短編小説:ゴキブリ_2021.06.21
香港のとあるマンション
土曜日の朝、寝室で男の人が寝ている。30代後半くらい。
サラリーマンはね、時々、飲みたくなくてもお酒を飲まなくてはならないこともある。昨日は、この人午前様でした。でも、今日は休みです。惰眠を貪りたいわけです。そこへ、エプロンをつけた女性が登場。すとんとご主人の寝ているベッドに座る。
「清ちゃん、起きて」
「起きません」
「そんなこと言わないで、起きて」
「……」
「あなたじゃないとできないことがあるんだって」
そんなことで、ホイホイと喜んで女の人の言うことを聞くのは、結婚していない男です。結婚した男は知っている、奥さんがこういう言い方をするときは、ろくな事じゃない。
「男なら太一がいる」
「その太一でもできないことです」
結局引きずられてリビングへパジャマのまま、寝癖のついたままで行く。
千夏と太一がソファの影に隠れて部屋の片隅にいる。
中学生と小学生の兄弟です。
「何やってんの?」
「お父さんおはよう」
「ほら、清ちゃん、そこ、そこ」
奥さんが指さす方を見る。ゴキブリだった。
「こんなことのために俺を起こしたのか?」
「こんなこととは何よ。みんな、どうしようもなくて困ってたんだから」
清ちゃんは騙されません。
「なつ」
「なに?」
「この4人の中で、フリースタイルでゴキブリを仕留める反射神経が1番高いのは、俺ではなくてお前だ」
夏美さん、わりと運動神経がいいんです。
「いや、怖いし」
「……」
寝不足だし、二日酔いだし、頭がちょっとクラクラするんだけど、でも、思考する。
「この香港はどうして、こんなにゴキブリが多いんだ。南国なんて、ゴキブリ天国。仙台に帰りたいってこの前言ってたよね?」
「はい」
「つまりは、この家にゴキブリがこのような状態で出没したのは初めてではない」
「……」
「俺がいない時にもたびたび出没したはずだ。その時、どうした?」
「お母さん、すごかったんだよ。きゃーとかうわーとかも言わずに、一発で……」
「太一」
千夏ちゃんが止めるのが間に合わなかった。一家の中で1番誘導尋問に弱い男。
「その、手腕とやらを見せてもらいたいな」
その時、ガサガサガサ、動いたっ!
キャー、キャー、千夏ちゃんと太一君が大騒ぎ。
「お父さん、早く倒してっ」
「ほら、お父さん」
ぽんぽんと肩を叩く夏美さん。そして、おもむろにスリッパを手渡そうとする。
「こんなんで一気に仕留められる人って、よっぽどの名人じゃないの?」
「迷いがあっちゃダメなのよ。迷いが。それに奴は殺気を感じるからね。こう、静かな波ひとつたっていない水面を思い浮かべて……」
「水面?」
「雑念を全て振り払って、しかも、素早くスッと近寄ってバシッと」
バシッ
「あ……」
説明をしながら、思わず実演してしまった夏美さん。
「やったー!」
千夏ちゃんと太一君が抱き合って喜んでいる。
「ね、お父さん、お母さん、すごいでしょ?」
はしゃぐ太一君
「いや、すごいっていうか……。お前、どっかで修行した?」
「いや、別に。こんなん漫画見たりとか、ゲームしたりしてたら、できるでしょ?」
「できません」
「できるよね?」
千夏ちゃんと太一君に問いかける。ぶんぶんと被りを振る2人。
「なんで、そんな凄腕なのに俺のことわざわざ起こすんだよ」
「こんなんうまくたって全く嬉しくないんだよっ!」
「いや、誇りに思ったほうがいいよ。お母さん。すごく実用的な技術だし」
千夏ちゃんが真顔で言っています。
「ゴキブリって外すと飛ぶじゃん。飛んできて顔とかにピタってくっ付いたらどうしようとか思うと、もう、怖いっ!」
「気迫で負けちゃダメなんだよ」
母、娘に諭す。
「必ず仕留めるって言う強いイメージを瞬間で頭に浮かべ、次の瞬間にはもう手が動いてるの」
「すごい。お母さん、免許皆伝。学校でクラスの友達に言ってもいい?」
太一君。母、眉を顰める。
「やめなさい。太一。どこのお母さんだってこのくらいできるんだから。あんたが恥かくだけよ」
「いや、お母さんぐらいすごい人はそれでも珍しいと思うよ」
「太一」
夏美さん、笑顔が引き攣ってます。
「お母さん、こんなことちっとも名誉に思ってないから、お友達に言いふらされてもさ」
