉をしかめた。「この地の祭司は自らの属する祭司党と、バビロンの教団とがいずれ敵対すると思っているようです。そうではないといくら解いても、信じないでしょう。神に仕える者ほど疑い深いと、母が申しておりましたが、ほんとうですね」
「あなたの母上には言葉では言い尽せないほど、助けて頂いた。この旅の旅費も、ミリエル殿が援助してくださらなければどうなっていたか……」

 シリアの州知事は言うにおよばず、シリア、パレスチナ、フェニキア、キプロス島を統括する総督にも援助を仰ぎ、両替商を通して送金してもらったが、またたくうちに使い果たした。バビロンから持参した金銀も帰還民の食料を買い入れると、溶けるように消えた。王命であろうと、エズラの求めに即座に応じる財務官はいない。かつて、総督の地位を与えられたセシバザルも、同胞に協力を求める虚しさを思い知ったにちがいない。ユダヤ人に与えられ役職は、名ばかりなのだ。

「母は市民党に属しておりますが、先生をこよなく尊敬しております。神のお子だと、申しています。いつか、そのお力をお示しになられると」

 エズラは眉根を曇らせた。人々を扇動することなど、学者の自分に課せられた役目ではないと思ってきたが、いつしか、かつての預言者エレミヤに起きたような事態がわが身にも起ころうとしている。いまや、生命と名誉は危機にひんしていた。

「わたしは写字生です」とエズラは言った。

 エズラは目に見えない全能の方を何にも増して敬っている。自らを神のように感じることは決してなかった。もし、自らに力があれば、多くの入植者を餓死させなかった。悔いと痛みの残る旅だった。おのれには、紅海を渡ったモーセの力はないとエズラは思い知った。

「つまらないことを申し上げてしまいました。お許しください。でも、わたしはしばしば人々を魅了する希有なお力を間近で拝すので、ついそのように感じてしまいます」

 ザドクは一礼し、顔を上げた。オリーブ油の注がれた灯り取り皿の炎が、彼の相貌をはっきりと浮かび上がらせた。額にかかる前髪の他は寸毫の翳りも見えないが、エズラは思わず目を見張った。わずかに眼差しを暗くしただけだが、若い弟子は見逃さなかった。

「いかがされました。わたしの申し上げたことがご不快でしたか。それとも、お加減でもお悪いのでは――明日の説教は取り止めに致しましょうか?」
「いえ。なんでもありません。行ってください。バジルライが首を長くして待ってますよ」

 エズラはしばらくの間、ザドクの出て行った扉を見つめていた。話すべきではない、とわかっている。餓死した者たちを思い浮かべた瞬間、救った少年のまぼろしが見えた。

「異形の者であった……」

 この若い弟子と行動をともにするようになって、さほどの年月が経っているわけではない。彼が知らなくて当然なのだ。彼は希有な力と言ったが、それは力というより、能力と言ってよかった。

 エズラはぶどう酒を土器に注いだ。

 誰にも話したことはない。隠しつづけてきた。にもかかわらず、バビロンでエズラの身近にいた者らは彼の不思議な力に気づいていた。その証拠に、随行員のメシュラムはエズラが神の声を聞き、神の発する言葉を書き記すと人々に吹聴した。彼自身は肯定したことはただの一度もない。ましてや、まぼろしが見えるという自らの体験を口にしたことはなかった。

 人々に、どう解き明かせばいいのか。霊感がおのずと湧き出でるといったたぐいのものではない。エズラと同じようにペルシア帝国の官吏であったダニエルはその書の中で世界の終末を予見している。しかし、エズラは自分の目にするまぼろしが世界を揺るがす暗示的な形象であるとどうしても思えない。しかし、人々は彼が絶対の真理を体現していると思い込んでいる。神の代弁者だと――。

 ぶどう酒を一口飲む。

 エズラは自分がたったいま、目にしたものを胸のうちで反芻した。類い稀な顔かたちだった。灰色の髪に縁取られた象牙色の肌は艶があり、何者にも犯しがたい気品に溢れていた。漆黒の瞳は心までも見通すようにきらめいて、この世の者と思えない美しさだ。その者が、ザドクに重なって見えたのだ。一瞬、神のみ使いと思ったが、幻影はザドクに覆いかぶさるように立ち表れ邪悪な妖気を発していた。

