見出し画像

異聞エズラ記 Ⅵ

あらすじ
ジャミールに毒を盛られたサライは一時的に視力を失う。二人は、エズラの弟子のザドクに助けられ、彼の母親アシェラの屋敷に住まうことに。戻らない視力を案じたジャミールはアシェラに武術を教える者を依頼する。サライのもとにやってきた老人は剣術にとどまらず戦術も教える。そして、自分たちは滅んだシュメル人の末裔であり、サライはティアマトと呼ばれた王女の子孫だという。同じ頃、ナーマンは巡礼の衣をまとい聖都を徘徊し、カシムやジャミールと再会する。ジャミールに近づいても相手にされない。しかし、ジャミールに危害を加えそうなカリールとふたたび巡り会い、殺害する。一方、サライは老師の衰えに不安を抱く。

登場人物
サライ・・・・異形の少年。シュメル王家の末裔。
シンドゥ・・・サライに出自を告げ、武術を教える。
ジャミール・・ペルシアの密偵。人身売買にも手を染めている。
カシム・・・・ジャミールの仲間。
ザドク・・・・エズラの弟子。
アシェラ・・・ザドクの母親。交易によって財をなしている。
ミシア・・・・ザドクの屋敷の召使。
ナーマン・・・ジャミールを慕うあまり、かつて母親を死に追いやり、自分を売った男カリールを殺す。


  第八章 神の申し子=メス・ハッダ       


 雨音に目覚め、暗闇に手をのばす。小さな手が握り返してくる。自分のそばに、誰かいる。人型のものが薄ぼんやりと見える。その手を振りはらう。

「ミシアと申します」夢と現実の狭間で耳にした声だ!

 眠り続けている間、この声の世話になったようだが、澄んだ声と良い香りの他に記憶はなかった。

 何日こうしているかもわからない。

 男の声がした。「何事も本人の意志による」
「視力はもとに――?」ザドクの声だ。
 ギリシア人だと言う医師に言わせると、
「慣れれば生活に不自由はないが、しばらくは人の手を借りなければならない。この家には、召使が大勢いるから世話人には事欠かないようだな」

 日毎に寒さが厳しくなり、雨が板戸を打つ音が耳にしみいった。
 サライの視力は元どおりに回復しなかった。

 ガザにたどり着いたとき、ラビ・エズラをひと目みたいと熱望し、その願いはかなったが、異国の民の子を神の子は拒んだ。理不尽だと思った。しかし、いまとなっては、視力に不具合が生じ、まっすぐに歩くことさえかなわないばかりか、読み書きが充分でない自分が、エズラに何を問えるというのだろう。

「かならず良くなります」ミシアと名乗る少女はそのひと言を繰り返した。
「おまえの顔も見えやしない」
「わたしは幼い頃に、奴隷商人に買われたそうです……。数ヶ月前に、ダマスコから、このお屋敷に連れて来られました。自分がどこのだれかもわかりません。ほんとうの名前も知りません。覚えているのは、青く澄んだ海の色だけです」
「おいらと変わらないな」
 サライは囚われの身にひとしい状況に絶望していた。ミシアに汚れ物を取り替えてもらうこともだが、手を引かれて便所に通うこともつらかった。
 毎日のように見舞ってくれるザドクは、この家に居続けていいと言ってくれるが、なるべく早く立ち去りたいと思った。そのことをジャミールに告げたいと思うが、彼女の声を耳にすることはなかった。
「奥様からたくさんのことを、教わりました」
「なんでもいいから物語を聞かせてくれるか」
「わたしは読み書きができません」
「わるいことを言ったな」

 数日後、ジャミールが、サライの寝泊りしている部屋へやってきた。彼女だと識別できる程度には見えるようになっていた。

「雨期はしかたないんだけれど、毎日、うっとおしいね」
 肩の下まであった髪が短くなっている。ユダヤ人が身につける筒状の衣をまとい、額帯をし、肩掛けをたらしたジャミールからは別人の気配を感じた。
「おいらのことは気にかけないでいいよ」
「このまま放り出すなんて、あんたに死ねというのに等しいもの」
「おいらは死なない」
 この家ではと、小さく言った。
「奴隷市で尋ね歩いたけれど、ナーマンの行方は何もわからなかったわ」
 サライは返事をしなかった。
「どうでもいいって顔つきだね」ジャミールは言ったあと、部屋の隅にうずくまっているミシアに気づいたようだ。「あんたは――髪を切るのを手伝ってくれた召使よね?」

 ジャミールの詮索する口調に、サライの心は苛立った。おまえのせいで、薄暗い部屋から一歩も外へ出ることができなくなった、どうしてくれると罵倒したかった。

「おいらは、旅に出なければ……」
「あたしを姉さんだと思えばいいじゃん」
 サライは首を横にふった。
「やさしく面倒みてくれる子はもういるもんね」とジャミールはうそぶき、「あんた、どこから来たの? 青い瞳をしているわね。白人奴隷なの?」
「よくわかりませんが、たぶんそうだと思います」ミシアは答えている。
「髪は金色だし……ここにいれば、いずれ、どうなるか知ってるわよね?」
「わかっているつもりです」
「ミシアをいじめるな!」サライは怒鳴った。
「あんたは、誰のおかげで助かったと思ってんのよ?」
「……」
「両目が見えていても、たいした腕じゃないのに、そんな目で追剥ぎどもに勝てんの!?」
 できっこないと、ジャミールは吐きすてた。

 テベテの月(十月頃)を迎える頃には、寒さは一層、きびしくなり雨は相変わらず降りつづいた。山地で暮らしていた頃、雨期には、土間で石臼で大麦をひき、屋根のある囲いの中の山羊の世話をしていた。巻き物を盗み見る愉しみがあったせいか、苦にならなかった。
 何もせずに横たわる日々がこれほどの苦痛と焦燥をもたらすと考えなかった。

 薄ぼんやりと見えていたものが、次第に輪郭が見えはじめた頃だった。ミシアは唐突に言った。

「お医者さまから、お許しがでました」

 板戸の窓を、支え棒で押し開けたようだ。やわらかい日差しが、室内に満ちた。しっくいで固めた石の壁が、浮き上がって見えた。
 毛皮を肩に着せかけられ、ミシアに付き添われて庭へ出た。
「アーモンドの花が咲いています」
 ミシアの手の先に、ぼんやりと薄紅色が見えた。
「白いものが降ってきました!」
「雪を知らないのか……」
 雨期の終わりに降るとサライは話した。
「はじめて見ました」
 この屋敷にくるまでのことはよく覚えていないとミシアは言った。

 入り口に近い部屋に戻り、枝編み細工の椅子をはじめて目にした。

「借りてきました。腰かけてください」
 背中を後ろに預ける。
「これはいい!」
「ご自分で、歩けるようになられたら、わたしの役目は、おしまいになります」
 ミシアの顔かたちが見える。美しいと思った。
「よかったな」サライは言った。
「どうしてですか!」

 旅支度をしていると、ザドクの母だという、アシェラが部屋に入ってきた。

「ミシアが心配するので来てみたのよ。何をしてるの?」
「旅に出ようと思います」
「雨期は終わっていないのよ。雪や雷だってこれから――」

 サライはミシアの作ってくれた額帯で、灰白色の長い髪を頭のうしろで結んでいる最中だった。この家に運ばれた時に着ていた衣類に着替えていた。
 物乞いにしか見えない出で立ちだったが、サライは一刻も早く、この家から立ち去りたかった。

「路銀はあるのですか?」
 サライは答えなかった。
「命があることすら不思議なくらいなのよ。いくあてもなしに、出て行ってどうにかなると思うほど幼くはないでしょ? 神の思召しだと思って、この屋敷に滞在なさい。いいわね」
「ジャミールの足手まといになりたくない」
「つまらない意地を張るより、剣(つるぎ)の使い方でも習いなさい。いまのままでは、襲われても逃げられないでしょ?」

 アシェラの言う通り、いまのサライには敵対する者に対抗する術が何一つない。

「いい先生がいるわ。信頼の置ける人よ。明日から習うといいわ。費用はジャミールが支払うことになっているので彼女に感謝しなさい」
「それなら――ここで働きます」
「数は読めるの?」
 サライがうなずくと、
「近日中に帰ってくると思うけれど――キャラバンが運んでくる積み荷の点検をしてもらうわ。重要な仕事だから手抜かりなくやってちょうだいね。もしできなかったら、そのときは思うようになさい。ただし、ジャミールには何も言わずに出て行ってね」
「わたしが、サライ様の目になります!」ミシアが口をはさんだ。
「少しの間だけよ。あなたには、別の仕事があるのよ」
 アシェラの不機嫌な口ぶりに、サライは戸惑いながらも、彼女が当家の主人である事実を改めて思い知った。

 明け方、天を切り裂くような雷鳴が鳴り響いた。

「なんと、贅沢なことだ。行き倒れの子供に、キャラバンの隊長が寝泊りする部屋に泊まらせ、剣を習わせるとは――」

 部屋を訪れた剣術の教師は小柄で痩せた老人だった。雨に濡れたのだろう、前を合わせる奇妙な衣が痩身の小さなからだに張りつき、磨きぬかれた杖をついていた。
 ひと目見て落胆した。
 少年のサライと同じ背丈しかない老人は兵士のように殺気立ってもいず、ラビ・エズラのように聡明にも見えない。仰々しい気質にも見受けられない。あご髭もなく、凹凸のほとんどない丸い顔と細い目は穏やかだが、見ようによっては愚鈍にさえ感じられる。

「わしの名は、シンドゥじゃ」
 海を意味すると言ったきり、老人は口を閉ざした。

 サライは椅子を老人に差し出し、手持ち無沙汰を装って余所見をしていた。

「お前はなぜ、自ら名乗らない? いつもそうやって相手の出方を観察してからしか、己れの取るべき態度を決められないのか? もしそれがお前の生まれながらの気質なら戦士にはなれない。羊飼いになるか、田畑を耕すほうが性に合ってる」

 急いで自分の名を言った。

 老人はサライに視線を当てていたが、長い沈黙のあと口をひらいた。
「東に向かうと、天にとどく高い山がある。お前の先祖はそこの出かもしれんな。銀や黄金や瑠璃がいくらでもあったそうだ」
 そのとき、はじめて老人が自分と同じ色の瞳をしていることに気づいた。暗がりのはざまに光が当たったように見える。藍色と紫が混じりあった色だった。
「サライという名は、仮の名だろう。お前の本当の名は、海の神ティアマトに由来しておると思う。わしたちの国では、海の男たちのことをアマトと言う」
「兄さんがくれた青い石、瑠璃を、なくしてしまったけれど……」消え入るような声で言った。
「気に病むな」
 時が至れば、おのずと手にもどると、老人は力のこもった声で言った。
 何もかも話していいのだという安心感が胸中にひろがった。

「おいらを育ててくれた男は、ほんとうの父さんじゃなかった。生き埋めにされたんだ」
「父親はなんとう名だ?」
「なんだったのだろう。呼んだことがない。たしか、イサだった」
「お前の母親は?」
「名前も顔も知らない……魔女だったそうだ」
 老人はなんの特徴もない平板な顔をしかめ、考え込んでいるふうだった。
「高い山は、どこにあるの? そこに行けば、おいらのことも何かわかるかもしれない」サライは独りごちた。

 老人は微笑んだ。

「わしらの祖先ははるか昔――数えられない時よりもっと以前に、天空の都から地界に下りてきた。そののち大洪水に遭遇し、二つの川の間(メソポタミアの意)を南にくだり、ニップルをはじめ、ウルクや各地に都を建て高い文明を誇った。しかし、わが祖先は、神殿は建てても城壁をもたなかった。遊牧民から都を守護するには神殿ではなく、城壁しかないとわかっていながら、人と人を隔てる城壁を嫌ったのだ」

 老人の口から、ウルクの名を聞き、サライは飛びはねた。
「ウルクを知っているんだ! ウルクには、ギルガメッシュ王が城壁を建てたんだよね!?」
 老人はふむと微苦笑し、
「城壁は築きはしたが、ラクダと羊をつれた遊牧民を先祖にもつ北方のセム人に侵略され、その支配下に置かれた。そして、われわれの文明は滅びた。痕跡は残ったが、夢は失われ、住んでいた者も散り散りになってしまった」
「文明って何?」
「さぁて、なんと言って話せばわかるか。まずは、目に見えるもの――農地、住居、子どもの学ぶところ、神殿、食糧や衣服を売る店などだ。そして、目に見えないもの――言語、宗教、しきたりなどだ。この二つがある場所を文明というのだ」

