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流行語大賞「ふてほど」への反応は学習指導が難しくなったことを証明している
2024年の流行語大賞が決まった。世論の反応はこの賞が始まって以来最低である。表彰された阿部サダヲ自身が「使ったことがない」と言うのだからさもありなんである。
ドラマ「不適切にもほどがある!」の短縮語である。私もこの結果を聞いた時は耳を疑った。「闇バイト」か「界隈」が私は相応しいと思っていたが、前者はそもそもノミネートに含まれていなかった(トクリュウは入っていた)。界隈もネットで多用されているだけで世間一般への浸透度はイマイチな気がする。「推し」が2,3年遅れではあるが大賞に相応しいとも思うが、まあ賞味期限を超えてしまったのだろう。
実は今年ノミネートされた30の言葉全てを私は知っていた。「ふてほど」も自分が使わないだけで他の人がそう話すのを聞いたこともある。しかし昭和と令和の文化の違いを「不適切」と表現するドラマなので、漢字だからこそ意味を成す。それをひらがなにして縮めるのはセンスがないなと思っていた。そんな好感度の低い言葉が選ばれたということだ。
ただ代わりにどの言葉が選ばれようが同じような反応になったことは想像に難くない。そしてこの様子には既視感がある。近年のレコード大賞や紅白歌合戦の出場者発表と同じだ。
「こんな奴ら初めて見た」
「知らない人ばかりで寂しい」
「もっとこうすれば良いのでは?」
※(オレノカンガエタサイキョウノコウハク)なだけで、過去最低の視聴率になるのは間違いない提案。
どう逆立ちしてもこれだけコンテンツが乱立して趣味趣向が幅広くなった現代でマスを対象にした催事やコンテストは成り立たなくなっているのである。
この変化を「流行語大賞や紅白歌合戦は時代についていけなくなっているんです」と分析するのが一般的なのだが、さてそれが正しいのだろうか。「これらのイベントが時代についていけていないのではなくて、私たちや社会がこれらのイベントを受け入れる度量や余裕を失っているだけではないか?」と感じることが増えた。
そしてこの世間の反応は、今の小学生や中学生にも通ずる。これだけ楽しいことに四六時中触れる機会があり、またいくらでも自分が好きなジャンルの情報が注がれる環境の中で、子どもたちは「学び」を大切にするだろうか。今回でもそうなのだが「ふてほど」を知らなかった人は少し偉そうに意見する。「こんなの知らねえ」とか「こんな言葉知っても仕方が無い」とかである。しかしそれは勉強を避ける小中生と全く同じ態度である。世間にとっての「ふてほど」は今の子どもたちの「学校の勉強」なのだ。
「ふてほどって言葉知りませんでしたし、ドラマも知りませんでした。せっかく流行語にまでなったドラマなので、年末年始にでも通し見します。また新しい言葉を知ることができてうれしいです」こんな反応も本当に見当たらない。とにかく自分が知らなかったことは正当で、それを知らされて不快になっている人が多いことに頭を悩ませる。
あまり私は好きな言葉ではないのだが「子どもは大人の背中を見ているんじゃないですか?」普段このような偉そうなことを言う人に限って、エンタメとかB級のカルチャーになるとバカにする様子が散見される。その態度が巡り巡って今の子どもたちの学習態度に繋がっていると感じる。
何か権威や歴史のあるものが通用しなくなることを喝采する人を見るたびに、子どもたちが学びから逃避して学力が下がっていくのだろうと想像できて悲しくなってしまう。