保護者会とかでそう言えば中條さんってゴキブリ仕留めるのお上手なんですって?宅の息子から聞きました。
あらぁ、羨ましいわ。お若い方は違うわね。
(なっちゃんはわりと早く結婚している)
これは……、かなりまずい展開です。
「誇りに思うべきだよ」
太一くんの目は真剣です。
わりとKYなのね。太一君。
「あのね、太一」
そっと優しく肩に手を載せる夏美さん。ちなみにその手はさっきゴキブリを叩き潰したスリッパを持っていた手ですが、太一君気付きません。
「それぞれの家には先祖代々伝わる秘伝というものがあるの」
「秘伝?」
「そう。秘伝。お母さんのさっきのは、その秘伝を応用したものなのよ。だから、太一が学校でそのことを言いふらしちゃうと、小野田の秘密が家の外へ出てしまうのね」
「うん」
「小野田の末裔としてそれは避けなくてはならないの」
「うん、わかった。お母さん」
横でこの様子を見ていた千夏ちゃん。
いくら我が弟でも、こんなほら話信じないだろうと思ったのに。太一は将来詐欺師に騙される人になるかもと心配になる。
横でこの様子を見ていた清ちゃん。
言い得て妙だな。確かにあれは秘伝と言ってもよいくらいの代物だった。しかしだな、普通、そんな大事なものをゴキブリ退治には使わないだろ。
さて、寝るか。そのパジャマの袖を掴む人がいる。奥さん。
「ちょっと」
「ん?」
「あれ」
「……」
昇天された遺体を荼毘にふしました。
さて、今度こそ。
「ちょっと」
「まだ、なにか?」
「せめてあなたが家にいる時はわたしにこんなことさせないで」
「なんで?あんなにいいもの持ってるのに。使わないと錆びるぞ」
「あのね」
キレモードのレベルが一段階あがり、警戒体制に入ってきました。
「小野田の秘伝はこんなくだらないことに使っちゃいけないの、本来は」
えー、そっちで来るんですか。
さっき突っ込んどいてなんですが、意表をつかれた清一さん
「そんなこと言っても、中條家には秘伝などない」
「え、ないの?」
がっかりする太一君。小野田と中條と二つの家から二つの秘伝を継承できることを期待していたようだ。
するとニヤリと笑う夏美さん。
「ゴキブリを倒すのに秘伝なんていらないわよ」
「俺は、近接戦には向いていない」
くだらない話になってきたな、朝ごはんはまだかと思い始めた千夏ちゃん。
「というか、中條の家は代々どちらかと言えば肉体よりも頭脳を使って戦ってきたんだ」
なぜか中條家の歴史を語り始めた清ちゃん。
「そんなこと言いながら、結局、ゴキブリが怖いんだ」
「そんなことはない」
ふっと笑うご主人。この人ね、追い詰められると強いんだ。
「出てくるのを一匹一匹叩いたって、ゴキブリは生存し続けるんだ。そんな原始的なやり方」
「ほぅ」
原始的なやり方と言われて、まゆがピクリと動く夏美さん。
「群れの元から絶たないと、家の中から一匹残らず撲滅するんだよ。化学兵器で」
「化学兵器って?」
「だから、バルサン炊くとか、ゴキブリホイホイおくとかさ」
「じゃ、お願い」
「え?」
「できるだけ短期で、一匹も残らずゴキブリがいなくなる策を、中條家の輝かしい頭脳で立てて実行してね」
「……」
「長期戦は嫌ですから、きっちりと0匹までお願いします」
そして、スタスタとキッチンへ消える。朝ごはんを作るために。
今のは、勝った気がしませんよね?
「お父さんってさ」
「ん?」
千夏ちゃんが話しかけてくる。
「いつもお母さんを挑発していると見せかけて、挑発されて負けるよね」
「……」
「まるで、お父さんにスリッパを持たせたがっているように見えたけど、敵の本当の狙いは別のところにあったんだよね」
「……」
「お父さんとお母さん見てると、本当に頭のいいのはどっちなんだろうってわかんなくなるわ」
「もう、何も言うな」
そして、二日酔いの頭を抱えつつ、ゴキブリホイホイがいいのか、それとも、全員外に一時退去しなければならないけれど、あの、煙がもくもく出るやつがいいのか、ネットで色々調べながら検討をし始める清ちゃん。つうか、ゴミの捨て方とかね、ゴキブリを増やさないために他にも工夫できることはないのでしょうかね?
完全に根絶やしにするには、敵を知らなくては。
そもそも、ゴキブリとはなんぞや?どんな毎日や一生を送っているのか……。
折角の休みの日に、ゴキブリ研究にいそしむことになってしまった。
了