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南ユダ王国の滅亡(7/9)

あらすじ

ダニエルとアリスとは、王の面前で対決し、アリスは敗れるが、彼女の連れている黒猫が助ける。ルーシーはアリスが魔女に取り付かれていると言い、悪魔祓いの儀式を行う。ミカエルと同じ捨て子だったアリスは、リストカットのあとが手首にあった。一方、ダニエルにつき従う少年らは、自分の身を顧みずダニエルにつくす。


   18 フォールスメモリー

 宿屋に戻ると、ルーシーが盛大に尻尾をふって出迎えてくれた。首をのばして待ちわびていたという。疲労の極致にあったわたしは、ろくに返事もせずに寝床に倒れだ。寝床といっても、ベッドはなく、うすい敷物1枚である。入り口のドアもない。いくつかあるどの部屋も相部屋で積み重なって寝ているらしい。

  わたしたちの部屋はまだましなのだとルーシーは言うけれど、階下は酒場なので、男たちのだみ声がうるさい。いっしょに帰ってきた秦野はキンキン声でわけのわからない歌を歌いはじめた。

 チビの黒猫もニャーアニャーアーアと高い声で同調する。起き上がり、黙らせようと秦野に近づいた。すると、足元で鳴いていた黒猫は仰向けになり、背中を床にこすりつけていたかと思うまに四つん這いになって床から天井へ駈けあがった。

 魔界の派遣猫だから、このくらいは驚くにあたらないと思っていると、秦野がいきなり自分の左手の小指を噛んだ。わたしも兵士の手に噛みついたのだから干渉すまいと思った。

【やはり、ヘビ女はグライアー化したようです】ルーシーはそばへきて、ハフーッと吐息をつき、わたしをじっと見つめた。【事と次第によっては、あなたのほうが自己を見失い、狂気に陥るのではないかと……】

「グライアー化ってなんよ?」

【ギリシア語で老婆を意味します】

 秦野は血がしたたってもやめない。

「まさか認知症になったとか?」

【ヘビ女はあなたよりメンタルが弱いのかもしれません】

 ルーシーは秘密を打ち明けるような鳴き声で言った。

【父親を手にかけたときから、サバン・秦野は本来の彼女ではなくなったのです。自ら命を絶った時点で魔力を授かった可能性が大です。でもときおり、何もかも投げ捨てたい衝動にかられるのでしょう】

 わたしが秦野に近づくと、彼女は目を血走らせて唸り声を発した。骨の砕ける音がした。血の色に濡れた小指が床に落ちた次の瞬間、彼女の髪が銀色になった。

「指が……」あとの言葉がつづかない。

「これでいいわ」 秦野の声はいつもの彼女にもどっていたが、青ざめた顔の頬はそげていた。「これで、ダニエルに報復できるわ」

 彼女はハンカチで左手をくるむと、口尻をあげて笑った。くちびるからあごにかけて、いく筋もの血がしたたっている。

 たしか、ギリシア神話に登場する魔女たちは黒衣の姿で現われるが、母親を殺したオレステスが狂って指を噛み切ると、彼女たちは白い姿になったという。名は狂乱の女たちを意味するエリニュスだったか? 

「すぐにくっつけたら、もとにもどると思うけど――アンタは母親を殺してないし……」

 落ちた小指を拾いあげようとすると、秦野はわたしの手を足先ではらいのけ、ピンヒールの踵で赤い小魚のような指を踏みつぶした。

 グニュといういやな音がした。

「いや、その、なんとゆーてええか……もったいない」

 秦野はハンカチでおおった左手を突き出し、「この手を見るたびに、復讐心が湧きたつわ」と言って、五角形の山を逆さにした図を描いた。

「ペンタグラム=逆五芒星よ。アメリカの国防総省の建物=ペンタゴンは五角形をしてるわ。ミカエルの五芒星とは比較にならないくらいパワーがあるって、知ってた?」

 首を横にふると、秦野は怖い顔になり、

「どうして、リョウや、セラーファがこの時代にやってきたと思うのよ」

「アンタにも見えてたんや!」

 驚くと、秦野は銀髪をゆらし、大声で笑った。

 ルーシーが吠えた。

【信じられないかもしれませんが、あの2人はあなたの意識が作り出した生成系AIなのです!】

「わたしの意識が作ったんやったら、なんで2人は戦うのん?」ルーシーに訊き返す。

【わかりませんか? あなたの心の中には常に対立する感情があるからです。ダニエル様を助けたいと思う一方で、ヘビ女のことも見捨てられないのです】

「どっちも助けたいと本気で思ってるのかなぁ……信じられん」

 秦野は笑いながら、「あれは、ミカエルの犬とわたしのドラが人間の姿を借りて争っていたのよ」

 いつのまにか黒猫のドラは、こうもりのように天井にぶらさがっている。吸血鬼の親類なのか、前脚が羽根をたたんだように脇腹に沿っていた。

「『魔女の宅急便』のキキとはちゃうな。脚の裏から吸着剤がにじみ出るタイプの魔猫なんや」

「ミタマはぁ」秦野は語尾のゆるい話し方に変えた。「金輪際、ひどいめに遭いたくないのよぉ。殺されっぱなしなんてぇ、生きた時間まで否定されると思わな~い?」

「……もう寝たほうがいいよ」

 彼女が自死した話題はさけたかった。口に出せば事実になってしまいそうな気がしたからだ。

 秦野はハンカチでくるんだ左手を、右手で握りしめると、壁ぎわの床に腰をおろした。血に染まっていない敷物を首から下に掛けると、彼女は突然、嗚咽をもらした。全身がぶるぶる震えている。

「あいつを、あの男を許さない……わたしを弄んだうす汚いやつを……」

 わたしとルーシーは血糊をさけて敷物のない床に横たわった。

 ルーシーは鳴き声を押し殺して話した。

【父のルシファーが小悪魔の黒猫を使ってフォールスメモリー、すなわち偽りの記憶をサバン・秦野の海馬に植え付けたに相違ありません。彼女の記憶では自らが父親を殺害したのではなく、父親に犯され殺されたと思っています。だから父親への復讐を誓って、自らのぞんで魔女となったのです】

「父親って、あの赤ら顔のおっちゃんやったっけ?」

 ルーシーは鼻の頭にしわを刻み、【あの男も善人ではありません。彼女の実父でもありません。しかし、悪人であっても殺害した罪は重く、彼女はわが父の管轄下に入ったのです】

「秦野の父親とアンタのわが父とは知り合いなん?」

【そりゃ、そうなるでしょう。わが父は魔界の王=ルシファーなんですから、悪事に手を染める、あらゆる人間の名を銘記した悪魔手帳を所持しています】

「世の中、悪人だらけやのに、手帳ではムリムリ」

 わたしはルーシーに背をむけ、手枕をし、目を閉じた。今日一日に起きたことを思い出すだけで脳ミソが揺らぐ気がした。

【父は、罪人の処分を神さまから一任されているので多忙を極めています】

 わたしは反転し、「『神曲』のドレの絵では、頭に3つ顔があって、つのも生えてて、背中に6枚の翼があって、それが風を起こすから地獄の最下層を凍らせるって書いてあったで。仁王像とそっくりやけどな」

【あなたは父に会ったことがあるのに、国賓級の最重要人物の顔を忘れたのですかっ。天界では指名手配犯の筆頭にあげられていますよ。名前の書かれていない神光掲示板を見つけるほうがむつかしいくらいです。フォロワー数も、神より多いですしね。先に言っておきますが、わたくしの父ですから超美形です。ギリシア神話に出てくるアドニスに勝るとも劣りません】

「アンタはルシファーの娘なんやから、秦野の記憶を生まれる前の記憶にもどすことくらい朝飯前とちゃうのん? いや、いのままのほうがええな。そのほうが秦野らしくいられるもんな。わたしが金髪で、秦野が銀髪やったら、つりおうてるし――使命がどうたらゆーアンタとより、気が合うかもしれへん」

 ルーシーはギョっとした犬顔になった。両目を見開き、口を開け、しばらく絶句していたが、【Anyway】とまず言い、【現状では、社会には解決不可能な諸問題が山積しています。あなたがカエル顔であることもそうですし、わたしが犬の姿であることも唯一無二であらせられる、偉大なる神の御心なのです。『あなたの耳を傾けて知恵ある者の言葉を聞き、かつ、わたしの知識にあなたの心を用いよ』と神はおっしゃられています。箴言22章17節です】

「アンタが知恵ある者なん?」とツッコミを入れる。

 魔界からやってきたという黒猫のドラはわたしたちの声で眠りをさまたげられたのか、天井からひらりと落下すると、背中を丸くして、秦野のそばにすり寄り、ガリガリと爪とぎをはじめた。ときどき、鼻をならし、薄絹にのドレスのすそにスリスリしている。

「ヘビ女は黒猫に取り憑かれているのです」

「とゆーことは、アタシは犬に取り憑かれてることにならへんか?」

【あなたは人徳があるせいで、恩恵を享受しているのです】

「人徳があるんやったら、名代でなしにホンモノの大天使ガブリエルがじきじきに出張ってきてたんとちゃうのん? ゆーたやないの、ガブリエルはアタシの上司なんやって」 

【ガブリエルさまは、み使いの中のトップ・オブ・ザ・トップ。ダニエルさまの前にしか、麗しいお姿を顕現されません】

 そのとき、入り口の戸板が開いた。ハカシャが飛びこんできた。

 どうしたのかとたずねる前に複数の男たちがなだれこんできた。ハカシャを追ってきたようだ。

「助けてください!」ハカシャは立ち上がったわたしの後ろにかくれた。

 ルーシーは男たちにむかって黄いばんだ牙をむき出した。

「魔物だな」声高に言う男は、灯りのない部屋の中でも光る金髪を目にしてもひるむ様子はなかった。「そいつを、こっちへ寄こせ。おれたちは前金を払ってるんだ」

「前金……?」

「そいつは男娼だ」

「嘘です!」ハカシャは男の言葉をさえぎった。

「そいつの懐をたしかめてみろ。おれたちの金が入っている。とたんに、そいつは逃げ出し――」

 男が言い終わる前、ルーシーが無限大の形(∞)に頭を振ろうとした。敷物をはねのける音が聞こえた。

銀髪の秦野が立ち上がり、男たちが後ずさった。

秦野はハカシャの前にくると、頬を張りとばし、男たちの前に突き出した。

あっという間の出来事だった。

「ダニエルは、あんたが身体を売って稼いだ金で、王の前に出るときの衣服を整えたんだ。あの夜、なんのために、天幕に1人きりにされたのか、あんたはわかってた。あの時、ダニエルの身代わりになると、言ったよね。いまさら、1度に何人もの男の相手をしたくないと言ってもこの世の道理が許さないんだよ。ましてや、ダニエルの敵のわたしたちに助けを求めるなんてお門違いもいいとこだ。甘えるんじゃないよ!」

「まさかそんな……まだほんの子どもだし……」

 わたしはハカシャに、男たちに金を返すように言った。

「返せません」

「どうして?」

「キタバに渡しました」

【グゥワン。祭司見習いめ……】ルーシーは哀しげに鳴いた。

「ダニエルはこのことを知っているのかっ」

 問いつめると、

「何もご存じありません」

 秦野はたたみかけた。「知らないわけないじゃない。ダニエルに従っている者たちは、あいつのためだったらなんだってするのよ。それが使命だと本気で信じているのよ」

 ハカシャはうなだれた。そして、彼を待つ男たちの前に進み出た。先頭の男が、ハカシャの腕を引っ張った。ひげ面の男の顔は暗がりでもわかるほどに欲望でぎらついていた。

「これでいいだろ」

 わたしは小さな金の杯を男たちの足元になげた。

「あっ」とハカシャは驚きの声をあげた。 

 男たちは争って黄金色に輝く金杯を奪い合った。

「仲間のところへ帰れ」と言ってハカシャの細い肩に手をおいた。

 少年は振りむきざまに言った。「あなたには失望しました。神の宮のものに手をつけるなど、あってはならないことです」

「おまえたちだって――」

「王への献上品です。天のみ使いだと信じたわたしが愚か者でした。やはり、あなたは魔物です。ミカエルさまの敵でした」

 ハカシャは背筋をのばした。

「その器に触れると、あなたたちの上に災厄が振りかかります。それがいやなら、わたしに渡してください。ただとは言いません」

 ハカシャは男たちにしたがって廊下に出て行った。後を追おうとするわたしの背中に、秦野は言葉を投げつけた。

「気紛れで助けたところで、ハカシャはこの先も、同じことをする。いくらおバカのあんたにだってわかってるよね。ハカシャはああやってダニエルのためにわが身をすりつぶすしか知らないのよ」

 開け放たれた戸板をしばらく見つめていると、ルーシーは鳴き鳴き吠えた。

【サバン・秦野はいまや正真正銘の魔女です。あるときは占星術師、腹話術師。そしてあるときは復讐の鬼。その実体は毒蛇と女郎蜘蛛の合体なのです! いまに、口から毒の糸を吐き出すでしょう。あなたもわたしもその糸にからまれて殺される怖れさえあるのです。黒猫も殺人をなんとも思っていない魔猫。侮ってはならない! グゥワングゥワンウグゥウグゥ……】

 ハカシャの苦難を思うと、生死などどうでもいい心境になっていた。秦野は赤く染まったハンカチを床に叩きつけると、壁ぎわにあとずさり、背中からずるずると床にくずおれた。

 階段を降りていく男たちの嬌声がいつまでも耳から離れない。

 19 天国と地獄

 夜の明ける前に、わたしはリュックを背負い、ルーシーを連れて宿屋を抜け出した。予備校の帰りのあの日と同じように秦野を置き去りにした……。

彼女の敵でも味方でもないわたしには秦野の存在は重荷だった。

【いまのヘビ女は死の淵にいるのです】とルーシーは言った。

「秦野が死にかけてるんやったら、アンタもアタシもこの先、無事にすまへんゆーことにならへんか」

【Oh,No! 魔界に属する魔女と天界にぞくする天使とではそれぞれの世界でどのような地位にあろうと、不倶戴天の敵の関係にあるわけです。であるからこそ、存在する次元が交錯することがしばしば起きるのですワン】 

 石畳の夜道を、2人で歩いていると、ずっと以前からこうして歩いていた気がした。行き先もわからずに。

「なんのために、次元が重なるのん?」

【戦うためではありませんかーっ】

「アンタだけで戦ったらええやん」

【人間は体験しなかった出来事でも聞かされたり、イメージさせられたりすることによって偽りの記憶を形成するのです】

「それをゆーんやったら、アタシらも魔王に偽りの記憶を海馬に植え付けられたことにならへんか?」

 門前の篝火をのぞいて、街灯などないリブラの町は、月灯りが唯一の照明だった。ハカシャの一件で、街角には悪人や怪しい者が徘徊していると思っていたが、自分たちの足音しか響かない。

 ネカドネザル王が滞在しているせいだろう。

【不出来なゴボテンより、魔女のほうがファンクション――機能のことです。残念ながら、ファンクションが優れている傾向が顕著です】

「そやから秦野は、警備兵の記憶を上書きすることができたんや。スゴいやん」

【あれは初歩も初歩。もしかすると、魔界の王から与えられた彼女の魔力にわたしたちは勝てないかもしれません。ああ、なんのための天使派遣法かーっ!】

「悪の親玉ルシファーの娘のアンタのほうが、ファンクションとやらが優ってないとおかしいやん。能ある鷹は爪かくすそうやから、アンタには裏業があるんや、きっと」

 ルーシーは立ち止まり、目玉を左右に動かした。

 わたしが先に行こうとすると、呼び止めるように、【気持ちはうれしいのですが、過大評価しないでください。わたしは魔界から追放された身の上。人間の血流を分析して、海馬の記憶を再構築する父の魔術には到底、およびません。父は、明晰夢をコントロールする特許権を取得していますからね】