「魔の者か……」

 エズラは弟子の未来に現われるであろう不浄の霊の担い手に限りない不安を覚えた。それもそう遠くない日のことだ。エズラは恐れを心に抱くように胸に手を当てた。愛弟子の無事を神に祈願した。こうすれば、神はいつでも願いを聞き届けて下さる。その者と戦う日がいずれ訪れる。その時、自らの手を、魔性の血で汚すことになるかもしれないが、神はお救いくださるにちがいない。この力は神へ忠実であろうとする者への生涯にわたる賜物だと、エズラは信じて疑わなかった。

  4                 

 サライは蟻地獄に落ちた蟻にひとしい。砂の檻から脱け出せない。半ば砂に埋もれている。
 砂の重みで手足の感覚は次第に失われ、風よけを支える手がどこにあるのかも、さだかではない。
 何者かに駆り立てられ、突き動かされるようにしてここまでやってきた。

「……屍になるのか」

 カライと争わなければ、砂漠が死の床になる事態を招かなかったろう。おまえは啓示を打ち砕く戦士だという声に操られなければ、無謀な選択をしなかった。

「誰だかわからねぇけど、助けてくれよ」その者に抗議した。「見殺しのする気かよ」

 まだ見ぬ大海に身ひとつで分け入るようにして、終日、太陽の下をたどり砂漠を旅してきた。交易路をうろつく掠奪者に襲われる危険を避け、道なき道を西へ急いだ。意味不明の言葉を思い起こすと足が軽く感じられた。飢餓も疲労も、彼方で待ち受けている神の子を思えば苦にならなかった。

「くそっ。どんな性根をしてんのか、知りてぇよ。ここまできておいらを見捨てるのかよ。いや、おいらの気持ちをわかってくれるさ。もし、ちがってたら、ひでぇよ。おいらがどんな悪さをしたっていうんだ。きっちり、言ってもらいてぇよ」

 焦りと苛立ちが交錯する。意識が混濁し、脈絡がなかった。垂れ流す言葉をかき消すように、カライが死に際に言った、神の子がもう一度、救ってくれるかもしれないという言葉が頭をかすめる。

 顔を見たことも、声も聞いたこともないが、死に瀕したいまも、神の子を思うと胸が高鳴った。生き埋めになった自分を救ってくれたらしい。

「そいつは、おいらを毛嫌いする連中の頭 (かしら)なんだろうか……」

 噂で知った時から、一目でいい、この目で見たいと思った。彼が祭司の家系に生まれ何不自由なく育ったと聞き、さらに興味を惹かれた。自分にないもののすべてを、彼が持っているように思えたからだ。

 嫉み心からではなかった。

 第六の月に、神のよい御手にしたがって、王都バビロンからエルサレムへやってきたという神の子の噂話に、サライは心を奪われた。その人は蔑まれるべき身分でありながら、ペルシアの王にその願いをすべて叶えられという。偽預言者に耳を貸すな、と父は常に村人を諫めたが、サライはラビ・エズラの噂をもれ聞くだけで好奇心がつのった。

「いますぐ、会いてぇ」

 サライは頭をもたげた。神の子に会うまでは生きていたかった。

「どんな面してんだろ……?」

 神の子は神の声をその耳できき、その手で神の言葉を文字に書きあらわす“写字生”だとも聞いた。僻地の居住者にまで、ラビ・エズラの噂は届いた。神の子がベエル・シェバにやってくると知った日は眠れなかった。

「勝手に手が動くのかなぁ……おいらの手は……どこだ!」

 メシア(救世主)だという者さえいた。くだらんと父は吐き捨てた。メシアなどこの世にいるものか、とも言った。ベニヤミン部族の一員でありながら、父は部族の信仰する神を信じていなかった。村の長である父にとって、信仰とは共同体をより強固な集団にするための道具にすぎなかった。少なくとも、サライの目にはそう見えた。集会所で、ヤハウェとバアルへの祈りの言葉を村人に先んじて唱えながら、父は娘を側女にしていた。金勘定に余念がなかった。

