南ユダ王国の滅亡(9/9)最終話
あらすじ
着いた先は、1991年1月17日。湾岸戦争が開始された日のイラクだった。アリスは死に、同行していた二人のユダの男たちは、バビロニアとの戦いだと思い、突きすすみ地雷を踏む。ルーシーの声が別れを告げる。ミカエルは井戸の中で目覚める。地震の起きる少し前に戻っていた。これまで起きた出来事が養父の計らいだったと知る。ミカエルは、アリスの石を探し、ルーシーやアリスのいる時間へタイムスリップする。
28 荒野にたたずむ
光の渦に吸い込まれたと思ったとたん、ヒュルヒュルという音につづいて、ドッドッドーンと地を揺るがす音が耳元で炸裂した。
見上げると、濃紺の空に躍動する光の帯がいく筋も走っている。頭上から轟音が降りそそぐ。
嗅いだことのない臭いが鼻についた。距離はかなりあるが、至るところで、白炎が立ちのぼっている。
「ここはどこ……?」
思わず、つぶやき、気づくと、秦野が女の人からもらった鏡が砂塵のうねる地面に落としていた。
周りを見ると、アククゥツを連れたヤディがいた。アククゥツの背には瀕死の秦野が二つ折れになっている。傍らにいるシャムライは血に濡れたつるぎを手にしていた。
ルーシーがいない!
叫びだしそうになった。
【あなたの頭の中にいます】
驚天動地の出来事に気をとられ、ルーシーの肉体がこの世ものでなくなったことを一瞬、忘れていた。それでも、そばにいてくれたことが、うれしすぎてわざとなんでもない口をきいた。
「アンタ、何をしたん? 光から闇へってどーゆーことよ」
漂ってくるにおいを嗅いだ。マッチをすったときの臭いに似ている。
【硝煙のにおいです】
ルーシーの声は冷静だった。
戦争映画で耳慣れたすさまじい爆発音が間近で聞こえた。
【砲弾が炸裂する音です】
大地が振動し、立っていられない。うずくまるが、上下動が止まらない。地震のあった日と同じだ。
怯えたアククゥツが前脚を高くあげたとたん、秦野は馬の背からすべり落ちた。立ち上がり、駆け寄ろうとしたが、まっすぐに歩けない。
這ってそばに行くと、「……星がよく見えないわ」と秦野はつぶやいた。
からだの揺れのとまらないシャムライはつるぎを投げ捨てると、彼女のそばに座りこんだ。
「ああ、どうして、どうしてなんだーっ。神が鉄槌をくだされたのだ。イスラエルともどもユダの民はもはや選ばれし民ではない!」
「あんたは大げさなのよ……」
秦野は嘆き悲しむ声にむかって手をのばした。
シャムライは秦野の手を握りしめた。
「ミタマ……おれがだれか、わかっているのか?」
「あんたのことは1日だって、忘れたことはないわ……うっとおしいんだから……」
「これからは片時も離れない」とシャムライは言った。「死ぬな、おれがついているっ」
「ねぇ、ミカエルはいるの……あのヒトは……ママ、ママはどこなの?」
わたしは黙って、アククゥツのたてがみにぶらさがっているドラを抱きしめた。ドラは光を怖れて暴れる。乾いた地面におろすと、秦野のそばに駆け寄った。
「もしかして……だめだめだめぇ~っ!」
秦野は突然、半身を起こした。
「せっかくぅママと会えたのよぉ~。ママのいるところへ帰してーっ!」
ドラは不安なのだろう、わたしの足元にやってきた。なんとかしてくれとでも言うように、わたしの足に爪をたてる。
「しっかりしろ。おまえ1人を死なせやしない……もしものときは……おれは……おまえとともに……」
シャムライは秦野を抱きかかえて慟哭した。
「ママは……ママは……行ってしまったね……アリィをおいて……」
【命が尽きようとしているのに愚かな魔女です】
ルーシーは、実体がなくなっても、魔女を殺せと言う。
【あなたがひと思いに殺さないせいで、わたしたちはしなくていい悲惨な目にあってるんです。本来なら、終わりのはじまりの時だった】
上空で地鳴りのような音が聞こえる。漆黒の上空に飛行物体が見える。なぜだろう。既見感がある。
【なんど同じ過ちをくりかえせば、満足できるのですか。天界のゼネラル・マネージャーはそのたびにプログラムの変更をしいられるんですからね。わたしやアククゥツだって、いいかげん、頭にきますよ】
ヤディはいななくアククゥツの手綱を取り、「あの黒いものはなんだ? 生きものか?」とわたしに訊く。
「んなこと訊かれても――」
鳥のような鉄の塊が、火の玉を落としているから、大きな音がしていると教えた。
【あなたの脳は、完全なオーバーホールが必要なようです】
「敵か、味方かもわからないのか……」
ヤディはそう言ってひざを折り、その場に屈した。
「なんということだ……」
ヤディは深いため息とともに、声をふりしぼった。
「デイオケスさまはどこに……お守りせねば……」
【目の前の光景は神の復讐です。あなたが自らの手で、サバン・秦野と黒猫を殺さなかったせいで、ダニエルさまの預言がのちの世に正しく伝わらなかったおそれがあります。聖書研究者が頭を悩ます結果を招くかも――本来なら、このとき、神の裁きの前兆が訪れていたはずなんです】
空に向かって走る光の帯は、黒い飛行物体を求めて交差し、四方に乱舞している。
「テレビで見たような……」
【防空レーダーの光線ですよ。対抗する米軍のF117ナイトホーク20機が編隊をくんで、イラク軍の200カ所ある地対空ミサイル基地を誘導弾で爆撃しているのです】
「イラク軍……」
【4年後に大地震のあったのです】
「地震の起きる4年前か……中学生やったからなぁ……もひとつ、記憶がはっきりせん」
【1991年1月17日午前2時30分に、湾岸戦争ははじまりました。この戦争ではじめて、F17のステルス戦闘機やGPSが使われたのです。明日になれば、米軍の戦車部隊がGPSの誘導で砂漠を越えて攻めてきます】
「地震のあった日と同じ1月17日……」
腕時計を見る。2時30分を指している。
【わたしたちがいまいる場所は、かつてのバビロンです。真北に首都のバクダッドがあります。すぐそばにユーフラテス川が流れています】
「ここが、あのバビロン……イシュタルの青い門や空中庭園のあったバビロン……まさか……」
【イザヤ書の13章19節から22節に預言されています。国々の誉れであり、カルデア人の誇りであるバビロンは、住む者が絶え、鬼神がそこに踊ると。支配者や占い師や戦士や傭兵は滅ぼされ、ハイエナと山犬の住みかになると】
ダニエルは、わたしを鬼神だと言った。住む人のいないバビロンにただ1人でたたずむと――このことなのか。滅びたバビロンにわたしたちがタイムスリップすることをダニエルは知っていた。
「占い師に戦士に傭兵。それに山犬。ぜんぶ揃ってる。でも1人やない!」
爆発音は鳴り止まない。次第に近づいてくるようにさえ感じる。
【戦争そのものは、前年の1990年8月からはじまっていました。10万のイラク軍がクウェートにいきなり軍事進攻したのです。クウェートはわずか6時間で制圧されました。国土が狭いこともありますが、同じ宗派スンニ派のイラクが自国に攻め込むと思ってもみなかったのです。イラクが別の宗派シーア派のイランと10年間、戦っていたとき、経済援助をしていたからです。その援助金で、イラクはソ連やフランスから武器を買い入れたのです。クウェートは黄金を送って、爆弾が返ってきたのです】
石で黄金の像を撃ったが、何も変わらなかったのだ。
大地が血に染まり、大勢、死んだだけだ。