「特許権とゆーたら、このチビ猫、あんたの『ワンワンウーッ』を真似して、『ニャンニャンフーッ』ってゆーてたで。聞こえてやろ」

 ルーシーのまばらな毛の眉間に深い亀裂が走った。

【著作権侵害にあたります。魔界裁判所に訴えるまえにいっそ……ウーッウーッウーッ……】

「裁判所はないゆーてたやん。万が一、魔界にあるとしても無理とちゃうのん? もとネタは、ドラゴンボールの『カメカメ波ーッ』なんやから」

 ルーシーは耳をピンと立て、吊り目の目尻をさらに吊った。

【いよいよ魔界の王である父と永久に決別するときがやったきたのかもしれません。血で血を洗う争いとなるでしょう。過去から現在に至る人類の歴史を考察すれば、親子や兄弟でいがみあうことは、人類が知性をもった瞬間から魔界の王によって遺伝情報に刻印されているのです。止むを得ません】

「世界中で起きてる悲惨なことがあらかじめ決められてるのやったら、お父さんの存在も神サンの想定内ゆーことにならへんか?」

【There is no cause for concern】

「都合がわるなったら英語になるねんなぁ。思うねんけど、お父さんもなかなかのもんや。自分を創った神サンにタテつくグループのリーダーになるやなんて指導力があるねんわ。気にいらん人間を滅ぼす神サンより、懐が広いのかもな。さすが魔界の帝王」

 わたしが歩きだすと、ルーシーもついてくる。

【魔界の帝王の辞書に不可能の文字はありません。ただ1つをのぞいては――】

「ナニナニ? 出来ひんことがあるんやったら教えてよ」

【わたしのターバンの内側に、あなたが隠した〝イスラエルの石〟で時間を振り出しにもどすことです】

「時間を振り出しにもどすって、スゴロクみたいやな。振り出しもどすゆーことは、上がりになるってことやから、それって世界を終わらせるってことなん?」

【使用したことがないので、どうなるのか……】

 わたしは頭をかしげ、ルーシーを見下ろした。

「石の力を、アンタもよー知らんのんや」

【わかっているのは、世界を滅ぼすのは天地を創造された、いと高き神の先見事項だということです。魔界の王でさえ、神の創造物にすぎません。唯一のお方であらせられる神さまは、ご自分の第1の敵対者であるわが父に対してさえ愛情を抱いていらっしゃいます。それゆえに、世界の終わりをズルズルと先のばしにされておられるのです……】

「神サンは石頭のくせに優柔不断なんや」

【人智を超えたお方にたいして、なんと愚かな言説。不敬罪で罰っせられます。全能の神は万民に命令したり、制限を課せる力をおもちなのですよっ】

「石はあげるから、アンタが時間を振り出しにもどして、お父さんの後継者になったらどーよ。ほんならさっさとアタシは家に帰れるし、アンタはもとの美少女にもどれるんやないの?」

【イスラエルの石を使えるのは限られた人間です。少なくともわたしではありません。ヘビ女でも……】

「ミタマにできひんことなんてない気がせぇへんか」 

 高校の入学式の日、在校生代表で彼女があいさつをした。近寄りがたい彼女の美しさに、だれもが圧倒された。一分の隙もない印象だった。しかし、壇上をおり、わたしの横を通りすぎるとき、ほんの数秒、彼女は足を止めた。目線は前を見つめたままだったが、目に見えない何かが、彼女から発っせられた気がした。それは悲鳴のようなものだったかもしれない。もしかすると、自分の中のもう1人の自分を、彼女はわたしの中に見たのではないのか……。

「神サンのつくったリンゴの木の実って、種があったのかもしれん。それが化石になってイスラエルの石になったのかもな」

【ち、が、い、ま、す。重さもサイズも――】

 ルーシーの足取りは軽快だった。

「アダムとイブは楽園から追い出されたあと、リンゴの種を大事にとっといたと思わへんか。知恵がいっぱいつまってるリンゴやから種も大きかったにちがいない。子孫に伝えてるうちに化石になったんや。きっとそうや。アタシの発想ってスゴすぎひん? 神サンが人間の住む世界を滅ぼすと決めたんはそのせいなんや。それを防ぐ方法を、知恵のついた人間は考えたと思わへんか?」

【グゥグゥグググ……バカな魂は、神の壮大な叙事詩を永久に理解できない】

「神サンの思い通りになるヒトらのほうが、アホやと思うけどなぁ。聖書って、脅して洗脳するのに、都合のええ本やと思うわ。そう考えると、アンタの話は信憑性に欠けるな」

【グゥワン! わたくしを哀れまれたガブリエルさまのお力添えで天界に引き上げられたわたくしは、社会保障の充実した天使連合組合への加入が許されていました】

「ほんでも、アンタもアタシもエンジェルカードをもってないやん。非正規雇用やとかゆー嘘はもう通じひんで」

【魔界の王である父と天界の住人であるわたくしとは互いを、この宇宙のあるかぎり敵と見做さなくてはなりません。神を知らぬあなたには理解できない宿業です】

 ルーシーは、わざとらしく悲痛な叫び声をあげる。

「アンタとお父さんのルシファーとは実の親子やないのかもな」

【DNAの鑑定結果は出ています】

 ルーシーはギリッギリッと歯噛みした。

【72の悪魔軍団を統率する、スーパーエリートの父は、第一夫人の第一子であるわたくしが真正の唯物論者でないことに激しい怒りを覚えています。北王国の都サマリアで、バアル神に仕える巫女であった時期のことさえも、ブライドの塊のような父には屈辱だったのです。父は切望していました。魔女が集まるサバト、夜の宴のことです。そこでプリンセスの地位をわたくしが授かり、40の軍団を従えて権勢を誇る大侯爵アスタロトを婿に迎えることを父はのぞんでいました】

「へぇ、アンタのパパは婿養子をむかえるつもりにしてたんや」

【いくら悪魔紳士録に名のある人物であっても清廉なわたくしは、バアル神の巫女にリニューアルされる以前から、デブで不潔で醜い大侯爵と結婚する気は毛筋もありませんでした。父は、魔法の銀の指輪を鼻孔につければ臭いはなんとかなると言うのですが、美女の誉れ高いわたくしがどうして、鼻にピアスをしなくてはならないのですかーっ!】

「魔界に消臭スプレーは売ってないのん?」

 ルーシーは、くぅわんとか弱い鳴き声をあげた。

【60の軍団を率いるアビゴール大侯爵との縁談だったら……】

「40より60のほうがお父さんの72に近いし、たぶん、髭の似合うええ匂いのする美形なんやろな? ちょっと質問。侯爵にも大中小とあるのん?」

 ルーシーは黒毛の眉を震わせて、〝大〟以外は〝並〟しかないと言った。

「牛丼といっしょやな。大盛りと並盛りだけんなんや」

【Shut up!】

「下から見上げてるくせに、上から目線の物言いがうっとおしいねん」

 ルーシーはコフンコフン空咳きをすると、

【上級の魔神である彼は槍や軍旗を携えて、見目麗しい騎士姿で会いにきてくれました。なのに父は、まるで天使のようだと言い掛かりをつけて、端正で礼儀正しい彼を嫌ったのです。アビゴール大侯爵が未来を予知し、人間の有能な指揮官たちに兵士の信を得る秘訣を教授したことが気に入らなかったのです。彼は軍神と呼ばれる人びとの後ろ盾でした。勇者の守護神だったのです。冷静にして沈着。潔く、温情があり、知略に優れ、魔界にも地上にも天界にも2人といないお方でした】

「勇者の守護神が、魔界のえらいサン? 納得できるかも。ネブカドネザル王もアキサンダー大王も、自分の運命を知ってても突き進んだと思うもんな」

 ルーシーは聞こえないふりをし、【北王国の神殿に仕える巫女であったわたくしは、高位にあるエフライム族の守護神であった現世の父のために、ひたすらバアル神につかえ、イスラエル王国の勝利を祈る道しか許されていなかったのです。もしかすると、アビゴール大侯爵が――いとしい彼が--勇猛果敢な戦士に再生して、わたくしを救いにきてくれるのではないかと一縷の望みをたくしていたのかもしれませんワン……】

 と言ってため息をもらし、

【アッシリア兵に凌辱されるくらいなら地獄に堕ちたほうがましだと思いつめて自害したのも、心の奥底で彼への強い思いがあったからです。わたくしの死を知った彼は、父とアスタロトの軍団に戦いを挑んだのです。しかし、勝利の女神イシュタルは、愛されキャラのわたくしへの嫉妬から彼に味方しなかった。敗れて地獄の迷宮に閉じこめられたと聞いています……ウグゥウッウッグシュン】

「地獄にもロミ・ジュリがいてるねんな。泣けるわぁ」

 思わず、もらい泣きのふりをするわたしに、ルーシーは口も裂けんばかりに吠える。思わず、指を口に当て「しっ」と言った。

【父のように、宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客体的な物質であって、人間の精神も物質としての脳のひとつの機能にすぎないなどとほざくのは、主体の精神の働きを信じる唯心論者のわたくしには断じて承服しかねるイデア=思想なのです】

「あんたの延長型の物言いはさっぱりワカランワン」

【バアル神殿の巫女であったときも夜毎、悪夢にうなされました。箒の柄にまたがった魔女たちに取り囲まれ、『悪魔帝国にもどれ、もどって異端審問法廷に出廷しろ』と激しく責め立てられましたが、なぜ、悪夢を見るのか、理解できませんでした。生前というか、再生以前というか、上級議会から彼を閉め出し、爵位を剥脱したヴォラック大総裁が大審問官を兼任している法廷にわたくしは信頼をおいていませんでした。バアル神の巫女であったことで、裁かれるなどもっての他です。裁判とは名ばかりなのです。父である大魔王の意向を受けて判決がくだされるのです。父は自ら定めた司法を遵守していないにもかかわらず、わたしたちには苛酷な刑を課すのです】

「裁判官が買収されてるねんな。独裁国家にはよくあるパターンや。ほんでもバアル神って、ダニエルらのきらう神サンとちゃうの? のちのちアンタは大天使の名代なるんやから、バアル神の巫女に生まれかわるのはおかしい」

【Shut up! 上級下級を問わず帝国の大半の悪魔に魂の自由は許さていません。悪魔といえども神経細胞は個々人のものであるべきだと民主化を求めるわたくしやアビゴール大侯爵に父の支配する魔界での居場所はありませんでした。現実を直視しないメシア思想にかぶれていると、父にどれほど面罵されようとも独裁者の帝国の一員になれません。わたくしは彼の地位と名誉を汚したくなかった……ウグゥッ。スキャンダルは彼にふさわしくありません。だから、わたくしはたった1人で戦禍のたえない地上にふたたび性別を変更して活路を求めたのです……。彼がアッシュル・バニパル王に転生していることを願って、アッシリアの書記官になったのです……この悲しみ、この苦しみ……】

 グワァーン、ウググゥとルーシーは大泣きし、

【何もかも父の思う壷でした。冥界と地上を行きつ戻りつしているうちに、使命を人まかせにする無責任で、ずる賢い天使の口車にのったために、犬に転生したあげくに天使長の自覚のないあなたに従うことになって……】

「やかましいなぁ。アンタを騙したんは、ガブリエルなんか? 悪どい大天使やな。ときどきいてるねん。さもええヒトみたいな顔して騙すヤカラが」

【いえ、その見解の相違というか……】

 ルーシーは上目遣いになり、言葉をにごした。ふと話のツジツマが合わなくなったことに気づいたようだ。

【父の浮気のせいで魂を病んだ母を思うと……このまま地上にいて、あなたと行動をともにすることに一抹のためらいが生じるのです】と話をそらす。

「あんたのお父さんは大魔王なんやから、お母さん以外にも女の人がいてても当然とちゃうのん。ハーレムにも大奥にも男の人は1人やのに、女の人は仰山いてたんやから」

 養母ひとりを守っている養父の謹厳実直ぶりを思い出す。畏敬の念をいだくべきだった。

【母の名はサウジーネ。彼女はいま、アルゴリズムが変調をきたし、2つの頂点間のエッジの存在を効率的に探せなくなっています。魔界の女王の務めが果たせなくなっているのです】 

 ルーシーは喉に何かがつまったようなか細い声で鳴き、涙と鼻水を流した。シャワーを浴びたようにぐちゃぐちゃの顔になり、

【サバトのプリンセスから女王となった母は、悪魔帝国の重鎮らに非常に重んじられていました。地獄の宮廷の式部官からも。しかし、父の度重なる浮気に耐えられず、母のトポロジカルソートは壊れてしまったのです。母はどの順序で呪いの秘事をはじめていいのかさえも、わからなくなっています。そんなになっても母は虚ろな眼差しで魔界のサバトにさ迷い出ているのです。ですからわたくしは近い将来、SLBZ=サタンランド・ブラック・ゾーンにもどらなくてはならないのです。しかしながら、天界や地上より利便性と機能性にすぐれている魔界の悪徳に染まることは慚愧に耐えません】

「えっ!? ひょっとして、地獄のほうが、こっちの世界や天国より便利なん?」

【自分の思う時間に行きたい場所にブラックパワーで移動できますからね】

「なんちゅうこっちゃねん」

【超豪華仕様のハデス・エキスプレスを利用しても、運行をつかさどる者から賄賂は求められません。魔界の総統である父に魂を売りわたしさえすれば、帝国内のどのエリアに行こうと自由です」

「さっき自由がないゆーてたやん!」

【一旦、魂を売った者の天界への移行は容易ではないという意味です。ビザの申請をしても、許可がおりることはめったにないのが実情です。わたくしは特別に永住許可証がおりたのです】

「条件は、犬になって、アタシと契約することやったん?」

【その代わりと言うのも語弊があるのですが、使命を無事、果たしたあかつきには、天国の門をくぐったその日に身分証となるエンジェルカードカードが支給され、晴れてというか、GLWZ=ゴッドランド・ホワイト・ゾーンの一員となれるのです】

 わたしは腕輪に手をやり、

「IDカードとかゆーてた、これはなんなん?」と訊く。

【It is very delicate a question.わたしのものだったときの首輪には、わたしに関する個人情報が記載された内容が暗号化されて記されていました。しかし、あなたの腕輪になったのちはただの皮のひもになりました】

「そやから外してくれゆーたんや。自分の都合のええことしか、アンタはせぇへんねんな」

【ちなみにあなたの魂の罪科は神の目にはあますところなく露呈しています。しかし、重罪を犯した履歴をもつ者ほど改心すればゴッドランドでの序列は上位になります】

「アタシはどんな重罪を犯したん?」

【そのことに関しては低位の天使である、善良なわたしの関知するところではありまん。あしからず】

「だれに訊いたら、わかるんよ」

【このたびのミッションと真摯にむきあい、目的を達した暁にはもしかすると明らかになるやもしれません。ひとえに神のご加護を祈りましょう。アーメン】

「出撃前の戦闘機の前で、神サンの代理人が十字架をかざして『神のご加護を』ゆーて十字をきるのは目的を達するためやねんな。ふーむ。そうか。アンタのアビゴール大侯爵は、全能の神サンを信じてないんや。負けいくさを承知で指揮官になる人を応援してたんやな。ええヒトなんやろ?」