「もし、神の子が、あの男のようにおいらを殴ったら……」

 すべてのものは神が創ったと巻き物に書いてあるという。だから、おいらも、みんなと同じだ、と父に言ったことがある。父はうすら笑いを浮かべ、おまえは悪魔に創られたのだと言った。

「悪魔が創ったのはあいつだ。おいらじゃねぇ。なんで村のやつらは、わからねぇんだ」

 幼い頃から、なめらかな肌と月のように輝く灰色の髪は白キツネと揶揄され、ふしぎな色合に変化する瞳は嘲笑の口実にされた。
 村人はサライを奴隷としてあつかうことでその意志を伝えた。どんなに酔って暴れようと、兄のカライは村人の一員とみなされるが、サライは永久に余所者だった。集会所はおろか、人々の集まる場所にはどこにも招かれなかった。

「なんでだよー……なんで、おいらだけ、人と違ってんだよ」

 どうして自分のような者がこの世に存在するのか、ユダヤの神の言葉を知る者に説き明かしてもらいたいと思った。神の子なら、このくびきを取り去ってくれるかもしれないと。しかし、サライを突き動かしのは意味不明の言葉だった。

 サライは細い声で何度も叫んだ。

「――なんで、誰も答えてくれねぇんだ!」

 なす術もなく、行き倒れるサライを四辺に広がる砂の砦が見下ろす。閉じた目をゆっくりと開け、また閉じた。心の渇きが内蔵を干涸びさせたのか、吐く息すら面倒になっていた。

「ほんとうは、神なんて、いねぇんだ……いても、きっと、どっかで寝てんだ。誰も見てねぇところで、いまのおいらみてぇに死にかけてんだ……」

 肺に残っている空気を吐ききり、全身を砂の大地に委ねた。いまはもう、目を閉じ、眠り込むことより他、何も願わなかった。

「神の子……」

 生死の境をさ迷ういま、胸中にあるのは後悔とは違う口悔しさだった。

「……神の子はおいらのことなんか……毛筋も思っちゃくれねぇ……なぜ……おいらは化け物じゃねぇ」

 耳をろうする砂塵の絶叫が、思考を途切れさせた。

    5

 その頃、エズラの弟子・ザドクは祭司バジルライの家を訪問していた。夕食に招かれたのだ。司令官への執り成しを依頼したところ、バジルライは即座に承知した。どうして、ザドク一人を招いたのか、不明だったが、従うしかなかった。
 師のエズラからは、いかなる助言もない。しかし、この地の指導者と面談することは自分に課せられた勤めだとザドクは考えていた。

「お若い方、遠慮せず、奥へ」

 バジルライは食卓へと、ザドクを導いた。兵舎とは比較にならない室内のたたずまいだった。板張の床をはじめ、細工を施した調度品がしつらえてある。ここに至るまでの村々の貧窮した暮らしぶりに目を覆った後だけに、バジルライの力の大きさを垣間見る思いだった。

「オーリン。支度はできたのか」

 食卓につくと、バジルライは奥に向かって大声を出した。髪を結った娘が、顔を出した。ザドクと目が合うと、顔を伏せて恥じらった。

「いつまで経っても子供っぽくていかん。嫁にやってもよい年ごろなのに……」

 バジルライはふいに声の調子を変えた。

「ザドク殿の一族は代々、高名な写字生を輩出されておられると聞きおよぶ」
「受け継ぎましたザドクの名が、名高いかどうかは定かではございませんが」
「いや、亡くなった父上はもとより、俊英の誉れ高いあなたの名は近隣に鳴り響いておいでだ。母上の美しいことも、つとに有名だが……」