 老人はようやく椅子に腰かけ、杖に両手を重ね、顎をのせた。
「シュメル人はもはや、己れが何者だったのかもわからなくなった」
「シュメル人?」
「シュメルという名そのものが、耕された土地を意味する。あるいは文明の地と訳してもいい。そこでは、人々が安寧に暮らすために計算や読み書きができる者を一人でも多く育てることをまつりごとの第一においていた」
「おいら、計算はできるよ! 山羊の数え方を、殴られながら教わったんだ。足したり、引いたりできるんだ」

 老人は、ゆっくりと目を閉じた。

「算術や読み書きのできないセム人との戦いに敗れたということは、高度な文明など武力の前ではさほど役立つものではないのかもしれんな。文明とは、月の満ち欠けのように繁栄と衰退を繰り返すものなのだ」
「おいらが住んでいたユダヤ人の村は山の中腹にあったから、ベドウィンに襲われなかったよ。シュメルの人は襲われたんだね。ユダヤ人は国がなくなっても、いろんなところに住んでいるのに、どうしてシュメル人はいなくなったの?」

 老人は目を開けた。

「シュメル人は天界の都から地界にくだる以前から、自分たちこそが神々に選ばれた民だと思っていた。天界の動きを計測して得た知識で大洪水の起きることも、あらかじめ知っていた。ギルガメッシュの物語にあるように神のお告げで知ったのではない」
「ギルガメッシュは、ラビ・エズラと同じ神の子ではないの?」
「われわれの祖先は乾燥した土地に移動し、灌漑によって食糧に困らない地に改良した。ウルクもその一つだ。そこでは五万人もの住民が豊かに暮らしていた。大理石で建てられた寺院や、赤煉瓦で建てられた赤色神殿もあり、病を癒すための建物や子どもが学ぶ建物もあった」
 老人は遠い目になり、
「むろん、人々も、石造りの家に住んでいた。道は敷石で整えられ、陶製の水道管がどの家にもひかれていた。しかし、いつしか、われわれの豊かな暮らしにひかれてやってきた飢えた者たちに農作業をまかせるようになった。その頃は、奴隷だという感覚もなかっただろう」

 老人はため息をもらした。

「文明を教えてやっているという奢りがあったことは否めない。シュメル人は次第に、わが子にはまつりごとや学問にかかわる仕事につかせたいと考えるようになった。これには金がかかる。そのせいで、人々は多くの子供をもとうとしなくなった。子供が産まれぬようにする薬を服むだけでなく、孕んだ子を腹から堕ろすことも神殿においてさかん行なわれた。誰もが心のどこかでやめなければと思っていたようだが、現実にはやめようとしなかった」
 サライは、目に映る老人の顔を凝視した。
「われわれの悪弊を、神の名において禁じた最初の民が、ユダヤ人だと言えるだろう。われわれの先祖の残した粘土板の物語を、もっともよく引き継いだ者たちも彼らだった。占領民となっても、いつの日にかかならず、神の許しを得て自らの国を建て直せると彼らは固く信じている」
「じゃあ、シュメル人も、自分たちの神を信じればもう一度、国を建てられるの?」
 老人は苦笑した。
「ユダヤ人は割礼をうけ、幼い頃より、会堂で読み書きを習い、先祖の書き残した書物を暗唱できるほどに学ぶ。そうやって、ユダヤ人であることを片時も忘れないように努めている」

 サライの脳裏には、ラビ・エズラの端正な顔がよぎった。

「領土や黄金など問題ではないのだ。われわれの先祖はすぐれた文明を持ちながら、ユダヤ人のように信ずる神に従えば、死を免れることさえ可能だとけっして思わなかった。死を免れなかったギルガメッシュの物語がそれをよく現わしている」

 老人の語る言葉がまったくといっていいほど理解できなかったが、ギルガメッシュもエンキドゥも死を免れなかったことだけは知っていた。カライのおかげだった。そのカライを自分は殺めた。キャラバンのシェリフも――。

「大洪水ののちに、シュメル人は超越的な存在を疑うようになったのかもしれない。神の力を借りずに、自らの知恵で死さえも克服しようとした」

 シュメル人は、天文学・数学・土木建築・造船技術・航海術・医術などあらゆる学問の場に神の教えを持ち込まなかったと老人は言った。

「なぜ?」
「お前はどうして、黙って聞けないのだ。シュメルの人々は、神の教えや政治的な覇権より外国との交易がもっとも重要だと考えていた。お前の所持していた瑠璃もだが、バクトリア(アフガニスタン)の産するラピスラズリを加工したものはシュメルの特産品だった」
 円筒印章もよく売れたそうだと、シンドゥは自嘲気味に言った。
「エジプトのファラオも使用したほどだ」

 覇権とは何か? 交易とは何か? と質問したかったが、サライは我慢した。

「しかし、時の経つうちに、シュメル人の建てた国は分裂していった。その結果、各都市の王は、愚かにもそれぞれの都の守護神によって守られていると信じるようになったのだ」
 老人の目に憤怒の色が見えた。
「貧しき者の中には時として、恐るべき権力欲に取り憑かれる者がいる。そうした男たちの手にかかると、分裂した都市の防備などあってなきに等しい。シャルケスとルガル・ザクギシという二人の男たちによってシュメルは滅びたのだ」

 滅びる? 人がいなくなることなのか?

「ウンマに生まれたルガル・ザクギシの父親はセム系の名を持っていたが、神殿の祭司となったほどだから才覚があったのだろう。ザクギシは父親の後を引き継いだが、彼の野心は祭司職では満足しなかった。ウンマの王位纂奪者となり、隣接するラガシュの都に進攻し、破壊の限りをつくした。名君と謳われたラガシュのウルカギナ王は殺戮からまぬがれが、ウンマを守護する女神に呪いの言葉を投げかけたと伝えられている」

 サライは話を聞くうちに、ウルカギナ王が目の前にいるような錯覚を覚えた。

「『ルガル・ザクギシの行なった犯罪は女神自らが負えばいい』と王は言った。このとき、ウルカギナ王は、大洪水によって天空の都を追われたシュメル人と同じ思いを抱いたのだろう。都市を守護すると謳われた女神への信仰はなんだったのかと、な」
「それで、どうなったの?」サライは黙りこむ老人を急かした。
「ルガル・ザクギシの支配体制は冷厳をきわめ、シュメル全土に張り巡らされた秘密諜報組織は巧妙そのものだった。ペルシア人にその制度は受け継がれている。シュメル人の男たちはいくさを怖れ、唯々諾々とルガル・ザクギシに従った。理性を度外視して、戦いに挑む気概に欠けていたのだろう」
 年寄の繰り言だと老人はつぶやく。
「一方のセム人を父にもつシャルケスは自らはウンマの神殿に仕える巫女の子だと広言し、北方のキシュの都を謀略によって乗っ取った。この頃、ザクギシは周囲を堅固な城壁で護られていたウルクに居を定めておった。しかし、権力を手にしたザクギシは恐れていたのだ」
「何を?」

 サライは高まる気持ちを抑えられなかった。どうして頭の中まで熱くなるのか、わからない。

「キシュやマリなどの住民の中には、父や祖父はまだテントに住んでいる者たちが多くいた。彼ら遊牧民はけっしてじっとしていない。常に都市に攻撃しかける。危惧した通り、キシュの王となったシャルケスは五千の精鋭部隊を率い、南方の都市に進軍を開始した」
 老人は眉間にしわを寄せ、咳払いをし、
「かくして三四回にわたる会戦ののちに、ルガル・ザクギシは大敗北を喫し、千年の都と称されたウルクはセム人に制圧されたのだ」
「三四回も戦ったんだね」
 サライの声は上擦った。
「狡知に長けたザクギシであったが、戦術には疎かったようだ。兵力において勝っても、攻撃用兵器と言えばロバの引く戦車があるのみだった。一方のシャルケス軍は荒野での戦闘に慣れていた。敵の全面を馬で駈け抜けながら弓矢や槍で攻撃を仕掛けたのだ」
「馬って、あの美しい生き物のことでしょ?」
「馬上で、弓を射るには鍛練がいる」

 老人は平板な顔が陰った。

「シャルケスは軍事において天賦の才に恵まれていた。馬を使って正面から攻撃したかと思うと、即座に退却し、側面から攻撃するという撹乱戦法をとったのだ。このシャルケス軍に対して、機動性に欠けたザクギシ軍はなす術がなかった。戦いに敗れ、囚われたルガル・ザクギシは、キシュとウルクの中程に位置するニップルの都へ連行された。その地のエンリル神殿において、勝者のシャルケサスは敗軍の将であるザクギシを裸にし、檻に入れ、人々の前に曝したのちに処刑した。シュメル人はそのとき、平和を好み公正を愛したウルカギナ王の呪いの言葉を思い起したにちがいない。そして、夢の終わりを感じただろう」
「夢の終わり……?」
「キシュのさらに北、ティグリス川流域のアッカドの地に、新たに都を建てたシャルケサスはメソポタミア一帯を支配下におき、自らを神と称し、サルゴン大王と名乗るようになったのだ。しかし、サルゴンも死は免れなかった」

 老人はひと息つくと、今度は、お前の話をしようと言った。

「いまでは知る人々も少なくなった。のちの世ではどんなふうに語られるのだろう。おそらく夢物語とされるのだろうな。滅びた民族の物語は、王女とともに失われる」
「王女?」
「天の神は海の神の娘を身ごもらせた。男の子が生まれた」
「王女の話じゃないの?」
 老人はサライに黙るように言った。
「ウルカギナ王を父に、ウルクの南に位置するウルの白色神殿の巫女を母としてこの世に生をうけた王女は海の神にちなんでティアマトと名づけられた。海の女神と讃えられた王女はサルゴン王に求婚されたが、部下とともに海に逃れ、都を奪還しようとサルゴン王に戦いを挑んだのだ。まだ成人に達していなかったが、王女は男たちの先頭に立ち、ギルガメッシュのようにけっして叶わぬ相手――死と闘ったのだ」
「死――サルゴン王との戦いでしょ?」
 老人は大きく首を横にし、
「いや、死だ。神の名のもとに戦わないシュメル人が滅びることはすでに定まっていた。シュメル人の王女は、海人(アマト)となり、セム人の王に奪われた都を攻め続けたのだ。無益ないくさだと、王女自身がもっともよくわかっていただろう」
「死ぬ覚悟で戦ったってこと?」
「どの部族の男も、いくさ場では死を賭して戦う。海の神の名を与えられた王女は女ながら滅びゆくシュメルの文明を食い止めようとしたのだ。それは死の恐怖との闘いだったろう」
「……でも、だめだったんだね」
「もう少しで都を取り戻すところまで勝ち進んだのだが、味方であるはずのシュメル人に裏切られた」
「どうして!」
「多くのシュメル人は、神々の寵児だと称するサルゴン王が遊牧民の末裔であっても、日々の暮らしに差し支えがなければそれでいいと思っていたからだ。今も権力を手にする力ある者とユダヤ人の大半の者は、そう考えている。己れの資産と身の安全さえ約束されれば、敵も味方もないと――」
「味方に裏切られたのに、どうして王女は戦ったの、わからないよ」
「民族が生き続けるには、困難に立ち向かう勇猛果敢さが指導者には求められる。それなくして国は護れぬ」
 陽が翳ることも忘れたサライは首をかしげながら、
「でもティアマトは女の子だったんでしょ?」
 ミシアが灯したランプを手に入ってきた。老人は、すぐに下がるように言った。
「サルゴン王は、戦いつづける王女のせいで、反乱に加担する男たちが増えることを恐れるあまり、城に囚われているウルカギナ王が助けを求めていると神殿の巫女に偽らせたのだ。王女は、母である巫女のかざす灯りをめざしてたった一人で城壁を登って行った」
「どうなったの!?」
「待っていたのは、ウルカギナ王ではなく変装したサルゴン王だった。サルゴン王の放った二本の矢が王女の腹に穴を開け、内蔵を切り裂き、心臓を刺し貫いたのだ」

