長男と妻が頑張ってきたスポーツ少年団
ある方に「息子さんをスポーツ少年団に入れて、親として塾運営者としてみてどう感じましたか?」とXで質問された。これに対しては到底140字で返すことができない。長男が5年間頑張ってきた証を残すのも悪くない。アンサーとして非常に長文であるが、長男のスポ少(野球)を通じてのアレコレを書いていくことにする。
小1の4月のことだった。前の年の秋くらいから急激に中日ドラゴンズを好きになっていた長男を妻がナゴヤドームに連れて行った。そこで当時の森監督やビシエドが載ったクリアファイルを買って学校に持っていくようになった。自宅のポストの中に封筒が入っていた。
”突然すみません。小学校のグラウンドで少年野球をしているものです。下の子が同級生になりますが、兄がチームに入っているので年中の時から参加させてもらっています。悩みは同級生が全くいないことです。学校で野球のクリアファイルを持ってきていてドラゴンズに詳しい子がいると噂を聞き、お手紙を入れさせてもらいました。一度体験会に来てもらえませんか?”
本人に聞くと「やりたい!」という。体験会の日程はGWだった。当日家族全員で行くと高学年が懸命に練習をしていた。その横で「体験会はこちらです」という感じで案内された。どうやら手紙の主のお母さんが頑張ったようで、1年生が3人、2,3年生も何人かやってきていた。1時間半ほどキャッチボールをしたりT台に置かれたボールを打たせてもらったりした。先ほどまで練習をしていた高学年も球拾いやボール回しに参加してくれた。親もそしてまだ3歳になったばかりの弟も体験させてくれた。
家に帰って確認すると「入りたい!」とのこと。長男には野球かサッカーかテニスあたりの球技を小学校高学年から始めてもらいたいなという思いがあった。それが大幅に早まった訳だが本人の意思を尊重した。そもそもやや遠方の保育園出身だったために小学校に知り合いは少なかった。妻も「友達が増えるんじゃないかしら」と期待してチームに入ることにした。
正確には低学年は「Tボール」という競技を行っていた。4年生以上の高学年が軟式野球である。Tボールは台に置いた球をバットで打って走り始める。外野の人数は何人でもよし。ただラインを越えるとバウンド後でもホームランで扱う。1イニングで人数をそろえて1巡ずつ打って時間制限が来るイニングまで試合を行いそこまでの得点で勝負を決する。
面白いのは母親も参加する競技であること。父親は参加が認められない(まあホームランばかりになってしまうのでよく分かる)。子どもたちも一生懸命になるが母親も相当熱が上がる。ベンチで指示を出す人とホームランゾーンで球を拾う人、加えて審判を父親が行う構図だった。
負けず嫌いの長男は当然熱中したが、妻も同じくらい熱心になった。時々バッティングセンターに通い始めた。フライをダイビングキャッチしようとして関節を痛めたこともあった。私は2回に1回くらい試合を見に行った。審判や球拾いも行ったが、私が重宝がられたのは部員の弟妹の世話である。これは仕事柄慣れていたのでどこの学校にもある遊具で次男とともに遊ばせていた。一緒に虫を取ったり時には水をかけあう遊びもしていた。
試合や大会は月に3日程度。残りの5,6日は練習だった。半分が半日で残り半分が1日練習。低学年のメンバーは10人くらいだったのでお茶当番が月に1回くらい回ってくる。その日が1日練習にあたると妻の休日は8時~17時まで潰れていた。妻は最初はやや戸惑っていたが、皆が当たり前のようにそのルールで行うので徐々に慣れていった。寧ろ練習にも参加する方が性に合っていたようで、半分くらいの時間は子どもたちと一緒に練習をしていた。
3年生になって同級生が7人に増えた。ちょうどこの時にコロナ禍が重なった。3月~5月は活動がストップしたが、6月からは元の通りになった。周囲で3年生がこんなにいるチームは珍しいのでなかなかの強豪チームになった。大会でも勝ち上がるので妻の休日も更に忙しくなった。ただこれでもいくつかの大会は中止になっていた様子だった。もしコロナが直撃していなかったら更に忙しかったのだろう。私も時々練習や試合を観戦したが一つ気になる点があった。高学年のチームの指導が非常に厳しいことだ。連日8時間は練習をしている。3連休でもすべての日で朝から晩までやっていた。ミスに対しての怒号やサインの間違いなどでの𠮟責の様子も目撃した。まあ私が小中の頃と比べたらそれでも優しいし、さすがに暴力の場面は見なかったので一応の納得と「今の時代にここまでやるか」の思いの両方があった。そんな怒号があっても試合になると十数人の父兄が必ずスコア付けや応援にやってきていた。
