FF14黄金のレガシーであんまり言われてないがこれはダメだと思った点その2
今回はアンロストワールドリビングメモリーの展開で一見いい展開なんだけど冷静に考えてみると実はおかしい点について話してみたいと思います
また黄金のレガシーのストーリーは描写不足だとよく言われますが、個人的には描写不足以上にいらない描写、余計な演出が多いのが更に問題なのだと思うのです
ウクラマトとナミーカ
リビングメモリーにて記憶から再現されたナミーカとウクラマトが出会うシーンがあります
リビングメモリーにいる人々は生前の最も幸せだった時や未練があった時を再現した状態で暮らしているという設定です
そしてナミーカは子供の頃のウクラマトと共にいた頃の若い姿で登場するのですが、現在の立派に成長したウクラマトに会ったことで人生の後半であった老人の姿になり自分の人生は実に満ち足りたものだったと
子供の頃のウクラマトといた時も幸せだったけど、ウクラマトが立派に成長してくれて一生を通して幸せだったと、そう告げます
いいシーンです、黄金のレガシーで最もいいシーンかもしれません
しかしよくよく考えてみると変です、というのはウクラマトはナミーカにずっとお世話になっています(ただし本編でその描写はない、一言あるくらいだったはず)
これが例えばウクラマトが15歳くらいになった時点でナミーカはお役御免になってお世話係の任を解かれたとかならわかるのですが、そうではなくずっと世話をしているようです
ということは意地の悪い見方をするとナミーカは少なくとも王位継承前のウクラマトを見ても幸せだとは思えなかったことになります、子供の成長を認められない母親だったのでしょうか?
しかしリビングメモリーにいるナミーカにウクラマトが直接声をかけて話したことでナミーカはあっさりウクラマトの成長を見れた今が幸せだと言っています
ここで問題になるのがウクラマトの王位継承式とナミーカの攫われるタイミングです
時系列順に並べると、ウクラマト王位継承式→ヒカセンとエレンヴィルが二人でエレンヴィルの故郷を目指すついでに西部劇→トライヨラが襲撃されナミーカが攫われる、この順になります
ここから伺えるのは十分に時間があったにもかかわらずウクラマトは恐らくナミーカに今までの労をねぎらう言葉や感謝の言葉をかけていないということです
なぜならもし武王になった後でウクラマトがナミーカに今までのお礼やねぎらいの言葉をかけていたらその瞬間が最も幸せな時期になるはずだからです
しかしナミーカは実際には若い頃の姿で登場しています、そのためこの黄金のレガシーで一番いいはずのシーンが逆にウクラマトの情のなさ感謝のなさを表現してしまっているのです
ウクラマトの言動から情のなさや傲慢さを感じるというのは様々な場所で言われていることであり、ここでは言うに当たらないでしょう
つまりこのシーンは若いナミーカが年老いたナミーカになることでウクラマトの成長を演出したはずが、実際にはウクラマトの非情さをより強調してしまっているのです
クルルと両親
リビングメモリーで会う順番から先にウクラマトとナミーカについて触れましたが、実は今回話したい本題はこちらだったりします、正直に言えば私にとってウクラマト自体がどうでもいい
まずクルルは今回両親の手掛かりになるイヤリングを持っています、これは黄金のレガシーの始まりにも登場した重要なアイテムです、いや……でした
最初はこのイヤリングを使えばリビングメモリーに通じるゲートを開くことができるという話でした、ところが実際にクルルが使ってみると開かない
結局は武王が持つ権限を引き継いでいたグルージャが持ったことによってゲートは開かれてしまいます、しかしこの権限で動くのならイヤリングは本当に必要だったのでしょうか?
ここでヤシュトラがグルージャの権限で開いたなら同じ権限を持つスフェーンも閉じることができる、などと余計なことを言うためイヤリングは鍵の役割を果たしていない可能性が高いです(鍵なら閉じられてもまた開ければいいだけの話なので)
そしてリビングメモリーを時間に余裕がないのにポップコーンを一口だけ食べて放置したり観光したりしつつ進んでいくとクルルの両親らしき人に偶然会います
ここでヒカセンが過去視をしていたことが役にたってクルルの両親だということが判明します、クルルは両親と会えたしグラハの空気の読めない助けもあって両親と打ち解けることができました
黄金のレガシーの過去視は使い方が大体の場面で間違っており単にみんなで聞いている説明を映像付きで見るパターンが多かったのですが、クルルの両親への過去視だけはヒカセンだけが知る事情となり正しい過去視の使い方をしていました
しかし残念ながら過去視の使い方は間違ってはいなかったのですが使うタイミングを間違えています
なぜならクルルにはイヤリングがあるからです、このイヤリングは両親が勝手だと思いつつもクルルが会いに来てくれるかもしれないという一抹の希望を込めてあえて残した物でした
親の愛の深さと切なさの籠ったいい設定だと思います、実にいい設定です
でもそのイヤリングだけではゲート開きませんでしたよね? まずクルルが両親に再開するための鍵としてはほぼ役立たずでそもそも必要のない可能性さえありました
更にヒカセンがあれ両親だよ過去視で見た! と言ってしまったため両親と子がお互いを認識する役にも立ちませんでした、これではただのお洒落なイヤリングです
ここでは例えばクルルが両親だと気づかないままで両親にとって助かる行動などをして、両親側が優しい娘さんだと思ったその時に耳で輝くイヤリングを見て自分たちの娘だと気づくなどの話にするべきでした
なぜならそうでなくてはイヤリングの意味がなくなるからです、これはそのままイヤリングに想いを託した両親の想いも無駄になってしまったことを意味しています
チェーホフの銃という言葉があります、これは「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」という意味の言葉で舞台で銃が登場したのなら発射されるべきだし、そうじゃないなら銃を舞台上に置いてはいけないということです
例えばFF14でいうと漆黒でサンクレッドがガンブレードを持って登場しました、そしてあれはリーンを守るために武器を変えたと説明され実際にリーンを守り抜き、またリーンもサンクレッドにガンブレードを使うためのソイルを準備するなどして二人の関係性も表現できていました
もしあれがなぜか理由もなくガンブレードを持っていて、しかもリーンを守る時だけは槍を使い、リーンの使う武器がサンクレッドから習った双剣ではなく可愛らしいからとかそんな理由で細剣を持っていたらどうなっていたでしょうか?
黄金のレガシーはここがまったくうまくいっておらず、このリビングメモリーにおけるクルルの部分だけで言っても
1・クルルがイヤリングでゲートを開くべきところをなぜかグルージャに開かせる
2・それが無理なら両親が我が子と気付くきっかけにするところをなぜか過去視で解決する
3・それも無理ならせめて両親と何を話せばいいかの話題するべきだったがなぜかグラハが奇行をして解決する
少なくとも3つ間違えていますし、それどころか余計な設定や描写を増やしています
これではイヤリングを出した意味がありません、黄金のレガシーではアルフィノの頭が悪くなっている、アリゼーの性格がおかしくなっている
などなど被害者が多いのですが実は一番の被害者はイヤリングです、一体なんのために出てきたのでしょう、出されたのでしょう
黄金のレガシーは全体的にこのように必要な描写が足りてないにもかかわらず、必要のない描写や設定がやたらと散りばめられています
そしてこの必要のない部分がプレイヤーの癇に障るため見ていてどうにも不愉快に感じられてしまうのだと、私はそう考えます