「ああッ!」サライは悲鳴を上げた。「どうして、どうして……」

「巫女はわが子より自らの命を惜しんだのだ。サルゴン王は巫女の目の前で、王女の頭の骨を打ち砕き、死体を半分に切り裂き、干し魚のように城壁に吊るした。嘆き悲しむ王女の部下たちは捕らえられ、武器を壊され、斬り刻まれた。武勇に勝れた者は拳闘士にしてやろうと言われたが、服従より死を選んだのだ」
「みんな、死んでしまったんだね」
「王女の死を知ったウルカギナ王は死を選び、巫女はサルゴン王の側女となることで生き延びた」
「なんてひどい母親なんだ」
「巫女はウルカギナ王の子を身篭もっておったのだ。神々の託宣で、ウルカギナ王の後継者となる男子がこの世に生を受けるには、王女の犠牲が求められたということだった」
 しかし、生まれたのは女の子だったという。もし男の子なら命はなかった。
「おいらは、その女の子と関係があるの?」
「そうだ」
 老人は微笑し、
「何代もかかって、お前へと命が引き継がれたのだ」

 その子の子も、また女の子だったという。サライに不安がよぎる。だから、自分のからだは、まともじゃないのかもしれない。

「代々、神官であったわしの祖先はウルカギナ王の死後、思い知ったのだ。自分たちの信じていた七つの神――天の神アン、地の神キ、嵐の神エンリル、月の神シン、太陽の神シャマシュ、暁の明星の神イナンナ、海の神のティアマトが、アッカド人のマルドゥク神に取って代られるということがどういう事態を生むのかを――精神的の支えとなる存在を失えば、その部族はかならず滅びる。アッカド人はシュメル語で海の神を意味するティアマトを、アッカド語では海とした。ただの海だ」
「海では、いけないの?」
「シュメルの古文書によれば、天界の戦闘において、地表が水に覆われたティアマトは魔風をおくるマルドゥクとの戦いに敗れ、二つに裂かれたと記されている。アッカド人のもとで書記官となって、シュメル人は、文書を記すとき、そのように記述するしかなかった」
「本当のことを書けばよかったのに……」
「われわれには逃げ場がなかった。二つに裂かれたティアマトの残骸の一つに住みつくしかなかった。人々はふたたび都を建てたが、またもやマルドゥクに滅ぼされた。シュメルの神々は、神をないがしろにしたシュメル人に、王と王女の血を受け継ぐ神の子である、メス・ハッダをそう易々と授けてはくださらなかった。人間は過ぎてしまわなければ物事の真実を見極められない生きものなのだ」
「真実?」
 サライは聞き返した。
「アッカド人の支配もそう長く続かなかった。彼らもシュメル人のように繁栄を謳歌するようになると戦闘に倦み、周辺の敵と和平を結べると安易に考えるようになったのだ。飢えた敵を説得することはできない」
「飢えた敵?」
「自らの過去の行いを敵が繰り返すと考えないのが、愚かな人間の宿命なのだ。アッカド人の建てた国も遊牧民に侵略され、弱体化し、内乱が絶えなくなっていった。そうなってようやくシュメル人の若者は、かつてティアマトの化身と称された王女とその部下たちのようにアラビアの海に逃れ、自由を得た。しかし、彼らには命を賭けても惜しくない到達すべきものが何もなかった」
 わしの祖先もその一人だったとシンドゥは嗤った。

 翌日、サライが寝起きする部屋に、椅子がもう一つと、四角いテーブルと、黒い石の板と、混濁した白い小さな石が運ばれた。
 シンドゥが要望したらしい。
「これは何?」とシンドゥに訊いた。
「玄武岩でてきた石板と、蝋石だ」
「何に使うの?」

 すぐにわかるとシンドゥは言った。

「さてと、昨日はどこまで話したかな」
「命を賭けて闘うべきものがなかったところまでだよ」
「そうだったな。つづきを話そう。シュメル人を祖先にもつ彼らのうちのある者は船を操り、地の果てに向かって旅立って行った。別の者は他の部族と徒党をくみ、港を根城にし、数々の町を襲い、掠奪を働くようになった。目的のない者たちは大陸に定住しようと考えなかったようだ。国を建てる意味を見い出せなかったのだろう。イサという男もそんな祖先をもった一人だったのもしれんな」
 お前と出会うまでは――とシンドゥは言った。
「あいつは、ひどい男だった。数えることの他に、何も教えてくれなかった。おいらを殺そうとしたんだ」

 シンドゥはサライの言葉に耳を貸さなかった。

「他の多くの者はアッカド人の最後の王ナラム・シンとその一族が滅んだのちはバビロニア人に同化し、乾いた葉が朽ちるごとくに己れがシュメル人の子孫であったことすら忘れ去った。神官の家系に生まれ、白色神殿のあるウルで育ったわしと妹の二人は、竪琴をつまびき、ゲーム盤に興じてばかりいた。神官の父からシュメル人の物語をいやというほど聞かされたが、ただの繰り言だと思っていた」
 サライは竪琴を失くしたことが悔やまれた。
「『いつかかならずティアマトの子――メス・バッダ――神の申し子が現われ、天と地をつなぐ都を建てる』と、父は堅く信じていた。想像もつかないが、シュメル人が天界の都で暮らしていた頃、天界の都とこの地界を自由に行き来できる船があったそうだ。お前がその船を操り、地界の王となるのだ」
 シンドゥの話は、少年の頭を混乱させるばかりだった。
「その船は、鳥のように空を飛ぶの?」

 ガザで船を見たが、飛ぶとは思えない。

「天の船は、時空を越えて翔ることも可能だったと言い伝えられている」
「時空って何?」
 シンドゥは顎をあげ、ふむとうなずき、
「地上には、時がある。太陽が昇り、沈み、ふたたび太陽が顔を出すと人々は一日が過ぎたと感じる。人も生き物も年月とともに老いるから一層、時の経過が身に沁みる。しかし、星々の輝く天界には、地上でいう時とは異なる世界が存在する」
「少しもわからないよ」
「いずれ、神の申し子=メス・ハッダとなるお前は、ただひとつ覚えておくといい。星雲は、人間に天命を知らしめるためにあるのではない。しかしながら、自らに課せられた天命に逆らうことはできないとな」
「おいらは、シュメル人なの? ほんとに?」
 でも自分は、女でも男でもないと言おうとした。
「おまえがどうあろうと、おまえに変わる者は、この世にいない。些末なことだ。ユダヤ人のアブラハムもそう思った」

 ユダヤ人が先祖と仰ぐアブラハムは、シュメル人の都市・ウルの近郊に天幕を張って住んでいたとシンドゥは言った。セム人の遊牧民だったと。

「われわれと大きな差異はないだろう。アブラハムはアッカド人の支配を嫌って、新たな天地を目指したにちがいない。自らをセム人であることを、最初に否定した人間かもしれない。強い意志の持ち主だった。アブラハムの物語を信じることはできないが……」
 シンドゥはしばらく口をつぐんだ。
「妹のイニンはウルの白色神殿の巫女の長となったが、わしは父のあとを継がず家を飛び出し、ペルシア軍の戦士になり、ギリシアにも行き、何もかも嫌気がさし、ついには大海原を渡る航海士になって紅海やアラビアの海を旅してきた――が、とどのつまりは、先祖の意図する道に導かれてしまったようだな。ここで、神の申し子=メス・ハッダと出会うことは天の意志ともいうべき運命だったのだろう」
「……ちがっているかもしれないよ。まだ目もよく見えないし……」
「その瞳の色と銀色の髪、それに象牙色の美しい肌の色が何よりの徴だ。天の神によって、海の女神が胎み、お前は生まれたのだ」
 シンドゥの声に揺るぎは微塵もなかった。髪は銀色ではないと言う隙を、サライに与えなかった。
「神の申し子のお前は長じても、むさくるしい髭を生やしてはならない。シュメル人は髭を何より嫌った」
 サライはわけもわからず、うなずいた。
「わしは、かつての父のように神官にもどらなくてはならない」
「神官に?」
「そうだ。神官は、王子を教育する役目も担っておるのだ」
「教育?」
「ティアマトの子はわしらのうちで、もっとも勝れた戦士とならねばならない。なぜなら、何者の支配も受けず、信義を重んじ、誇り高く生涯戦い続ける運命を負っているからだ」

 雷鳴が轟いた。

 シンドゥは椅子から立ち上がり、自分の杖をサライに投げて寄こした。どこからでも打てと言う。想像と違い、重い杖を手にし、躊躇っていると、老人は懐から小石を取り出し、サライに向かって投げつけた。避けようとしたが、小石は額を直撃した。視力の衰えだけでなく、遠近感をなくしていた。岩山の見える砂漠で棒切れを振り回したが、鍛練になっていなかったようだ。
「石くれが頭に当たるうちはなんど打ち込んでも、わしに触れることはない」
 サライは声のする方角に向かって振り下ろした。手に衝撃を感じたが、いつ身を翻したのか、老人は数歩後ろに立っている。手のひらの痛みは敷石の床を叩いたせいだ。

「瞬時に、相手の気配を察知できるようにならねば、己れの命を守れないと知れ」
「はい、師匠」
「わしのことは、シンドゥと呼べ」
「はい、シンドゥ」
「たとえ目を閉じていても、咄嗟の攻撃から身を守れるように鍛練しなくてはならない。相手から目をそらすな。相手の動きに合わせて呼吸すれば勝機はかならずある」

 シンドゥと名乗る老人は一日も休むことなく屋敷を訪れた。ユダヤ人ではないので安息日などいらないと言うのだ。しかし、サライには課せられた仕事があった。キャラバンの到着した日、サライはミシアに付き添われ、手探りで数量の確認をした。

 老人は、サライが部屋を留守にする日もやってきた。少年の仕事が終わるまで椅子に座って待っているのだ。

 サライとシンドゥとは一日の大半をともに過ごした。老人はどこに住んでいるのか、夜明け前に家を出て、月の出る頃に帰り着くと言っていた。屋敷にいる間、老人は飲み物しか摂らなかった。
 日課は決まっていた。
 東から昇った太陽が真上にくるまで地形の見方を学び、太陽が西の空を赤く染める頃までが実戦の訓練だった。中庭で剣さばきを習った。夕暮れになると、部屋にもどり、戦術を学んだ。馬術は馬が高価なこともあるが、視力がもどらなくては、無理だと言われる。

「戦いに勝利するには、まず第一に過去における名立たる戦闘を検証してみなくてはならん。勝敗は神の加護などで決まらない。人間の知恵と勇気が戦いの行方を決するのだ」
 このことをけっして忘れてはならないと、シンドゥは繰り返し言った。

「ダレイオス王の治世の三二年のことだ。今から数えると、二三年前になる。ギリシアの都市国家の一国家に過ぎないアテナイと世界最強と自他共に認めるペルシア帝国との戦闘において、なぜ、圧倒的な軍備を誇るペルシアが小国に敗れたのか? お前はどう思う?」
「ギルガメッシュがエンキドゥを誘い出したように、サルゴンがティアマトを誘い出したように、アテナイの王が策略を用いたんだね」
「ギルガメッシュやサルゴンは女や人質でエンキドゥやティアマトを釣ったが、これは戦闘が始まるまでに用いる、はかりごととしては効果がある。つまり平時には謀略が功を奏する。しかし一旦、戦端が開かれれば、敵の戦力と味方の戦力を冷静に分析し、その上で戦略を立てた側に分があるのだ」