 バジルライは白髪の混じった長い髭を大事そうに撫で下ろした。充血した目が物欲しげだった。

「ところで、祭司の長であられるマルキ殿はご健勝であられますか?」
「そのようにうかがっております」

 ザドクは歯切れの悪い答え方をした。もう何ヵ月も口をきいていない。

「ザドク殿はどうして、バビロンから帰国した者たちと行動を共にされるのです。彼らは地の民と異なり、流浪の民と言ってもいい。一つところで、住まぬから勝手なことが言えるんだ。ペルシアの王はそれをいいことに、口実を儲けて、邪魔者を排しているのだと思いませぬか。神殿の修復を徒手空拳でやれるはずがない。それをわかっていて……彼らは」
「エズラ先生は奇跡を信じておられます」
「目を覚ますことだ。われわれ祭司党の面々は、ザドク殿の離反をこぞって嘆いております」
「離反など……同じイスラエルの民です。わたし自身、神を信ずることにおいても、以前とまったく変わりありません」
「真の目的が違っても、そうお思いか」 
「……おっしゃることの意味がわかりかねますが」
「われわれはいつの日にか、ふたたび国を建てたいと願っている。そのために仲間を募る傍ら、ペルシア人のご機嫌もとっておる」

 バジルライは口尻に唾液を溜めて言いつのった。

「そもそも突然やってきて、人を集めろとは何事だ!」

 ザドクはひたすら拝聴した。バジルライの不平は彼一人のものではなかった。地方に住む有力者にとって、エズラは御しやすい相手ではない。王の権威を借りた行政長官という肩書きもさることながらエズラはこれまでの祭司とは異なり、利益を求める民衆の意を汲まなかった。彼は金銭に固執しないよう民衆に求めるばかりか、まじないのたぐいを禁じたのである。

「ザドク殿はおわかりだと思うが、われわれにはわれわれの法と秩序がある。同族とはいえ余所者が土足で乗り込むことは許されぬことだ」
「先生は申しています。この地の人々に、律法について、お話したいと」
「上からものを言う、教条主義では物事はかたずかん」

 オーリンと召使が、皿を手に捧げ持って現われた。

「お父さま、お食事を――」
「おお、そうじゃった。ついつい話に夢中になってしもうた」

 ザドクは食事の間中、バジルライの小言に耳を貸した。彼らの不平不満を無視して、説教のための集まりを催すことは不可能だった。

「有意義なお話を伺い、こちらにおうかがいしましたかいがありました」

 ザドクは召使の差し出す器で手を洗い、ナプキンで口をぬぐった。いまから切り出す話は頃合がむずかしかった。

「――そこで、失礼とは存じますが、こちらで新たに建てられた会堂への寄付を、些少ではございますが受け取っていただきたいのです」

 ザドクはかねて用意した金包みをそっと置いた。このことは誰も知らない。どうすればエズラを助けられるのか、考えた末の結論だった。正しいこととは思っていなかった。致し方のないことだと理解していたが、ときどき、禿鷹のような連中に心底、嫌気がさした。

「ザドク殿、まだ妻帯はされぬのか」
 バジルライは金包みを受け取ると、ひげを震わせて破顔した。
「学問も半ばですし、そのような余裕はございません」
「それは残念じゃ。妻子を持てば道楽もすむものなんじゃが。母上も案じておられよう。まあ、資産家のザドク殿がいなけりゃ、ラビ・エズラとて教団を維持できん。やっていけるもんじゃない」
「――これで失礼いたします」
 ザドクはバジルライの家を辞した。

 外に出ると、曲がりくねった狭い道を月の光を照らし出していた。体は疲れていなかったが、大きなため息が口からもれた。

「おれはなぜ、ここに……」

 信仰のためなのか。いや、そうではない。もっと違う何かを求めて、エズラのもとで学ぶことに固執した。魂を熱くする何かと出会うためだったように思える。

 その時、人の気配がした。

「誰だ……」

 ほんの一瞬だが、自分を待ち続けている何者かが月光を浴びて佇んでいるような気がした。

「気のせいか」ザドクは帰り道を急いだ。

 一瞬とはいえ、気持ちが萎えたことを悔いた。まだ、明日の準備が残っていた。戸惑いや迷いはとっくに捨てたはずだった。

 エルサレムの祭司長のもとにいたザドクはバビロンからやってきたエズラの学識と人柄にあこがれ、従来の教団を去った。そのことで、中傷もうけたが甘んじて受けた。ユダヤの神への信仰があるかぎり、いずれの師のもとで学ぼうと同じだと思ったからだ。しかし、不快に感じるのはそんなことではなかった。

