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「頑張ってほしい」の暴力性

最近ウェブ媒体でこんな記事を見つけた。
「どうしてあなたは強くなろうとしないのですか?」
とても簡単にいうと、人を引き上げようとする力のもつ暴力性について言及したエッセイ。

震えながら渡り終えた揺れる橋をふりかえって、『早くきなよ!』と向こう岸の人たちに明るく言い放つような暴力性が、すくなくとも私のなかには確実にねむっている。(中略)「私はそうした」という経験、あるいは「私はそれを手に入れた」という感覚が「どうしてあなたはそうしないのですか?」という素朴でおそろしい疑問に反転するまでの距離は、たぶん、想像しているよりずっと短い。

生湯葉シホ「どうして強くなろうとしないのですか?」

読み終えてぐうと唸った。間違いなくその暴力性が私にもある。その一方で、この数年、この暴力性を浴びてきた気もしている。

手を差し伸べること

自信がなく、うまくいっていない人間をみると、皆手を差し伸べてくれる。時には、引き上げようと、前に進ませようとしてくれる。それは紛れもない優しさだ。
けれど、その人の「うまくいっていない」の背景には、自分とは違う生活や価値観、歴史、実にさまざまなものが隠されている。そこを知ったうえで手を差し伸べるのはとても難しい、というか面倒くさい。自分のことで精一杯なのに他人の人生なんて負えないもの。けれど、そもそも人を引き上げるなんていうのは、そこまでひっくるめて初めて取り得る選択肢なんじゃないのだろうか。

応援の取り扱い

「応援したい、頑張ってほしい」
この気持ちが強くなってくると、そこに「あなたもわたしと一緒に」がくっついて、そのうちそこばかりが大きくなってしまうことがある。それ自体間違ったことではないけれど、その同化がもつ暴力性を常に注意しておく必要があると思う。

わたしとあなたがどれほど近づこうとも、悲しいまでに違う人間であること。それを分かっていないと「一緒に」は簡単に壊れてしまう。
どんなに近づいても、相手を知ろうと歩み寄り続ける姿勢を忘れちゃいけない。

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