 この問いにもルーシーは答えず、【あなたは、神さまを落胆させた度合いが生半可ではないので序列の枠外なのです。戦力外通告とでもいうのか――】

「たぶんアタシはサタンランドの住人やったんや。それならそうとはじめにゆーてくれたら、ダニエルを助けたりせんかったのに。むだ働きやったわ。美形やけど、あの手のもったいぶった性格は気にくわんねん」

【断っておきますが、わたくしのいた煉獄の住人にIDカードは支給されません。したがって、天国にも地獄にも行けないのです】

「ちょっと待ってよ。アンタは天界の住人で派遣天使みたいなことゆーてたやん。アンタがしてたこの首輪はいったいなんなん?」

 アタシは腕輪を外し、手に取った。時計を外し、じっくり見ると〝7P〟の文字がかすかに見える。

【しゃべりすぎました……】

 ルーシーはふたたび立ち止まると腹ばいになり、鼻を鳴らし、いまにも飛びかかりそうな姿勢をとった。

【引き返しましょう】

 ふと思い出す。

「『神曲』にあったな! 煉獄山の門番が、ダンテの胸を3回たたいて、額に〝7つのP〟を表す傷をつける場面が……7Pってなんなん?」

【それどころじゃないんです】

「アンタが答えるまで動かへんで」

 ルーシーはしぶしぶ、【Pは、煉獄山の7冠で浄められるべき7つの大罪=Pecattiを象徴する印です】

「ほんなら、アンタのおでこに7Pがあるはずや」

 ルーシーはため息とともにうなだれると、【煉獄山の還道をめぐるためにはまず短期就労ビザの取得が求められます。ユーザーの要請で苛酷な環境=グレーゾーンと呼ばれているエリアのことですが、そこで天界に至る還道に足を踏み入れるのにふさわしい思考体であるかどうかが試されるのです】

「きっとひどい目にあうんやろな」

【言語に絶する環境です。拳闘士が多数参加するコロセウム=競技場は言うまでもなく、女子の戦闘集団=アマゾネスもいます】

「闘犬とかもあるん?」

 ルーシーの黒目がらんらんと光る。

【一番人気です】と言いつつわたしの上着のすそを噛む。

「人間は、勝った犬のエサになるんや」

【不味い肉を食べる犬はいません。さ、宿屋にもどりましょう。魔女と魔猫がいますがまだましです】

「犬に食いちぎられんや。試されるんやもんなぁ、しょうない。他にはどんなつらいことが待ってるん?」

【どうにか競技場をクリアしても、環道の前では門番が待ちうけています】

「やっぱりなぁ、地獄の渡し守のカロンがいてるんや。ほんで怒鳴るねん『悪党ども思い知れ、2度と空など仰げるものか、わしがきさまらをつれて行く。火の中、水の中、闇の中……』」

【カロンは三途の川が担当エリアですのでSLBZ=地獄の入口にいます。煉獄=グレーゾーンを担当しているのは一般的には環道の番人と呼ばれる処理係ですが実際は人ではなく、コンピュータのアマゾン・ドット・コムが担当しています】

「メルアドの最初にWWWが3つ、つくもんなぁ。ほんで?」

【インフォメーション・リトリーバル=情報検索ができるシステムになっています。それでも迷う人が続出しますから広大な空間の案内図を表示した小型の電光掲示板=タブレットを、マエストロから渡されます】

「マエストロ? ひょっとしてヴィルギリウスのこと?」

【長い年月、滞在していたのに何も覚えていないのですか!?】

「そうか、それで、ギュスターヴ・ドレの挿し絵のついた短縮版『神曲』が気に入ってたんや。オタク趣味にも理由があったのか」

【話をもとにもどします。各種競技場の他には、カジノなどの遊戯施設ももれなく用意されています】

「ドレの挿し絵はおどろおどろしいで」

 ルーシーはあきらめたように、【各国を代表する芸能が上演されるテーマパークもあります。たとえば日本館では歌舞伎、能、狂言、タカラヅカ、落語、吉本新喜劇、漫才に至るまであらゆるジャンルの演芸が昼夜を問わず催されています。飲酒、喫煙、薬物の常用は本人の選択にまかされています。恋愛に関してもオールフリーです。しかし、数ある誘惑のうちの1つにでも身を委ねれば破滅が待ちうけています。一瞬で地獄へ堕ちるのです。聖なるエリアに至る道を突破できる人間はまれです】

「――で、カロンの渡し船に乗って、本格的な地獄の苦しみがはじまるわけや」

 東の空がしらみはじめた。

【ファンとは愚か者の集団です。誘惑に打ち勝って天に召されるか否かの瀬戸際だとわかっていても、垂涎の演目が在りし日の名優や往年のスターたちによって演じられている誘惑に打ち勝てません。なんという罪深さでしょうかーっ!】

 聞き入ってしまう。

【Oh,my God.これらの誘惑を断ち切らなくてはビザが発行されないばかりか、還道を目にすることさえ不可能なのです。信念なき汚れた魂が、人びとを地獄の門へと近づけるのです。アーメン! 主イエスよ、み光をーっ】

 ルーシーは顎をあげ、黒ダイヤのような目でわたしを凝視する。黒い鼻の穴から息が音をたてて吹き出す。

「日本が誇るアニメやマンガはどーなってるん? 70~80年代にかけての洋楽はっ」

【Jesous Christos.天界ではバッハに代表されるクラシック音楽がイエスさまのお心を慰めるためにフルオーケストラで演奏されますが、煉獄と地獄の境界であるグレーゾーンでは思考をさまたげるジャンルの音楽が常時、生演奏されています。ロックはもちろんヘビメタやヒップホップをイメージしてもらえばよいかと思います】

「肝心のマンガとアニメはっ」

 ルーシーは胸筋をすぼめると、【脳内環境を悪化させるマンガやアニメについては、驚くべきことに見放題です。なお悪いことに風紀を乱す根源となるキャパクラやホストクラブ、それに幼い子どもまでもが……】

 と言いよどみ、

【美食大食堂やスーパー銭湯等がテーマパークに併設されているのです。神のみ光はいっさい届かず、人口灯のもと否応なく悪徳に染まってしまいます。だからでしょうか、人間より高位のみ使いたちがこっそりとグレーゾーンに入りこむのです。神の律法や掟に支配されているはずなのに嘆かわしいかぎりです】

「抜け道があるんや!」

 おぼつかない足取りで歩いてくる小さな影があった。

 遠目でも、ハカシャだとわかった。

【あなたが、境界を超える先例をつくったのです……】

 ルーシーにも見えているはずだった。わたしたちはくだらない話をつづけるしかなかった。そうしなければ、ハカシャに気づいたことになる。

「境界を勇気はあったんや」

 ルーシーは早口になった。

【あなたは地獄の住人よりも地獄を楽しんでいました。地獄しか知らない者たちは人目をはばかる服装に身を包み、大魔王主催のサバトに連日連夜、押しかけていますが時に遊びにも人付き合いにも疲れて引きこもることがしばしばあるのです】

「なんでよ」

【なんと言えばいいのでしょう。エスプリのきいた会話の苦手に人たちにとってサバトやサタン教会主催のパーティは重荷なのです】

 ハカシャはわたしたちに気づいているのか、いないのか、次第に近づいてくる。少年は暗やみの中で揺れているようだった。

「ほんで時々、中間地帯のグレーゾーンに逃げ出すわけなん?」

【身元を隠すためにインパクトのある怪物系にコスプレする者が続出しているのです。あなたのような爬虫類系の容姿は吸血鬼系につぐ人気があります】

 ハカシャは酔っ払ったように頭と身体を前後左右にゆらしながら歩いてくる。いまにも倒れそうだった。ルーシーが引き返そうとした理由はこれだったのか。聴覚で足音に気づき、嗅覚で確信したのだ。

「ほんなら、地獄の門には『一切の希望は捨てよ。わが門を過ぎる者』と書いてないのん?」

【もちろん、書いてあります。多少なりとも思考能力があれば、学びの場のない環境 つまり苦悩や葛藤のまったくない、思い通りに過ごせる空間に希望の光などあるはずがないではありませんかっ。グゥワン。自己啓発なくして神経細胞の活性化はありえません】

「神サンは、逆らう人間を硫黄と火でバーベキューにするゆーてたやん。アンタがゆーてんで」

【そうしてほしいと自ら願い出る自虐趣味の善人も少なくないのです。贖罪意識の過剰な人たちは傷つくことが快感のようです】

「地獄には火の吹く墓や血の海も氷の海もないんや! ということは、ひょっとして、天国って……?」

 すれちがう寸前、ハカシャは前のめりに倒れた。抱きとめる。1枚きりの筒状の衣のいたるところに黒ずんだ血の痕がにじんでいる。顔にも殴打されたあとがある。異様な臭気にハカシャはまといつかれていた。
 精液の臭いだと、ルーシーは小さく言った。

「だれにも言わないで……お願いです」

 ハカシャは呻くように言った。吐く息が生臭い。

「いつか、神がわたしたちの敵に復讐されて、王国をとりもどす日がくると、あなたは言った……」

 ルーシーは鳴いた。鳴きながら天国のありさまを話した。

【居眠り、飲酒、喫煙が厳禁されている神学アカデミーがまずあげられます。それに付随するエンジェルベビー養成所、天使教育学校、良書のみの大天界図書館、加えて神の歴史を語る上において不可欠の、10次元データベース化された天地創造博物館があります。神のしもべたちの衣服は白一色、過食を避けるためにひとかけのパンとワイン一杯の食事が3日に1回。会議の連続で多忙ですので個別の住居は必要とされません。カプセルホテルのような場所で7日に1日、立ったまま休眠します。彼らはいかなる理由があっても身を清く保ち、悪徳に染まりません……ウグゥウグゥ……だから天国はすばらしい場所なんです……】

「天国なんていらん……この子にはここが地獄なんや」

 ルーシーは、うなずくように首をふり、

【この世のすべての悪の根源に金銭がからんでいます】

 と言い、涙を流しながら言いそえた。

【魔王の父と異なり、負債となる罪科を自己欺瞞という名の債権に転化したり、デーモン投資ファンド購入などの金融政策を忌み嫌う天界においては常に財政難です。緊縮財政の結果、食事や睡眠を拒む天使も数多くいます。こうした自己犠牲はすべて人類を救うためです。なんと尊い行いでしょう……だから、ハカシャも……自らを犠牲に……】

「地獄が天国で、天国が地獄やったんや」

 ハカシャは気を失った。

 20 ツェホォンの子孫

 王の宴に呼ばれているはずのキタバとティィワがどこからともなく現われた。怒りが頂点に達した。

「おまえら、ハカシャの後をつけていたのかっ。ハカシャはおまえたちの中でいちばん年下だろ。それを、おまえらは――」

 2人とも無言だった。

「すっとぼけた顔を出すのは、ボロぎれみたいになったハカシャの懐から残りの金を取りあげるためにかっ。おまえらみたいなヤツらを悪魔だと言うんだ」

「ツェホォンの子孫に侮られるいわれはない!」とティイワが言った。

「いいのです……ダニエルさまのためなら何をされても……」

 ハカシャは消え入りそう声で言った。腰帯の中に金の器があるはずだと。腰帯などハカシャはしていない。凌辱の対価は傷ついた身体だけだった。

 ティイワがわたしに言った。「おまえは、神の宮の金の器を盗んだのか」

「恩知らずのおまえたちから、泥棒よばわりされるいわれはない」 

 わたしはハカシャを地面に横たえると、背中のリュックをおろした。あとひとつ、金杯はあった。それをハカシャの手のひらに握らせた。

 ハカシャは金杯を握りしめると、涙をひと筋、流した。

「罪ほろぼしをつもりか」とキタバが言った。

 神経が研ぎ澄まされていくのが自分でもわかった。武器はない。桔梗紋印で呪文を唱えようとも思わなかった。こぶしを固めると、駆け出した。ティイワの頬を思い切り殴った。後ずさるキタバの胸ぐらをつかみ、打ちのめした。倒れた2人を、なんども足蹴にした。殺したいと思った。

 ハカシャが、やめてくれと言わなければ、秦野にもらったネクタイで絞め殺していたかもしれない。

 キタバが言った。「いずれ、悪は滅びる。その日がたのしみだ」

 ティイワは血のにじむ唾を吐き、「ハカシャが自ら望んだことだ。魔物とそしられる、醜いおまえにダニエルさまやおれたちの何がわかる。神にしりぞけられたガド族のツェホォンめ!」と吐きすてた。

「魔物はおまえらだ」

「われわれには崇高な目的がある」とキタバが言った。

 2人はハカシャを抱き起こすと、両脇からかかえて去っていった。ハカシャの心情を思うと、この瞬間に、世界が滅びることを強く願った。
 ルーシーはキュンキュンと鳴いた。

 こぶしをほどくと、やりきれなさにおそわれた。

「なんでグレーゾーンの住人のアタシやアンタが天使長や犬にリニューアルされんとあかんのよ。このさいアンタとアタシのふたりで、天使の組合に訴えて、ハカシャのために被害者の会を結成したらどうやろ?」

【あなたには、来たるべき大戦争、世界の終わりに備えて覚醒しなくてはならない使命があります。エホヤキン王とダニエルさまに関しては、予行演習のようなものなのです】

「世界の終わりって……神サンが勝手にろくでもない世界をつくったんやから、勝手に終わらしたらええやん。そもそも目につく場所に知恵のつく林檎をぶらさげて、食べるなゆーほうが無理スジやろ? ヘビに誘惑してもらわんでもアタシは食べるで」

【What a shame! 末の日の前に、天界と魔界との大決戦がはじまるのですよ。み使いのかしらでる天使長であるあなたは、魔界の王の化身である龍と戦うことが定められているのです。そのとき、地上にも戦争が起きます。第三次世界大戦です。疫病が蔓延し、世界各地は自然災害に見舞われ飢饉に苦しめられます。あげくに、インフレーションによる物価の高騰で多くの国の経済は破綻します。詳細は旧約聖書の『エゼキエル書』に記されています。第7章です。神はイスラエルとユダの民に警告しています。『災いは引き続いて起こる。見よ、災いが来る。終わりが来る』そして、『この地に住む者よ、あなたの最後の運命があなたに来た。時は来た。日は近づいた』と】

「先にゆーとくけど、アオガエルはドラゴンに勝てん」

【多勢に無勢の初戦はともかく最終戦争では勝ちいくさになることは新約聖書の『ヨハネの黙示録』に記されています。プログラムを作成するさいにどこでどうまちがったのか不明ですが、出来損ないのあなたが選ばれたことに憤りを覚えます。この責任はプログラマーにあると思っています。あなたは任命されたとき、逃げ出したい衝動にかられ、グレーゾーンで時を無駄にしたというか、時間を置き忘れた所業もある程度は理解できます】

「ゼロ戦の特攻兵やないねんで。なんで悪魔軍団と火花を散らさなあかんのよっ。迷宮にいてるアビゴール大侯爵に頼んだらええやないの。恋も叶うし、一石二鳥やん」

【だからこそ、全能の神があなたを憐れまれ、魂を浄める機会をお与えくださっているのです。なんという恩寵でしょうかっ。グゥワン】

「アンタの話は嘘が満載や」

【神の憐れみを軽んじてはなりません。あなたはティイワの指摘したとおり、カド族のツェホォンの子孫なのです。ツェホォンの英語の綴りは、Zephon。日本国の中国音“Jinpen Kou”が訛ってZipanguになったのです。英語のJapan、フランス語のJapon、イタリア語のGiapponeもそれにならったのです。列島をわがものとしたカド族の一派は、中国人と会ったさいに、部族長の名ツェホォンを名乗ったのだと思います。それが中国人の耳にどうしてJinpen Kouと伝わったのでしょうか? おそらくガド族の使者が、あなたのように発音が悪かったのです。たぶんそうです。まちがいありませんワン】