 エズラがザドク家の金力によって支えられていると勘繰る人々の絶えないことだった。彼らの心ない言葉の数々が師の業績を傷つけない限りにおいて、気にとめないようにしていた。しかし、今夜のようなことがあると、疑念が沸き上がる。おれの為すべきは、これなのかと――。

 答えは決まっている。

 すべてを見通した師の微笑がザドクは好きだった。心が洗われる思いがするのだ。静かで、憂いに満ちていながら清浄なほほ笑みに接すると、この人のために、どんなことでも力を尽くそうと思う。つき従うことになんの迷いもなくなる。ただ、時に、師の表情に悲哀に似た複雑な表情を見る時がある。師のために、汚い仕事に手を染めた後などにふいに襲ってくる、この理由のない厭わしさに師の陰欝な顔が重なるのだ。

「なんだろう、この感じは」ザドクは立ち止まった。

   6 

 地の果てから、その声は聞こえてくる。耳を傾けると、魂までもからめとられるような響きだった。心地よかった。地獄(ハデス)のイメージ結びついた死とは大きな苦痛をもたらす災厄だとばかり思い込んでいた。直面している黄泉の世界の入り口は安らかな眠りと変わらなかった。

……戦士よ、目を覚ますのだ……

 その声は脳髄にまで忍び入ってくる。

……サライ、サライ、目を覚ますのだ。啓示を打ち砕く戦士よ、わが一族よ……

 言葉は子守歌のように眠りに誘い、暗黒の世界に身も心も引き込んでいく。

「誰……だれ」

 目覚めているのか、眠っているのか、もはや、知覚できなかった。吹き荒ぶ砂塵は生きる者の痕跡を跡形もなく消し去る。

……サライ、サライ、サライ、争いを好む者……

 閉ざされた記憶が、乾いた心と意識をこじ開けるようにして立ち表れてくる。

「……ここはどこ?」

 幼いサライが、目の前にいた。サライは自分自身に向かって、手を伸ばした。その手の先には、サライの知らない少年がいた。

「誰なの?」

 少年はふっと笑うと、と「忘れたのか?」

 サライがうなずくと、少年は手にした巻き物を開いて、読んでやろうと言う。誰だか、わからなかったが、サライの胸に言い知れぬなつかしさがわき起こった。

「こっちへおいで」

 見知らぬ少年は幼いサライの手をとり、言った。

「誰もいないうちに、巻き物を見せてやるよ」

 そして、幼いサライを抱き寄せると、少年は巻き物を開いた。 “メギッラー”という名の巻き物は、真鍮の玉つき棒二本に羊皮が巻かれていて見開き状になっていた。

「……彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である(申命32:17)」

 少年の声は染み入るようにやさしかった。

「わからないよ、ぼく」

 幼いサライは答えた。いまのサライなら、たとえ眠っていても、それらが、誰の言葉を記したものかよく知っている。エジプトから苦難の民を救い出した預言者モーセの言葉だ。モアブの平原で書かれたとされている。

「平地の大きい村にある学校へ行けば、文字が読めるようになるよ」
「文字……」

 サライは頭を揺らして、少年を見上げた。

「もし、誰も、おまえに教えてくれないなら、ぼくが教えてやるよ」

 記憶がおぼろげではっきりしないけれど、その頃のサライはいつも一人きりだった。母親と呼べる存在もいず、人気のない小屋に捨て置かれていた。泣いても誰も来てくれない。少年がやってきて言葉をかけてくれなかったら、言葉そのものを失っていたかもしれなかった。

「内緒だよ」
「うん」

 はじめて自分を認めてくれる相手に出会ったような気がした。気恥ずかしい思いにかられ、少年の膝を降りると、サライは唇を突き出した。どうしてそんなことをしたのか、わからないけれど、少年はすっすぐな目でサライを見つめると、額に口づけた。その瞳は天の星がきらめくように輝いていた。幼いサライは悪戯をした時のように申し訳ない顔つきをした。

