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【中編小説】幸せなら手をたたこう―6 夏のど真ん中
1 プロローグ
2 十六歳のやさぐれ
3 パンタナール自然保護区
4 アンクルタックル
5 百万年の恋
6 夏のど真ん中
7 謎めく台湾海峡
8 薄紅色の思い出
9 啄木よ、もう一度
10 切なさ三級の愛
11 怒り狂う半導体市況
12 M&Aって何?
13 未完成コールドチェーン
14 ジョージを探せ
15 愛の旧約聖書
16 君をラクダに乗せて
17 フィル・ジャクソンの幻影
18 カッターナイフと漱石
19 夏の花
20 幼子の思い出
21 美しき青きアンダルシア
22 ケネディ兄弟
23 さようなら、カルロス
24 エピローグ
「俺、今二十二なんすけど、来年の春には同い年で大学に行った奴らが、続々と社会に出てくるじゃないっすか。いや、別にびびっちゃいないっすけど、なんか憂鬱なんすよ。来るところまで、来ちゃったなって感じで。いや、そいつらに女とられてモテなくなるとか、そういうんじゃないっすよ。俺セックス嫌いっすもん。金玉とか普通に取ってもいいって思ってます。取ると痛いから付けてるだけっす」
有効求人倍率が一・八倍に上がった二十四歳の夏、俺は東京の拘置所に収監されていた。人手不足は民間企業だけでなく、行政機関でも深刻なようで、拘置所は仕方なく金玉にこだわりを持たない若者を看守に採用していた。
その看守は高校を卒業した後、闇カジノで働いていたところ、警察のガサ入れにあったと俺に言った。だが、「闇カジノの経営者の素性を明かすこと」と「無罪にすること+釈放後に拘置所の看守として採用すること」の司法取引が成立し、看守になったという。なんで、そんなくだらない交換条件を提示したのか聞くと、「檻に入れられた奴が、外からどんな感じに見えるか知りたくなったんすよ」と言っていた。実際に檻の外から見てみてどんな感じだったか尋ねると、「まあ、特に何もないっすね。どっちが外でどっちが中かよく分かんなくなっちゃいました」とのことだった。
看守にも聡明な人はいるが、検察官に愚かな者はいない。高校教師が昔そう教えてくれたが、俺の取り調べを担当した検察官の男は確かに愚かではなく、しっかり要点を押さえて取り調べを進めた。まだ二十代で、決して声を荒げない育ちの良い若者だった。
送検された後の最初の晩はこんな感じで終わった。
「あなたが殺したんでしょ」
「いえ、殺してません」
「そうですか、分かりました。今日はゆっくり休んでください」
二日目の取り調べはこんな感じだった。
「あなたが殺したんでしょ」
「いえ、殺してません」
「そうですか、分かりました。枕の高さは大丈夫ですか。ここに来ると、寝違える人が多いんです」
そして、三日目の取り調べはこんな感じだった。
「『ひょっとしたら、あいつは俺が殺したようなもんかも』みたいな感覚はありませんか。それくらいの感覚があれば、こちらとしては十分なんですが」
「ちっともないです」
「そうですか、分かりました。それはそうとして、今日はこちらからお話があります。先ほど上層部にあなたの素性を報告しました。主に高校中退、ギャンブル依存症、違法買春といったところを重点的に報告しました。すると、上層部の人たちからは、『おい、三冠王じゃないかよ』『今回の殺人事件を解決できなかったら、社会不安が広がって、局長のクビが飛ぶかもしれないんだよ。そうと分かったら、早く吐かせろ、この早漏野郎!』といった声が上がりました」
「三冠王とは光栄ですね」
「まあ、それはそうとして、私、先月結婚したばかりなんです。土曜の夜はマラソン界の英雄アベベもびっくりするほどの長いプレイを妻と楽しんでいるくらいでして、早漏ではないんです。だから、私も頭にきまして、『たまには、ちゃんと仕事しましょうよ』と言ってみたんです」
「ほう。それで」
「すると、局長が言うんです。『君、これは内密にしてもらいたいんだが、真犯人はもうカトマンズに逃げちゃったみたいなんだよね。警察にヒマラヤで捜査してもらうのも、なんかねえ。酸素ボンベってどこで買うか知らないし』って」
「カトマンズも案外悪くないかもしれませんよ。皆さんで行ってみてください」
「いや、カトマンズは遠いです。それに僕、局長のこと好きなんですよ。僕、父親がいないんですけど、何かこう、父性ってこうあるべきなんじゃないかって思わされます」
この取調官とは、三年後に六本木のバーで偶然再会した。
検察官は俺に会うと、屈託のない笑みを浮かべてから言った。
「検察官はもうやめましたよ。局長も深く付き合ってみると、言うほど良い人じゃなかったし、何か検察の仕事も向いてない気がしてきたんです。冷静に考えれば、名門高校、国立大学法学部、司法試験ストレート合格なんて人が、犯罪者と対峙する能力を持っているわけないんです。でも、検察の中はそんな人ばっかりです。世の中が新聞記事のように簡単だったら良いのにって思いましたよ」
彼はそう言って、俺にテキーラをおごってくれた。ちなみに結婚二年目に妻とは別れたらしい。原因を聞くと、「まあ、ありきたりな理由ですよ」と苦笑いを浮かべた。
話を二十四歳の夏に戻すと、送検四日目に俺は軽い脱水症状を起こして倒れた。取り調べの圧迫に耐えかねてとか、冤罪の恐怖におびえてとかじゃない。単純に蒸し暑かったのだ。湿度は高く、鉄柵はポルノ女優のようにぬめっていたし、水不足で各行政機関が節水に乗り出したせいで、飲み水も制限されていたのだ。ただ、なぜかあの金玉看守は、制服を来ている状態でもピンピンとしていた。
未決拘禁者専門の病棟に運ばれた末に目を覚ますと、金玉看守が俺の隣にいた。頭が冴えてきてから、看守になぜ暑さに強いか聞いてみると、彼は答えた。
「俺、こう見えて、夏の甲子園の優勝投手なんすよ。二週間で六試合、計一千球投げましたね。暑さには強いんです」
人を素直に称賛したのはいつ以来のことだっただろう。俺は皮肉も僻みもなく、純粋に「すごいな」と言った。すると、看守ははにかんでから答えた。
「後遺症もありますけどね。別に肘が痛いとか、肩が痛いとかってことじゃないっすよ。問題は、どんなにひたむきに頑張ろうとしたって、『俺はそこらへんの凡人とは違う』っていう意識が抜けないことです。まあ実際、あの夏のど真ん中にいたわけですから、仕方ないんすけどね」
結局、俺はその五日後に突然釈放された。真犯人がカトマンズで暴漢に襲われてパニックに陥り、ついつい日本領事館に駆け込んでしまったそうだ。
ただ真犯人は未成年だったようで、メディアは実名報道を控えた。俺が逮捕された時は、「北極溶ける」のニュースを二面にどけた上で、俺の顔と名前をでかでかと載せた記事を一面に持ってきたというのに。