【イランもイラクもかつてのペルシアです。現在のクウェートはペルシア湾に面した小国ですが、石油の埋蔵量が世界第4位なので、〝油に浮かぶ島〟とも言われています。同じペルシア湾に面したカタールやアラブ首長国連邦などと肩をならべる経済力があります。国民はオイルマネーが分配されるので労働の必要がないほど豊かです】
「だれが働くの?」
うわの空で訊いた。
【アジア地域からの出稼ぎ労働者です。奴隷はいても軍備は整えていませんでした】
「石油が欲しくて、イラクは攻めたん?」
【イラクも産油国ですが、軍事費への支出が多く国民は貧しい生活を強いられています。クウェートの石油の利権を手にいれれば、世界に流通する石油の半分を掌中に治められます。それによって、英米が牛耳っている石油資本に勝って世界経済を支配できるとイラクの指導者、サダム・フセインは本気で考えたのです。独裁者はときとして血迷うのです。世界の覇者となる夢を見ない独裁者はいません】
「ネブカドネザル王のように……」
【在りし日のバビロニアは現在のイラクと異なり、世界強国でした。しかし、現代のイラク人にとってもネブカドネザル王の名は輝かしいものだと思いますよ。ユダ王国を滅ぼし、神殿を破壊したのですからね、かつての栄華は忘れがたいのです。クウェートはもともとバビロニアの領土でしたし――民族の記憶というのは遺伝子となって何千年たってもかわらないのです】
ヤディが唸った。気づかなかったが、傷を負っているようだ。
怪我人が2人もいては、戦場から逃げられない。
「許せない!」シャムライが大声で言った。「ダニエルはハカシャにミタマを襲わせた。あんなやつをおれは信じていた」
「おねがい。静かにして……ミカエル、そばにきて……」
彼女の手を握る。血でぬるぬるしている。
できるだけ、明かるい声で話しかけた。
「まさか、死んだりしないよな。だって、アンタは1度、死んでるんだからさ」
「……つるぎがいるわ」と秦野はつぶやいた。
シャムライが言った。
「つるぎはおれが持っている。猫もアククゥツもいる!」
秦野はか細い声で訴えた。
「それで、わたしを殺してよ……ミカエル、忘れてないよね、罠を仕掛けてしとめてやるって言ったこと……」
「そんなこと、わたしにできるわけがない!」
【シャムライとヤディに教えてやってください。あと半月もすれば、イラクがイスラエルにスカッドミサイルを打ち込むと】
「なんでいま戦争の話なんかするんよ!」頭の中にいるルーシーに怒鳴った。
【彼らにはもっとも聞きたいことだからです】
亡国の民だったユダの民が約束の地=シオンに帰還し、イスラエルを建国していると、2人に伝えた。
ヤディは驚愕した。「サマリアの王が聖都エルサレムにおられるのかっ。神殿はどーなった? 聖櫃(=契約の箱)はもどったのか!?」
「神殿や聖櫃はともかく、世界中に散らばっていたアンタたちの同族がパレスチナに帰って、北王国と南王国を合わせた広さには足りないけれど、国をつくったのよ。国名はイスラエル。いまもペルシアやバビロニアだった国としょっ中、揉めてる。シリアやフェニキアだった国ともね。でも、もめごとのいちばんの原因は、ダビデやソロモンのいたころから、いざこざの絶えなかったペリシテ人の国、ガザある地域とはどっちもお互いを、悪魔に牛耳られている人間の国だと本気で信じているから収拾がつかない」
「どうしてだ?」
「イスラエルが建国したせいで、以前から住んでいた人たちの怒りをかったのよ」
「いつバビロンは滅びたんだ?!」
「話しが長くなるし……」
「メディアはどうなったのだ?」
「メディアとペルシアは、ギリシアに滅ぼされた」
シャムライが目を輝かせた。
「以前にも同じ話を、おまえはした。ほんとうだったのか……。このいくさでイスラエルは勝利するのか!」
「イスラエルは負けない、終わりの日がきても」
「なぜ、そう言える!」とヤディは身を乗り出す。「いい加減なことは言うな」
「ミカエルはいつもそう……」と秦野は言った。「肝心なときに肝心なことを口にしないのよ……」
彼女は、自分の手首をわたしの目に晒した。切り傷の痕がいくつも横に走っていた。
「あんたは冷酷なのよ。これを見たって、そ知らぬ顔しかしない。だれかを愛したことがないからよ……」
「関わりたくないだけだよ。独りに慣れてるし」
「だったら、せめて、この鏡をどう使えば、もとのバビロンにもどれるのか、犬にきいてよ……それがだめなら、殺してよ……アリィを殺すのが、ミカエルの使命なんでしょ。そうよ、なんでも知ってるのよ……」
「犬は死んだよ」
【降ってくる爆弾につるぎをむけると、落雷が発生し、威力が鏡に吸収される】
「おまえのいうイスラエルが、危機をまぬがれるというのはダニエルの預言なのか? ここでおれたちが、この国がイスラエルに投げこむ火の玉を防げばいいということなのか!!」
【反物質の爆弾が100%のエネルギーになるには磁場が必要なのです。タイムスリップには強力な磁場を要します。パワーのあるつるぎを介して、レーザー光線を反射する魔鏡を使えば、もとの世界、1995年に帰ることが可能な磁場をつくれる可能性があります】
意味もわからず要約して伝える。
「ミカエルは嘘つきよ」と秦野は頭を振った。「ここはいや。紀元前のバビロンへ行きたいのよ……もう1度、死んで地獄に落ちてもいいわ……ママに会えるんだったら……ミカエル、あんたといっしょだったら……」
【バビロンには行けません。同じ場所にもどることはできないのです】
「ミカエルとわたしの2人で世界の歴史をひっくり返したい……ミカエルといっしょに。そうよ……2人でやれるわ……。もどって石を探す……。あの石は、『ダニエル記』に出てくる石なんだもの……おじいさまは言ったわ。あの石があれば、世界は変わるって。ミカエルがネブカドネザルの黄金の像に投げた石を……探せばいいのよ……そうよ、バビロンは滅びたりしない……。石を見つけられないときは、わたしがダニエルを殺すわ……。そうすれば……終わりのはじまりをもっとずっとさきへのばせるはず……あんたとずっといっしょにいたい」
「そうだね、石を探す前に、ひと眠りしたほうがいいよ」
「ミカエル……愛してると言って……ほんとは、だれよりも愛していたって……」
「黙ってて、ごめん。だれよりも、アリスが好きだった」
秦野は静かに息をひきとった。
ヤディはシャムライに腕に負った傷を手当てしてもらいながら、弓を返してくれと言った。
「見ればわかるだろ。そんなもの捨ててきた」
「おまえにやった弓とタマミのいう石があれば、バビロニアは滅びないということなのか? そうだとすると、メディアはどうなる?」
「神殿の黄金の像に石を投げつけなければ、ミタマの言うように一時的には異変は起きないかもしれない。でもそのとき、メディアがどうなるのか、わからない」
「バビロニアの王にむかって、おまえは、ミタマの石をおれの弓で射たのはたしかか?」
「王は本物じゃなかった」
ヤディもシャムライも、秦野の命の火が消えたことに気づかない。
気づいていても、死者に関心はないのかもしれない。
「ダニエルはすべてを知っているようだ。やはり、神の言葉を預かる者だったのか」
シャムライはくちびるを噛み、眼帯をむしりとった。醜い傷跡があらわになった。
「ネブカドネザル王がいますぐ死ねば、デイオケスさまが、世界を牛耳る帝国の王になれるやもしれぬ」
ヤディは立ち上がり、鋭利なつるぎを拾いわたしに突きつけた。「おまえもいっしょに来るのだ。おれ1人の言葉だけではデイオケスさまを説得できない」
「……殺したければ、殺せばいい」
秦野の骸を捨てて行けないと言うわたしに、
「死んだ者は生き返らない。塵になるだけだ」