「二人だけの秘密だ」と少年は囁いた。
「うん。秘密だ」
「忘れるんじゃないよ」
「忘れない」

 遠い日に、たしかに約束した。
 誰と……。
 声にならない思いが、サライの全身を貫いて走り抜けた。夢の中であっても、その衝撃は意識の根底を目覚めさせた。

「そうか。そうだったのか!」

 幼い日に立ち返ったサライは閉ざされた過去にようやく気づいた。
 夢の中の少年に向かって、叫んだ。
「兄さん、兄さんなんだねっ」

 少年は頷いた。けっして忘れてはならないことを、忘却していた。どうしてだろう。カライはその時、巻き物とは別に、羊皮の切れ端を幼いサライに見せた。

「絶対、誰にも言っちゃだめだよ。モーセの言葉じゃないらしい。意味はわからない」
 カライは読んで聞かせた。
「メネメネ・テケル・ウパルシン、メネメネ、神があなたの治世を数えて、テケル、あなたが計りで量られて、ウパルシン、あなたの王国は分けられる(ダニエル5:27,28)」

「メネメネ……何のこと?」サライはたずねた。
 
「わからない。何かの呪文みたいだ」カライは頭をふった。「『彼は生ける神であって、とこしえに変わることなく、その国は滅びず、その主権は終わりまで続く』」
「誰?」

 カライは羊皮の端を透かし見た。「――弱々しい男、罪人、カナンびとメナハム」
 サライはカライの手元を凝視した。「メナハム……」
「写字生だ。エルサレムにいて、律法書を書き写しているんだ」
「写す……」
「ぼくと同じ年ごろの少年が、これを書いたんだ」
 カライは目を細め、この文字を見つけた日のことを語った。
「ぼくは神が荒野に呼ばわる声を聞いたと思った」
「神の声って何?」
「たった一行でも、神の言葉でない文字を書き記すイスラエルの民がこの地上にいるんだ。そう思うと、天地が無限に広がっていく思いがしないか」

 幼児に話す内容ではなかった。

「……?」
 黙っていると、カライの表情は曇った。
「叶わぬ望みだとわかってるんだ」
「悲しいの?」
「父さんは長子のぼくを自由にしない。いつか、その時がきたら、おまえは一人で行くんだ。いいね、かならず、一人で行くんだよ」
「こわいよ……」
 幼いサライには、カライの言葉は呪文のように聞こえた。
「誰がなんと言おうと、ぼくはおまえが好きだ。だから、おまえもぼくを好きになってくれるね」
「……うん。好きだ。大好きだ」
「強い心を持つんだ。叶わぬ望みだと、誰にも言わせないために」

 カライの思い定めた表情は幼いサライを不安にしたが、成長するとともに夢ともうつつとも判別できない記憶を跡形なく忘れ去った。その後、カライの姿を見かけなくなったせいもある。記憶がなぜ消えたのか、今日の日までわからなかった。孤独な幼児期を送ったサライは長ずるとともに、父の目を逃れて、野山を駆け回ることに夢中になった。杖を振り回し、数頭の山羊を連れ、雑草や青草(ニラ)を探した。文字など読めなくても、なんの不自由もなかった。その頃のサライはまだ記憶があったはずだ。

 しかし、いつの頃だったろう。

 山羊の番をしていた時のことだ。いきなり、襟首をつかまれた。

「こい」父だった。

 小柄だが骨太の男で、サライを見下ろす姿は山のような威圧感に満ちていた。節くれだった手が、サライの首をわし掴みに捕えていた。恐ろしさで口も聞けないでいると、父は、おまえの宿命だと言ってサライを番小屋に投げ入れた。薄暗い小屋の中には二人の男がうずくまっていた。その後に、サライの身に起きた事をどう理解すればいいのか。男たちはサライの自由を奪うと、口汚くののしり、欲望を排出した。

 山地に飼っている家畜の他に生活の糧のない者らにとって、異形の子供は家畜以下だった。彼らの信ずる神は獣と交尾することを禁じている。しかし、幼くはあっても悪魔に等しい者を辱めることに関しては記述がない。彼らは自らの欲情を神聖な行為だとさえ思っていた。