3年生で華々しい結果を残して引退が迫る頃、私は妻に提案した。「来年は1年野球を辞めてみないか?」理由はいくつかあった。妻の当番が大変そうなこと、指導や拘束時間の厳しさ、次男が小1になることによる環境の変化(次男は長男と違って内向的で集団競技が好きではない)。コロナ禍で大会や練習が不透明なこと。妻は賛成した。ただ理由は「高学年だからTボールじゃなくなって見るだけになるのがつまらないw」というものだった。
結果的にこれは良かったと思う。ここまでの3年間でできなかった休日の過ごし方を2021年は楽しむことができた。私の親父と釣りに3回ほど行った。古戦場や城跡、博物館や動物園などにも足を運ぶ機会が増えた。
ただ4年生の2月頃、長男が意を決して私に言った。「やっぱり野球をしたい!」友人たちからいつ戻ってくるのかと頻繁に聞かれていたようだった。5年生になる春休みからチームに復帰した。
入団してからずっと主要ポストは1,2年で変わっていた。この年は一人しかいなかった6年生の子の父親が監督になった。1年生の時に入部した時からよく観戦に来ていたお父様。翌年からコーチになってチームに携わりそしてこの年に監督に就いた。熱いけれども非常に優しくて現代的な指導をされる方だった。以前よりも怒号や叱責は圧倒的に減り、ホッとしたのを覚えている。
しかし長男はバッティングで非常に苦労した。1年のブランクは大きくピッチャーが投げるボールを打つことにとにかく苦心していた。守備はそれなりに対応できていた。走塁は武器になるレベルだったが、出塁しないと意味が無いのが歯がゆかった。5年生は当時6人だったが、バッティングの技術は最後尾。チームに貢献できるように必死に頑張っていた。
指導は現代的になっていたが、練習時間の長さには結構参った。相変わらず休みの日は連日8~9時間やっている。月に一回だけ休みの日が設けられたが雨で中止になった場合は取り消されるので、大体は雨で別日に振り替えられた。「長すぎる」という思いと「子どもたちがやりたいのであればそれでも構わないかな」とする思いの両方があった。そもそもそんな長い練習であってもスタッフや母親は連日熱心に参加していた。高学年の部員は11人しかいないのに、コーチ陣は監督も含めて8人ほどいた。低学年の方にもスタッフは6人程度いたので、部員の7割くらいの人数がいたことにある。試合になるとそこに父母や祖父母が観戦に来るので子どもたちの倍の人数大人がいる状況だった。
部員の父親の半数くらいがスタッフとして参画していた。残りの父親は休日に仕事の方が多いようだった。私のようにたまに来て観戦するスタイルの父親は珍しかった。実際スタッフとして参加するには私の仕事が不定期すぎる感じだった。
その唯一の6年生の最後の大会は感動的だった。試合には勝てなかったが監督の息子さんが大活躍した。決して皆の前では褒めなかった監督が息子さんを涙ながらに褒めた。息子さんも大粒の涙を流していた。後輩の部員も多くのスタッフも父母も涙で彼らの最後の様子を見つめた。
6年生になると5年生の部員のお父様が監督に就任した。スタッフの年代が若返り楽しくプレーする雰囲気は更に高まった。妻も6年の親ということで何かポストに就かなければならなくなった。結果「会長」になった。これには訳がある。妻以外の6年生5人のお母様は試合の観戦で皆勤賞だった。それに対して妻は6,7割に留まっていた。休日出勤や出張があったからである。それなら野球連盟との折衷をしたり、物品をネットで買う会長が却っていいという判断だった。写真係やスコア係や食事係は現場に必ずいないとできない役割が多い。ということで「父母会会長」という任に就くことになったのだ。
新チームは意外と勝てなかった。6年生6人、5年生2人、4年生1人のレギュラーメンバーの構成だったが、6年生を9人揃えるチームがやはり強い。春頃は惜敗時々大敗といった感じだった。初夏を迎える頃にちょっとした人間関係のトラブルがあった。指導者層や保護者が若くなったこともあり、現場ではない顧問やチームの会長が「今のメンバーは礼儀がなっていない」と指摘し始めたのだ。彼らは一時代前のきびきびとした態度や挨拶を求めた。母親の当番のお茶出しなども目上の人からサッと出すようにと苦言があった。現場や保護者からは「さすがに今の時代にそぐわないのではないか」の声が広がった。妻はその板挟みになっていた。いかにお偉方を怒らせないように文面やタイミングを考えて話し合いの場をもった。結果から言うと決裂に終わりチームに十数年名前があったお偉方はチームを離れることになった。その際に恨み言や暴言があったことは言うまでもない。私が直接チームに関わらない塾経営者ある為「あーいう勉強さえできれば良いという風潮を作る人間がこういう風におかしくするんだ」等の発言もあったらしい。