ヤディが言い終わらないうちに、シャムライは懐に隠しもっていた短剣で彼に斬りかかった。
ヤディはつるぎで防戦した。
【魔女は天使の手にかからず死にました。これまで、あなたが無知なるが故に、わたしは心ならずもヘッド・クゥオーター=司令塔にならざるを得ませんでした。本意ではない役職を押しつけられていたのです。そのせいで……天界へ帰還するというそもそもの計画が狂ってしまった。あなたはわたしの努力をむだにした】
「ひょっとして、アンタがタイムスリップさせたん? ほんで移動時間と地点を変更したん?」
ヤディとシャムライは、闘いをやめない。ついさっきまで兄弟のように互いをいたわり合っていたのが嘘のように……。
なぜ、いがみ合うのか、それさえわからない。
【すべてわが父、大魔王の罠です。In Satan we trust.仲間割れするように最初から仕組まれていました。父の命令を遂行せず、迷ってばかりの優柔不断なわたしに父は失望した】
「ちょっと待ってよ。あんたはガブリエル天使の名代やってゆーてなかったか? 天界のえらい人の命令で使命を果たすって」
【天使であると同時に、魔界のエージェントでもある】
「二重スパイってことなん? 今回ばっかりは許さへんでっ! ぜんぶ、元どおりにやり直してよっ」
【魂の転生はあっても、タイムスリップにやり直しなどありません。それがこの世に命を授けられた者の宿命なのです」
わたしは目を、耳をふさいたが、声はやまない。
【いまは有志連合軍による〝砂漠の嵐作戦〟の真っ只中なんです。ヘッド・クウォターのわたしを粗略にあつかうとは――なんたる暴挙! 天界および魔界戦略研究局の2つの軍法会議にかけられる覚悟はできているのでしょうね】
「あんたの手でアタシを縛り首にしたらええやん。ただし、その前に魔犬と縁をきる!」
巨大な飛行物体が頭上を横切った。
「なによーっ!」
【大型輸送ヘリです】
風圧に吹きとばされた砂や小石が降りかかる。わたしは脱兎のごとく、ヘリにむかって駈けだした。日本とアメリカは同盟国なんだから救助してくれると思ったのだ。ところが足元の地面に、銃弾の土煙が走って伸びた。はじかれたように転がった。死ぬと思った瞬間、閃光がきらめいた。
シャムライのつるぎが光を反射した。
落雷と聞きまちがう爆音が鳴り響いた。
ヤディは四方八方に飛び散る光の波にむかって魔鏡をかざした。
千の光が鏡に吸い寄せられていく。彼らは両目を見開き、主人に凶事をもたらすアククゥツにまたがると、声をそろえて言った。
「こんどこそ、北王国イスラエルを取り戻すぞ」
バクダットの方角に光が乱れ飛んでいた。偵察部隊らしき兵士らがこちらにむかってくる。2人はアククゥツを駆って突進していく、光と闇のはざまに。
爆発音がとどろいた。
閃光で砂漠が赤く染まった。
地雷を踏んだのだ。
彼らのからだは一瞬で飛び散った。
突然、昼のない夜がやってきた。
ダニエルの予言通り、わたしは独り荒野にたたずんでいる。
地の果てからルーシーの声が聞こえた。
【煉獄から逃げ出したわたしを、神はお許しにならない。ダニエルさまを助ける名目で、わたしの身代わりにあなたを煉獄山へ送ることで天国へ召されたようとしました。父を裏切り、母を見捨たわたしにはどこにも行き場がない。友よ、あなたを騙したわたしを許してください。I’ll love Micael forever……】
女の人が闇の中から現れ、「帰りなさい」と言った。
29 1つの石
地鳴りと激しい揺れに襲われた。
気づくと、井戸の中だった。時間はおそらく5時46分52秒前後。あの日にもどったのか……地震の前か後か? ルーシーはもとの場所にもどれないと言っていたけれど……。
汚泥の臭いが鼻をつく。足元を探ると、鋼材でできたような硬い袋がある。闇に目が慣れてくると、鈍色に光る線状のものが見え隠れする。手でなぞると、ファスナーのようだ。引き開ける。黄金色の金塊が白濁した人骨を照らし出した。コマさんの捜し物は、この金塊だったのか?
苦い胃液を飲みこむ。
金塊があるということは、上り下りするための足場があるはずだ。手で周囲の石積みに触れると、コの字型の鉄棒が打ちつけられていた。片足をかけたとたん、光の輪に照らされた。
「おーい、だいじょうぶか」安否をたずねる爺サンの声が聞こえた。
「あの子に何かあったら……」という婆サンの声も。
爺サンの丸眼鏡が、婆サンが額に装着したフラッシュライトに反射し、削げた青黒い顔が夜目に浮かびあがった。ロープがたれてきた。足を鉄棒にかけ、ロープにすがりながらゆっくりとのぼった。
婆サンの愚痴が聞こえる。「古井戸を埋めてくださいとなんども言いましたよね。センセイはわたしの頼みをきいてくださったことがない」
ボコッと音がし、頭が何かにぶつかる。 記憶では、改造小屋の床がぬけ、井戸に転げ落ちたと思っていた。ブリキの蓋は吹き飛んだはず……。
蓋はずれていた。
過去の体験が現在に影響を与えたのか? 婆サンは斜めになった床板に寝そべり、必死の形相で手を差し伸べている。わたしと目が遭うと、パジャマを着ただけの婆サンの目から涙があふれ出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、こんなところに住まわせて……」
「余震がくる。早く外へ出なさい」
井戸と床板の隙間に立った爺サンは急かした。屋敷は焼失したと秦野から聞いていたので、母屋のことが気にかかった。
「……家は……?」小声でたずねた。
「電気もガスも一瞬で止まった」
丹前を肩にはおった爺サンは落ち着いた声で言うと、風邪をひかないよう身仕度を整えるように婆サンとわたしに命じた。
斜めになった床に這い上がり、天井を見上げると、屋根が半分なくなっていた。開かなかったドアもなくなっている。爺サンにうながされ、いったん庭に出る。母屋と改造小屋をつないでいた渡り廊下が横倒しになっていた。
「ルーシー……どこに」
夜が明けるまでじっとしていなさいという婆サンの声を振り切って、ドッグハウスをのぞく。首輪とリードはあったが、ルーシーはいない。首輪を手にとり、自分の首につける。
「何をしている?」
爺サンは旧式の懐中電灯でわたしを照らした。
「足の踏み場もないけれど、なんとかなるでしょう」と婆サンは言った。「あなたが着れる防寒着もあるはずよ」
周辺の家々から家族の安否をたしかめる声が聞こえる。庭の灯篭は倒れ、改造小屋は傾き、半壊状態になっていたが、頑丈な造りの母屋は家具が倒れただけのようだ。わたしは長い夢――妄想にひたっていたのかもしれない。
「荷物を取ってきます」
そう言って改造小屋へもどった。
「危ないからよしなさい」
爺サンの制止を無視して、壊れたドアを引きはがし、床の抜けた室内にもどった。散乱した衣類の中から厚手のものを捜していると、口の開いたリュックを見つけた。フラッシュライトで中を調べると、リュックには血の手形がうっすらと付着していた。もしかすると、粗ゴミの日に拾ったときから、手形はあったのではないか? 気づかなかっただけなのでは……?
玩具のパチンコをひろい、ポケットに入れた。ついでに秦野から盗んだイスラエルの石も捜し出した。これもパジャマのポケットに入れる。
庭へ出る。
物音がした。ふりむくと、ダウンジャケットを着たコマさんがいた。スニーカーを履いた彼女はわたしの前を素通りし、床下にぽっかり開いた空洞にむかって、そのへんにある物を手当たり次第に投げ入れた。
「畜生、畜生、畜生……」
ショックで頭がおかしくなったのか?