 記憶が鮮明でないことが、せめて救いだった。襲ってくる激痛のさなか、幻聴によって半ば催眠状態であった。

……サライ、サライ、おまえは戦士、われわれの一族。愛せられる者よ、おまえに告げる。怒りを心を留め、立ち上がれ……

 あの日も、声は聞こえていた。そのせいなのか、恐ろしいことが、予兆もなしに起きた。二人の男は、口から泡を吹いて死んだ。父親は二度と、サライに男をあてがわなかったが、暴力をふるうことはやめなかった。
 サライは脳裏から過去を切り離した。

 ある日、突然、様変わりしたカライが戻ってきた。少年の日々の面影はなく、削げた頬の横顔に疲れと諦めとが見えた。町の学校から戻ってきたカライは弟に目もくれなかった。

 時々、村にやってくる旅商人から書物とも言えないような代物の巻き物を買うと、岩山で山羊の番をしているサライの前で読み上げた。そこには根拠のない噂話やデマが書かれていた。

 サライはいつしかカライの所持する巻き物を盗み見るようになった。子供向けのやさしい読み物もあった。音読しているカライの声と文字とが、どうつながるのか。繰り返し眺めて、読みとれるようになった。
 カライがいない夜があると、部屋に忍び入った。手当たり次第に目を通した。走り書きのような文字を見て、神の子の存在を知った。

「叶わぬ望みだと、誰にも言わせない!」

 その言葉そのものをカライから与えられたとは夢にも知らずに……。

「何も知っちゃいないのは、おいらだった」

 一片の疑いもなく、サライはカライを殺めた。

「ずっと、罪を犯していたんだ」

 サライの胸を悔恨という言葉では言い表せない衝撃が走った。思い返せば、カライの部屋に備えられた読み物は飽きた頃にかならず入れ替わっていた。少しも疑問に思わなかった。エルサレムから遠く離れた山地の村で、高価な巻き物を入手することがどれほど困難であったか。

 おそらくカライはそのために妻帯もしなかったのだろう。姉は声を出さずに文字を見つめるサライを恐れたが、父はサライが文字を解することすら知らなかった。カライも父と同じ考えなのだと思いこんでいた。カライの示してくれる愛に対して、かすかに気づくこともなかった。ほんの少し、注意して見れば簡単にわかることだった。心を閉ざしていたのは、カライではなく自分自身だった。

「カライ……二度と忘れないよ……でも、もう手遅れだ。兄さんに死の棘が刺さったように、おいらも死ぬ。これが、あいつの言った宿命だったのかもしれねぇな」

 サライは大きく息をつくと、固く目を閉じた。死が予感ではなく、睡魔となって訪れる。恐れはなかった。砂丘の谷間に捕えられると、母なる者に抱かれている心持ちになる。痺れるようなまどろみの感覚がサライを包む。

……おまえはわれわれの一族だ。啓示を打ち砕く戦士、まがまがしき者よ……目を覚ますのだ、サライ、目を覚ませ……

 突然、まばゆい光が頭の芯を貫通した。

……バビロンの子よ、サライ……

 言葉を拒むように、手と指が、操られるように重なっていく。

「誰なんだ、おいらを呼ぶのは」

 顔にかぶさった砂をはらい、ゆっくりと頭をもたげた。目を開けると、うねった砂漠の丘陵がはるか彼方まで見渡せた。

「おいら……生きている」

 砂嵐は止み、風のさざめきにつれて、天をふさいでいた黒雲がきれていく。衣服をたくしあげ、腰帯をむすび直した。

「……啓示を打ち砕く戦士」

 唇が不思議な言葉を記憶している。口ずさむと、心が奮い立った。どこからやってくる言葉かわからないが、従わせる力を持っていた。

 サライは杖にすがり、歩きはじめた。明けの明星が彼方にまたたき、弓なりの月とともに行く手を指し示している。
 やがて、次の日の太陽が姿をあらわすと、砂丘の尾根に閃光がさした。砂漠が真紅に染まり、それと対をなすように、白濁した石灰岩におおわれた山脈が浮かびあがった。

つづく

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