 ルーシーは上目づかいにアタシをチラ見しながら、【あなたは大天使ガブリエルさまの後継者であるにもかかわらず、脳幹に問題があるせいで神経伝達物質が不足しているのかもしれません。統合失調症の疑いもありますしね、そのせいで、エンジェル養成所付属の天使学校の講義についていけず、指導霊の頭痛のタネとなり、天界のタグ付きのまま煉獄山の還道に投げ捨てられたのです。たまにあるのです、愛するゆえの神さまのくだされる試練が。ありがたいことです。アーメン】

 ルーシーは、ズズゥとよだれを飲みこみ舌なめずりしながら、

【煉獄山の裾野と魔界へとつづくグレーゾーンとの境界線は、電源官の管理する強固なシールドによって閉ざされています。にもかかわらず、あなたは天使長の特権を使い、羽根つきのカエルに変身してピョンピョンと飛び跳ねて堕ちていったのです。わたくしの父は非常に驚きました。魔界創設以来の珍事だと言って嘆いていました。天界のタグに関しては、父の一存で取り外せないという神さまとの契約があるせいで、父はガマカエルに手伝わせて、魔界のIDカードと天界のタグを重ねて首輪にしたそうです。このガマカエルに恩義を感じたあなたが、カエルに似せたマスクを選択したのは当然のなりゆきでした】

「つくり話もここまでくると、真に受けてしまうなぁ」

【グレーゾーンでのあなたの評判は芳しくありませんでした。テーマパークに入り浸って自分の好むものだけをひたすら見つづけるわけですからね。たまにわたしに付き合って、天界主催のクラシック音楽を聴きに出かけても、上席でふんぞりかえって居眠りしたんですよ。高名なバイオリニストは怒りのあまり、アンコールに応じなかったことくらいは覚えていますよね!?】

 アタシは首をすくめて、声を低めてたずねた。

「大魔王の子のアンタとは顔見知りやったん?」

【『義と不法になんの交友があるでしょうか。また、光が闇となにを分け合うのでしょうか』。コリント26章14節です】

「答えになってないやん」

【そういうこともあったのです】

「要するにアンタは地獄で光を求めて、アタシは天国で闇を求めてたわけなんや。それがなんで、いまいっしょにいてるん?」

【わたしだって本心を言えば、どうしてなんだと思っていますよ。この状況に立腹していますよ。This is too much!】

「串刺しの刑や石打ちの刑があったりして、ここにいてると地獄の責め苦におうてるみたいやもんなぁ」

【グゥワン。言っておきますが、地獄の責め苦などという発想そのものが、地獄の世界イコール魔界にはありません。そうでなければ、サバトは開かれませんし、プリンセスの称号も意味をなしません。父も大魔王の地位を維持できず、反政府勢力によって地上に追いやられていたでしょう。魔界帝国の長い歴史において、そういった異常事態もなきにしもあらずでした……】

「お父さんが地上に追いやられていたこともあるん?」

【神は怒り、父の影響下にある地上の人間を一掃されたのです。旧約聖書に〝ノアの洪水〟として記されています。類似する出来事は何度も起きています】

「もひとつ、よーわからへんのやけど、銀髪の秦野とニャンニャンフーの黒猫はほんまはどこからきたん? 秦野は自分を真正の魔女やと思てるみたいやし」

【グゥフフフン】とルーシーは黒い鼻の先で嗤った。【平板な容姿とありきたりの能力をひけらかす魔女ごときが、魔界のプリンセス=美魔女を自称するなど言語道断。自惚れるにもほどがあります。彼女は、魔猫の手引きで、罠すなわちウィルスを仕掛けられた添付ファイルを開いたにすぎない。サバトのプリンセスとなるには、メガデータをわがものとしている父の黄金製の割れたひづめの承認印がなくてはなりません】

「お父さんの足はひづめなん? 角を生やしてるサタンの扮装やないときはむく犬やないのん! サイズの合う靴を探すのに苦労するやろな」

【父は、付けひづめを愛用しています。装いに応じて容姿を変えています。変幻自在の父には年齢がありません。老いて萎びることも、筋肉増強剤で肉体美を誇ることもたやすいのです。だからでしょうか、女性にモテるのです。母の苦しみが増す原因でした】

「要するに、アンタのうちは大昔に家庭崩壊が起きたゆーことなんや。でもって、プリンセスになることを断った。もったいない。お父さんやお母さんの顔も忘れたんとちゃう?」

【あなたと違って、わたくしの場合、海馬とくに大脳辺縁系の働きは無限であり、自己のアイデンティティを形成するパーソナリティに至っては、恒久的な働きをしていますから忘却という脳細胞の自己破壊はありえないのです。しかし残念なことに母は、わたしや父と異なり、内部のフィードバックを丁寧にやりすぎる繊細な脳細胞すなわちソウル=魂の持ち主だったために、魔界掲示板に掲載された心ない中傷に傷ついたのです。魔界の王女の務めを果たせていない、娘のしつけがなっていない、このままでは大魔王の地位を脅かすなどなど……あまたいる魔女や悪魔の口に戸は立てられません。わたくしが母の傍にいなかったせいで……】

「お母さんはアンタのように嘘がつかれへんかったんやな」

【データベースと矛盾のない答えを出せなくなった母は大口のユーザーからも見放され……ウッウウウウウグゥワン】

 ルーシーは前脚の脛で涙をぬぐった。

「ユーザーって顧客のことやろ? 魔界のお客さんってだれやのん? まさか、神サンとちゃうやろな?」

【わたしには守秘義務があります】

「やっぱり、そうなんや。こっちの世界にくるずぅーと前から思ててんけど、神サンと悪魔がつるんでないことには世界中に起きてる悲惨な状況に説明がつかん。戦争や災害や疫病や、なんでもありなんやもん。あんたの話を聞いて確信したわ。この地上こそが地獄なんやって。寿命の短い人間は、神サンの創った玩具なんや」

【堕天使のごとき言葉を口にしてはなりません! すべては唯一無二の神の配剤なのです】

「そうゆーけど……イエスも魔王も神サンの子どもやったらみーんな兄弟ゆーことになるやん。唯一無二やない。神サンの自分勝手がいややからアタシはホワイトゾーンから転げ堕ちたんや。ほんで記憶をなくしたんや」

【あなたはその頑固さゆえに、試練に遇うのです。神のみ心は無限大です。どれほど偏狭で罪深い者にもみ手を差し伸べられるのです】

 秦野と黒猫が朝日に照らされた道を足にローラースケートを履いているかのように滑るような速さでやってきた。

「ねぇねぇ、ミカエルゥ。ミタマってぇ、シャムライにぃ嫌われてるのかもぉ~。ついさっきも、ミタマのことぉ~睨みつけたんだものぉ~。でもぉ、関心があるから広場にも残ってたしぃ、宿屋にものぞきにきたのよねぇ」

 髪は深紅にもどり、左手の小指ももとにもどっている。

「シャムライが何しにきたんよ」

「うふっ。わかんな~い」

 そこへ当のシャムライが追いかけてきた。

 マットウなヤツはこいつくらいだと思っていたわたしは、顔を見るなり怒鳴りつけた。あごの下がはずれるんじゃないかと思うほどの大声になった。

「てめぇらは、ハカシャが身体を売った金で、ダニエルの衣を買ったのかっ。恥をしれーっ」

 シャムライはあきらかに動揺した。赤面し、うつむいた。

「なんで、神殿に山ほどあった黄金を売らなかったんだっ」

「おれたちの命より大切なものだからだ」

「ハカシャは器ひとつの値打ちもねぇのかよ」

「……だから、助けにきたんだ」

「おせぇんだよ。キタバとティィワが連れてったよ。あんなみじめな子どもを、生まれてはじめてこの目で見たよ。うちらの国にも、女に身体を売らせて稼ぐ連中がいるけど、客が、約束通りの金を払わず、商売道具の女を傷物にしたらただじゃすまさねぇんだよ。おまえらは……親を亡くしたばかりのハカシャを……さびしい思いをしているハカシャを……利用してるだけなんだよ……ハカシャはダニエルにやさしい言葉をかけてもらいたくて、ただそれだけで……許さねぇ……クズ野郎のおまえらを、いつかかならず叩きのめしてやる」

「おまえの力で、おれは倒せない」

「あっらぁー! 終わったことなんだしぃ、もういいじゃないのぉ。おなか、すいたよねぇ。この町にはぁ、五つ星レストランとかないのぉ?」

 秦野は仲裁役をかって出ているつもりなのか。

 ルーシーの黒目が据わる。

【まちがいなく性悪の雌猫が、ヘビ女に憑依しています!】

 シャムライは腰の剣を抜いた。そして、わたしに剣をとるように言った。

「貸してやる。殺せるものなら、やってみろ」と彼はわたしを挑発した。

「力のない者は大口をたたくんじゃねぇ! キタバとティイワが、どうしておまえに殴られて抗わなかったのか、わかるかっ。たとえ相手が信仰なき者であっても、ダニエルさまは他者を傷つけることをお許しにならないからだ」

 わたしはきびすを返し、来た道を引き返した。強い日差しに照らされて、立ちくらみがした。銀色に輝く雲の下、農民が町の門にむかって歩いて行く。男たちは鍬をかつぎ、女たちは頭の上にかごをのせている。そのうしろを農奴を率いる数人の男がついていく。商人らは荷車に積む食料や織物を奴隷に運ばせていた。宿屋にもどり、一階の酒場でパンと水をもらった。支払いはアリオクがしてくれるらしい。彼がいなければ、わたしたちは奴隷になるしかない。

 だれが整えたのか、床は掃き清められていた。リュックを床に叩きつける。セーラムはキャラバンのおっちゃんにプレゼントしたので、こういう気分のときの気晴らしをする手持ちのものが何もない。ルーシー用にとってある、のど飴を取り出し、ルーシーのワニ口と自分のカエル口に1つずつ放りこむ。

「またぁ、ふられちゃったぁ~」

 秦野はそう言ってうつぶせになったかと思うと、手足をのばし、身体を長くした。その格好で匍匐前進をはじめた。

「な、なんなんだよ」

 床を這っている秦野の首が突如、立っているアタシの耳のあたりにまで伸びた。半開きの口が真横にある! 

びっくりしたせいで、飴が気道をふさぐ。彼女の深紅の髪の1本1本が蛇に見える。秦野の前世は女郎蜘蛛ではなく、英雄ペルセウスに退治されたメドゥサだったのか!

 声が出ない。飲みこむことも、吐き出すこともできない。

 ルーシーは例のごとく頬をふくらませて飴を舐め舐め、講釈をたれる。

【小泉八雲の『怪談』に出てくる〝ぬけ首〟ではなく、若い娘によくある〝ろくろ首〟のようですね】

 ルーシーは目を白黒させているわたしの苦しみは通じない。

【シャムライに恋をして、彼が訪れるのを待ちわびて首が伸びるのです。なんという慎みのなさ、見苦しいっ!】

 秦野の首はアタシの首をひと回りした。ゲェッと悲鳴をあげたおかげで、喉の奥ののど飴が無事通過。

「く、く、く、首をくねらせると玉結びになって、ほどけなくなるかも」と秦野にアドバイスする。

「ずぅーとぉ、訊きたいと思ってたんだけれどぉ、これってホントじゃないよねぇ? 鏡を見てて気絶してぇ、夢の中にいるのよねぇ。おじぃちゃまの言う〝スペース・オペラ〟を見てるのよねぇ。だってぇ、タマミがぁ、見向きもされないなんてぇ、ありえないものぉ」

「SFのジャンルではないと思う。たぶん、ホラー系に近いんじゃないかと――もちろん主役は秦野、いえミタマさんです」

「ただねぇ、ミタマの夢の中にぃ、どうしてミカエルんちの犬がぁ出てきてぇ、あんたに命令しているように見えるのかぁ~。イヤじゃな~い。ミカエルのお友達は、ミタマよねぇ? ドラちゃんに吠えるしぃ、この犬、ムカつくのよぉ~」

「ルーシーとアタシは、お、お、お互いに身寄りのない身の上なので親しくしているだけなんです」

 グワァーンとルーシーは大砲のように吠えた。

【ミカエル、あなたはどうして、このわたしが友誼を誓った終生の友であると、明確に宣言できないのですか! 魔女の口車にのって契約を反古にするつもりですか! 契約に違反した場合の地獄の責め苦がどのようなものなのか、わかっているのでしょうね!】

「カジノなんやろ? 行ってもええけど、その前に、この襟巻きトカゲ状態をなんとかしてよ。ろくろ首と友達のつもりなんてゼンゼンないって」

 秦野の顔が目の前にくる。子猫は、秦野のうどんのように伸びた生首にバラの刺のような爪を立ててよじ登る。白い首にポツポツと血玉ができる。子猫の赤い舌がそれを舐める。アタシの首は保護するものがない。子猫が吸血鬼の子孫ならわたしはどーなる!