 シンドゥは懐から革製の羊皮紙をテーブルの上に広げた。

「なんの絵が、書いてあるの?」
「地図を知らないのか」
「地図……」
「どこが山で、海で、陸地かを記してある」
「よく見えないけれど、おもしろそうだね」
 シンドゥは微笑した。
「どの国の王も託宣者にお伺いを立てて戦いを始めるが、愚かなことだ。戦略をたてることが肝心なのだ」
 詳細に書き入れられた地名に沿って、シンドゥは指先を動かした。
  サライにはぼんやりとしか見えなかったが、
「シンドゥが書いたの?」
「ひとかどの航海士なら、地図くらいは書けるようになる」
 これがあればと、シンドゥは手のひらサイズの、ふたまたの金属棒を取り出した。コンパスだと老人は言った。コンパスと寸法を計測する定規で地図はつくられると。そして、船も建物も用水路も、あらゆる人工物が設計されるのだと。
「よくわからないけど、すごいんだね」
 老人は少年の頭に手を置いた。
「耳を澄ましてよく聞くのだぞ。そして一度で記憶するのだ」
「無理だよ」
「文字に記されたとたん、人々は記憶しなくていいと思ってしまう。お前の兄は、語ることでお前の心と頭にけっして消えない記憶を残したのだ」

 シンドゥは地図の一ヶ所を指差した。

「ペルシアとギリシアの間にあるダーダネルス海峡、これを挟んで、左の陸地がギリシアだ。右がペルシアに服従する地域で、この半島の先端部分が、アテナイの植民市だったイオニアだ」
 もとは一つだったが、何かの拍子で引き千切られたような形の二つの向かい合う半島は鋸の歯のように入り組んだ線で描かれていた。ポツポツとある丸い点は、海に浮かぶ小さな陸地で島だという。
「ペルシアはイオニアの反乱を抑えるために、海岸線から少し入ったところの都市サルディスに軍と総督府をおいて見張らせていた」
「おいらたちのいるエルサレムはどこなの?」
「この地図では描ききれない場所にある。世界は、お前が想像するよりも広大無辺だ。しかし星の世界に比べれば卑小だ。つまりこういうことだ。お前よりうんと大きな男も、エルサレムから見えるスコボス山と比較すれば塵のようなものだ」

 スコボス山は見知ってはいないが、サライは驚きで声も出なかった。ここに書き切れないほど世界は広いとはじめて知ったからだ。

「イオニア人が多く住むこの地方を隷属させたペルシア軍は、ここを足場に二万五千の兵と六○○隻の三段櫂船――船を漕ぐ櫂が三段ある船のことだ。それらを擁し、エーゲ海に浮かぶ島々を次々に攻略し、その地を兵担基地にして水と食料を補充しつつ、エルボイア半島のエレトリアに向かった。水と土を献上させるためにな」
「水と土?」
「服属国になれという意味だ」
「どうしてそんなにたくさんの土や水が欲しいの?」
「いくさには金がかかる。戦果をあげた者たちに褒美として土地を与えなくてはならない。戦費を求めてさらに戦うことになる」
「金貨が欲しいんだね?」

 シンドゥはサライを黙らせるために、静かにと言ったが、効き目はなかった。

「金貨がたくさんあればどうなるの?」
「大勢の人間を思い通りにできる。生かすも殺すも思いのままだ。権力を手にした者たちは大勢の人間の自由を奪える」
 口をつぐむ少年に、老人は、嘆く気持ちを意志の力に変えるようにと言った。
「ペルシアの軍団を迎え撃つ、ギリシア側のエレトリアでは篭城して戦おうという者たちと、ペルシア帝国に恭順の意を表し、彼らを城に迎え入れようという者たちで国論は真っ二つに分かれていた。お前ならどうする?」
「城にいるよ」
「ここの者たちも篭城することにした。しかし、六日間の戦闘の末に多くの戦死者を出し、生き残った者たちはダレイオス王の居城スーサに連行された。大軍を擁するペルシア軍の指揮官ダディスは大いに気を吐いたろう。アテナイで建てるつもりの戦勝の記念碑の大理石を船に積み込んでいたほどだからな」

 サライは神妙な顔つきになって聞き入った。

「一方、刻一刻と近づいてくるペルシアの艦隊に右往左往するアテナイでも国論は二分していた。十人いる指揮官のうち五人は一万の兵力で、二万五千のペルシア軍を迎え撃つのは無謀だとし、城壁内に身をひそめた上で、他のギリシアの都市国家、コリントやスパルタに援軍を要請しようと主張した」

 その場に自分もいるように、サライは感じた。

「片やミルティアディスをふくむ五人の指揮官は上陸してくるペルシア軍と交戦すべしと主張した。ミルティアディスは決定権をもつ軍事長官を説いた。『アテナイを隷属の地位におとしめるか、あるいはギリシャ全都市国家の盟主たるか』と迫り、『かつて自由の戦士と讃えられた者たちすら残し得なかったような金字塔をうち建ててこれを万世に伝えるか、一にかかってあなたにある』と煽ったのだ」

「ミルディアディス……」サライは、その名を反芻した。「ミルティアディスは、ギルガメッシュが妖怪を退治する時に、エンキドゥに言った言葉を言ったんだね。名を残すために闘うと」

「限られた日数しか生きられぬ人間が名誉にこだわるのは、後の世に生きる連中へ物語を残すしか希望を託せるものがないからだ」
 平和な時代において愛される者は、軍事能力の高い戦士になれないとシンドゥは言う。
「ミルティアディスはイオニアの君主であった時代、暴君であったために民衆に疎まれ、陶片による裁きでその地位を追われた。そののちは敵のペルシア軍の傭兵となり、北方のスキュタイと戦っていたが、これを裏切ってアテナイに逃げ込んだ。しかし、イオニアでの圧政を理由に死刑を宣告されたのだ。平時であればミルティアディスは一も二もなく処刑されただろう。祖国の存亡危急のおりだからこそ、ミルティアディスもイオニアの宗主国であるアテナイに馳せ参じたのだとわしは思っている」

「死ぬかもしれないのに?」

「まつりごとに従事する者たちは、一度は敵に寝返ったミルティアディスを、法を楯に処刑すべしとしたが、軍事をつかさどる者たちはこの男の使い道を知っていた。ペルシア軍の内情に詳しいことを理由に行政官の反対を押し切って、指揮官に抜擢したのだ」
「なぜ、暴君だったミルティアディスが、戦闘に勝れていると軍事長官にはわかったの?」
「多くの者は名もなく生き死するが、英雄となる者は死後、讃えられるために生まれるのだ」
 サライは首を傾げた。老人の答えはサライの問いに答えていなかったからだ。
「神なる存在に意志があるのかないのか、わしにはわからぬが、この世界がここに存在しているのだから、わしらは生きるしかない。それぞれが己れに課せられた天命に従ってな」

 ザドクは、ラビ・エズラの主導する〝学びの家〟で半日を過ごし、早めに帰宅した。母のアシェラが口にした「あの子は使いものになる」というひと言が気にかかったからだ。
 サライの暮らしぶりを、自分の目で見たかった。
 かまどのある部屋の椅子にサライは座り、薄焼きパンにヒヨコマメのペーストを塗って食べていた。召使の少女が傍らで、世話を焼いている。
「老人に、何を習っている?」ザドクは唐突に尋ねた。
 サライは悪戯を見咎められた幼い子供のように立ち上がり、衣の袖口で口元を拭い、「マラトンの戦い」と答えた。
 ザドクは自分でも驚くほどの苦い顔つきになった。
「ギリシアとペルシアの戦争の話など、なんの役に立つのだ? 目が不自由なので護身のために剣術を習うのは仕方がないが、いくさの話などお前の年頃の者が耳にすれば、物事を武力で解決しようとする危険な考えに染まるだけだ」

 サライは口を閉ざしていた。名も知らぬ少女は青ざめ、ザドクとサライを交互に見ている。

「おれが母上に言って、もっと有益なことを教えるように話してやろう」
「今のままでいい!」
「各地でもめ事を起こしている兄弟団にでも入るつもりなのか? そんな考えは即刻やめておけ。だいち、血族の者でないお前を氏族の誰も相手にしない」
 ザドクは、サライのけっして濁ることのない瞳を見つめた。
 少年は黙して語らない。
 ザドクの好意を無にしたくないと思う感情が、自らの思うところを述べさせないのか? いや違う。ヤハウェとラビ・エズラに絶対的な信仰を置くザドクとはどんなに話し合っても理解し合えないと内心でわかっているからだと気づいた。
「いいかげんにしないと、追いだすからな」
 少女は両手で口を塞いだ。悲鳴を押し殺しているようだ。
「もう少し、置いてもらえますか、あと少し」
「剣術を習うのは、やめろ!」ザドクは言い捨て、その部屋を出た。

 母も、ジャミールも、目の前で怯えている少女も、どうしてサライとかかわる女たちは、異形の少年に心を砕くのかとザドクは腹立ちを抑えられなかった。母はサライをキャラバンに同行させ、ゆくゆくは隊長にしようとさえ思っている。

 あらたにはじめた〝学びの家〟でラビ・エズラは言った。「メディア(イランの北西部)のメシャード(=メメット)からはじまった交易路(シルクロード)はユダヤ人によって発見された」と。
 バビロニアの時代から、ユダヤ人はパンジャーブ地方(現インド)における胡椒の取引を専有していた。神の掟を守り、七日に一度、休息をとるユダヤ人のキャラバンは、目的地に着くまでの各地に町をつくったのだと。

 ソグド人(インド・ヨーロッパ語族)のキャラバンが、天を突く山を越えてバクトリア(アフガニスタン)まで旅している。彼らは命知らずの戦士でもある。定住地も有している。エズラの話をザドクは訝しんだが、何も言えなかった。モーセの創立したサンヘドリン(ユダヤの秘密結社)を、エズラはバビロンで復活させたのだ。師に勝る律法学者はいない。神の子と崇められている。

 胸にくすぶる不可思議な思いはどこからくるのか……。

 神殿に巣食う祭司らの口走る戯言は歯牙にもかけなかった。ザドクは自らを戒める。この地での第一の弟子を自負するのなら、清廉な師・エズラの言葉を疑うことは不信仰につながる。
「アブラハムは側女の子らは東方の国にやり、後継者のイサクから遠ざけました」と、エズラは子供たちに教える。
 巻き物にもそうしたためられている。
 しかしとザドクは思う。側女は異国の女だった故に排除されたのか。
 エズラは、異形のサライが、ザドクの家に滞在していることを知れば、なんと言うだろう。

7

 シンドゥは語る。「いくさを始めるさいにもっとも考慮しなくてはならないのは、どの地点に軍を集結させるかということなのだ。ペルシアの指揮官ダディスはアテナイを焦土と化す使命に燃えていたが、海から攻撃を仕掛けても守りの堅い城壁に守られたアテナイを攻め落とすには長期を要すると判断した。そこで陸地での戦い、つまり地上戦を選択した」
 サライはシンドゥの言葉を、理屈ではなく感覚で理解した。
「持久戦を嫌ったのは、エレトリアでの成功がその目を曇らせたのだ。通常、堅牢な城壁のある都市を攻め落とすには、地上での戦いの十倍の兵力が必要だと言われている」
「十倍!」
「勇猛果敢な王として知られるバビロニア帝国のネブカドネザル王がエルサレムを完全に攻め落とすのに二年かかっている。防備のしっかりした都市をまともに攻撃してもなかなか陥落しない。したがって、各地の王は城壁を築くことに腐心する。しかし、守る側に援軍がのぞめない場合は、城壁内の者の苦痛を長引かせるだけだ。いつかは落ちるのだからな――いくさ慣れしたミルティアディスはそのことを熟知していた」

 短期決戦には、戦略がいるとシンドゥは言った。

「過去によい先例がある。バビロニアの首都バビロンは高大な城壁に囲まれ、大河ユーフラテスが都市の中央を流れ、難攻不落と称されていたが、メディアとペルシアの連合軍を率いるキュロス王は、これを一夜にして攻略した」
「ほんとに? どうやって?」
「キュロスは兵団を二軍に分け、いくつかの師団を合わせた大軍隊を川が市内に流れこむ地点に配置し、一部の部隊を市内から水が流れ出るところに配置した。水が引いて浅くなるや直ちに川床を伝って町に侵入し、城門を開けるように命じたのだ」
「水を堰き止めることなんて、できるの?」
「キュロスは、兵士を渡河させるために掘割り――地面を掘って作った水路のことだ。これを利用して、川の水を沼地に流し、水位を下げたのだ」
「自分たちで掘ったの? そんなことをすれば、城壁内の兵士に見つかってしまうでしょ?」
「バビロンの住人は城壁に頼りきっていた。攻め滅ぼされることなど万が一にもないと、過信していたのだ。ユダヤ人はこれを預言の成就だと言うが、果たしてそうなのだろうか。キュロスの指揮官としての並はずれた能力こそ讃えるべきだと、わしは思う。兵士の上に立つ指揮官は神に依存してはならない」