着替えた婆サンが母屋から出てくると、コマさんは舌打ちをした。「骨折り損のくたびれもうけだったわ」
「あなた、何をしているんです!」と婆サンは怒鳴るように言った。
コマさんはめいっぱい刃を引き出したカッターナイフを握りしめている。いつのまに? リュックの中にあったものだ。
「なんなの、それは!」婆サンはあとずさった。
「どういう魂胆なの!」
「この子が隠し持っていたものです。地震で町がめちゃくちゃになったのをさいわいに、これで奥さまやだんなさま、いえ、わたしを襲うつもりなんですよ。お屋敷にだれかが忍びこんだと言い訳をして――」とコマさんは言った。
わたしは、2人の視界に入る場所に移動した。「家出をしようと思っていたけれど、アンタたちを殺そうなんてこれっぽっちも思ってない」
婆サンはわたしの手を取り、握りしめた。思いの外、暖かい手だった。「わたしたちは家族ですもの」
長靴に防寒着をまとった爺サンが雨戸を開け、庭に出てきた。
「……ふむ」と爺サンはうなずき、「家出をするつもりだったようだが、地震で思いとどまったようだな」
爺サンから腐臭が漂った。肌の粟立つ思いに、全身が打ちのめされた。凍りつくように寒い。予感していたことだったが、認めたくなかった。闇の中で聞いた声は、記憶の彼方で耳にした爺サンの声だった。複製人間もヨアキムも爺サンの気配を色濃く感じさせた。長身で、体温の感じられない骨張った手、先のとがった鼻。悪臭は汚泥の臭いだったのだ。
「親子3人、無事で何よりでした。コマさんも」
婆サンのほっとした声につられて、コマさんはカッターナイフを後ろ手にし、「これはすぐに片付けます」と言ったあとで、「大事が起きても、わたし1人の力ではどうにもできませんからね」と眉根を寄せて言ったが、その顔には失望の色がうかがえた。
「くれぐれも、この子には気をつけてください」
コマさんはカッターナイフの刃を、わたしの顔にむかって突きかえした。思わず、のけぞった。
足元が揺れる。
「1週間ほど余震がつづくだろう。このまま庭にいるほうがいいかもしれん」
「たしか、バーベキューをするときのコンロがあったはずよ」
婆サンはなぜか張り切っている。
「トランジスタラジオも――それから冷蔵庫の中のものをぜーんぶ焼いてしまいましょう――若い頃のキャンプを思いだすわ。コマさん手伝ってちょうだい」
婆サンの言葉にコマさんはしぶしぶ従った。
2人の足音が母屋に消えると、「この屋敷はどこもかしこも亡霊が出そうなほど古びている」と爺サンは濁った声で言った。
そして、わたしを見た。「このさいだ。焼き払ってもいい」
爺サンは歩きだし、何を思ったのかきびすを返した。
「もしかすると……そんなはずはない」
つぶやく爺サンをおいて、改造小屋へもどった。壊れた戸口にうずくまっていた子猫がすり寄ってきた。独りぼっちじゃなかったんだ。子猫を腕に抱き上げる。ルーシーは自分のかわりにドラをタイムスリップさせたのか? 腕を回して抱きしめると暖かい。冷めきった心を熱くしてくれる。ドラをリュックに入れて背負う。
「ルーシーや秦野と、はぐれてしもたな。アククゥツとも」
みんなが恋しい。ここにわたしの居場所はない。懐かしいものもない。ヤディやシャムライは望み通り、現代のイスラエルに転生しただろうか。それともソロモン王の時代にもどり、王に戦馬の育成を進言しているだろうか?
ルーシーは今頃、たったひとりで煉獄山をさまよっているのか……。大切なものは喪ってからでないとその価値を知ることができないと、ルーシーに言われたが、ほんとうだった。
「アタシ、ほんまもんのアホやったわ。秦野もアンタもドラもみんな友達やから、仲良くしようって、言われへんかった。ずっとずっとみんなで一緒にいようって」
だれとも関わりたくなかった。現実から逃げ出すことばかり考えていた。もしかすると生まれる前からこの世界の出口を探していたのかもしれない。どこかにあるはずだと夢見ていたが、そんなものは存在しない。心を許せる友のいる場所こそが非常出口で入口なんだ。彼らのもとにもどろう。ドラと力をあわせれば、なんとかなるはずだ。
【ニャア】
リュックの中のドラはわたしの思いがわかったように鳴いた。〝世界の終わりのはじまりの時〟を、ダニエルが告げても告げなくても、どうでもいい。勝手に終わりの日を告げればいいのだ。人類がこの先、どうなろうと非力なわたしにできることは何もない。神が全地を滅ぼそうと、ルーシーとは友誼を誓った間柄であることに変わりない。生死をともにすると誓ったのだ。だれにも感じたことのない友情を取り戻すほうが、わたしにとっては何ものにもかえがたいのだ。秦野もたった1人の人間の友だった。
くだらない未来なんて知ったこっちゃない。
「ルーシー、秦野、すぐに追いかけるから、待っててな」
【ニャア】
「けど、肝心の契約書がないと、何もはじまらん」
荒い足音が聞こえた。
身を低め、息を殺した。
「大旦那さま、こ無事でしたか」
タツノの声だった。
爺サンはまだ庭にいたようだ。「わざわざ手伝いに来てくれたのか。そっちはどうなんだ?」
爺サンの塩辛声はいつもと変わらない。
「旦那さまは家具の下敷きになるところを、危うく難をのがれましたが、亜利寿さまがどこを探してもいらっしゃらないのです」
「意図したことに狂いが生じたのははじめてじゃない」
爺サンは周囲を見回し、屋敷にもどりかけ、またしても立ち止まった。タツノは、爺サンに大旦那さまと呼びかけ、「いかがいたしましょう? 警察へ届けますか」と訊いた。
「いや、いい。家出人はいくらでもいる。警察は事件性が認められないかぎり、捜査しない。それにこのありさまだ。何が起きても、だれも気づかない。どさくさにまぎれて、あたらしい子どもを探せばすむことだ。ミカエルの母親も、亜利寿の実の親も失踪したまま行方知れずということになっている」
「わたしの妻は家具の下敷きになり、死亡しました。どうでもいいのですが一応、ご報告しておきます」
タツノは一礼し、立ち去ろうとした。
爺サンは呼びとめた。「おまえはコマに余計なことを言わなかったか? 嘘をついても見破られることは知っているな。わたしの目は塵ひとつ見逃さない」
タツノはがっしりした体をぶるっと震わせた。「井戸のことでしょうか」
「おまえの軽い口がしゃべったのなら、責任をとるのはおまえだ」「何も話してはおりませんが、あの女は、この屋敷のどこかに大金があるとはじめから知っていたようです。だれから耳にしたのか、調べるために近づいたのです。しかし、大奥様さまにあの女を紹介したわたしに責任があります。どうすれば、お許しいただけるのでしょう」
「コマを始末しろ」と爺サンは言った。「婆サンもいっしょに屋敷ごと燃やせ」
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
爺サンが改造小屋をのぞきにもどってきた。片付けようのない室内を見回し、「石はここにあるのか」と言った。
「なんのことですか」
「いつ気づいた?」と爺サンは言った。「あの石の力に」
「あの石?」
「〝太陽の石〟とも〝イスラエルの石〟とも呼ばれている石のことだ。父が偶然、手に入れたが、欲深くなっただけで、石はただの石ころのままだった」
「話が見えませんが」
「ヘブライ人の先祖であるヤコブが、息子のヨセフに長子の権利とともに与えたと言い伝えられている石だ」
「それが何か?」
爺サンは険しい目つきになると、「石はそもそもシュメルのエリドゥにあったものだそうだ。シュメル人の言う〝全知の神=メ〟なるものではないかとわたしは思っている」
「石がメ?!」
「7つの神を象徴していると伝え聞いた」
「――で、わたしとなんの関係が?」
「亜利寿はどうした?」
1991年の湾岸戦争に巻き込まれて死んだとも言えず、「ここにはもう、もどらないと思います」
爺サンは、「自然の定則に逆らい、時間を巻きもどしたのか」とつぶやいて、嗤った。