「思いがけない体験をしてみたかっただけなのぉ。ぜ~んぶ、ほんものじゃないよねぇ~。でないと困るぅ。シャムライにぃ、魔女だと勘違いされてぇ、しまったかもぉ~」

唇を噛みしめた彼女は恨めしげにわたしをにらむ。

「生まれてぇ、はじめてのぉ、恋なのにぃぃぃぃ……」

 わたしとルーシーは顔を見合わせた。

【マークシートに強い天才は魔界の猫族に上書きされやすいのでしょう】

 ルーシーはそう言うと、秦野の胴体に近寄り、においを嗅いだ。【なぜか猫憑きの臭いがしません。グゥワン。スパゲッティプログラムなのか、スパイラルモデルなのか。グゥワン。忌まわしいガキ猫は無邪気を装って、巧妙にパワーを隠しているのかもしれません。疫病神です】

 子猫は、片耳を横向きにして考えこんでいるルーシーの頭にむかって、鉛筆みたいに細い四本の脚をめいっぱい広げてジャンプした。ルーシーは接触する寸前に頭をぐるりと回し、胴震いをしてギャンギャンと火を吹くように吠え立てた。子猫は着地点にしようと目論んでいたルーシーの頭部が一回転したせいで床に落下したが体がゴムでできているのか、フニャアと甘えた声で鳴いてルーシーの目の真下でゴロンと仰向けになりお腹を見せた。

【雌猫だと思っていましたが勘違いでした。将来は、女心をとろかすジゴロのような雄猫に成長する気配が濃厚です。いまのうちに――ひと思いに息の根を――】

「ルルルルゥーシーシーも、あーあっあっあー頭がぐぐくぐるぅっと回るんやーっ」歯の根が合わず、がちがち鳴る音は楽器さながらにひどくなるばかり。

【もともと魔界出身の履歴ですからね、煉獄に短気就労ビザで滞在したとはいえ、ガブリエルさまの名代を拝命した以上、ヒラテンといえどもこの程度のことはできて当たり前ですよ。言うならば、東大で哲学と物理学を学んだのちに、オックスフォード大に留学し、超電動に関する博士号を取得したようなものです】

「超電動で、頭がひと回りするのん?! 時間を止めるとき、横向きの8にも振れるもんなぁ……」

「ドラちゃんはどこぉ」

秦野の顔が首根っ子にUターン。

「あっらぁー! かくれんぼするぅ?」

 首筋の血痕に気づく様子もなく、子猫を抱き締める秦野をひと睨みしたルーシーは、歯茎をむき出す。

【魔女に黒猫は必須アイテムですからね。悪魔軍団を率いらせないためにも1人と1匹の脳内システムを破壊し、機能停止状態に追い込んでやりますよ。グッフッフッ】

 笑いを噛み殺すルーシーに、どうするつもりなのかたずねる。

【首と両手両足と尾っぽをしばって、一気に引っ張り引き千切るというのはどうでしょう。お望みなら、千切れた肉をミンチにしてハンバーグにでも】

 ルーシーの額のまばらな毛の下に、7Pの文字が浮き上がる。

「ゼッタイ、たたた食べへんでっっ」

 喉が渇いて唾がひからびる。

【メモリーチェーンに異常のある、この異常な疑似母子関係を断ち切らないことには、悪を成敗し、神の正義を貫くというゴボテンの使命を果たせません!」と牙をむき、唸るルーシー。

【グググググゥゥゥゥ……I did it】

「子猫に悪意があるとは思われへんねんけどぉ。めっちゃかわいいし……ミンチ肉にするのはちょっと待ったほうが」

【煮え切らない思考で、この難局を乗り切れると思うのですかっ】「難局なぁ……南極とはちがうよなぁ。ペンギンが可愛いから南極に行ってみたいねんけど……あんたは、シベリアンハスキーやないから、凍死するかもな。しかし、その牙で、かき氷はすぐにつくれそうやな。まぁ、そのなんてゆーか、秦野は一応、むこうの世界で知り合いやったし、井戸に落ちて行方不明になったアタシを捜索してくれたみたいやし……このさい、多少の融通をきかして……」

 マトはずれの返事しか思いつかない。

 ルーシーは目を閉じると、深いため息を吐いた。

【サブプログラムのあなたまでもが、魔猫からマインドコントロールを受けているとは、悲劇です。至急、変数を初期化し、パスワードを変更しなくてはなりません。闇と光、悪と正義とは交われないのです。わたしたちは神と精霊の名において闇と悪とを粉砕しなくてはなりましぇーん!】

「粉砕はアンタがしてくれるんやろ?」

【天使長であり、オスプレイでもあるあなた自身が、サイバー攻撃の進入路をふせぐための解析作業をやらずしてだれがやるのですかーっ】

「具体的には何をどーやるん?」

【わかりやすく、有り体に言えば、悪魔祓いの儀式です】

「アンタの話はいっつもそうや。めちゃめちゃ回りくどいねん。アタシに、できるわけないやん! ビームの出るカッターナイフももうないし……さっきもシャムライに言い負かされたやん」

【日本名のミサゴは絶滅危惧種に指定されていますが、この程度の魔猫となら対等に渡り合えるでしょう。もしもの場合は、サマリアの門前で騒いでいたペレスと呼ばれていたときのように、疫病でコロリと死ねばいいだけのことです。大げさにさわぐほどの神の試練ではありません】

「そんなんは試練と言わんはずやっ」

【なんといっても、あなたは仮にもコボテンなんですから、死んでそれで終わりというわけではありませんしね。余裕ですよ。気楽にやってください。不出来な天使長として今生の思い出に1つくらい、誇れる行いをしてもいい時期です。この世界での残された時間もわずかなんですから、あとのことは更新頻度の高い、トランザクション処理に長けたわたしにまかして立派に昇天してください。天界の門番である3人の天女が門を開いて受け入れてくれるかもしれません。エンジェルカードは無理でも永住許可証くらいは期待できます】

「ゴボテンなんやから、昇天して天界で根腐れするより、地下に潜って根を張ったほうがええねんて! マンガと映画漬けのカラッポの頭なんやから自慢できるような大役はつとまらへんて! ここはやっぱり、ルシファーのひとり娘が出張らんことにはカタがつかへんて」

 ルーシーは左の耳を前へ折り曲げた。考えこむような素振りをみせたので、内心、ほっとする。

【今夜、早速、この町にある宿屋の台所を借りましょう】

「せぇへんてゆーてるやないの!」

【時間の経過が期待できます】

 腕時計を見る。まったく進んでいない。

 1時36分6秒。

【まず大釜がいります。暇を持て余している兵士に手伝わせて、黒猫を捕獲し、悪魔のエキスとなる生き血まず抽出したのちに山羊の乳と清らかな水を用意しなくてはなりません】

「生き血って……」

【魔猫の悪魔払いには不可欠です。もし、あなたが悪魔払いをしない気でしたら、この場でこの黒猫を食い殺します】

 子猫はゴロゴロと喉を鳴らしてルーシーにすりよる。ルーシーはゴクリと喉を鳴らし、下顎が床につくほどの大口を開いて牙をむき、子猫の小さい頭によだれをたらした。よこしまな心など微塵も見せない子猫は上を向く。ルーシーは一旦、ワニ口を閉じ、枇杷の大きさほどの子猫の頭をペロペロと舐めはじめた。たちまち子猫の頭の毛はジェルで固めたようにテカテカと黒光りしている。舐められるという行為を、子猫は愛情の一貫だと勘違いし、踊るように飛び跳ねて喜びを全身で表している。

 頭の中が空中分解しそうになる。

「えーそのぅー努力してみるわ。秦野の見てないときに、子猫の前脚をちょこっと切って、吹き出した血を採るわ」

 ルーシーはうなずくように、頭を上下にふり、

【魔猫の脚を、正義の光子=ビームで切り刻む決意を天使長のあなたが表明したのであれば、聖体拝領した身のこのわたくしがふつつかながら〝祓魔儀式〟を執り行いましょう。ゴォワゥワン】

 カッターナイフはないと言ったのに、ルーシーは聞く耳をもたない。

「言いにくいねんけど、映画の『エクソシスト』で、女の子に憑いてる悪魔が、神父に乗りうつるシーンがあったんやけど、秦野から抜け出した悪魔がアタシに棲みつく気になったらイヤヤから部屋で待ってたいねんけど」

 乙女のまま悪魔に変身するなど惨めすぎる。しかし、ヒラテンことルーシーは許さない。

【カエルに似たゴボテンに憑依する物好きな悪霊など、この銀河系宇宙に存在しません。悪霊は美意識が高いですから】

「そーなんや。それで、実の親にも捨てられたんや。ハミゴにされるのは、ゴボテンやったからなんや。長年の疑問がまたひとつ、明らかになったわ」

【醜い者ほど神は愛され、試練をお与えになるのです】とルーシーは言った。そして、のど飴を3つ要求した。

「神サンに逆ろうたガド族のツェホォンやから、試練を受け入れるしかないねんなぁ」

 わたしとルーシーが秘密の話し合いをしている間も、秦野はヘビ女のまま、ドラとじゃれあっていた。

  21 魔鏡

 今夜ほど金冠頭に戻った頭を重く感じたことはなかった。守備隊長がわざわざやってきて、明日、ネブカドネザル王の宿泊する高層の建物に参内せよという王命があった。

なんでやねん。

一度は殺されかけたのに、王サンの気持ちの変化にとまどうばかりだ。

 その夜、秦野は子猫を入れたかごを持ち、わたしはフラッシュライトで足下を照らしながら宿屋の台所へ下りた。

「ねぇねぇ、なんの遊びがはじまるのぉー」と、知らぬが仏の秦野ははしゃぐ。

 かごの中の子猫は小首をかしげて、まんまるの瞳で秦野とわたしを交互に見ている。3本脚になっているので歩けないのだ。包帯でグルグル巻きにした前右脚を細く切った布でたすきがけにし、固定してある。秦野には天井から落ちて骨が折れたと嘘をついている。

 宿屋の女主人に、大釜をのせた低いかまどに薪をくべて、湯をわかしてほしいとたのんだ。

「勝手に使わせられないね。店はいまから、かきいれどきなんだよ」と、横に転がったほうが速いようなオバサンが横柄な口をきく。

「その光る棒をくれるなら、考えないこともないけどさ」

「これは魔法の杖なので、心がけが悪いと、光が消える。それでもいいか?」

 オバサンは嬉々として手を突き出した。

 ダマスカスからやってきたキャラバンの連中で店内は混雑していた。

 わたしは陶製のランプを借り、百円ライターで火を点けた。

 どよめくような歓声があがった。湯が沸騰したと知らせにきた召使について奥へ。物見高い連中もついてくる。

 かまどの火と釜から立ち上る湯気は目の前を白くした。

 積まれた薪のうしろから、今夜の主役であるルーシーが重々しい足取りで出てきた。ターバンをしているので、犬の王に見える。

ついさっき、女主人から羊肉をもらい、たっぷり食べたせいかゲップをし、いつものように屁をひった。

「この犬は、悪魔払いができる」

 わたしはそう言って、陶製のランプで室内を照らした。

「おおっ!」と、みな一様に驚きの声を発した。

 わたしはしゃがみこみ、ルーシーにささやいた。

「ここって手塚治虫の『ファウスト』の〝魔女の厨〟と似てるな」 秦野は不満なようだった。

「ねぇ、ねぇ、なんでぇこんなところにぃ、くるわけぇ」

「アンタのドラちゃんの怪我にきく魔法を、うちのルーシーが知ってるらしい」

「あっらぁ! そうなのぉ、だったらいいわぁ~」

 ルーシーはたじろぐどころか、フッフッフッと鼻息でせせら笑い、フラッシュライトまで手放すなどもってのほかだと言ってわたしを見据えた。そして、頭を突き出し、

【ターバンを取って、ライオンに見えるように前髪を逆立ててください。中国の動物園には、ワンと鳴くライオンがいると仄聞しています】 

 ターバンをとると、禿げ気味の額があらわになった。

「そないゆーけど、逆立てる毛がないやん。どないしたらええんよ」

【致し方ありません。アデランスで代用します】

「そんなもんも出せるん!」

【自転二輪者で実証ずみですが、アプリケーションソフトの1つとして、わたしには何もないところから物質をつくる波動パワーが搭載されています。さらに言えば、分子の結合がゆるい状態の水を水蒸気にかえて目に見えない状態にしたり、分子が固まる氷になるように目に見える状態にしたりも不可能ではありません。すべては3にして1、1にして3。水は固体、液体、気体。時間は過去、現在、未来、物体は縦、横、高さ――】

「自転車や鬘や水がつくれるんやったら、出そうと思たらなんでも出せるんや。砂漠で水に困ることもないし――いや、もとの世界にもどることも――」

【グゥワン! 頭が悪いだけでなく耳まで悪いとは! 水そのものをつくれるといつ言いましたか? 生活必需品を必要最低限、調達できる能力があるに過ぎません!】

「鬘は必需品と言えんやろ?」

 不審の目を向けると、

【神の戸口は分子の結合でできていません。真空を伝播する神のみ光でできています。光というのは電磁波です。その電場=磁場=結界をつくり出すほどのパワーはありませんので、あしからず】

「タイムスリップしたやん。頭を無限大の形に振ることも」

【海馬の機能不全のあなたに解説しても理解不能だと思いますが、磁場は循環的なのです。力ではなくポテンシャルが重要なのです。ポテンシャルの任意性 A’=A+V∫ すなわち波動方程式に帰着するわけです】

「わかるようにゆーてよ」

【いまのところ、アククゥツの胴体に磁場があるのです。この状態で2592年もの未来へ移行するとなると、重力が反転する恐れがあります】

「なんであんたのトモテンのお腹に磁場があるんよ」

【友達の天使だからトモテンですか、ま、いいでしょう。彼の胴体に磁場が搭載されているから時空を翔べるのです】

「悪魔祓いの儀式を手伝うんやから、終わったらさっさともとの世界へ飛ばしてよ。家にもどりたいねん」

【この壮大にして緻密な世界を創造された神のみ力におよぶ存在はこの宇宙に皆無です】

 黒猫は小首をかしげ、黒い瞳でルーシーをひたすら見つめる。

「悪魔払いの儀式って、神父さんがするんやろ? 犬でもええの?」

【わたくしの独断で、行います。いけませんか? 文句があるなら、あなたが儀式を行なってください】

「なんかしら、騙されてるみたいな気がして――この子、めちゃくちゃ可愛らしいやん」

【天地がひっくりかえってもいいのかっ! 無知蒙昧の能なしゴボテンめ、天使のはしくれなら多少なりとも生きもののことを考えろ! 魔猫を生かせば極の反転が起きる。北極と南極が反転してみろっ。北極熊とペンギンはどうなる! 引っ越しを余儀なくされるのだぞ】

 秦野が怒りだす。

「犬とばっかぁ、話すんだったらぁ。お部屋に帰るぅ」

 野次馬も文句をたれ出す。

 わたしは口をつぐむ。

【ウォッフォン。それでは早速、魔猫の本性をおびき出す効果のある、バナナラマの『ヴィーナス』を流します】

「儀式用の楽曲にふさわしくない気がするねんけど……なんとゆーても80年代のポップスやし……秦野は知らんと思うし……わたしの好みとしては、バックストリート・ボーイズの『ゲット・ダウン』のほうが……」

 ワニ口になったルーシーは長い舌をグゥチュンと音を立ててまわすと、オリーブオイル数滴とのど飴2つを要求した。

「血糖値があがるんやないの?」

 ルーシーはオリーブオイルでのど飴を流しこむと、

【かつてシュメル、アッカドの時代には豊饒、愛、戦いをつかさどる女神イナンナはイシュタルとも呼ばれていた。その後の、バビロニア時代には暁の明星、あるいは宵の明星の女神とされ、古来数千年にわたってメソポタミア地方全域で広く信仰されたーっ。イシュタルはマッサトは〝王女さまの意〟であり、テリトゥは〝並はずれた強さの意〟である。グゥワン!イシュタルは多くの称号をもち、随獣は獅子。それがいつのまにか、口惜しいことに、ギリシア神話に登場する愛と美と春の女神=アフロディーテやローマ神話のヴィーナス、性愛を意味する女神と同一視されようになり、あげくのはてに取って代わられた。いまでは、ヴィーナスが神々の世界でもっとも美しい女神としてハバをきかすようになっている。しゃらくさい。グゥワン! 寵愛の鳥が白鳥と鳩だとぉ! 花はバラにキンバイカだとぉ!】

 ルーシーは野次馬にむかってウーウーと牙をむく。

【嫉妬深く、復讐心の強い女に女神の称号はもとより、平和の鳩や慈悲のキンバイカはふさわしくなーいっ】

「ほんでなんや、『ヴィーナス』のミュージックビデオの美女3人が吸血鬼に扮してるのは」

【黄金の壁とダイヤモンドの柱でできた宮殿に住むヴィーナスこそ、黒魔術を自在に操る魔女の中のトップ・オブ・ザ・トップなのである】

「えらい人になると、眩しい家で仕事するねんなぁ。神サンみたいやな?」

【ウォフッォン! ただいまより白魔術を行い、サバン・秦野に憑依している雌猫を追い払う。それではまず、闘いに備えてエネルギーを補給をする。しゃべりすぎて喉が乾いた】