 話をもとに戻そうと、シンドゥは言った。そして、書き板に、アテナイのある細長い半島を描き、両軍の布陣を書き入れた。

「山岳地を挟んでアテナイの反対側に位置する、マラトン湾のスコイニア海岸に艦隊を停泊させたペルシア軍は、マラトン平原に宿営した。そこからアテナイまで徒歩で一日半の道程(約42㌔)だ。
ペルシア軍はアテナイに進軍するには、ブレクシサの沼地を通るか、ブラナ渓谷を行くかしかなかった。騎兵を誇るペルシア軍に選択の余地はなかった。選択の余地のない情勢だと察知した瞬間から、作戦を立て直すべきだったのだ」
 サライは書き板を指さした。
「ペルシア軍は、迷わず渓谷を通ることにしたんだね」
 シンドゥはうなずくと、
「ミルティアディスのすぐれたところは敵軍が決定した進路であるにもかかわらず、地形を調べ、これを利用したことだ。彼は二方向にしか出口のない渓谷の入り口を塞ぐために、盾で壁をつくるファランクスと呼ばれる密集隊の陣形を兵士にとらせた」

 シンドゥは長方形の図形を書き入れた。

「総勢一万の重装歩兵が横に隊列を組み、この隊列を何重(通常八列)にも重ねて密集隊を編成する、この陣形は守りと前進に強いが、側面に弱点があった。そこでミルティアディスは木の枝や丸太を渓谷の斜面に積み上げ、蟻の這い入る隙間もないようにして騎兵を使えないようにしたのだ」
「なぜ、騎兵が使えないの?」
「騎兵の第一の役目は敵の歩兵を蹴散らし、自軍の歩兵が待つ方向へ追い立てることなんだ。しかし、渓谷の内側にいるアテナイ軍は壷の中にいるようなものだから追い立てられない」
「それで、それでどうなったの!」
「ペルシア軍のダディスは三日間、兵を動かさなかったが四日目にしびれをきらし、三千の射手に集中攻撃を命じた。太陽が翳るほど大雨のように矢がギリシャ軍の頭上にふり注いだそうだ。しかし、アテナイ軍はものともしなかった」
「どうして!」
「彼らの持っていた盾はポプロンといって、それまでにないものだった。丸く大きな木製の表面に精銅が貼られていたのだ。それだけではない。持ち手が二ヶ所あり、左腕にしっかりと固定できた」

 互いの楯を重ねて、その下に隠れていれば矢から身を守れると言う。

「対抗策としてペルシア軍は一万の軽装歩兵を繰り出したが、守りの固いアテナイ軍に撃退された。多くの部族からなるペルシアの兵士は、部隊のほとんどがイオニア人だけのギリシア軍のように一致団結して戦う気概に欠けていたこともあるが、それだけではない。装備が出身地によってまちまちだったことも敗北の原因だ」
「ペルシア兵とメディア兵は、同じ服装をしていたよ」
「交易の盛んでない服属国の兵士たちの多くは武具においてアテナイ軍に劣っていた。彼らは柳の木で編んだ軽い盾と鎌しか持っていなかった。片や、アテナイの兵士は切っ先が鉄製の長い槍(2㍍を越す)を持ち、精銅で作った兜をかぶり、ラメラアーマーという亜麻と皮で筋肉をかたどって作られた鎧には、矢を通さないように中に薄い精銅を縫い込んでいた者もいたし、脛当てもしていた」
「ギリシア軍は兵士の装備に、どうしてお金がかけられたの?」
「いい質問だ」

 シンドゥは破顔した。目がなくなった。

「征服した土地の者を奴隷にして兵士に組み入れているペルシア軍と異なり、アテナイに征服奴隷はいない。債務のある者や買われた者も兵士となれば奴隷の身分から解放される。その当時のアテナイには十二万人の市民と三万人の外国人がいた。彼らは、八万人の奴隷を使役していたが、アテナイの兵士の大半は市民で編成されていた。この違いが装備にも影響したのだ。おそらくアテナイ人の兵士は自費で武具を整えていたと思われる」
「どうして自分で買えるお金があったの?」
「彼らは戦闘があると、どこの国にも雇われて戦うのだ。敵方にさえもな。そして、金を得る。つまり、武具は商売道具なのだ」
「だから、ミルティアディスもペルシア軍に雇われて戦ったんだね?」

 シンドゥは深くうなずき、話を戻した。

「帝国の威信をかけた戦いだった。なんとしても負けるわけにはいかない。ペルシアの総司令官のダディスは残る一万の重装歩兵――顔を頭巾で隠した不死隊を進軍させるしかなかった。彼らはペルシア軍の中にあって、暗黒から生まれたと称され、もっとも恐れられていた」
「ミルティアディスは同じ陣形を取り続けたの?」
「いや。重装備の不死隊は何があっても退却しないことで知られていた。軽装歩兵を串刺しにして退却させたようなわけにはいかないことはわかっていた。それにいくら木材を使って隙間を埋めても、戦闘が激しくなればなるほど両脇は空いてくる」
 そこでだと、シンドゥは手のひらで膝を打った。
「ミルティアディスは、渓谷の外へ兵を移動させることにした。これは賭けだった。重装備なので隊列を乱さずに前進するのは困難を極めただろうが、彼はやってのけた」
「そんなことをしたら騎兵に蹴散らされるよ」本気で心配した。
 シンドゥは宥めるように、
「彼はそのためにも両翼に兵を厚く配備した。ペルシア軍は好機と見て中央の手薄の兵を攻めた。すさまじい戦闘だったらしい。中央の兵は後退したが、ミルティアディスは両翼の兵をけっして動かさなかった。ペルシア軍は次第にミルティアディスの術中に嵌まっていった」
「どういうこと?」
「袋の中の鼠と言えばわかるか?」
「両翼の兵士が向きを変えて、退路を断ったんだね」
「恐れをなしたペルシア兵は浜辺まで必死に逃げたそうだ。しかし、追撃するアテナイ軍も疲労の余り、敵軍を全滅されられなかった。敵軍の死者は六千名を数えた。アテナイ軍は、ペルシア軍から七隻の艦隊を奪取するにとどまった」
 これでは勝利したことにならないとミルティアディスは思ったという。
「生き残った兵士と馬を艦隊に乗せたペルシャ軍が、アテナイの向かうことはわかっていたからだ。二○○名足らずの戦死者を出したアテナイ軍は一時の休息をとることなく、徒歩でアテナイにむかった」

 マラトン平原でペルシア軍に勝利したという報せは、伝令が四二㌔を休みなく走り、アテナイに伝えた(これがマラソン競技の起源となる)。

 ペルシアの艦隊はアテナイの城壁が見えるところまで接近したが、勝利を知った市民の意気軒高なさまを遠目に見てそのまま敗走した。
「ミルティアディスはこうして勝ち目のほとんどない戦いに勝利した」
「ペルシアの王は報復しなかったの?」
「ダレイオス王はエジプトとの戦いにおもむく前夜、急死した。おそらく毒を盛られたのだろう。お前のようにな」
 庭の片隅での武術の稽古はつづいた。サライに与えられた棒きれで、シンドゥを打つことに専心したが、叶わなかった。視力が以前に比べ、少し先まで見通せるようになると、野に出るようになった。ミシアは寂しがった。
 時が過ぎ、季節が移りかわった。
 大麦のあとにつづく小麦の刈り入れも終わり、気づくと乾期が巡ってきた。晴天がつづいた。サライは十三歳になっていた。エズラの弟子になりたいという思いは欠片も残っていなかった。
シンドゥは言った。「何があろうと、宦官の施術を受けてはならない。ユダヤ人の成人式を受けてはならない」

8

 シンドゥの話に終わりはなかった。
「マラトンでの敗戦から十年ののち(紀元前480年)、ダレイオスの子のクセルクセスは父の無念を晴らそうと、海を覆いつくすほどの艦隊と自国と属国の兵五十万余りを、かき集めてギリシアに進撃したが、嵐に見舞われたあげくに命知らずのスパルタ兵のせいで苦杯を舐める結果になった」
「スパルタにはペルシアよりたくさんの兵士がいたんだね?」
 シンドゥは首を横にした。
「スパルタの王は服従を受け入れなかった。弱腰の重臣や、降伏せよというデルポイにあるアポロン神殿の神託にも耳をかさず、わずか三○○人の兵を引き連れて城を後にした」
「ほんとに?!」
「スパルタ軍は周囲を断崖に囲まれた狭い入江に陣を張り、ペルシア軍を迎え撃つことにした。逃げ場のない地形をあえて選び、敵を誘いこむ戦術はミルティアディスをならったと思われるが、敵の数が前回とは比較にならなかった。王も兵士も戦う前から死を覚悟していた」

 彼らは、生死をともにする覚悟で結ばれた戦士たちだっと、シンドゥは言った。

「ティアマトの部下のように、服従するより死ぬほうがいいと思ったんだね?」
「ギリシャ全土に散らばる都市国家に奮起を促すためだった。ペルシアに隷属するくらいなら、その前に、起って戦えと――な」
「でも、死んでしまったら、なんにもならないよ」
「そうかもしれない、そうでないかもしれない」
 シンドゥは目を閉じた。
「死を恐れず、心をひとつにして戦えば、相手がどれほどの大軍であっても一矢報いることができることをスパルタ軍は示したのだ。そうすることで、敵の進軍速度をゆるめられる」
「戦いを遅らせることが目的なの?」
「この戦闘によって、近隣の都市国家は、ともに戦う意義を見いだしたのだ。シュメルの都市国家群には、勇気のある者たちがいなかった」

 一致団結したギリシア軍はペルシアとの和睦を諦め、サラミスの海戦でペルシア軍を敗ることになる。

「ペルシアは戦うことをやめたの?」
「ペルシアの現王も心のうちでは、父や兄の宿願を果たしたいと思っているだろう。しかし現状では、服属国に兵を出すように要請できない。地元の太守も、派遣した総督も、バクトリアとエジプトへの二度の出兵で疲弊している。それにギリシアと戦っても、得るところが少ないと考えている」
「なぜ?」
「どんな国も新たに興るとき、力が漲っているが、いつしか衰えていく。われわれの国もそうだった。周囲の国々と協定を結び、できるだけ戦いを回避しようとする。しかし、敵はあらゆる策略を用いて、戦闘を忌避する国を打ち負かす機会を狙う。敵国の国内情勢を不安定にするよう、さまざまな手段をもちいて画策する」
「どうすればいいの?」
「さあて――」シンドゥは笑った。「現在はペルシアの領土となっているが、一度はエジプトさえも打ち負かしたヒッタイト王国も強固な城壁を建てて外敵の侵入を防いだが、最後は、内乱で滅んだ」
「スパルタのように少ない人数でも、闘えばいいの?」
 シンドゥはまばたきをした。
「すべての人間が死に絶えるわけではない。生き延びればいつか、あらたな局面がかならずやってくる。ヒッタイト人の一部はカナンの地に移住し、今日に至っている。ユダヤ人と争いの絶えないカナン人と総称されている人々の先祖はヒッタイト人やヒビ人やエブス人やアモリ人など多数の民の集まりなのだ。交じり合わずに暮らすほうがむずかしい」
「じゃあ、国なんて建てないほうがいいね。争いになって滅ぶだけなんでしょ?」
「たしかにそうだ。しかし、お前とわしが出会ったことを考えれば、滅びなどないのかもしれない」
 シンドゥはサライに手を見せるように言った。
「この小さな手で未来を切り開くのだ。事態は常に変化する。どんな苦しみもいつかは終わり、帆をかかげ、世界の港を巡り、山の頂に旗頭を立てる新しい時代がくる。その時がくるまで、諦めてはいけない。わかるか? 最後の一瞬まで諦めてはならない。それこそが王女ティアマトの血を受け継ぐ神の申し子の使命なのだ」
 そんなことはどうでもいいという言葉を、口に出しかけてつぐんだ。
 返ってくる言葉は想像がついていた。先に為すべきことを為せとシンドゥは言うだろう。