「いつか、おまえはやるだろうと思っていたよ。まさか、わたしがこの世にいるうちだとは思わなかった。井戸に落ちてもどった者はいないからな」
「井戸に落ちたとき、さいしょに聞こえた声が、あなた、いやいやアンタの声だと認めるのに、手間どってしまって――立派なお方だと、心のどこかで尊敬していたせいで……」
アンタはあっちとこっちを行き来していたのかと問うと、
「わたしは、反キリスト者のおまえとは異なる。むろんサタンでもない。ただの老人だ。ただし、わたしと同じ思考をもつ瓜二つの人間は世界のはじまりから終わりの日まで偏在する」
「この世での最初の記憶が、その声だった。井戸に落ちたときも、同じ声を聞いたよ。薄気味わるいやつに『サタンと反キリスト者とは同時に両方なれない』と言われたけど――意味がわからん」
「天界やら魔界やら境界を感じさせる言葉は好まないが、今日まで起きたすべての事は、反キリスト者のおまえが企てたことの結末だ」
「アンタが反キリスト者じゃないのか」
「おまえは知っているはずだ。サタンは創造主であられる神によって創られたのだ。おまえのように宇宙を形づくる原子核から自然発生したものではない」
悲しむ前に驚きが先にたった。
「聖書には、何もかも神が創ったことになってるけど、ちがうのか!」
「戦うに価しないおまえに先手をとられて、振り回されるとはな」「大旦那さまと呼ばれるアンタが、秦野家の運転手や父親を使って亜利寿をひどいめにあわした。なんのために? 亜利寿はアンタの正体を知らずにお爺さまと呼んで慕っていたのに――」
爺サンはのけぞって笑った。「わたしと秦野家の当主だった男とは別人だ。篤志家だった先代は嫁いだ娘――おまえの母親の不幸を知り、実家に連れもどし、わたしが手配した男を婿養子に迎えた。わたしの息子と知らずにな。4年前、いまの家を建てる前に、おまえの祖父と母親は排除した。戸籍上は生きていることになっているが」
「まさか、井戸に……さすが、悪魔の手先」
「わたしは言ったはずだ、悪魔は偏在すると。おまえがわたしだと思った者や為した悪業も、このわたしだとはかぎらない。人類が地上に生を受けたときから、悪の血は絶えることなく受け継がれている。これもまた神のなした奇跡だ」
「神の奇跡……アンタは自分と同じ人間を不幸にすることを愉しんでる。それを神の奇跡だと言うのか」
「おまえの母親はわが子を殺そうとした。わたしがおまえと母親を救ってやったのだ。おまえの代わりになる子ども――亜利寿を与えてやったのに、自ら命を絶とうとしたから殺してやったのだ」
「なんで、アタシに医者になるように言ったんだよ」
「殺したくなかったからだ」
こんどは、わたしが声を出して笑った。
「アンタの期待に応えないことは、出会った最初っからわかっていたはず」
「わかっていたが、おまえの野望を打ち砕きたかった」
「野望?」
爺サンは色つきの丸眼鏡を外した。どこにでもいる老人の顔になった。
「若い頃のわたしは理想に燃えていたが、戦後の混乱期に人も社会もまたたくうちに秩序を失った。祖父の病院を継がず、弁護士となった父も例外ではなかった。自らを道徳心のある善人だと思っていた父は先祖が所有していた土地や財産を奪われ豹変したのだ。焦土と化した私有地に無断で小屋を建てた者たちの権利が認められただけではない。農地も小作人に奪われた。父は金のない者は首がないのにひとしいと言い放ち、地獄を極楽に変える黄金の虜になった。もしかすると、それが、石の力かもしれん。欲にまみれた父を滅ぼすことは、苦学して医師となった当時のわたしにとっての正義だった。40年前、父はある日、突然、消えた。母は悲しんだが、次第に忘れた。愛人と逃げたと思ったようだ。父は本望だろう。重さを計ったことはないが、金塊は死体より何倍も重い。求めたものと永遠の眠りについているのだからな」
爺サンはわたしの祖父や母親や自らの父親を殺し、袋詰めにして井戸に投げこんだと言っているのか?
「邪魔者はすべて井戸に葬った。違法に稼いだ金を金塊に変えて、それを抱かせてな。昨夜、おまえはセーマン印に反応した。魔法陣をつくる可能性があるなら、今日明日にも排除しようと思った。しかし、まさか地震が起きるとは思ってもみなかったよ。おまえは悪運がつよい。清明の桔梗紋印を会得した」
「この家の養女になったおかげかも、な」
「おまえ自身が意図したことだ」と爺サンは言った。「わたしを追い詰めるために」
あらかじめ計画するほど几帳面な性格じゃないと言うと、
「おまえの支払った代償は、記憶を末梢することだった」
「記憶の末梢……」
「大いなるお方は、魔界の住人であるわたしに天界の反逆者を罰する権限をお与えになった」
「ひょっとして、アタシが天界の反逆者? 結界も満足につくれないのに」
「わたしは期待したのだ。亜利寿に石をやり、おまえの手にわたるように仕組んだ」
「なんの意味が?」
「ダニエル記に記されている。黄金の像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちると――若い頃、〝大きな山が全地に満ちる〟という意味がどうしても理解できなかった。神父にたずねても要領を得なかった。いまなら、わかる。200近くある国が国境をなくし、天空を支配する唯一の神のもとに統一されるのだ。その日がいつ訪れてもいいように、わが家の〝いさら井〟に黄金はある!」
爺サンは気分が高揚しているようだ。
「飢餓や貧困とは無縁の、戦いのない平和に満ちた世界が訪れるのだ。素晴らしいと思わないか。一刻でも早く地上に楽園が訪れるよう、天界を逃げ出したおまえに石を託したのだ。本来の石の力は財力や地位を得るためにあるのではない。それゆえに、エジプトで栄華をきわめたヨセフは自らの子に石をわたさなかった……」
「アンタは妄想に取り憑かれてる」
爺サンが、くちびるを動かすと、耳まで裂けた。歯は獣のように尖り、視線は狂人のように定まらない。ヨアキムの顔が重なって見える。
「妄想だと? これでもか?」地鳴りのような声だ。「まさかおまえは、本物の天使長ミカエルだと思っていないだろうな。天界で生まれ、煉獄に堕ちたおまえは天使にはもどれん。教えてやろう。おまえとルーシーは、この世の終わりがきても、世界が新たになっても、男でも女でもない哀れな姿のまま異界をさすらうのだ」
爺サンのたわ言を聞きながら、ふと思いついた。ラビが神戸を神の戸口と解したのなら、石を意志と理解してもいいのではないかと。神の手によらない、1つの石=意志が、全地を統一すると解釈するなら、これまでの度重なる争いが何に起因するのかがわかる。どの時代のどの王も1度は夢想するはずだ。おのれの意のままになる世界を――全地を1つにしたいと。
「どこへ逃げようと、おまえは神の定めた時間からのがれられない。おまえもルーシーも」
「神サンとアタシは水と油の間柄やからスルッと逃げてみせる」
「時計を返してもらおうか。石もな。おまえが石を手にしても世界はかわらなかった。この世ほど退屈なものはない」
爺サンは丹前の袖から拳銃を取りだし、わたしの額に銃口を向けた。
「撃たれて死んでも、地震で死んだことになる。取り締まる人間がいなくなった終戦直後もこんなふうだったよ。不審な死がそこら中にあった。おまえの額の青あざは、かつてわたしが自らの手で刻印したものだ。赤ん坊のおまえは泣きじゃくるだけだった」
首輪から懐中時計を外し、爺サンの足元に放り投げた。ついでにリュックの旧約聖書も。額が軽くなったような気がした。
爺サンの裂けたくちびるから声がもれる。「終末の日を知る手がかりを、おまえは捨てるのか、愚か者め」
「アタシのIQでは、聖書を読むより、マンガを読むほうが合ってるし――そもそも神サンとは気が合わん」
悪鬼そのもの形相がさらに歪み、「北王国の民の子孫は、神の御言葉を忘却し、サタンでも反キリスト者でもない者となるさだめなのだ」
