映画「あんのこと」と、ぼくの元恋人のこと
※この文章はネタバレを含みます
※この文章は映画の評ではありません
※この文章には自傷や薬物に関する記述がありますが、それらを推奨する意図はありません。ただ、否定する意図もありません。
この映画の評をTwitterで見たときから、ぼくはこの映画を今見るべきではない、ということは分かっていた。この映画の主人公である「あん」は覚せい剤取締法違反で逮捕される。「あん」は逮捕されるまでは売春もしていた。(それはあんの母親から強要されたもので、あん自身の意思ではないのだけど)
その「あん」の境遇はあまりにもぼくの元恋人に似ていて、どうしたって作中の「あん」の中に彼女を見てしまうだろう、そしてぼくは悲しくなってしまうだろう、ということが分かっていたからだ。ぼくの元恋人は19歳で覚せい剤取締法違反で少年院に入って、成人式を少年院の中で迎え、出院した。ぼくと彼女が出会ったのは彼女が21歳のときだったから、出院から約一年ということになる。
「あん」の整った顔立ちも、それなのに瞳が時々真っ黒になるところも、おそらく切ってからまだそんなに時間が経っていないリスカ跡がたくさんあるところも、そして覚せい剤をやっていたというところも、売春をしていたということも、母親から虐待を受けていた(程度は違うかもしれないけど)というところも、それでいて驚く程に純粋な心も、苦しい環境の中で、どうにか前に進もうと頑張っていたところも、
そして、前に進むことが上手くいかなくて最終的には自死を選んでしまったところも、彼女と同じだった。
ただ、彼女は「あん」のように小学校の勉強もわからないとか、すごく貧しい家で育ったとか、そういったことはなかった。高卒認定試験は取っていたし、WAISのIQも平均的だった。彼女の父は中小企業の社長なので、少なくとも中流家庭くらいの生活はしていたと思う。虐待を受けたことがないどころかすごく尊敬できる両親に育てられたぼくが虐待の大小を比較するつもりもないが、彼女は確かに実母から心理的虐待を受けていたが、身体的虐待を受けたという話はきいたことがない。(もちろん僕に言っていないだけという可能性も充分あるが)
また、ぼくと出会ったとき、彼女は覚せい剤を(本人の話を信用するなら)辞められていた。
何が言いたいかというと、元恋人は罪状だけみると「あん」に限りなく近かったが、作中の「あん」のように分かりやすく困っているわけではなかったということだ。
そして、ぼくは、「分かりやすく困っているわけではない」ということを「そこまで困ってはいない」と、心のどこかできっと、思ってしまっていた。
この映画はかなり雑な言い方をすると前半が「あん」が更生に向かう「希望」パートで、後半が新型コロナウイルスや熱心に更生を支えてくれていた刑事である多々羅の不祥事等で「希望」だった居場所たちがどんどんなくなっていく「絶望」パートだ。前半で「あん」は多々羅に紹介された自助グループ(ダルク的なものをモデルにしたのだろう)に通い始める。そして虐待家庭から逃げ、シェルターに入ることになる。多々羅や関係者の支えもあって仕事もはじめる。介護の仕事だ。夜間学校にも通い始め、熱心に勉強する。一連の「希望」パートの間、あんはずっとクリーン(薬物を乱用していない状態)である。まさに、新しいあんの人生が始まろうとしていることが描写される。そして、詳細は後述するが、それらは全て「絶望」パートでぶち壊される。そして、彼女は薬物を再使用する。
ただ、ぼくが苦しくて辛くて後悔して久しぶりに泣いたのは、前半の「希望」パートの方である。それは、薬物依存者(もちろん、恋人も、「あん」も、薬物依存以外にも様々な問題を抱えているのだが)への対応の「正解」を見せつけられたようで、ぼくの元恋人への接し方は間違えていたんだと突きつけられた気がしたからである。違法薬物こそ辞めていた(と、少なくとも僕は思っている)ものの市販薬や処方薬のODを続け、そして辞めれるとも思わない、辞める気もないと言っていた彼女の意志を「尊重」したこと。当時は自分もかなり精神が不安定だったので、何度か一緒にODしたこと。一人暮らしがしたいからお金を貯めたい、だけど今のバイトだけじゃ足りないし、人間関係が必要になるような仕事はできないから、と言って夜職をはじめた彼女を「肯定」したこと。はじめからぼくのこれらの選択が正解だとは全く思っていなかったが、だからといって他の選択肢をぼくは知らなかった。いや、知っていたのに楽な方に飛びついたのかもしれない。だから、「あん」がことごとく元恋人の選ばなかった方の道を選び、希望を獲得していくさまを見たとき、ぼくは酷く後悔したのだろう。
ダルクやNAとまではいかなくても、薬物依存外来を勧めてみたら良かった。当時は自分もODしていたから、「生きるためにODするのは仕方ない」と思ってしまっていた。その価値観を共有して、相互に増強しあっていた。仮に、「生きるためにODするのは仕方ない」としても、全面肯定は最悪の選択肢のうちのひとつだった。2人で一緒に量を減らしてみよう、とかなんだって言ってみたら良かった。
どう考えても今のぼくはもちろん、当時のぼくと比べても精神が不安定だった彼女に夜職は悪影響なのだから、なにか別の仕事を提案すればよかった。「シャブやめてぇなら、まずはウリやめろ。」とあんに言った多々羅のように。僕がやるべきことは客から気持ち悪いメッセージが届いて疲弊している彼女を慰めることではなく、そもそも知らない人と性的関係を持たなければならない状況を作らせないことだった。
敢えて自己弁護するなら、ぼくと彼女は刑事と被告の関係ではなく恋人関係だったのだから、彼女に嫌われたくない、離れて欲しくない、という気持ちはあって当然だと思うし、そのせいで良くない選択をしてしまったという部分も大なり小なりあると思う。(そうだとしても、嫌われても、別れられても、もう一度分岐点の前に立てるなら、今回と同じ選択は取らないが。)
また、ぼくが彼女が夜職をするのを止めなかった大きな理由は、「止めたとして、その仕事をした場合得られていたであろう収入をぼくが彼女に渡すことは不可能だから」である。これは、当時ぼくは全日制の高校に通う高校3年生だったのでどう考えても不可能だ。ただ、それは変えられない事実であったとしても、彼女は当時夜職をしなくてもギリギリ生活していけるくらいの経済状況ではあったのだから、一人暮らしはもう少し先にしたらどう、とか、家族に一人暮らしのはじめの方だけ援助を頼んでみたらどう、とかいくらでも提案はできたはずだ。もちろん、当時既に僕も彼女も成人しており、最終的な意思決定権は彼女にある。でも、なにも策を考えずに、彼女を夜職につかせてしまったことを後悔せずにはいられない。
つづく(かな?)