 低地平原に風が渡り、牧羊者の吹き鳴らす、角笛のかん高い音を運んできた。
「外へ出よう。石くれは避けられるようになったが、まだまだだ」
 シンドゥは立ち上がった。
「お前が使命を果たせるようになるには、俊敏さが足りない。わしがウルの地に二度と足を踏み入れなかったのは家族を失望させるとわかっていたからだ。父はいまのわしを見ればこれまでの親不孝を許す気になったろう」
 もしかすると、永遠に使命は果たせないのではないか、と思った。
 シンドゥはサライの心をその顔色で察したようだ。
「なぜ、己れ自身を信じぬ。ティアマトの子である自覚が生まれれば、行き着く先におのずと定まっている。そこは冥界などでない。お前に定められた地なのだ」

9 

       

 何日待っても、ラビ・エズラはアシェラの邸宅に姿を見せなかった。ジャミールは当てがはずれ、落胆した。このままだと、無為に日を送ることになる。バビロンから派遣された総司令長官の動きを知るためにも別の方法を考えなくてはならない。
 彼女はスカーフで頭をおおい、ユダヤ人の娘の物売りを装って、あちこち出歩いた。一人では危険だとアシェラが止めても、ジャミールは気にしなかった。いざとなれば、どんな手を使っても逃げおおせる自信があった。それに神殿の広場に行かなくてはカシムと連絡がとれない。

 カシムは日長一日、大麻と同じ効力のあるカートを噛みながら広場でとぐろを巻いていた。ジャミールが立ち寄ると、パンを買うふりをして話しかけてくる。
「暇ほど毒はあらへんな。なぁーんもすることがないと、このままいっそシリアのダマスコへでも逃げたろかと思うでぇ」
「ギバルにつかまるわよ」
「ほんでもヤッコさん、どこへ消えたんか、影も形もない。ひよっとしてお宝を見つけて、お先に失礼、なぁーんてことはないやろな」
「それだったら、あたしたちも好き勝手にしていいってことになるじゃないの」
「ジャミールは、今も好きにしてるやないか」
「居候のどこがいいのよ。あの子のことも気にかけなくちゃなんないし……」

 突然、剣術の稽古をやめさせるとアシェラが言い出した。数量を正しく点検できるので商売を教えこめばすぐに一人前になると言うのだ。キャラバンを任せていた男が誤魔化しているのを、サライが見つけたらしい。

「送り状の数量と荷物の数量が同じでも、袋の中身の重さの違いに気づいた者はこれまでにいないのよ」
 サライには商才があると、アシェラは言った。
「剣術の稽古は続けさせてやってよ」
 お願いと、ジャミールは懇願した。
「あなたはそう言うけれど、武具には大金がかかるのよ。いつまでも棒切れを振り回しているだけじゃ役に立たないわ。弓矢ならともかくーー」
「支払いはあたしがなんとかする」
 アシェラは美しい顔をしかめて、
「いくら剣術をならっても所詮は護身術にしかならないわ。一日も早く商売のコツを覚えさせたほうが本人のためになるのよ」
 彼女の言う通りだったが、サライが商売を覚えるためには、広場に頻繁に出入りするようになる。そうなれば、カシムとも鉢合わせする。自分たちが密偵だと知られるのはいい。おしゃべりなカシムは何かの拍子にジャミールの過去を話すかもしれない。
 どんなにそ知らぬふりをしても、カシムが何もかも知っていることははじめて引き合わされたときからわかっていた。

 あの子には、数えきれないほど人を殺めたことを知られたくない。男たちと交わったことも。

 サライのことで頭を悩ましてもなんの益ももたらさないとわかりすぎるほどわかっていた。母と弟を失って以来、はじめて知る面倒な感情だった。誰かのために自分を犠牲にするなど密偵に似つかわしくない。
 カシムが思い出したように、
「総司令長官やけどな、総督邸にはおらん。城壁のないエルサレム市内は危ないゆーて、刈り入れのすんだ麦畑の跡地にテントを張って宿営してるでぇ」
「わかってるわよ。そこへ行って、耳寄りな話を聞き出せばいいんだってことは――」
「宿営地のすぐ手前で、手だれの見張り役が陣取ってるんや。元締めはアラビア人や。勝手に商売ができん。宿営地へ出かけていって、さあどうぞ買うてください、というわけにいかん」
「元締めにお金を払えばすむことなんだろうけど、自腹を切らされるのはごめんだわ」
「元締めの息のかかった連中で、宿営地での商売をしっかり固めてるからな。ナミの悪党では太刀打ちでけんいう話や」
「カシムにも負ける相手がいるわけなんだ」
「多勢に無勢や」

 そう言いながら、カシムは落ち窪んだ目の玉をぐるっと回す。

「ジャミール、気づいてるんか? 小汚い巡礼につけられてんでぇ」
「わかってるわ」
「あのワッパとは、わいも少々、行き違いがあってな。厄介なやっちゃでぇ。巡礼の格好で、毎日のようにおふくろの形見を返せゆーて、きかへんのや。そんなもん屁ともないけど、人目に立つし、さすがのわいも面倒くそうなって、金メッキの短剣を返してやったんや」
「かまってる暇なんてないわ」ジャミールは言い捨て振り向いた。

 じっと佇み、ジャミールとカシムを見据えている巡礼の衣をまとったナーマンがいる。
 ジャミールは舌打ちをし、そばに歩み寄った。そして、彼の目の下に買い入れたばかりのパンの入った篭を置いた。

「あげるわ」
「……」
「用があるなら、さっさと言いなさいよ」
「……」
「舌を斬られたの?」
「あのおっさんは、お前の仲間なのか」
 薄汚れた顔が怒りで赤くなっている。
「そうらしいわね」
「お前たちは、泥棒も人さらいもやるのか」
 噛み付きそうな勢いだった。
「そうよ。あんたも、サライもあたしが売ったのよ」
 いずれ、わかることだ。どう受け止められようと気しなかった。
「王の耳じゃないのかっ」
「どっちでも同じじゃないの。あんただって、仲間になれば、あたしたちと同じことをするわ」
「ギバルは、俺を二度も救ってくれた」
「あんたが使いものになると思ったからよ。そうじゃなかったら、助けなかったはずよ。ギバルの部下になったら最後、裏切れば地の果てまでも追われて殺されるわ。あんた、そんなことも知らないで、仲間になりたいと思ってるの?」
「見損なったよ」
 ナーマンは見る見るうちに遠ざかって行った。

 これでいいと、ジャミールは思った。サライを売り、瑠璃を盗み、毒をもったことは紛れもない事実だ。そのことをいまさら、弁明してもどうにもならない。
 近いうちに、サライもジャミールの本性を知る。
 そのときまで、アシェラの屋敷に留まるつもりでいた。日毎に成長していく少年の姿を、密かに見守ることに楽しみを見いだしていた。言葉を交わしたいとは思わなかった。邪気のない目の色が、憎悪で翳るのを目にしたくなかった。
 ジャミールは振り向き、
「あたし、総司令長官様のいるテントに行ってみるわ」
「わざわざ、あぶない目ぇにあうことないって」
「じっとしてるのも、退屈だしさ」

 翌日、ジャミールはスカーフを額帯に替え、少年の身なりにもどり、小馬ほどの大きさのラバに乗って、曲がりくねった道をくだり、麦畑にむかった。等間隔に並んだ緑の長い葉が道案内をしてくれた。
 カシムがジャミールを追い越し、先を行く。
 坂道の途中で、ひと目でアラビア馬だとわかる白馬に乗った壮年の男が立ち往生していた。白馬のたてがみはヘンナ(染料となる潅木)で染められ、夕焼けの色をしていた。

 なんてきれいな馬なんだろ!

 純金製の鎧と鎖かたびらで白い胸部をおおっている。
 白馬が前脚を高くあげていななくたびに、男は大きな目をさらに見開いて声をかけ、愛馬を落ち着かせようと懸命だ。馬上で均衡をとろうとすると全身に力が入る。男の腕の筋肉は皮膚の下で跳ねるように動いている。
 通行人はペルシア人との関わりを恐れ、誰も彼もそ知らぬ顔で行き過ぎてゆく。
 馬がかわいそうだと、ジャミールは声高に言った。
 馬上の男は振りむき、泡粒のような額の汗をぬぐい、
「どうしたのか、突然、馬の機嫌が悪くなったのだ」
 広い額、高い鼻梁、彫りの深い顔立ちはエクバタナの西南にあるベヒストゥンの岩山に彫られたダレイオス王と瓜二つだった。錦糸に彩られた帽子を被り、純金製の小札と手甲と脛当てをしている。

「見てやろうか」

 ジャミールは引いているラバを止めて、自分だけで白馬のぐるりを回った。ごく小さなくさび形の金属片が馬の尻に刺さっていた。
「これのせいだよ!」
 先に白馬を追い越したカシムの仕業なのだ。金属片を取りのぞいてやると、馬はすっかりおとなしくなった。男は喜び、礼になんでも買ってやると言う。ジャミールは、ラバにのせたブドウの蔓で編んだ篭に焼きたてのパンを満載していた。
「土と水じゃないが、篭の中身は献上するよ」
 男は怪訝な表情をした。
「あんた、総司令長官なんだろ?」
「なぜ、わたしがトリタンタイクメスとわかる?」
「黄金の脛当てをしてる一兵卒なんて見たことがない。それ、本物なんだろ? 盗んだわけじゃないよな」
 トリタンタイクメスは晴れやかな笑い声を上げた。
「おもしろいやつだ。よし、お前の望みを聞いてやろう。ただし一度きりだ」
 ジャミールは馬上を見上げた。
「実はさ、兵隊さんに物を売りたいんだ。けどさ、仕切っているアラビア人がいて、宿営地に出入りさせてもらえないんだよ」
「なんだ、そんなことか。守備隊長に頼んでやろう。ついてくるがいい」
「ほんとうか!」
「シリアの総督であり、ペルシア軍の総司令長官なのだ」
 屈託のない言葉づかいだった。ジャミールはバビロンの王宮で目にしたメディア人やエラムの高官とはまったく異なる気質をトリタンタイクメスに見た。明朗で、邪気がないところはサライと似ていた。

10

 物売りの少年に変装したジャミールのあとをつけながら、「お前にとって、おれは目障りなだけなんだろうなぁ」ナーマンは思わず、つぶやいた。「ほんとの名前さえ、おれには教えなかった」
 半月前、頭を剃り、巡礼の身なりで聖都に入った。
 想像していたエルサレムと現実のエルサレムは隔たりがあった。失望したわけではない。故郷の町と違い、ユダヤ人の勢力は限られており、どこの国の民であろうと遠慮も気兼ねもいらなかった。心が弾み、言葉が胸に満ちていいはずだった。

 なぜか、ひたすら寂しかった。

 神殿の広場でカシムを見つけ、怒りにまかせ、母の形見の短剣を返すように迫った。
「泥棒にも三分の理やなぁ」
 カシムは上目遣いにナーマンを見やり、
「ラバを盗んだガキを殺さんと、つり銭までやろうゆー間抜けがどこにおるんや」
「大泥棒!」
 砂漠に置き去りにされたあと、筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたとまくしたてるナーマンに、カシムはため息をつき、
「人を見たら泥棒と思えゆー諺を知らんのか」
「返さねぇと、警備兵に悪業を言いつけてやる」
「馬鹿も一芸ゆーよってな。そないに喚かれたら、わいが悪人のように見られるやないか。そっちが泥棒やゆーのになぁ。たかがしれたもんやないか、黄金でもないし、なまくらやし、故買屋にもちこんでもなんぼにもならんちゅうのに」
 どうして自分が泥棒呼ばわりされるのか、ナーマンは納得いかなかった。その日からカシムの隣にへばついて離れなかった。人待ち顔のカシムは根負けしたのか、しぶしぶ短剣を返してくれた。

 数日後、ジャミールとカシムが、額を寄せるようにして話している姿を目にした。ナーマンは、脳天を殴られたような衝撃を受けた。
 そいつは泥棒だと喚きたい衝動に一瞬かられたが、落ち着いて考えなくとも、二人はもともとの知り合いなのだ。わかっていたことではないか。