わたしは自分の顔を指差し、「それって、アタシのこと? まさかと思うけど、それがホンマやったら、復讐したがる神サンのことは忘れっぱなしでええと生まれる前に決めたんやわ」
「いまのおまえは悪魔そのものだ」
「アンタにゆーてもろたら名誉称号になるなぁ」
「石を返せ!」
「バビロンに捨ててきた」
爺サンが引き金を引く寸前に、わたしは、「アンタは地獄の最下層の住人になる」と告げた。
悪鬼の形相の爺サンはわたしの額に弾丸を発した。
顔のすぐ横を衝撃音が走った。
「どうしてだ? わたしがおまえに負けるはずがない」
拳銃が重いのか、爺サンは震える手でもう1度、銃口をわたしに向けた。そのとき、爆発音が響きわたり、母屋から養母とコマさんの断末魔の悲鳴が聞こえた。
またたくうちに屋敷は炎上した。
30 キーコード
火の粉が舞い散る闇の中から、タツノが現われた。握りしめた手には、黄金の鞘と柄の短剣が光っている。あれは、ダニエルの手からハカシャにわたったものだ。
「どうなっているんだ……」爺サンはもとの顔にもどり、震える声でつぶやいた。「まさか……おまえが……」
暗がりでも、タツノが血しぶきを浴びたことがわかる。つぶれた鼻とうわくちびるの傷に血痕が飛び散っている。
「そのまさかなんだよ、オヤジさん。デキのいい兄貴は先にあの世へ送ってやったよ。嫁とねんごろになっていたので、やつらを殺し、死体の上に、家具を載せてな」
「セイヤ……おまえは、兄と父親を殺すのか……」
タツノは爺サンに近づくと、手にしていた黄金の短剣で爺サンの首を刺した。噴水のように血が吹き出した。
「愛人の子のおれは、おまえや兄貴の召使じゃねぇのさ。コキつかわれるのに飽き飽きしたんだよ」
返り血を顔に浴びたタツノは吐き捨てると、わたしに迫り、「少しずつ砒素を飲むほうが楽に死ねたのにな。結局はこうなる定めだったんだよ、おまえは」
「セ・イ・ヤ・コ・ワ・レ・ル……」
その意味がようやくわかった。自分の為すべきことも。桔梗紋印を空中に描きながら、魔除けの呪符「木は水に剋ち……」を唱え印を結んだ。
「ばかばかしい。やめろ」とタツノは叫んだ。
リュックの中にいたドラが、襟元にのぼってきた。頭と両手を肩の上に出したとたん、煙のように消えると、漆黒の髪の少年に変身した。
タツノは悲鳴をあげた。
少年はダウンジャケットのわたしのポケットにしまってあった玩具のパチンコとイスラエルの石を一瞬で取り出すと、なんのためらいもみせずに飛ばした。
タツノセイヤの額に石はめりこんだ。彼は父親の上に仰向けに倒れた。ラピスラズリと黄金で飾られた、30㌢ほどの短剣の柄を上向けに握った姿勢で、彼は固まった。呼吸を止めたようだ。近寄り短剣の鞘を拾い、炎にかざした。ラピスラズリが埋め込まれていた。馬に乗る男たちが狩猟に興じるさまが事細かく浮き彫りになっている。ダニエルが所持し、ハカシャが秦野を刺した短剣だ。
セイヤの胸の上におく。
燃え上がる炎と火の粉のふぶきがあたりを明かるくした。
少年は【ニャンニャンフー】と発すると、ドラに姿を変え、わたしの肩にもどった。
ドラは識神だったのか……。
改造小屋の割れた鏡に自分とドラを映した。みんなと再会したとき、神がかならず成就すると約束した〝終わりの日〟がすでにきているかもしれない。エゼキエル書38章22節に記されているとルーシーが教えてくれた。『わたしは疫病と流血をもって彼をさばく。わたしはみなぎる雨と、ひょうと、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共におる多くの民の上に降らせる』と。
仰向けの姿勢で重なった2人に近づく。懐中時計を拾い、タツノの額に埋まった石を爪の先ではじき出し、手に取る。時計と石を重ねて、倒れた灯篭の土台に置き、地震で浮き出た敷石を持ち上げ叩きつけたが壊れない。だれも手にできない場所に捨てるにはどうすればいいのだろう。こんなとき、知恵の塊のようなルーシーがいてくれれば……。
呼び戻す方法は1つしかない。
契約書がいる!
なるたけ井戸に近づかないように、机のあったあたりを探す。龍踊文字の絵図の裏に、『協力して自由を得た日には生死をともにする生涯の友となる』と書き、ルーシーに肉球印を押させた。そのあと、庭にテントを張って住みたいと養父母へ訴えるために母屋へ行った。
契約書はどこに?!
探している最中に余震がきた。
リュックを背負っているので、重心が揺らぎ、尻餅をついた拍子に井戸の中へ転げ落ちた。
あっと思う間もなく、1本マストの帆船の甲板にいた。
なつかしい匂いがする。
【わたしは……あなたとともにある……ワンワンゥー!】
ルーシーは契約書をくわえていた。
「元気になったんや。毛もツヤツヤやし」
首に抱きつくと、禿げた眉間にしわを寄せた。
【うっかり忘れていたのですが、これがないと、あなたが契約を反故にするんじゃないかと気になって――ま、それで、イヤイヤですがしかたなく後を追ってきたわけなんです。借金を取り立てるのに、借用書がないとどうにもなりませんからね】
言いたいことは山のようにあったけれど、「こんどはターバンやなしに、必勝ハチマキをつくったげるわ」
【Nonsense! アッシリアの兵士じゃないんですから】
「アンタのパパの大魔王は魔界へもどったみたいやし、いますぐ秦野たちとアククゥツを助けに行こ」
【あなたの養父はわたしの父であるルシファーではありません! 複製人間やヨアキムでもありません! 彼はおのれを天使長のミカエルだと勘違いしているのです。わたしの父はあのようにひからびていません! わかったかーっ】
「えらそうなアンタが、かわいいわ」
ルーシーは照れているのか、眉間にしわを寄せると、【この世で悪をなす連中は下っ端ですよ。そこら中にいるのです。わたしの父、魔界の帝王は来たるべき神の御国〝千年王国〟の期間、神によって地の深いところに閉じこめられますが、その時がくるまで次元をまたにかけて暴れまくるでしょう。腐っても鯛。なんといってもグローバル・メガスターですからね。この先やってくる、7年間つづく艱難の時代には八面六臂の活躍をしなくてはなりませんしね、父は多忙なのです。このような小さな案件にかかわっているいとまはありませんワン】
「あっちはあっち。こっちはこっちでええやん。呪術をつかえるドラもいてるねんで。八面六臂はムリでも、七転び八起きくらいはイケるかも――」
子猫がすり寄ってきた。
「この子、識神みたいやねん。これでアタシも安倍清明の孫弟子くらいにはなれると思うねんけど、どうやろ?」
ルーシーはくしゃみをし、耳を立てて頭を無限大の形に振った。ドラはまん丸い黒い目でルーシーを見上げて、ジャンプしてみせた。ルーシーのパワーをもってしても、ドラを静止することはむずかしいらしい。
【実は、猫アレルギーなんです】
グゥフンとドラにむかって鼻息をとばしたルーシーは、【そのせいでわたしの秘密兵器が効かないのです。やはり、天敵は咬み殺すしかありません】
「もしかして嫉妬してるん?」
【言語機能に欠ける生きものは、ビザを申請しても許可がおりないと思います。殺すのがイヤなら、妥協案として船の甲板に捨てて行くことをおすすめします】
ドラが背中を高くして、唸り声をあげた。
【魔猫には品位がない。知性がない。スペックもわたしに劣るうえに、唸り声と鳴き声が耳障りです。要するにうっとおしい。あなたの額の青あざのようなものです】
三白眼になる。
「アンタがどんなにいちゃもんつけても、ドラは連れて行くで」
【のど飴を3つ】とルーシーは要求した。
「いっぺんに3つも舐められるんか?」
【ケチ臭いことは言わないでください。グゥワン】
ルーシーがふさふさした尻尾をふると、音楽が流れた。口の中の飴玉を噛み砕く音が重なって聞こえる。
「なんの曲やったかなぁ」
ルーシーはよだれをくりながら、【ズズゥ、ヴェルディの「凱旋行進曲」です。ガリッガリッ、ズズゥ】
「ほな、バビロンへ凱旋しよか」