 ルーシーは、ピチャピチャ音を立てて皿に入れた山羊の乳を舐めはじめた。

「自分用なんや」

 思わずつぶやくと、ルーシーはわたしを睨みつけ、

【平和の君の定められたことに、ヒラテンごときは異を唱えられなーい! のど飴が足りん。もう2つ】

 ルーシーは口を開ける。

「口は重宝やなぁ」

 のど飴を入れる。

【『つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある。しかし知恵ある人の舌は人をいやす』。箴言12章18節。あなたも、わたしの1%でも知恵ある天使になるよう心がけなくてはなりま せん」

 いつのまにか、わたしの手のひらに、紐つきのウィッグがのっていた。台所を埋め尽くす人びとは感嘆の声をあげた。

 わたしはターバンのかわりにウィッグをルーシーの頭にくくりつけ逆立てる。

「あっらぁ、カワユ~イ!」秦野は機嫌をなおし、手を叩く。

 子猫はウイッグを猫じゃらしと勘違いしたのか、片脚でジャブを繰り返している。ボクサーの気分らしい。

 ルーシーは口のまわりを長い舌で舐め終えると、子猫を威嚇し、【神と精霊の御名において、祓魔儀式をはじめさせていただきます】

 おごそかに宣言した彼女は、バナナラマの歌う軽快なリズムに合わせて前後左右にステップを踏み、「アイム・ア・ヴィーナス」のくだりで頭をぐるんぐるんと振り回した。

 秦野は大声で歌う。知っていたようだ。

 しっかりくくりつけたはずのウィッグが、猫の生き血の代わりに用意した赤ワインの入った皿にバサリと落ちた。

 ルーシーの額の禿げが目立つ。

【猫の生き血に浸したウィッグを両の手に押し戴いて、釜の周りを3回まわってください】

 ルーシーに命じられ3回まわると、かまどに投げ入れるように言う。人毛のウィッグはチリチリ音を立てて燃え上がった。

【次に、大きな麻袋の中にあるものを指名通りに、煮えたぎる湯の中に投げ入れてください】

「これはぁ、ここの台所にぃ置いてあるぅゴミ袋よ~ん」と秦野は心配げ。

 野菜の切れ端や、原形が何であったのか識別できない骨や、怪我人の手当てをしたあとの血に染まった布切れや……ゴミにしか見えないものばかり入っている。

【辛い液のある花!】

 ルーシーは歯牙にもかけない。

【聞こえていないのか!】

 わたしがあごをしゃくると、秦野は、日本では考えられない大きさのキュウリのへたを掴んで熱湯に投げ込む。

 グワングワンとルーシーは吠えた。

【ふきこぼれないように、杓子で、泡をすくえっ】

「わかったわぁ~」

 秦野はルーシーの言葉がわかるらしい。

【種のついた魔法の草】とルーシーが言うと、秦野はしなびたイチジクを入れる。そして、秦野は言った。

「ミカエルの所持している聖なる石!」

「そんなもの、もってるわけないじゃん」

 言い返すと、

「ミタマにぃ、返してよぉ~」

 石と見せかけて百円ライターを投げ入れる。ボンと何かが爆発する音がした。みないっせいに悲鳴をあげた。思わず後ずさったわたしは、百円ライターのガスが爆発したのだろうと思った。

 爆発音が聞こえたのか、聞こえなかったのか、ルーシーはさらに要求する。

【太平洋の岸辺からもってきた砂、月の光から集めた白い霜、叫ぶフクロウの頭と翼、オオカミの内蔵、亀の甲羅の粉末、牡鹿の肝臓、人の世の九代まで生き延びたカラスの頭とくちばし】

 などと言いたい放題。秦野は女主人に手伝ってもらい、手当たり次第に袋の中身を放りこむ。

「これってぇ、メディアが、イアソンの死にかけてるお父さんのために作った煮汁の作り方とぉ似てな~い? ねぇ、ミカエルゥ」

 秦野はゴミをつかんだ手をひらひらさせる。

【『身分の低い人でも自分で働く者は、みずから高ぶって食に乏しい者にまさる』。箴言12章9節】とルーシーは吠える。

 釜の煮汁は湯気が立ち、グツッグツッと沸騰している。ひどい悪臭だった。みな、鼻をつまむ。秦野ひとり、平気なようだ。蓄膿症なのか?

【大きな木のしゃもじで釜の中をかきまぜよ】とルーシー。

「手が空いてない!」とわたしは鼻声で歯向かう。

【『悪しき使者は人を災いにおとしいれる、しかし忠実な使者は人を救う』。箴言12章17節】

「このさい、悪しき使者でええって」

 秦野は山伏の杖より大きいしゃもじを手にすると、

「ドロドロのお汁をぉ、くっちゃくっちゃにぃまぜればいいのねぇ~」

 と言うが早いか、腰掛け用の小さな台の上に乗り、木のしゃもじで釜の湯をまぜた。

 紫色の煙が釜から立ち上った。

 見物人は1人もいなくなった。

 秦野は声をあげて笑い、

「ただの煙じゃないのぉ~。ドラちゃんだって平気よぉ。ほ~ら~~」

 突然、百円ライターが煮汁の中から飛び出し、「ほ~ら~~」と言う秦野の口の中へ直行した。強い衝撃だったのだろう、秦野はしゃもじと一緒に体ごと壁までふっ飛んだ。壁ぎわにあった土器が粉ごなに壊れた。

「えーーっ!!!」

 見ると、ルーシーは尻尾をお尻の間に入れて、横倒しの姿勢になっている。這ってそばに行くと、薄目を開けて、すぐに閉じた。

 秦野は両脚をのばし、壁にもたれかかるようにして座っている。まったく身動きせず、首の骨が折れたように頭をたれている。恐る恐る近づくと、鼻と口から息がもれてこない。かごから這い出した子猫はヨタヨタと秦野の肩によじのぼり、血の気の失せた頬を舐めはじめた。

「秦野ぉーーッ、しっかりしぃ」

 応答なし。わたしは責任の所在を明らかにすべく、こんどはルーシーの耳元で怒鳴る。

「死んだふりしてもあかんねんでぇっ! 口から出まかせばっかりゆーてからにぃ」

 ルーシーは、クックッグフゥグクゥッッックフゥと荒い息をし、前脚をブルブルと震わせた。

【Help,I need somebody……Help】

「ビートルズでゴマかしてもあかん! 煮汁の中身が偽もんやから、こんなことになったんやっ」

 ルーシーは薄目を開けると、横倒しの頭を起こした。

【Oh,Be a headache to mission.

 無償の行いにわたしは適さない、この任務から解かれたい】

 などど愚痴りながら起き上がり、いつものようにわざとらしい咳払いをし、

【天界においても、数年後に迫った世紀末に備えてですね、人類滅亡対策本部の設置やイエスさまの降臨にさいしての経費の捻出に四苦八苦しているありさまなんです。財務担当の上級天使らは、頭の上の光輪をかかえて思案している始末でして……】

「出まかせや」

【心外です。神光掲示板で知ったのですよ。経費削減のおりから、新たなソフトの購入を差し控えているわけです。聖なる天界には人間界のように埋蔵金などありませんしね。したがって、旧式のシステム自体に問題があったとしか考えられません。単なるエラーか、あるいは、神の鉄槌が下ったのか……】

「こっちで死んだゆーことは、魔界でも死んだゆーことなん?」

【想定を越える範囲のアクシデントなので、ブラックアウトした可能性も否定できません】

「オリーブオイルとのど飴でなんとかならへんの」

【本来、このmission=伝道は、あなたに科せられた試練でした】

「人間界では、それを逃げ口上ゆーねん。秦野に釜の中のごった煮を飲ますとゆーても熱湯やからすぐには無理やし……冷めるのを待ってるうちにほんまに死んでしまうかもしれへん……」

【Time upしただけです】

 と、ルーシーは他人事のように、

【ここはひとつ、天界の公安部の魔女対策課にアクセスしてみてはどうでしょうか? なおかつ、情報セキュリティ省内に設けられた事故調査委員会に今回のミッションが不成功に終わった経緯の詳細な報告書を提出し、今後の対策について指針を仰ぐというのが、正しい事後策かと――】

「いまさら何を呑気なことゆーてるんよ!」

【死者を復活させる行為は神の領域を侵すことになります。天使長といえども天界を統括するゼネラルマネージャーに具申しなくてはなりません】

「もぉームカつくなぁ。アタシが秦野の足を引っ張って仰向けに寝かせるから、アンタが首を無限大に振るか、ぐるんと回すかしたらどーよ」

【呪術師のあなたが、呪文を唱えるべきです】

 五芒星印を結び唱えたが、秦野に変化はない。

「水を蒸気に変えたり、氷にできるんやったら、喉につまったもんを取りのぞくくらいできるはずや!」

【Oh,No!】 

 わたしは秦野のものだった石を、ルーシーのターバンからはぎ取り、沸騰する釜の中に投げ入れようとした。

【聖なる石を手放してはなりません。永久に帰れなくなります。それはあなたひとりの問題ではありません】

 わたしは息をしない秦野のかたわらで、すべての出来事が白日夢あることを願った。

 ルーシーは腹ばいになり、両耳をアンテナのように回していたが、【このミッションに関して当局はいっさい関知しないと言ってきました。ですからこのさい、事故を発生させた魔猫に詰め腹を切らせてはいかがなものかと思いますが――】

「ヒラテンにはたのまへん!」

 秦野の胸の上に子猫をおくが、猫はニャンとも言わない。半開きの口の中をのぞいても、百円ライターは見えない。わたしの犯した罪は計り知れない。

 ふと思いつく。

「清らかな水を掛けたらどうやろ? 『エクソシスト』で悪魔に取り浸かれた女の子が、聖水をかけられて苦しんでたやん」

【What’s! Injustice! わたしのもっとも厭う行為は不正です。虚偽です】

 ルーシーは怒り狂い、陰気な声で唸った。

【猫の手に傷痕がないどころか、きっちり四本そろっていますね。CPUにエラーが出たのはそのせいです!】

 いつのまにか、子猫の包帯がスッポ抜けていた。たすき掛けの布切れは自分で外したらしい。

【データとプログラムが1つのメモリーである蓄積プログラムを使用して行なわれた神聖にして不可侵の祓魔儀式には、いくたの規範があり、厳格な基準が求められます。掟を破った責任は重く、サバン・秦野を蘇生させることは永久に不可能です】

「アンタのしたデタラメな儀式と、アタシのやったゴマカシとどこがどーちがうんよっ。ホンマ、頭にくる赤犬やわ」

 旅の途中でペットボトルにくんだヨルダン川の水=聖なる水を秦野に振りかける。聖水なら、ジュッと悪魔の体が焼ける音がしてもいいはずなのに音沙汰なし。

【姦夫と遊女の裔であるサバン・秦野は、猫憑きのまま彷徨うより、これでよかったのです。無責任な天使長であるゴボテンといても彼女のトラウマが癒えるとは思えませんし、癒えるどころか、精神に異常をきたしています!】

 グゥワングワンとルーシーは吠えまくる。

【『わたしの計りごとはかならず成り、わが目的をなし遂げる』。イザヤ46章10節です。あなたの行いの結果、神は彼女を憐れまず、惜しまず、かわいそうとも思わずに滅ぼされるでしょう。彼女の魂はかつてのわたし同様、煉獄山をさすらうしかない。うるわしい冠はすでにわたしたちの頭からすべり落ちたのです】

「あんたのウィッグは落ちて燃えたけど、アタシの金冠頭はそのまんまやで」

 子猫は秦野の口の中へ手を入れて遊んでいる。

【彼女のために、臨終の秘跡をのべてください】とルーシーは重々しい声で言った。

「牧師でも神父でもないねんで」

【No,Problem.ゴボテンで結構】

 わたしは咳払いをし、陶製のランプを秦野の頭元に置き、

「ありうることを、なしうることを、もとめうることを、あなたとともに」とドレの挿し絵の『神曲』の最後のページ言葉を借りて、死出のはなむけとした。

 ルーシーは頭を2、3度ふると、【天使長の責務として、魔猫をくびり殺してください】

「こんないたいけな子のどこが、魔猫なんよっ」

 子猫は前足を念入りに舐めて顔を洗い、背中の毛を逆立てると、いきなり「ニャンニャンフッーッ」と唸った。

 とたんに、ルーシーは後退り、頭の上に前脚をのせてうつ伏した。虹色の光がわたしたちの周囲に渦を巻いた。

 ミラーボールのようだった。

 秦野の口がポンと音を立てた。

 百円ライターが飛び出した。とっさにキャッチ。ライターは圧縮されて黒豆の大きさになっていた。素早く胸のポケットに入れた。

 息を吹き返した秦野は、「ねぇ、あなたとともにってぇ、ミタマのことよねぇ~?」

 視界は塞がっていたが、聴覚は機能していたようだ。

「口の中、どーもないのかよ。火傷してないのか」と訊き返す。

「ミタマの石はぁ、どーなったのよぉ~」

「言ってたじゃん。死にかけた兵士を猫が助けたって。だからさ、ライターを飲みこんで気絶したあんたの胸に猫をのっけて、さらに、アンタが返してくれと言ってた石を口の中に入れたら、どーよ、不思議なことに喉の奥のライターがさ、石といっしょに飛び出してきたわけ。まぁ、ライターは形がなくなって、ゴミになってたんだけどさ」

 そう言ってポケットの黒豆に似た石を秦野にわたした。

 悪い癖はなまなかのことでは治らないと思い知る。

「一時はどうなるかと心配したんだからさ。ルーシーの悪魔払いとアンタの石のおかげで生き返ることができたんだよ。ルーシーに感謝しなよ」

 話しているうちに目玉が動き三白眼になっていることに気づく。「ありがとぉ~ルーシーちゃん。ミタマはぁ、ルーシーちゃんのことぉ誤解してたみた~い。ドラちゃんとぉ、おんなじくら~い仲良くぅしちゃぁう」

 ルーシーは秦野のそばにすり寄ると、両足をそろえ、おすわりの〝決めポーズ〟をとった。

「これからはぁ、ルゥちゃんてぇ、呼ぶねぇ~」

 ルーシーは、グゥフフフンと笑った。

 小声で、ルーシーにきく。

「悪魔払いになったと思うか? あっちの世界の秦野やったら嘘を見破るはずやのに、うそっぱちを信じるやなんておかしいと思わへんか?」

【なんのお話でしょうか】とルーシー。

「どーゆーことよ」

【頭の悪い人は、勘もよくなーい。わたしがなんのために獅子を装ったのか、Do you know?】

 首をふる。

【魔女の随獣は獅子です。猫ではなーい】

 もしかして、ルーシーも秦野に返した偽物の石を本物と誤解しているのか?