 あのラバは、もしかして……。

 カシムのものだったのなら彼のとった行動も突拍子もないことではなかったのだ。

 おっさんの言う通り、おれはとんでもない馬鹿らしいな。

 聖都を徘徊するうちに、ギバルからもらった金を使い果たした。物乞い同然になり、貧しく力なき者たちが踏みつけにされるさまを、嫌というほど見聞きした。ギバルやカシムやジャミールのように要領よく世渡りするすべを心得なければ生きていけないと思い知らされた。飢えと病で死にかけている子どもたちを目にしても手をさしのべる気にならない。憐れみの感情のないことに自責の念を覚えたこともあったが、それもすっかり失せてしまった。力のある者の慈悲にすがり、ひたすら屈伏するしかない者は惨めに生きるしかない。

 おれもその中の一人なのだ。

 ジャミールは、背徳の町ソドムを救うために神から使わされた天使かと見紛うほどだった。
 身を飾っているわけではない。
 ジャミールは人目を気にせず、きびきびした身のこなしで馬上のペルシア人にも声をかける。話しかけられたほうは一瞬、戸惑うがすぐに打ち解けた様子で微笑み返している。彼女の唇から発せられるならどのような虚りの言葉も許されると思った。血の通った女であっても、肉をもつ女ではない。
 それが、ナーマンの知るジャミールだった。
 娼館で育ったナーマンはすでに女を知っていた。自分から望んで女と関係したわけではなかった。母がそう仕向けたのだ。そんな母をは嫌悪したが、おかげで女への憧憬や恋情で苦しむことなどなかった。女とは男の欲望を静める肉塊のようなものだとずっと思っていた。

 あの、黒い瞳に見つめられたい。なめらかな褐色の肌に触れたい。

 ナーマンは、ジャミールを見かけると、引き寄せられるようにして後をつけてしまう。彼女は気づいているはずだが、振り向かない。つけ回すうちに彼女の名も知り、ザドクの家に寄宿していることを知った。自分のできないことをなんなくやってのけるジャミールへの崇拝の念をさらに深めた。

 鼻のない徴税官は言った。「善悪のなんたるかを知ったとき、すでにお前の美しさは失われている」と。
 その言葉は間違っていなかった。何日も体を洗わず、路上に寝ていると、己れの内側でいつの頃からかひっそりと息づいていた醜い感情が血管に入りこみ、全身を巡り、何が善で何が悪かを知る以前に胸中に渦巻く悪阻で顔貌までも変わってしまった気がした。

 ジャミール、お願いだ。こっちを見てくれよ。

 声にならない声で叫び続けたが、天の王のまたがる白馬(詩編45:4)に乗るペルシア人とラバを引き連れたジャミールは坂道をゆっくりと下り、ペルシア兵の宿営している平原に向かって行った。
 転げそうになりながら後を追いかけた。この道が暗黒の冥府に続いていても突き進むと思いつつ――。
 降りつづいた雨は小止みになり、大麦の刈り入れが終わり、〝過ぎ越しの祭〟を迎える。雨と雪解け水でヨルダン川が増水すると文字を通して知っていても、ヨルダン川そのものを目にしていないのでなんの役にも立たない。
 少年の衣服をまとい、額帯をしたジャミールはなんの恐れも感じないのか、歩みをゆるめることがない。

 お前は、おれの守護天使だ。

 遠目に指揮官とおぼしき男の姿を認めた兵士たちと、数頭の脚の長い犬が大型テントから群がり出てきた。
「閣下! どこへ出かけられていたのです。護衛の者たちがさきほどから大騒ぎをしておりました」
「心配をかけたな」
「おひとりでお出かけになられては困ります!」
 訴える若い兵士の声と吠え立てる犬たちの鳴き声が、雨に濡れた麦畑をわたる風に乗っての潜む荒地までに届く。無毛に見えるツヤツヤした犬はくるりと巻いた尻尾を振っている。この光景の中に、ひとかけらの闘争心も威圧感も見えない。

「ひさしぶりだな」背中で声がした。
 振り返ると、カリールが立っていた。
「まさか、生きていたとはな」
 相手は懐かしげに言葉をかけてくる。
 額に焼き印を押されたときの苦渋がまざまざと蘇る。
「あの女と――知り合いなのか」
 この男は、ジャミールが女だと知っている。

 その一事が、ナーマンを逆上させた。

 ジャミールはラバに乗せた篭を地面に下ろしながら、じゃれつく犬たちの頭を撫でて何かしきりに言っている。指揮官も笑っている。
「さらって、焼き印をして、売るつもりなのか」
 ナーマンは低い声で問い返した。
「キャラバンの仕事はやめたんだ。今じゃ、ここの用心棒だ」
 カリールは欠伸をし、
「おれも堕ちたもんさ。あの女の住んでる屋敷に小僧がいてな、そいつのせいでお払い箱さ。荷駄の数と量が合わねぇと言い出しやがって。雇い主の女主人は、おれのおかげでどれどけ儲けたかも忘れやがって小銭を惜しみやがる。金持ちとはそんなもんだがな」

 兵士たちは篭の中のものを先を争って買っている。

「過ぎたことはお互い、痛み分けってことにしないか」
 カリールの声には以前のような覇気がない。どこか物憂げだ。
「焼き印は消えねぇ……」
 ナーマンは食いしばった歯の間から言った。
「あの女の住んでいる屋敷の場所を教えてやってもいいぜ」
 機嫌をとるような口調だ。
「二度と、声をかけるなっ」
 カリールはニタリと笑った。
「なんで、大金持ちの家に住みながら、男に化けて物売りの真似をしてんだろうな。お前、不思議だと思わないか」
 ナーマンは押し黙る。
「いったい、何者なんだろうな。ひょっとして王の耳かもしれねぇな。総司令長官は知らねぇんだろうな」

 ジャミールは売りさばくと篭を積んだラバにまたがり、巡礼姿のナーマンとカリールの立っているところまで戻ってきた。
 小さな顔のすらりとした姿が近づいてくるに従い、ナーマンの胸は矢で射られたような痛みを感じた。
 ジャミールはじっとこちらを見ていたが、美しく穏やかだった表情にたちまち陰欝な翳りが生じた。
 カリールから声をかけた。
「おい、商売に仁義はつきものだ。勝手なマネをされちゃあ、うちのかしらに申し開きができねぇ」
 ジャミールはラバから降りずに、
「いくら払えば、気がすむ」
「切り口上な物言いじゃねぇか」
「だから、いくら欲しいのか聞いてんだろ」
「金のことを言ってんじゃねぇぜ。筋を通せって言ってんだ」
「何様のつもりなんだ」
 ジャミールはラバの首を回すと、宿営地に引き返そうとした。
「総司令長官に訴えてもムダだぜ。あいつの頭ン中にあるのは若い男と犬だけだ」
 ジャミールは、ラバの首をもとに戻した。
「……何の用だ?」
「用? 用はきまってるだろ。分け前をもらいたいのさ」
「何を言ってるんだ――?」
「何か、たくらんでるんだろ。仲間に入れろよ」
「悪党は悪党同士ってわけか」
 ジャミールは懐から皮袋を取り出し、投げて寄こした。
「明日、神殿前の広場に来い。仕事はそのときに言う」
 カリールは満面の笑みをうかべた。
「明日をたのしみにしてるぜ。もし来ないようなことがあれば、あんたが何者なのか、総司令長官に話すからな。おっと、あんたの住んでるお屋敷にいる小僧の命も無事じゃねぇぜ。今頃は、爺さんと二人きりで、剣のお稽古中だ」
「ふん」
 ジャミールはせせら嗤い、ラバの腹を蹴り、来た道を戻って行った。粗布をまとったナーマンを、彼女は足元の小石ほどにも目にかけない。サライのためになら、涙を流したというのに。

 カリールはためらいがちに、
「お前、あいつに嫌われてんのか?」
 ナーマンの噛み締めた歯が鳴った。
「おれに抱かれりゃ、どんな小娘もコロッと変わるんだがな」
 カリールは舌なめずりした。
「あいつは大人の男をなめてるぜ。ほっとけねぇな」 
 ジャミールにとって、この男は、もっとも危険な存在だ。厚顔で卑しい心根がギョロリと光る目に滲み出ている。
「おれの好みにぴったりだぜ」
 カリールはそう言ってきびすを返し、背中を見せた。

 恐怖にも似た、緊迫した感情がを支配した。粗布のマントの下の手が勝手に動いた。腰帯に差していた短剣を手にし、鼻歌まじりのカリールの背中に突き立てたが、短刀の切っ先は衣さえ突き通せない。そのせいで、カリールは何が起きたのか、知るのに一瞬の間を要したようだ。

「てめぇ、何をしやがる……」
 カリールはの首につかみかかってきた。カリールの手は鉄輪のようだった。息ができない。鼓動が速くなる。
 全身の力を抜いた。利用できる自分を殺すはずがないと踏んだからだ。
「この先、二度と俺に逆らうな」
「わ、わかった……」
 カリールの手が離れたとたん、渾身の力で鋼鉄のような胸を押しのけた。仰向けに倒れたカリールはぐいっと頭をもたげた。こめかみに青筋を立てている。とっさに、こぶし大の石を拾ったはカリールの額に叩きつけた。
「おふくろは、お前らのせいで石打ちの刑にあったんだ。お前も石で死ぬんだ」

 キャラバンを率いていた頑健な男を、石一つで殺せると思っていなかったが、カリールは皮袋を押さえたような声をもらした。

「お前のような下衆野郎に、ジャミールを触れさせるもんか!」
 カリールの眉間が割れ、血が飛び散った。
 石を握っている手が、血糊で固くなるまで殴りつづけた。
 カリールは身じろぎ一つしなくなった。
 もう一方の手で、指を一本一本を起こさないと、握った石を手離せなかった。
 ナーマンは、ジャミールがカリールに与えた皮袋をその懐から奪った。中身を見なくとも金が入っていることはわかっている。
 ダビデが、忠誠を誓うヒッタイト人の部下の妻バテシバと密通し、妊娠を隠すために忠実な部下を戦死させたが、この時のダビデに一片の罪の意識もなかった。それに比べれば、カリールを殺す理由は充分すぎるほどあった。

 ナーマンは立ち上がり、獣のように咆哮した。

「後悔なんかしねーぞ!」
 母が殺されたときでさえ、これほど足元が揺らがなかった。自分が自分でなくなったような、魂が抜け出てしまったようなこの感覚はどこからやってくるのだろう。

 不運がおれを離さない。

 酔った者が自分の吐いたものの中でさすらうように、血走った目の若者は美しい娘を求めて後を追いかけた。

 お前のためならなんだってできると、ただそれだけを伝えたいがために……。

 バテシバを妻としたのちのダビデは度重なる不幸に見舞われる。預言者ナタンに戒められ、バテシバの夫だった部下の死に対してダビデは神に許しを乞う。
「俺は、誰にも許しを乞わない。敵なら、何十万人殺そうと罪にならないんだ。あいつは、おふくろの仇なんだ」
 遠目に見える、ラバに乗ったジャミールはエルサレムに向かう坂道をたどらず、平原を進み、ギデロンの谷を越えて、オリーブ山の方角へと向かっていた。

 カリール――あんな奴、死んで当然なんだっ!