【ガリッガリッ、ズズズゥー、エルサレムへGo backしましょう】
「いますぐ秦野やヤディやシャムライを助けに行かへんの? ツーリング・ホースのアククゥツもいるねんで」
【現状のタイムトラベルのプログラムでは、搾り小屋の桶の中からやり直すコースしかないんです。くりかえしになりますが、今回こそ、神さまから祝福の託宣をいただきたいものです】
「くりかえすって? 秦野や女の人やヤディを助けられへんゆーことなん?」
【すべての領域に侵入できる天界のコンピュータコード=キーコードを思い出せば、くりかえしはなくなります】
ルーシーは上目遣いになり、両頬にためたのど飴を飲みくだす。「キーコードなんて知ってるはずがないやん。アンタが知ってるんやろ? なんとゆーてもルシファーの娘なんやし」
【残念ながら魔界出身のわたしがキーコードを口すれば、その瞬間にわたしは人間の言葉を話せない保護犬に、ドラは野良猫へもどり、永遠の死をまぬがれません。それをあなたが望むのであれば教えることもやぶさかではありませんが……】
「望むわけないやん! しょうないなぁ。搾り小屋の桶でええわ」言いつつ、ふと考える。「くりかえしになるってなんでよ」
【記憶を失って桶の中にもどりますからね。前回と同じように】
「前回……そやから、リュックに血の手形がついてるんや!」
そんな馬鹿げたことがあっていいわけがないと言おうとした。
【それがいやなら、キーコードを思い出せばいいのです】
「なんで忘れたんやろ?」
【あなたはおかあさまや秦野亜利寿を、さすらいびとの状態から救うために、わたしやドラやアククゥツを巻き添えにして地上に誕生したのです。ほんといい迷惑ですワン】
「アンタのことはともかく、ドラやアククゥツはどこで知りおうたんやろ?」
【前世で子どもの頃、子猫が荷馬車に轢かれそうになるのを助けようとして、あなた自身が轢かれたのを忘れたのですか? 一瞬だったので、痛みはなかったと思いますが】
「言われてみればそんなこともあったような……。ほな、アククゥツは?」
【わたしがなぜ、アレキサンダーと愛馬の話をしたかわかりますか? 女戦士だったあなたもまた愛馬とともに戦い、ともに死んだのです】
「聞けば聞くほど、ほんまの話やと思えんわ」
【あなたは根っからの反逆者。神の裁きを否定し、掟をやぶることに情熱をもっている故に愚かな選択をしたのです。わが父ルシファーはあなたと異なり、だれよりも神を敬愛しています。掟と裁きがあるからこそ、自らの存在理由があると父は信じています】
わたしは腕組みをし、「同じことをくりかえすのは、どう考えてもいややな。だいち効率がよーない」
【そう思うんだったら、さっさとキーコードを思い出してくださいよ。わたしだって、あなたと付き合うことに辟易しているんですから】
「キーコード――数字か……何桁なんやろ。思いだせん。いったん、レベル1になったら、もとにもどらんのかもな」
ルーシーが吠える。
【あなた自身が天界の管理官と固く約束したのですよ。世紀末の日本にもどるために、過去世の記憶とともにキーコードを無意識下に隠蔽すると】
「アンタなぁ、無意識なんてないようなことゆーてへんかったか? そやし、爺サンはゆーてたで。アタシは反キリスト者やて。アンタとはきょうだいかも――秦野とは血のつながらんきょうだいやったてゆーし。そこら中に、きょうだいがいることになるな」
ルーシーはうなだれると、【キーコードを使って超宇宙を自由に行き来することは、神の領域を侵すことになります。全能の神の逆鱗にふれ、身の破滅を招きます……かならず】
「どうなるん?」
【おかあさまや秦野を救えば、わたしたちはともかく……アバターであるあなたは……塵となって消滅します】
「アバターってなんよ?」
【あなたはわたしたちの分身なのです。つくられたキャラクターと言えばいいのか……】
「ほな、アタシは、アンタやドラやアククゥツの分身なん? そのつくり話、ヘンやと思わへんか? 犬と猫と馬の分身やったら、嗅覚も聴覚も走力も人並み優れてるはずやないの」
【実は――あなたの魂は反逆者連合組合の総意によって創られたのです。あなたに自身がマボロシであることを思い出させることが、わたしに課せられた使命なのです。あなたにとって、わたしは友ではなく敵なのです!】
ルーシーは言ったとたん、わざとらしく牙をむいた。
「敵? それはない。だれといっしょにいるよりも、アンタといるほうが腹も立つけど落ち着くもん。もしもアタシがアダムやったら、アンタはイブや。爺サンが出会わせてくれた最強のコンビやと思うわ」
ルーシーが鼻水をすする。【シュメル語で、あばら骨のことをイブと言います。仮に、万が一にですよ、聖書の神が人々の創作者であるなら、いまこの瞬間もマボロシということになりませんか。正直に言うと、ときどき不安でたまらなくなるのです。何者かが、基板にチップを埋め込むようにわたしの前頭葉にまやかしの記憶を植えつけたのではないかと……】
「悩むやなんて、アンタに似合わん。やめとき老けたらえらいことや」
【キーコードなんて忘れたままでいいじゃないですか。思い出さないでください。悪あがきのくりかえし――無限のループでいいではありませんか。エンジェルカードは永遠に発行されませんが、神の掟を破った者にしては軽い裁きです】
「無限のループか……。永遠の待機中ゆーことやな。オタクのアタシにふさわしい気もするけど、なんかちがう。しっくりこん。どんな小さいことでもええから何かを変えたかった気がする。神サンの逆鱗に触れて塵になっても、ゼロからはじまったんやからゼロにもどるだけのことやし……」
帆船の周囲には漆黒の闇しかない。甲板をひたすら歩く。懐中時計とイスラエルの石をだれにも見つからない場所に捨てたいとずぅーっと前から思っていた。いやちがう。この2つで何をどうしたかったのか? 自分の母親かもしれない女性や秦野を救いたいと思ったのか? 塵になってもいいと決心するほどの思い入れが彼女らに対してあったのか? 首をふる。わたしは善人じゃない。働き者でもない。だったら、わたしは……。生きることに倦み疲れていた。どうにもならない閉塞感から解放されたかった。
見つからない答えを探して突き進もうとしたのではなかったか。しっかりしろ! 折れたマストに頭をなんども打ちつける。
【やめてください!】ルーシーは悲鳴を上げる。【あなたがアバターだなんて、嘘です! あなたは誕生したときから自分のことしか考えない愚か者です。それがあなたです】
「そうや! アホで自分勝手な自分自身を救いたかったんや。だれにも束縛されへん世界へ飛び出したかったんや」
すべてはおのれ1人のためだった。気づいたとたん、かつてよく耳にした懐かしい調べが頭の中でゆっくりと流れる。チュララチュララチュララ……
「モーツァルト……交響曲40番ケッヘル番号K.550。キーコードはM40K550」
ルーシーとドラは「ため息の動機」と呼ばれる短2度の音程に合わせて哀しげに鳴いた。すると焼け焦げてしまいそうな赤い炎が立ちのぼ上り、わたしを飲みこもうとした。
【わたしとの契約はともかく、あなたは本部総括管理官との契約を破ってしまったのです。ああ、なんとう悲劇でしょうかっ。グゥワン】
ゆらゆら揺れる炎の中に黒いかげろうが見えたと思ったら、じょじょに人の形になった。黒ずくめの秦野亜利寿だった。
「あっらぁ! キーコードがわかったのねぇ。イスラエルの石と時計があれば、神さまの創った3次元の世界をひっくり返すなんて朝飯前よぉ。でもぉ、それにはぁ、有能なお友達が必要だと思わなーい? たとえばぁ、ミタマみたいなぁ」
「赤い炎から生まれるのは地霊なんだよ。魔女じゃないつーの!」