「――とゆーことは、ヒラテンのあんたは、ゴボテンのアタシから秦野に乗り換えたわけなんや」

 ルーシーはクンクンとアタシを臭い、グゥフフフンと嗤い、

【あなたなら、プログラムの存在しないパグだらけの脳ナシ天使長と、マジカルパワーをもった美しき魔女のどちらにエントリーシートを出しますか?】

「エントリーシートってなんなん?」

【We had plenty of time.But,あなたは時間を無駄にした。働き者の犬の寿命は短い。したがって、気も短い。“忠犬ハチ公”は犬の本性を逸脱しているのです。偏屈なる故に銅像になったのですよ。グゥフフフン】

 突然、子猫がルーシーの脚にまとわりついた。ルーシーは子猫の頭をがぶりと咬んだ。秦野が悲鳴を上げた。子猫は前脚と後ろ脚と腹筋を使って、ルーシーの顎にぴったりと張りついている。咬んだように見えているが、くわえているだけだとわかる。

「ミカエルぅ、ルゥちゃんをなんとか~してぇ~。こわ~い」

「ミス・ルーシー、この子は、あんたとは頭の構造が違うんやから、噛み砕いたらネコエイズに感染するかもな。ほんで、あんた自身がアタシみたいに、虫=パグだらけになるかもしれへんで」

 ルーシーはフッと鼻息を吐くと子猫をかまどの前に放置し、【化け猫め、自ら、火の中に身を投じろ】と吠えた。

 子猫は、ゴロンニャンゴロンニャンと鳴きながらルーシーのお腹の下に潜りこもうとする。お乳を探しているようだ。

「この子、あんたのこと、オカンと勘違いしてるんとちゃうのん? おんなじように体毛があるし、4本脚で歩くからさ」

【体型が著しく異なるうえに、各種能力にも格段の差があります。ラファエルさまの代理であるアククゥツと、ガブリエルさまの名代であるわたしとはコミュニケーションがとれますが、この魔猫は天界のハイレベル言語はもとより、魔界の関数型プログラム言語さえ解しません】

 秦野が悲しげな表情になった。

「いなくなったママはぁ、クリスチャンだけどぉ、ミタマに冷たいのぉ~。ドラちゃんもママに甘えたいのよぉ~」

 以前、わたしと彼女は血縁関係のないきょうだいだと、ルーシーは言った。しかし、彼女の父親は、母親は自宅にいないようなことを言った。母親はどこに?

「教会で会ったことないじゃん」

「ミタマんちはぁ、プロテスタントなのよぉ。あんたんちはカトリックなのぉ。ミタマは神社の子だと思っているけどねぇ」

【人間ほど愚かな生き物はありません! なぜ、同じクリスチャンなのに政治家のように派閥があるのか、理解に苦しみます。魔界の議会もいつも紛糾していましたが……】

 ウーウーとルーシーは唸りつづける。

【天使同士にも派閥があるのです。現在は、人材不足と財政難のおりから小さな天界を主張する構造改革派の天使どもがハバをきかせているようです。彼らは財政と人材不足を補うという名目で、天使の身代わりを広く募っているのです。宇宙広しといえども、このような悪法がまかりとおるとはっ】

「もしかして、ガブリエルやラファエルは構造改革派なん?」

【グゥワン! 連中の発案で使い捨てのきく、オタク系のあなたや魔王の娘で反逆者のわたしが派遣されたのです。サバン・秦野や黒猫も例外ではありません。であるなら、わたしが晴れて天界の新会員となった暁には、今回の体験を踏まえて、構造改革派の〝不正規天使派遣法案〟を廃案に追い込む運動にこの身を投じるつもりです。天界の住人でない者ばかりを集めて天上びとのダニエルさまを救出する作戦などもっての他!】

「えっ?! 秦野やチビ猫も天使の要請で派遣されてるかもしれへんて思てるんや。それやったら仲良く――」

 グワングワングワングガァーッ。

【わたしの活躍に嫉妬する上級天使どもの謀略です!】

 黒猫への嫉妬が、ルーシーを逆上させるようだ。

 秦野は何を思ったのか、「殺意ってぇ、理由もなく、感じちゃうのよねぇ、ミタマねぇ、本気じゃないけどぉ、気紛れだけどぉ、デイオケスにちょっぴり毒を盛ったのぉ」

「いつ、どこで、どうやって!」

「夕べぇだったかしらん、今朝、彼がぁ、ミタマをぉ迎えにぃ部屋にやってきたときだったかしらん。よく覚えてないのぉ~。椰子の実でつくるお酒に入れたのかぁ、お肉に塗りこんだのかもぉ~」

 秦野の顔が、とぐろを巻いた毒ヘビに見える。

「それで、デイオケスは顔色が悪かったのか……」

「わるいことしちゃったぁ~」

 ルーシーが吠える。

【彼女は毒を盛っていません。敵の罠フォールスメモリーのせいです。I showed no smoll skil】とルーシーは歯噛みする。

【サバン・秦野は天才ではなかった。抽象的思考の領域がもともと無にひとしかったのです。そのせいで、おのれの行為を自覚できずに、本来なら天界から遣わされたかもしれないのに悪魔の手先となってしまった。なんと、おぞましい!】

「アンタ、ゆーことがコロコロ変わらへんか? ヒラテンのままでいるのか、ライオンになるのか、はっきり決めてよ」

「ざんね~ん」と秦野は唐突に言った。「シャムライを独り占めしているぅダニエルにもぉ飲ませるつもりだったのにぃ。ドラちゃんが可愛いからその気がなくなっちゃった~。母性愛のせいかもねぇ。もらった砒素がぁ、無駄になっちゃうわぁ~」

 秦野は、わたしの足の指を指さした。アシュペナズにもらったという赤めのうの指輪だ。気絶した彼女の指からぬき取ったものだ。返すと、リングの下の部分を開けて見せた。白い粉がわずかに残っている。

「この時代に砒素があんのかよ」

【火山地方の鶏冠石=サンダラカとか、石黄とか呼ばれる鉱物性の毒物です。石黄の場合は、鉛や水銀をプラスしなくてはなりませんが――】とルーシー。

「宦官のおじさんがぁ、蓋つきのおっきな青い指輪にしこんでてぇ、そこからわざわざぁ小分けてくれたのぉ~。ケチだからぁ、ミリグラムの単位なのよぉ」

「だったら、だれが?」

 思いつく人物はひとりしかいない。

「アシュペナズこそ、諸悪の根源なのだ」とわたしは言った。「同志諸君、われわれはこのような邪悪な世界にいてはいけない。1人はみなのために、みなは1人のために正義の旗のもとに力を合わせてすぐさま脱出しよう!」

 こぶしを突き上げ、歌舞伎役者のように見えをきってみせた。足元に違和感があった。円形の固い何かを踏んでいる。これも釜から飛び出してきたのか?

【魔鏡です】ルーシーはアタシの背中に飛びかかり、しがみつくと耳打ちした。【対象となる人物を映したのちに光を当てると、反射した壁にその者の真実の姿が浮かびあがるのです。魔鏡現象と言います】

「ほんまかいな」

 背おう格好になったルーシーで試すと、シューシャンの麗しい姿が壁に映し出された。実寸大に近い彼女は神々しいほどに美しかった。

【Amazing!】ルーシーはワォワォワォォーンと歌うように吠えた。

【わたくしはこの世に2人といない美貌の持ち主でしょ? サバン・秦野などわたくしに比べれば月と亀の甲羅、美女と野猿、獅子と猫。それが……グゥフッ。よこしまな者には平安がないと神は言われるが、犬の姿に生まれた瞬間から平安な日など1日たりともなかった……ウグゥクックック……】

 涙にくれるルーシーに、重いので降りるように言った。

【グゥヤ~ン、ウゥグゥクク……いやいや】

「毎日、この鏡で思い出したらええやないの」

 おんぶしたまま宥める。

【このままの姿でいるくらいなら、アビゴールさまのいる陰府の深いところに堕ちたほうが、まだましです】

「アビちゃんはそこで何してるん?」

【『スター・ウォーズ』に熱中するあまり、地獄の番外地に追放されたのです。そこで彼はダース・ベイダーのコスプレで堕天使との模擬戦に明け暮れています】

「あんたと関わりをもつ相手は共通項があるねんなぁ」

【All that’s fair must fade.美しい者はかならず衰えるのが世の定め……】

 こっそり秦野を映す。ランプの光を鏡に当てると、秦野の背後の壁に恐ろしい姿が現われた。緑色だと思っていた瞳がかまどの火のように赤い。鼻は嘴のように突き出し、熱湯から飛び出した石に触れた唇は焼けただれ、裂け目に血が凝結し、腫れ上がっていた。そして額には、“7P”が!!!

【サバン・秦野は環道を巡ったようですね。しかし、自己をそのように認識していない可能性があります。あなたは気づいていませんが、彼女の手首にはリストカットの痕跡がはっきりとあります】

「ウソォ……秦野がまさか……」

【黒猫の生き血を使わなかったせいで、われわれの手によるフォールスメモリーの解除は失敗に終わったようですね。この代償は天使長たるあなた1人が負わなくてはなりません。わたしはなんといっても、派遣天使ですからね】

「おんぶしてあげてるやないの。それにおでんを食べるとき、ヒラテンを真っ先に食べてるで。ゴボテンは好きやないねん」

【体力、知力、信念、そろって最弱の主人=ゴボテンをフォローしなくてはならないヒラテンの心情をおもんばかったことがありますか。わたしに科せられたこの苦渋と苦難が、身勝手なあなたのバカ頭に理解できますか。脳は自ら配線し直すことができるはずなのに――聞こえてますかぁー! 本来、銀河系の星の数に匹敵する神経細胞=ニユーロンが爬虫類脳のあなたの場合、半分もなーい! グゥワン、グゥワン、グゥワン】

「ルゥちゃんてぇ、やかましいからぁ、やっぱり、好きになれな~い。だってぇ、ドラちゃんのように気品がないんですものぉ、ミタマ、きら~い」

 黒猫を抱いた秦野は台所から出て行った。

【恩知らずのバカ女、クソ魔女め、黒猫ともどもレテ川の向こう岸にいる狼に食われろ! グリフィンの引く天の車に襲われろ! 龍の尻尾に締めあげさせてやる! すれっからしのゲス女め!】

 吠え立てるルーシーのワニ口を両手で塞ごうとしたが、彼女は頭部を一回転させてわたしの手を無力化した。

「やっぱ、ま、ま、ま、魔犬やっ」

 フンと鼻息も荒く、ルーシーは吠えまくる。

【言いましたよね、もとをただせば、わたしは魔界のエスタブリシュメント=支配階層なんだと。優れたESPでもあるのです。グワン、グワン、ギャワーン】

「鼓膜が破れそうやねんけど――、イーエスピーってなんよ」

【超感覚的知覚です。語尾にerをつけると、エスパーになるわけです】 

「なんやエスパーやったら、もったいつけんとエスパーやってゆーたらどーよ。あほらし」

 ルーシーは唸り声をあげて、アタシの耳に歯を当てがった。彼女がその気になれば、耳は一瞬で噛みちぎられる。

【魔界の次期プリンセス候補であったわたくしの述べる最善策に聞き従わない腐った耳など、不要なのです。グググゥ】

「な、な、な、何をすればいいのでしょう、次期プリンセス・ルーシー」

【天界へのプレゼンですね】

「ゴボテンですから、あなたのようなパラボナアンテナ並みの立派な耳がありません。天界との通信は不可能です。そもそもプレゼンの趣旨がわかりません」

 と拒みつつ、焦った気持ちをなんとか立て直し、

「なんといってもゴボテンなのです」と、頭をワニ口から引き離し、「そのホラ話を信じるんやったら、一応、ゴボテンのアタシが上司なんやから助手のヒラテンが、なんでもするんが筋とちゃうのん」と居丈高に言ってやった。

 首をねじり、振りむくと、ルーシーの黒目は愛くるしく穏やかだった。

【イエスさまはおっしゃられています。『兄弟の目にある塵を見ながら自分の目にある梁なぜ認めないのか』と。マタイ7章3節です。同じ章の6節に『聖なるものを犬にやるな』という御言葉がありますが、これを文字通りの犬と解釈しないでください。無闇に騒ぎ立てる愚かな者たちを喩えて、おっしゃられているのです】

「あんたやないの、それ」

【祓魔儀式に全精力を使いきったせいで、先祖帰りをしたのかもしれません。ファア~ワン。眠い。昼寝を忘れてました】

「先祖帰りって……???」

【話せば長くなりますが、0nce apon a time.わたしたちの祖先は人間の忠実な友でした。それが、どうでしょう。利用されるだけ利用されて、役に立たないと見れば捨てられたのです。人間との絆が深かった者の魂ほど死後、過激な思想に染まり、報復を考えるようになったのです】

「もしかして、悪魔って、もとは犬やったん? 人間と距離をとってる狼やなしに? お父さんの実体はむく犬やったんや」

【父は由緒ただしき犬神家の一族でした。家紋は、肉球をかたどった5つの花弁です。ですからわたくしの額にはもともと5花紋がありました。しかし、このお役目を受諾したさいに5花紋の上に7Pが刻印され、さらにエンジェルマークと十字がほどこされたのです。その結果、もう何がなんやら、あなたにこの苦しみがわかりますか?】

「それで、おでこが禿げてるんや。そこだけ真冬の若草山みたいやもんや。ごめん。つい、ほんまのことゆーてしもて」

【あなたが仕えがいのない不具合天使であることはわかっていましたが、それでもわたしは尽くしてきました。いつかは犬族の無償の愛に気づいて使命に目覚めてくれるものと信じていましたからね。それがどうですか! 生きとし生けるものに共通する思いやりと慈しみの感情を期待したわたくしが愚かでした、浅はかでした……ウグゥグゥググゥ……】

「魔鏡には、きれいな額の美少女しか映ってないやん。見て、よーく見てみ」

【その鏡にあなたは映らない】

「なんでやろ?」

【同じ鋳型で短期間に造られた量産品の疑いがあります】

 ルーシーは魔鏡に見入っていたが、【サタンの殿堂で、このような粗悪品が廉価販売されているとしたら、父の提唱した魔界改造計画は失敗したのかもしれません】と言って唸った。

   22 恋するヘビ女 

 翌日、かつてダマスカスの王であったシドン王の、このリブラでの居城に、わたしと秦野は出向いた。ネブカドネザル王に拝謁するためである。出入口の門で待っていたアリオクは、わたしたちを目にするなり、「宦官長に用心しろ」と言った。

「あっらぁ! 陛下の護衛長に出迎えていただけるなんて、光栄ですわぁ」

 秦野の装いは、もとの黒衣にもどり、銀色の頭髪を際立たせるためだろう、濃いベンガラ色のベールをかぶっている。銀髪が赤毛に見える。

 先日通された部屋は、王の寝室だったので、謁見の間に入るのははじめてだった。

 きらびやかな大理石と黄金で飾られた広間に入ると、玉座に王の姿はなかった。カーテンの影から宦官長のアシュペナズがそろりと現われた。

「王命ではなかったのでございますね」と秦野は言った。「魔物と魔女になんのご用でございましょう」

 アシュペナズは押し黙っている。

 秦野は皮肉な笑みをうかべて、「『道端で投げられた宝石はそれを手に入れて身につけた者のもの』と言った英雄の物語がギリシアにはあります」

「『だからおまえはもうわたしのものだ!』」アシュペナズは秦野の言葉に呼応して返した。

「頭に蛇をからませたメドゥサを殺害したペルセウスをご存じなのですね」

「メドゥサは女神ではないので、不死ではない」

 秦野は笑い声をもらすと、「仰せのとおりでございます。わたしの命は、あなた様のお言葉ひとつでこの世の者ではなくなります。陛下のお側近くに召し抱えられなかったのですから、ご命令に背いたことになりますが、結果はご期待通りだったと存じますが……」

 アシュペナズは青黒い顔を冷ややかにゆるめた。

「デイオケスはまだ生きておる」と宦官は言った。「さっさと始末しろ。しくじれば、魔物をとらえ、処刑する」

「受け承りました」

 秦野は一礼すると、わたしに目くばせをし、2人で広間を後にした。

 無為のうちに1日が過ぎ、夜が明け、目覚めれば、5日目の朝。ルーシーの言う通り、時計の針がふた回りして24時間経過しなければならないのなら約16時間かかる。しかし、たんに5時46分を針が差せばいいのなら約4時間10分でいいことになる。事と次第によっては、今夜のうちにもといた場所に帰れるのかも?