 オリーブの木々がその身を守り隠してくれると思っているのだろうか、ジャミールは木立の中へ、風に吹かれるもみがらのように消え失せようとしている。
 全身にかえり血を浴びたナーマンは、やみくもに走る。

 死にやがれ、死にやがれと繰り返し叫びながら……。なぜか、頭のうちでは、ダビデの歌が聞こえた。

「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰をわたしの避け所とします(詩編57:1)」

 ようやくジャミールの後ろ姿に追いついたと思ったとたん、ナーマンの目に映ったのは少年の姿だった。少し見ない間に髪の色に艶が出たせいか、銀色に輝いている。
 サライは抜き身のつるぎを斜めに構え、杖をついた老人と向かい合っていた。剣術の稽古をしているらしいが、扁平な顔立ちの老人にも、頭の後ろで銀髪を束ねたサライにも殺気立った気配がまるでない。
 自分とカリールの間にあったような憎悪や敵愾心がないせいだと思った。命のやりとりのない者同士の戯れの稽古に、なんの意味があるんだとののしり、吐き捨てたくなる。
 ジャミールはナーマンが追ってきたことも気づかないのか、イナゴマメの木の生い茂る木陰から彼らを盗み見ている。けっして声をかけようとしない。
 血で汚れた手を草で拭い、顔を粗布のそで口で拭った。

 風の音しか聞こえない。緑の茂る草木の匂いが鼻をくすぐる。

 しばらく見ない間に、サライは幼さの残る顎の線が鋭角になっていた。髪を束ねているせいだろうか、背丈も自分と同じくらいになっているように見える。
 突然、何かに持ち上げられるようにサライはふわりと舞い上がり、倍の速度でヒラリと降り立った。ペルシア人のようにズボンを穿いているせいなのか、物音一つ立てない見事な跳躍だった。浮き上がっただけではなかった。老人の顔の前で、防御に使ったらしい杖は真っ二つに切れていた。

「遠慮はいらぬ」

 そう言うやいなや、老人は、半分になった杖をサライの喉首にピタリと当てた。目にも止まらない早業とはこのことなのか、老人がいつのまにサライに接近したのか、ナーマンの視覚では捉えられなかった。もし互いの手元が少しでも狂えば命を落としていただろう……。

「今日は、この辺で止めておこう」
「はい、シンドゥ」
 サライは、よく通る声をしていた。
 なんのわだかまりも感じられない、その声の響きに、ナーマンはその場に座りこむほどの衝撃を受けた。

 あいつめ、あいつめ……承知しねぇと口の中で何度もののしった。

 怨念のこもった呟きは彼女に聞こえているはずなのに、ジャミールは、老人とサライが見えなくなるまで同じ場所にじっと佇んでいた。ナーマンが彼女の前にまわり、視野をさえぎっても、長いまつげの下の目をじっと見開き、表情に大きな変化はない。
 ここで彼女に声をかけなければ、もう一生話せないような気がした。
 平静を装いながらも震える声で言った。
「お前のすることはわけがわらない。サライを売ったんじゃねぇのか」
 形のいい眉がぴくりと動いた。
「なんで付きまとうのよ」
「何かして欲しいなんて、これっぽっちも言ってねぇじゃん」
「じゃあ、何よ」
「知るか」
「血だらけじゃないの」
 ジャミールは袖口で鼻をおおい、ラバの手綱をとると、先に歩きだす。
「どうやって、ザドクの家に入りこんだんだ?」
 ナーマンは追いすがる。
「あんたの望みは何?」
「俺の格好を見ろよ。望みがあるようら見えるか? 笑わせるな」
「ラビ・エズラの弟子になりたかったんじゃないの?」
「覚えていてくれたのか!」
 ペルシアの書記官になりたいと思ったことなどすっかり忘れていた。そんな途方も無い夢は物乞いにふさわしくない。
 ジャミールはため息をつき、
「ラビ・エズラの〝学びの家〟に入れるように手配できるかもしれないわ。ただし、条件があるわ。さっきの男を始末して欲しいの。あんな男を仲間に引き入れる気はないわ」
「さっきの男って……」
「あたしを脅そうなんて、とんでもない男だわ。もしかしてあんたも仲間なの?」
 あわてて首を横にすると、
「殺ってくれるの? くれないの? 返事は二つに一つよ」
「殺れば……いいのか」
 舌がもつれるのが自分でもわかった。なぜか、もう殺したと言えなかった。

 バテシバの産んだ子が死んだとき、ダビデの中で何かが大きく揺らいだ。それまで犯したどんな罪もヤハウェの名のもとに清められたが、忠誠を誓う部下の血を流したのちの王は、たとえ神の許しがあってももはや〝油そそがれし者〟ではなかった。

「わかってると思うけど、あんたが選んだことだからね。あたしは命令していないわよ。殺すのはあんた自身よ。あいつに殴られて、その恰好になったんでしょ?」
 イスラエルの神は、長く生きるために十の戒めをモーセに約束させた。しかし、ナーマンは、「姦淫してはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」という三つの戒めを破った。もはや恐れるものはなかった。
「お前が、やれって言うことは、なんだってやってみせるよ」

 引き返せない道を自分が歩きはじめたことを、ナーマンは自覚した。ギバルはソロモンの黄金を探せと言った。そのギバルと仲間のジャミールは、人を殺せと言う。
 ジャミールが立ち去ったあと、ナーマンは、彼女の皮袋だったものを握りしめた。血に染まっていた。

「人を正しく治める者、神を恐れて、治める者は、朝の光のように、輝き出る太陽のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨む(サムエル下23:4)」

 死の床でのダビデの言葉だ。彼は王として、わが子ソロモンのために言い残したのだろう。
 ダビデは命の火の消える間際に、自らの生き方と信仰に強い悔いを感じたのではなかったのか。
 たったいま、気づいた。ダビデの物語に心惹かれた理由を――。どれほど神を恐れる者であっても自制心を忘れ、過ちを犯すと記してあるからだ。権力の維持のためには最愛の息子をも討たなければならなかった彼の苦悩に慰められたからだと。
「おれの頭と心は、ほんとは空っぽだったんだ。だから自分と関係のない物語で埋めようとしたんだ……」
 同じように空っぽに見えたサライの前には保護者が現われ、自分には現われない。
「俺の道連れは、悪霊か」
 妬む心とは、哀しい心の有り様をさしているのだと思い知った。
「あいつにあって、おれにはない、それはなんなんだ?」
 若草を芽生えさせる雨のように人に臨める人間となるには、どんな生き方をすればいいのだろう。
 騒めく心は苦しみに喘いでいた。

 どうして誰も俺を助けてくれない。砂嵐(シャマール)の吹き荒れる赤みがかった砂漠を越えてきたというのに、神は俺を見殺しにするのか……。

11

 血の臭いがしたと、老師は言った。
 サライは立ち止まり、頭を巡らした。
「生臭い臭いが、そうなのですね」
「いつもやってくるジャミールの他に、後からもう一人、来たことは気づいたか」
「はい」
「その者が血を運んできたようだな」
「わたしたちに危害を加える様子はありませんでした」
「しかし、ただならぬ気配があった」
「まだそこまでは察することができません」
「用心に越したことはない。明日から稽古の場所を変えよう」
「はい」
「お前は素直すぎるのが欠点だ。いくさ場ではまず遠矢を射かけ、接近すれば剣や槍や斧をふるって戦い、あるいは互いに組み合って死闘を繰り広げる。生死を賭けて戦うとき、どんな卑怯な手を使ってもいいのだ」
「心がけます」
「いいか、善も悪もないと知れ。わしらの生きている世界には絶対的な光もなければ闇も存在しないのだ。恐れこそが悪であり、闇なのだ」
「シンドゥは、イスラエルの民が信じる神を恐れないのですか」
「ユダヤ人が約束の地を得るまでに流した血と、アッカド人がわれわれの国を奪うときに流した血に相違はない。同じ人間の血だ。戦闘能力のない女や子どもを殺す恐怖に打ち勝つには神の名を必要としたのだろう。人は大義のない戦いにおもむくとき、神の名を口にするものだ。お前の建てる都は、平安でなくてはならない。そうでなければ、天界と地界をつなぐ都と称されないだろう」

 翌日、師弟は夜明け前に、かつて神殿のあったモリヤ山とソロモンの宮殿の跡地との境目となるエフライムの門――今では打ち砕かれ、ただの荒れた塚となった――場所を通りすぎ、坂道を下り、ぶどう畑を横切り、草地の生える斜面を下った。
 茜色の朝日が広がりはじめたそのとき、そこからの眺めは打ち壊された都市でありながら想像以上に美しかった。
 緑の草木が豊かに生い茂り、ふつふつと涌く泉があり、壷を頭にのせた女たちがゆっくりと歩いている。

「青草の茂る土地を掘り起こし、種をまく者と、青草を食べる羊を飼う者とは、互いを敵視するようになる」

 老師はそう言い、エルサレムの置かれている地形を丁寧に説明した。そして、篭城する敵を攻める場合の陣の位置と障壁を設けるさいの留意点を話した。
「敵塁の周囲に陣営を張り、塞柵を巡らして攻囲し、攻撃するさいの攻囲柵を築かなくてはならない」
「柵を二重に作るということですか」
 老師は大きく首を縦にし、
「兵糧攻めにし、敵を誘い出すのだ。これには辛抱がいるが、待っていればかならず敵は撃って出てくる。餓死するよりいいからだ」
 サライは無言でうなずく。
「しかし、それも自軍の食糧と武具の確保があってこその戦略だ。敵陣に向かって行軍するさいも、敵の奇襲を避けるために最後尾に兵站部(食糧や軍需品を補給するための部隊)を置くのはそのせいだ」
「いくさには、さまざまな要素が必要なのですね」
 白兵戦になった場合の武器についても老師は話した。
「どの武器にもそれぞれにもっとも効果的な殺人方法とでもいうべき技法がある。お前はこの先、槍にも弓矢にも熟練しなくてはならないが、まず剣の技法を極めよ。武術に奥義などない。その場その場で、いかに敏捷に対応する能力があるかないかだけだ」
 サライは一心に聞き入る。
「鎧を着ている敵には槍が第一とされているが、接近戦になればなるほど弓も槍も馬も役立たなくなる。次に起こることを察知しさえすれば重い盾など邪魔になるだけだ。いいかサライ、お前は自らの剣術でどんな相手も倒せるようになれ」
「深く心に刻みます」 
 老師は微笑むと、ふいによろめいた。
「どうされたのです!」
 杖をなくしたせいだと思ったサライは老師の手を取ろうとした。
 老師は顔の前で手を振り、気にせずともよいと言ったが、目鼻立ちのはっきりしない丸い顔が青ざめている。

「ご気分が悪いのですか」
「いやいやそうではないのだ。お前の言葉遣いもまともになって、これからという矢先に、若い頃の無茶が祟るようだ。口惜しいが、そろそろお迎えのくる時期かもしれん」
「何をおっしゃるのです! シンドゥにもしものことがあれば……」
「その時は、お前の父親だったイサに会うがいい」
「どこにいるかもしりません」
「今のお前を見れば、おのずと己れの為すべきことを知るだろう」
「信じられません」
「お前は、考えが未熟だ。己れにやさしく接する者だけを信じるが、人の世はそんなに単純ではない。敵対する者であっても、人に関する判断はそう易々と下すべきではない。ユダヤ人の書物では、善人と悪人の差別は明快だが、シュメル人の書物には善人と悪人との境はない。この一事をよくよく心に止めて、人と接するのだ。即断ほど愚かで無分別なことはないのだからな。ユダヤ人を卑しめておいて、いまさら何を言うかと思うだろうが、常に物事には両面があると考えるのだ」
「はい、シンドゥ」
「お前はなんと心地よい声をしているのだろう。その澄んだ瞳を見つめ、凛凛しい声を耳にできるだけで長生きの甲斐があったというものだ」
 老師は目を潤ませる。
「お前の目だが、いつかかならずもとどおりに見えるようになるだろう」
「なぜそう思われるのですか」
「お前にはじめて会った日、雷鳴が轟いた。わしは、いく筋も走る青い稲妻を目にし、信じるようになった。お前の目が開くとき、お前の中の竜王が目覚めるのだ」
「竜が目覚めれば、わたしは変わるのですか」
「変わる」
 どう変わるのか、シンドゥは話さなかった。

 サライの視界には、薄靄がかかっていた。医師が言ったように、日々の暮らしに不自由は感じなかった。明瞭に見えていなかったが、剣術の修行や読み書きも人並みに会得した。

 まだまだ足りないと、自身がもっともよく理解していた。

 老師はわざと敗けたのではない。衰えが隠せないのだ。
 サライは沸き上がる不安に慄いた。
 老師の死は、自らの死を意味した。
「案ずるな。お前は神の申し子=メス・ハッダなのだ」

 天が告げているとシンドゥは言った。雷が鳴り、あたりが光った。晴れた空から突然、雹が降ってきた。雨期と乾期の端境期の季節にはめずらしくない現象だったが、サライは、小石ほどもある雹に打たれながら天を仰ぎ見た。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!