そんなひと悶着を越えて夏以降にチームは徐々に強くなっていった。特に春先に全く歯が立たなかった近くのライバルチームに接戦で勝った時にはチーム関係者のほとんどが涙を流していた。この経験はなかなか代えがたいものがあったように思う。そういえばスポーツ少年団の年会費は10,000円程度である。ユニフォームやグローブは自前で揃えないといけないが、その他の経費はほとんどかからない。つまり指導者側も無償である。それでも毎年10人程度の監督やコーチが声を上げて参加していた。半数超が子どもが団員でそれ以外はOBの親が多かった。勿論、子どもがいないが地域の野球好きの若者も入っていた。
この実態を見ているので部活動の指導者問題がよく分からなかったりする。無償でも子どもにスポーツ指導をしたい大人はそこそこいると思われるからである。5万人が住む市に私たちのようなチームが3つあった。サッカーチームも複数存在するし、バレーやバドミントン、柔道などもある訳で、なぜ小中の部活動があれほど人材不足になるのか理解できない所がある。平日は難しいと言われるかもしれないが、よく自主練と言って平日に1回くらい夕方に指導者の下で練習していた。
話を元に戻す。今年の2月に長男は卒団となった。最後は同じ学年のメンバーは5人だった。一人長男と仲の良かった子は「野球もサッカーも両方体験したいんだよね」と夏の終わり頃にサッカーチームに移籍した。卒団式の際に1年間の成績の発表があった。長男は同学年では5番目の打撃成績だった。4年生の1年間私の判断でブランクがあったことが影響したのは間違いなかった。キャプテンだった子は5年生の頃から投打に別格で様々な所が声が掛かったらしい。他のメンバーもそれぞれのポジションでかなりの力量を兼ね備えるようになった。
卒団式の際に驚いたのは写真の数である。どうやら5,000枚余りの写真と40時間くらいの動画が撮られていたようだった。長男の写真だけでも500枚くらいあり、20分くらいにまとめられた動画では思わず涙がこぼれそうになった。
長男は中学でも野球を続けることに決めた。同級生の4人は全員がクラブチームに行くことになり、今までとは違う新しい友人との活動になる。他の市内のスポーツ少年団の子たちもほぼ全員がクラブチームを選んだ様子である。14人くらいの部活の同級生は8人くらいがソフトボールのスポ少経験者と3人ほどの初心者、2人がクラブチームと兼ねて平日の練習に参加するメンバーと聞いている。我が市では中学の部活動の改革が全国でも早く進んでいるようで活動日や練習時間が非常に短い。小学校の時からある程度のレベルでやっていた層には物足らないのである。土日祝に24時間くらい活動していた子たちが、土日祝の3連休でも最大3時間のガイドラインの部活ではなかなかその能力を伸ばすのが難しいのであろう。
長男は25人ほどの上級生がいる環境に入ることになった。今まではメンバーがギリギリで「試合に出られない」という状況が無かった。一つ上の子も一人だったので先輩云々をほとんど経験していない。新たな環境で今まで恵まれていたことを噛みしめながら新しい仲間と楽しみ勝利を目指してほしいと思う。
最後に2点印象に残ったことを書いておく。卒団式の際にキャプテンの子が「感謝の言葉」を話した。
”僕たちが野球をするために、監督さんをはじめたくさんの指導者の方、お父さんやお母さんを含めた家族、グローブやバットなどの道具の存在、そして思いっきり投げたり打ったりできる広い空間がある地に生まれたことに感謝します”道具や空間に感謝は私の心を打った。
また長男が打席に立った時はいつも緊張した。皆が見ている。相手チームのメンバーも見ている。皆が見ている中で勝負しなければならない。それを最後の1年間で195回彼は行った。地域を代表して195回戦いのバッターボックスに立った彼を誇りに思う。今のような時代にそのような機会があったことを幸せに思う。
確かに旧態依然で練習は厳しく、例えば暑さで練習や試合が止まったり無くなったりしたことはなかった。しかしそこに携わるたくさんの大人がいた。地域のシルバー世代もよく練習を眺めに来ていた。1990年代前半だったチームの空気管も2010年くらいまでは改革が進んだように思う。長男と一緒に戦ったメンバーやチームの将来に幸多からんことを願ってこの文章を締めることとする。
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