短編小説:子供を産んで_2024.09.05
こちらも私小説風に仕上げてみようかと思います。汪海妹
子供を産もうとか絶対産まないとか考えたことはない。結婚しようとか絶対しないとかも考えたことはない。ただ、自分はきっと一人で生きていけばどこかでのたれ死ぬだろうと知っていただけだ。わたしと結婚したいというかしてもいいというか、そういう人がいたので両方の親に紹介して結婚した。
そして、子供が生まれた。
わたしは目的を持って子供を産んだわけではない。ただ、そうなった、くらいの気持ちで産んだにすぎない。ただ、正直にいうと出産に対する恐怖はあった。
病院で妊婦の時に研修というかなんというか、病院が大体同じ時期に出産することになる妊婦を集めて教育をするのだ。そこで、抱負を一人一人いわされた。
「産むしかない」
そういった。当たり前だ。お腹に摩訶不思議なものが入ってて動いているのである、出すしかない。正規のプロセスでもって出すしかない。この感覚は男性には逆立ちしてもわからないだろう。
ただ、子供、これは産んでみるまでどういう存在なのか全く理解していなかったと思う。産んでわかった。簡単にいうと、子供というのは完全無欠の母親のストーカーである。人生の中で、こんなに誰かに愛されたことはない。とにかく追ってくる。
トイレすら下手すると一人で済ますことができない。母親がトイレをすませている時間すら母親と離れたくないのが子供なのだ。トイレのドアを叩いて泣くのである。
どこのストーカーが、ここまでやるだろうか?
育児をしている時は、とにかく必死で、鬼のような顔で毎日を過ごしていて、それは怒涛だったので気づいていなかったことがある。赤子が大きくなって、人間らしくなってきて、そこそこ会話も成り立つようになってやっと自分の時間が持てるというか、一息つけるようになってきて、である。
自分が変わったことに気がついた。
他人からどう見られてるかとか、他人に気に入られるためにどう振る舞うべきかと考えなくなった。努力して振る舞ったって嫌われるときは嫌われるのだから無駄だと思うようになった。
簡単に言えば、どんなにたくさんの人に嫌われたとしても、世界でただ1人は無条件にわたしを求めてる。それを実感した。
親だってわたしを愛してるだろう。だけど、親から子への愛と、子からの親への愛とは違う。
これはわたしが欠けたところのある人間だからである。全ての人に当てはまることではない。大昔に損なってしまった欠けた部分を埋めるために一生懸命生きてきた。でも、それをこんな形で補うことがあるとは、全く考えていなかった。
自分のかけてしまったピースは自分で埋めるのではなくて、他人によって補完された。息子によって。
その次に自分を襲ったのはこういう不安であった。息子が幼稚園や学校へ行って、昔わたしが経験したようなつまらない目にあったらどうしよう?
その時、自分の脳裏に浮かんでいたのはこういう情景。わたしと息子が二人で孤絶している様子。それはとてもとても寂しい画だった。ただ、同時にどこかでそれは間違っていると気づいてもいた。気づき始めてもいた。
わたしを嫌っている人たちなんて、本当は存在しないってこと。もう少し言えば嫌っている人がいたとしても、それは向こうの問題で、わたしが悪いわけじゃない。別にわたしを嫌っている人よりもっとたくさんのわたしを好いている人がいればそれでいいのだということ。そして、長年わたしは存在しないわたしを嫌っている人、いわば幽霊の影のようなものに追い回されていたのだということ。気づき始めていた。
幽霊を発生させる装置がどこにあるのか?
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「ただいま」
「おかえりなさい」
「今日は学校どうだった?」
幽霊を発生させる素、原材料のようなものがうちの息子の毎日になかったわけではない。そんなもの探そうと思えばいくらでも見つけられる。ただ、わたしはその誘いには乗らなかった。
いつもニコニコして、息子の話に過敏に反応したり、過剰に心配しなかった。
この子は大丈夫
幽霊を発生させる装置は母親だ。母親の一挙手一投足と表情を子供はいつも見ている。わたしはハッタリを突き通した。心の中にある根拠のない不安を表面に出さなかった。
息子には今現在までとりあえず問題は出ていない。
些細なことで共同体に弾き飛ばされることもある。本人が悪くなくても。その時、親として何ができるのか。これは難しい問いだ。ただ、たまに問題にさらに上塗りするように親が動いてしまうこともある。親の方が動揺してさらに状況を悪化させてしまう。また別の場合では、特に問題が起きていないときにそれを問題だと認識させてしまうこともあるのである。
何もないところに幽霊を発生させるとはそういうことだ。確たる問題がなくても、必要以上に親が心配するということだ。
もう一つ、個人的な方法で、わたしは息子に予防線を張っている。
「お母さんが子供の頃にね」
わたしは自分の昔のつまらなかった話について子供に色々話している。いわば自分の弱みを子供に晒している。これにはそれなりの意味がある。
自分にとって辛い経験というのは、まともに向き合うのが辛いので、まず第一段階では自分の心の中でも言語化できない。脳はそれを忘れようとするか、少し違う経験として脚色して置き換える。それを言語化しようとするのが第一段階。第二段階は、自分の信頼できる相手にそれを伝える。この時、脚色したままの経験を伝えて仕舞えば良い。結局物事の真実などというものは、人間の脚色をなしに成り立つことなどないのだから。自分の好む解釈をつけて仕舞えば解決するのである。
ここまでできている時、個人はその経験をかなりの割合において克服していると言える。
わたしは辛い経験をしても、人はやっていけるのだということを息子に知っていて欲しいのである。
未来はわからない。
わたしの息子にだっていずれ彼の試練が訪れるだろう。それに対しては本人が向き合うしかない。何もしてあげられない。だけどせめて、他人の経験ではあるけれど、何かあったとしても人間は生きていけるし、人は変われるということを教えてあげたいのだ。いつか必要になった時に思い出してくれればいい。
これがわたしがわたしを無心に愛して、わたしの失ってしまったピースを埋めてくれた息子に対してのなけなしの餞別である。餞別というと、縁起が悪いか。とにかく贈り物だ。ちょっと変わったものかもしれない。
育児という場面では 親からの子に対する愛が取り立たされて、あまり子から親への愛については取りだたされていないように思う。子も親を愛している。そしてその小さな手でできることを精一杯してくれているのである。
それこそ、生まれた瞬間から。わたしはそう思う。
2024.09.06
汪海妹
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