 秦野の足手まといになりたくなかった。

 時を刻む音は聞こえているが、針は動かず1時36分6秒のままだ。ため息ばかりついているところに、ヤディとシャムライが宿屋に訪ねてきた。

 思わぬ組合せの2人に用件をきくと、

「デイオケスさまの体内の毒をなんとかしてもらいたい」とヤディがまず言い、「女魔法使いのやったことだと、おれは思っている」とシャムライは敵対意識をむきだしで言う。

「どこにいるんだっ。会わせろっ」

「出かけている」と嘘をつく。

 秦野はアシュペナズと会ったあと、眠らず、食べず、子猫と遊んでばかりいるからだ。

「デイオケスさまは、リブラ郊外の人里離れた場所に天幕を張り、ひっそりと伏しておられる」

 ヤディは不安を隠しきれない様子。

 シャムライは片頬で笑い、

「王は、疫病だと思い、自身と王子に類が及ぶとおそれているようだ。万が一、陣営の兵士に疫病が伝染すれば、かつてユダ王国に敗れたアッシリアのセナケリブ王と同じ憂き目を見るかもしれないからな。そうなれば、王とバビロニアの民が信仰するベル・マルドゥク神が、われわれユダの神ヤハウェに敗れたことになる」

「デイオケスさまは日に日に弱っておられる」

 ヤディの目には苦渋の色が見えた。

「このまま、お命を失うことになれば、おれはどうすればいいのか……」

「彼女は脳を患っているので、力になれないと思う」

 わたしは彼らに帰るようにうながした。

「あの女は、魔術で、人の心を惑わす」とシャムライは吐き捨てた。「ミカエルおまえもそうだ。いずれダニエルさまに仇をなす」

「そう思うなら、なぜ、おれについてきたのだ」とヤディは反発した。「まさか、おまえの敬愛するダニエルさまが、わが主人を治してくれるとでも言うのかっ。おまえら南王国の者は偏狭の民だ」

「ダニエルさまは、些末なことにかかわらない」

 シャムライのぞんざいな口ぶりに、ヤディの繋がった太眉が毛羽立った。

「些末だと言うのかっ。イスラエル王国が滅びるとき、おまえたちユダ王国は嘲笑っただけだ。かつての同胞だというのに一兵の援軍も寄越さなかった。イスラエル王国には祭司職のレビ人もいたし、聖都に年3度、参っている民も少なからずいた。ユダ王国にバアル神を信じている者がいるようにな」

 わたしはあらたに借りた隣の部屋へむかう。

 彼らには、「けっして覗くな」と約束させた。

 秦野は、わたしの泡シャンプーを使って子猫の毛づくろいをしていた。ヤディの用件を伝えた。

「あっらぁ、忙しいしぃ、助けられな~い」

親指の爪で子猫のノミを挟み撃ちにしながら、「ミタマにはぁ、むりむりぃ」とニベもない。

 プチッとノミを殺す音がした。

「シャムライも来てるけどさ」

「そうなのぉ~。お化粧直しがぁ、すむまでぇ、待たせておいて~。あ~ん、どうしようぉ、爪にぃ、ノミのぉ、血がぁこびりついてるぅ」

 ルーシーは隣室で2人の若者を見張っている。彼女の耳が拾った音声はわたしに筒抜けになる。

「怪しいやつらに頼むのはやめておけ。彼らは神の目に正しい行いをしない」

 シャムライの声にヤディの声が重なる。

「おれにとってのデイオケスさまは、おまえにとってのダニエルと同じなのだ」

「われわれを攻めた傭兵の中には、ガド族の者もいたからな」

 シャムライが言うと、「裏切ったのはユダ部族が先だが、いまはもうどうでもいい。それより、聖櫃が神殿にないというのは事実か?」

「所在はだれにもわからない」

「だから、エレミヤは、ヤハウェはいないと人びとに言ったのか……。ユダ王国はわれわれと同じように滅びるべくして滅びるということなのだな」

 急ぎ足の足音が廊下に響いた。

「ここにいると聞いてやってきた」

 扉の開く音と同時に、護衛長のアリオクの声が聞こえた。

「いよいよ明日、バビロンに向けて出立すると王命がくだった。むろん、ダニエルは同行する」

 シャムライの息を呑む気配が伝わった。

「バビロニア軍の守備隊の兵士らがシデオン将軍の命令で神殿にある、あらゆるものを掠奪したので、傭兵らが民家を荒らし、火を放った。エルサレムは見る影もない」

アリオクはエルサレムの惨状を告げた。そして、ダニエルを逃亡させるなら今夜しかないと。 

わたしとルーシーが扉の外に出るのと同時に、シャムライらが廊下に出てきた。

「無事だったのか」とアリオクは言った。「その女もか――」

 振りむくと、秦野がいた。

 ヤディは「魔物も一緒に2人で来てくれ」と秦野にたのみ、シャムライは「魔女は失せろ」と言い、階段を駈け下りていった。秦野は、その場に残ったわたしたち3人の横をすりぬけ、シャムライを追いかけた。裸足だったので、ほそいくるぶしが痛々しかった。部屋の中から子猫の悲しげな鳴き声が聞こえた。

「本来なら、陛下自らがエルサレムへ進軍し入城するはずだったが、総参謀長の死は陛下のお心に大きな打撃を与えた。ユダの神の裁きを受けたかもしれないと思われたようだ。事によると、陛下はダニエルを殺すやもしれぬ」

「気に入ったように見えたけどなぁ。魔女に勝ったんだからさ」とわたしが言うと、ヤディもうなずき、「陛下は、皇太子の意見を入れられて、ダニエルに名まで与えられた」

 アリオクは、副司令官の容態はどうかとヤディにたずねた。

「デイオケスさまは喉の渇きと冷汗、それに腹痛と嘔吐を訴えておられます」

「総参謀長が逝去され、副司令官までやまいに倒れたとなると、陛下にまことの戦況をのべる者が皆無になる。せめてダニエルだけでも陛下の相談相手にならなくては――しかし、それも……」

 アリオクは来たときと同じ早足で立ち去った。

「護衛長はずいぶんとダニエルをかっておられるが、理由がよくわからん」

 ヤディはそうつぶやくと、わたしに向き直り、「みなが、おまえの呪術を噂している」と言った。

 本物のバアルの化身かもしれないと言っているらしい。

 廊下に出てきたルーシーは目で指し図した。わたしたちの部屋に吊してある雑草を鼻先で指し、それを渡すように唸った。ルーシーに命じられて買ったものだ。

 リブラに到着した直後に、沒薬=芳香性の樹脂を運ぶキャラバンの隊長が腹痛に苦しんでいるので、やまいを癒す呪文だと言って関西弁で、タコ焼きやお好み焼きなど食べ物の名をまくしたてた。

「薬草より効き目があったそうだ」とシャムライは言う。「魔女の魔術でもよかったのだが……」

 ルーシーは唸る。【まず、水と蜂蜜と酢を混合したものをたっぷり飲ませて吐かせよ。そして、乾燥したコエンドロ(1年生の草木)を煎じて飲ませたあと、上質のブドウ酒を与えればよい】

 薬草を渡して伝えると、ヤディは、これで助かる保証はあるのかと問う。

 わからないと答えると、「呪術を使い、すぐにも癒してもらえまいか。助けてもらえれば、奪われた乗り物を奪い返すと誓う」

「なんで、わたしのものだと知ってんだよ」

「だれも目にしたことのない乗り物だ。おまえの思う以上に、おまえと犬の噂はひろまっている」

 ヤディの申し出に心が動いた。秦野といると、危険が増す。

【同意しかねます。グゥワン】

 ルーシーは即座に頭を無限大の形に振った。立ち所にヤディは静止した。

【自転二輪車よりアククゥツをもらってください。使命が果たせなかったときの、天界へのプレゼンにもアククゥツは役立ちます】

「なんのためにプレゼンなんてするのん?」

【わたしたちの使命はダニエルさまをお救いする一事にあるのです――でも、まあ、いまの情勢だと、わたしたちが手助けしなくてもバビロンへ行かれるでしょう。ダニエルさまは、わたしたちをサタンの使いだと疑っておられるようですしね】

「広場で、アタシと秦野を見たときのダニエルの目つきが忘れられへんわ。アタシらのことほんまもんのサタンやと思てるで」

【事ここに至っては、命令コードの変更を願い出るつもりです】

「これ以上、シャムライにバカにされるんはいややで」

【ダニエルさまは自力で生き延びられます。見方によっては、命を使うことなく、あなたは使命を達成したと言えるのかもしれません】

「帰る気になってくれたん!」

【地上界の創造者にして破壊者たる神のしもべたる者として、この地における平和の礎となる行いをしたいと思うわけです】

「それって、妄想とちゃうか? 所詮、ヒラテンとゴボテンのコンビなんやねんから平和の礎はむりやで」

 ヤディはふっと息をもらし、鋭い眼光でアタシとルーシーを凝視した。

「おまえと犬のおかげでフラワルティ総参謀長がご存命であることは存じている」

「デイオケスも知っているのか!?」

「いや」ヤディは短く答えた。「北王国のイスラエル人は故国が滅びる以前からフェニキアのシドンを含め、メソポタミア各地に居住している」

「情報網があるということか?」

「多くは召使や奴隷だが、中には国境に関係なく移動できる石工の親方になり、知力と技術を生かしてその国の為政者の側近となった者もいる。かつてエルサレムの神殿を建てたヒラム・アビブのようにな。彼らは自らが見聞した国の政情を同族の石工に連絡してくる。メディアと同盟関係にあるエラム王国の都スーサにいる、ルベン族の石工が総参謀長の意向を内々に報せてきた」

【この石工の集団がのちに、フリーメイソンと呼ばれるになります】とルーシーは解説した。

「総参謀長が生きてるという噂が広まれば、メディアの王にも知られて、デイオケスの立場が危うくなるのではないか?」

 宦官長のアシュペナスはデイオケスの暗殺を秦野に命じた。

 犯人はやはり、秦野なのか?

「デイオケスさまには万が一のことを考慮して、報せてはならないと総参謀長は仰せだと聞いた」

 ヤディの繋がった眉は意志の強さを示し、わし鼻は情報に敏感であることを示していた。

【グゥワン。アククゥツの話を切り出せ】

 ワンワンとルーシーはうるさい。

 アタシは咳払いをし、

「自転車もいいんだけど、できたら、総参謀長の馬をもらいたいわけよ」

「アククゥツ=赤い火を……」

「そそ。くれたらさ、それに乗ってデイオケスを助けに行くと誓ってもいい」

「わかった」ヤディはきびすを返しながら、「おれはいつか、おまえの国、東の果ての島にかならず行く。行ってみせる。ガド族の王に謁見するために」

【エフライム族とガド族のどちらかの血を王は受け継いでいると教えてやれ】

 ルーシーは言うが、わたしは無視し、「呪術や占いは信じていないんだよな?」

 彼は振りむき、東の果て島のことを記したイザヤの言葉を信じていると答えた。

「あっちに行っても、あんたの思う世界とはちがってると思うよ」

「ヨシュアに率いられたヘブライ人のように、かの地を奪い取れなかったと、おまえは言うのか」

「奪いとれたんだけどさ」

 通じるかどうかわからなかったが、

「東の果ての島では、ヤハウェを信じる人はごく少数なんだ。いることはいるんだけどね」

「土着民と交わったせいか!」

「ここらと違って、箱庭みたいな国だから、神サンが1人しかいないという考え方についてけないわけよ」

「全知全能の神につき従うことは民の誉れであり、喜びではないのか!」

「東の果ての島に渡った、あんたたちの先祖は頑張ったんだけど、もともと住んでいた人たちが神サン好きで、石でも木でもキツネでもなんでも神サンにしてしまうわけよ」

「偶像崇拝に堕したのか……なんということだ」

「1年のはじめに、ここの神殿と造りの似だ神社に詣でる女の子がさ、縁もゆかりもないアーメンの教会で結婚式をあげたがるんだよ。でさ、葬式にはガンダーラのブッダの教えをひろめる坊さんにわけのわからんお経をあげてもらっても、たいていの日本人はそれがフツーだと思ってるんだ」

「おまえの言葉の意味するところが理解できない」

「朝、バアルの像をおがんで、昼、ベル・マルドゥクの神殿に詣でて、夜寝る前にヤハウェに祈るって言えばわかるか」

「ヤハウェを信ずるイスラエルの民はおまえたちの国にたどり着けなかったのだ……」

 ルーシーは吠える。【日本社会においては、宗教が形骸化していると答えればよいのです。あーもーじれったい。時間がもったいない】

 ヤディにはどう聞こえたのか、「この犬が、騒ぐのは、宿屋の食わせる羊肉が腐っているのかもしれないな。アククゥツを連れてくるついでに、新鮮な羊肉をもってこよう」

 去っていこうとするヤディにむかって、

「ダニエルに従う者たちと親しくしてはならない」

 とわたしの口が勝手に言った。

「ふむ。護衛長の進言で、ダニエルとその従者は無事だっだが……わたしはダニエルのこの世の者とは思えない容姿を目にしたときから不吉な予感がしてならなかった」

「宦官長のアシュペナズと神官長のレソンせいで、王は、心が弱くなっている。近い将来、ダニエルが王の心のやまいに拍車をかける。王は正気を失う」

 ヤディは立ち止まり、わたしにたずねた。

「おまえに問う。バビロニアはどうなる?」

 頭の中でルーシーの声が聞こえる。そのまま言葉にする。

「ネブカドネザル王の死後、20年余りでバビロニアは滅びる」

 驚くだろうと思ったが、彼の口から出た言葉は違っていた。

「やはり、思った通りだ。王の出身部族であるカルデア人は日毎に弱体化しているが、移住者のアラム人とエラム人は日増しに力を増している。財政はアラム人が、行政はエラム人が牛耳っている。そのせいだろう、彼らは互いを憎悪している。現状では、バビロニアは次第に統制がとれなくなっている。神官長と宦官長はこれを好機とみて、陛下にかわって、皇太子を即位させようと陰謀をめぐらしているが、腐敗した彼らに統治能力はない」

【こうして、よく見ると――】とルーシーはクゥフフンと鳴く。【ヤディは美男子ですね。そこはかとなく、あのお方、アビゴール大侯爵に面影が似ています】

「そうかなぁ? アタシ的には悪役顔やけど」

【あなたの知覚は特殊です。脳内環境の影響が大きいせいで、対象物を正確に把握できないのです。それに加えて、だまされやすく、欲望に弱い側座核を有しているにもかかわらず、恋に目覚める機能は欠損しています。偉大なる神の恩寵でしょう】

「なんで、恩寵なんよ」

【これで、サバン・秦野のように恋に狂ったら取り柄がありません】

 ヤディが立ち去ると、ルーシーはグゥフンと鼻を鳴らし、頭をしっかりと固定した。

【われわれは目に見えないソフトウェア、すなわち神から派遣されたハードウェアです。実在して目に見える存在なのです】

「頭に入る日本語でゆーてくれへんか」

【わたしたちは、天使として天界の歴史書=神界文書にその名をとどめる行いをすべきだと考えるゆえんです】

「えらそうなこと言う連中にかぎって、中身がないねん。裏の顔があるねん。ヘビ女・メドゥサの表の顔は、愛されキャラの冥界の女王・ペルセポネやねんで。秦野とそっくりやと思わへん?」

【くだらない】


タマミ


ルーシー


ドラ

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