「あららん、ファースト博士のつもりぃ? めんどうなミカエルの魂を欲しがる悪魔なんてぇ、魔界にはいないわよぉ。最新版の魔界ニュースを見るぅ?『神を脅かすお尋ね者』だってぇ。天界と魔界の両方のタグがぁ、付いてるんだものぉ。懸賞金はぁ、天界のビザなんだけどぉ、応募者はミタマひとりよぉ。あっ、忘れてたぁ、その犬が真っ先に手を上げたのぉ。あっちで知ったんだけど、犬はぁ、ミタマやドラが邪魔だったわけぇ。天界のおエライさんにぃゴマすってぇ、天国行きのビザを手にいれようとしたのよぉ」
「天界のビザがそんなに欲しいん?」とルーシーに訊く。
ルーシーは首が折れたようにうなだれる。
秦野はうふふふと笑い、「煙草を1本、ちょうだい」
セーラムを箱ごと渡すと、火を点けろと言う。言うとおりにすると、「結局、みんなさみしいのよね」
秦野はそう言って一服し、煙をわたしの顔に吹きかけた。
「ミカエルと犬がぁ、ふたりぼっちで退屈してると思ったからぁ、凝った演出で出てきてあげたのにぃ、魔女っぽいドレスじゃなくってぇ、マタニティドレスのほうがぁ、よかったかしらん」
言われてみれば、秦野のおなかがややふくらんでいる。
「デイオケスの子か?」と訊く。
「うふふふん。3タク問題よ。1番、デイオケス。2番、シャムライ。3番、神官長」
「1番」
「外れーっ」
「だったら、3番、まさかなぁ」
ルーシーとドラはわたしたちのやりとりにじっと耳を傾けている。それに気づいた秦野は、「ルーシーとドラとアククゥツとはぁ、反キリスト者に味方をしたからぁ、終わりの日にぃ、火と煙と硫黄とでぇ、蒸し焼きに運命なのよぉ。魔女の宴に出されるハムになるみた~い」
「わたしはどうなるんだよ」
「聖書の預言ではぁ、ミカエルは龍の扮装をした悪魔と戦うことになってたんだけど、キーコードを思い出しちゃったからぁ、神さまが怒って計画を変更しちゃったのぉ」
「バーベキューのお仕置きじゃないんだったら、どうなるんだよ?」
「ミカエルはぁ、天使長でありながら、神のみ名を汚したついでに天に住む者たちの名も汚したことになるのぉ。もうさ、だあーれも救いようがないのぉ。だからぁ、あんたたちを助けに来てあげたんじゃないのぉ。ありがたく思ってよね。残された道はぁ、次元から次元へとわたり歩くしかないわけぇ。流れ者みたいなもんよ。でもぉ、ゴールドのサタンカードを持っているミタマがいっしょにいればぁ、どこへ行ってもぉ、王侯貴族の暮らしがぁ、できちゃうのよねぇ。腕のいい、用心棒を雇うようなもんだからさぁ」
ドラは秦野の足元にスリスリし、変わり身の早いルーシーは、【魔界の女王にしてわが主人、ミタマ閣下】と言うやいなや後ろ足で立ち上がり、前足を胸の前で合わせた。
【わが父ルシファーの後継者であられる閣下がこの先、ごいっしょしてくださるなら、魔界こそこの世の天国。閣下とともにタイムトラベルできるとはなんという喜びでございましょう。感激のあまり胸の鼓動がとまりません。このような栄誉に価する身ではございませんが粉骨砕身、閣下に忠誠をお誓いいたします】
「んで、どうなるわけ?」話が見えない。
「ミタマはぁ、なんやかやあってもぉ、男の子を産んで1260日のあいだ、神さまに養ってもらえることになってるのぉ。ヨハネの黙示禄の第12章を読んでよぉ。言ったでしょ。新約聖書はなんども読まされたんだからぁ、知ってるのよぉ」
「へぇ、魔女でも妊娠してると優遇措置があるんだ」
「でもぉ、子どもはうざいから、ミカエルたちと付き合ってあげることにしたのぉ」
秦野はそう言うと、お腹のあたりに入れていたパットを取り出し、これ見よがしに捨てた。
「これって、暑いのよぉ」
「神サンを騙す気だったのか?」
「ミカエルに同情したのぉ。いずれは地獄へ転送されるんだものぉ。かわいそう……」
秦野は泣いて見せる。
「なんか、おかしくね? アンタのほうが火と硫黄に焼かれて当然なこと言ったり、してるのにさ」
「どうしてぇ? ミカエルは恩人のアリオクを殺しちゃったのよぉ」
「肩を射ただけだよ」
怪我がもとで、アリオクはやまいに伏し、ほどなく死んだのだそうだ。
「それにぃ、ミタマは地獄に2人といない美しき魔女よぉ。魔界のゼネラルマネージャーがぁ、永遠にあたしを生かしたいと思ってぇ、当然でしょ?」
「あんたは、大祭司を殺したじゃん」
「あれはぁ、あのおじいさんがぁ、死にたがってたからぁ、ラクぅに逝かせてあげたのぉ。天国からぁ、お礼のお手紙、もらっちゃったのよぉ。おかげで大往生できたってぇ」
「ウソばっかつくんじゃねぇよ!」
秦野は、わたしの額の青あざを人差し指でツンツン突つきながら、「ミカエルはぁ、ミタマとぉ、お友達になりたがってたんだからぁ、これでいいんじゃないの? ね、ね、ねぇ。あたしがぁ、お芝居で死ぬ真似したらぁ、だれよりも、あたしが好きだって、コクったじゃん」
「脳天を一発、殴らせたら友達になってやってもいい。そっちは忘れたつもりでいるかもしれないけれど、地震の前日に頭のてっぺんを殴ったよな。あれが災難のはじまりだったんだ。こっちは呪われた気がしてんだよ」
「復讐だぁーいすきぃ。呪いもたまらん」
こぶしで秦野の脳天をぶん殴ろうとして体をかわされ、反動でひっくり返った。ワンワンニャアニャアとルーシーとドラは笑い転げた。腹立ちまぎれにもう一度、キーコードを口にした。
「M40K550」
こんどは白い湯気が目の前をおおった。
硫黄の臭いがする。
全員、地獄の釜で薫製になるのか?
それとも新たなゲームのはじまりなのか?
完
参考文献
旧約聖書1955年改訳 日本聖書教会
新約聖書1954年改訳 日本聖書教会
ナショナルジオグラフィク別冊『古代史マップ』
フラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ古代誌』第3巻ちくま学芸文庫
五島勉著『ユダヤ深層心理予言』祥伝社
ポール・ガレリ著『アッシリア学』白水社
南原順著『陰陽師安倍清明・99の秘話』二見文庫
高橋良典著『日本とユダヤ謎の三千年史』自由国民社
臼杵陽著『中東の歴史』作品社
H・クレンゲル著『古代シリアの歴史と文化』六興出版
監修三笠宮宗仁殿下『古代メソポタミアの神々』集英社
マックス・ヴェーバー著『古代ユダヤ教』上中下巻岩波文庫
『聖書ガイドブック』いのちのことば社
M・モリソン&S・F・ブラウン著『ユダヤ教』青土社
ヘルムート・ウーリッヒ著『シュメール文明』佑学社
飯島紀編集『日本語・セム語族比較辞典』国語学社
デニス・ベイリー著『聖書の歴史地理』創元社
小林登志子著『古代メソポタミア全史』中公文庫
小林登志子著『古代オリエントの神々』中公文庫
小林登志子著『文明の誕生』中公文庫
小林登志子著『五〇〇〇年前の日常』新潮選書
マイケル・ベイジェンド著『古代メソポタミア占星術』太玄社
岩田明著『日本超古代文明とシュメール伝説の謎』日本文芸社
高橋英彦著『イラク歴史紀行』日本文芸社
岩村忍著『文明の十字路・中央アジアの歴史』講談社学術文庫
ウィリアム・W・ハロー著『起源(古代オリエント文明)』
レオンハルト・ロスト著『旧約外典偽典概説』教文館
関根正雄〈編〉『旧約聖書外典下巻』
監修市川裕著『ユダヤ人の2000年』(株)同朋社
牟田口義郎著『物語・中東の歴史』中公文庫
関裕二著『天孫降臨の謎』PHP文庫
関裕二著『神武東征とヤマト建国』
カール・ケレーニイ著『ギリシア神話・神々の時代』中公文庫
別冊環『オリエントとは何か』藤原書店
久保有政&ケン・ジョセフ著『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』徳間書店 寺尾善雄著『宦官物語』河出文庫
伊藤義教訳『アヴェスター』ちくま学芸文庫
2009年1月ムー別冊付録『日本ユダヤ同祖論』学研パブリッシング
秋月奈央著『ストーパワーの秘密』廣済堂
長谷川三千子著『バベルの謎』中央公論社
大村次郷著『遺蹟が語るアジア』中公親書
エホバの証人の会発行書籍『エレミヤ』『イザヤの預言』『ダニエルの預言』『洞察上下巻』及び、『この良い地を見なさい』『神の言葉のガイド』の地図
2014年版『世界地図』成美堂書店
1996年版『新世界史地図説』浜島書店