短編小説:護身術_2021.05.23
これは神谷和華が中等部の学生だった頃の話である。
「この通り、お母さん、お願い」
母娘でテーブルに向かい合い、娘は両手を合わせて頭を下げている。
「……」
何もいえずに娘から渡されたIPADの画面をつくづくと眺める麗子さん。
向こうのリビングでは、秀斗君がテレビにスイッチを繋いでゲームを楽しんでます。
「お花やお茶や……」
「うん」
「ピアノやバイオリンではなくて」
「はい」
「ええっと、お習字や、お料理や」
まだ出てくるかと思いながら母親の口元を眺める和華ちゃん
ちなみにこのお稽古事は全部、お母さんの麗子さんがかつて習っていたものです。
「これなの?これを習いたいの?」
和華ちゃんはお母さんに話をする前に一旦息を吸った。
「あのね、部活もあるし、学校の勉強もあるし、結構忙しいから難しいけど、お母さんがそういう習い事をわたしにして欲しいのなら、習って身につけます。でも、今、わたしに必要なのはこれなの」
「……」
ピアノは昔していた。和華ちゃんも。
つまらなさそうに、それでも、まぁ、やってました。ピアノ。
しかし、弟の秀斗君が始めると和華ちゃん、
「秀斗、上手。すごいすごい」
ことのほか喜んだ。ぱちぱちと両手を鳴らしました。そして……
「秀斗がこんな上手なら、わたしがやる意味ないよね?」
にかっと笑って、堂々と止めてしまいました……。
それでも、嗜みだからと言われてお茶とお花の稽古はさぼりがちだけど続けています。
そして、今、彼女が新たに習いたいと言ってきたのは……
護身術
しかも、なんか、空手とか合気道とかではなくてですな、海外の軍で正式に採用されている完全実戦主義と広告に書かれているんですが……
金持ちのお嬢で、でも、実は安い牛丼が好きで、絶叫マシーンを愛する麗子さん、くらっときた。
自分にだって隠れた顔はあるけれど、常にそれを隠しながら、お嬢としての体面を守って生きてきたわけで、でも、なんか和華ちゃんは堂々と、こんな、完全実戦主義だなんて、お嬢と全く真逆なことをしようとしている……
こんなもの習ってしまったら、着物を着て座っていても殺気が漂うような女性になってしまうのではないか……
麗子さんの頭の中で、なぜか着物姿で敵に回し蹴りを喰らわしている和華ちゃんの姿が。
「なんで、女の子の和華ちゃんがこんなものを習わないといけないのかな?」
「狙われてるの?」
「へ?」
寝耳に水です。
平凡な主婦であるはずの自分が、最近は若干、娘のせいでアクションムービーに片足突っ込まされている気がするのだけれど。先生に怒られてしまったりとか。
「行きも帰りも送り迎えした方がいい?」
「いや、外ではないから」
「へ?」
「敵は学校の中にいる」
「……」
様々な情報や記憶が嵐のように麗子さんの頭の中で行き交いました。
「先生を武術で傷つけてはいけません」
「先生じゃないよ」
「ええっ?」
混乱する。麗子さん。そして、はたと気がつく。あらいやだ。娘を先入観で見ていました。うちの娘にだって、普通に起こりうることだわ。風向きが変われば。
「和華ちゃん、もしかして、学校でいじめられてるの?」
「いいや」
速攻で否定されたし。この一瞬のドバッと沸いた親の心配な気持ちをどうしてくれるんだっ!
本来の穏やかな気質が、和華ちゃんを前にしていると、さすがの麗子さんも何か別の麗子さんに進化してしまいそうだ。
「では、どうして……」
「口で言ってもわからない奴が一部にいるんだよ。まさか、このわたしに手出ししようなんて思わないと思うけど、保険はかけておかないと」
チーン
「和華ちゃん……」
「大丈夫。大丈夫。暗闇で襲いかかってくるみたいなさ、本当にそういうことがあったらだけど、そういう最後の最後まで使わないから」
どういう……
「どうした?お母さん」
どういう、学生生活を送っているんですか?あなたは、学校で。
「大丈夫?なんか、顔色悪いよ。お母さん」
「いえ、別に……」
コホン
咳払いと共に体制を立て直す麗子さん
「でもね、和華ちゃん。お母さん、思うんですけど」
「はい」
「そこまで相手を怒らせてしまうのは、あなたにも原因があるのではない?」
「え?」
目が尖る。
「わたしは間違ったことは言ってないもん」
「でも、言い方ってものがあるでしょう?」
「お母さん」
すると不意にゲームをしていたはずの小学生の長男が口を挟んできた。
「なに?秀斗」
「世の中にはね、周りとぶつかっても自分の意見を曲げずに突き通す人が必要なの。全員がそうである必要はないけどさ」
「へ?」
「姉ちゃんは間違ったことはいつも言わないし、丸くなる必要はないと思う」
がーん
「秀斗ー」
「ああっ、もううざい。やめて」
テーブルから立ち上がり、熱烈に弟に抱きつく和華ちゃん。歳の離れた弟が、生まれた時から可愛くて仕方ない。
そんな2人を少し離れたところから眺めつつ、ショックを受けたままの麗子さん
小学生の息子に論破された……
和華ちゃんは、熱いんです。だから、その熱さに対して、まだ突っ込める要素はあるんです。反省すべき部分も。
しかし、秀斗君は、いつも冷静沈着。和華ちゃんにはない妙な説得力がある。隙もない。
まだ小学生なんだけど。
しばし茫然自失とした後にはっと我に帰る。
お母さんとしてのね、問題はいつも、社会がどうのとか世界がどうのなんて大きなテーマではないわけです。
和華ちゃんは女の子なんだからっ
着物を着て、なぜかグラサンかけて、敵に回し蹴りを喰らわしている和華ちゃんの画像が浮かんでいる麗子さん
とにかく少しでも状況を好転させようと頭を捻る
「とにかくっ」
「ん?」
嫌がる秀斗君を抱きしめたまま、和華ちゃんが麗子さんの方を見ます。
「これはダメ」
「え〜」
「合気道にしなさい。合気道」
「え?」
「一般的に女の人がやっててもおかしくないようなのにして頂戴」
「そこ?」
お母さんの気にするポイントが、ずっと一緒にいてもなかなか掴めない和華ちゃん
「軍がどうのとかそんなの、絶対ダメです」
「ちょっと興味あったのになー」
興味あったんかい。
IPADを取ると、秀斗君に見せる。
「ほら、急所蹴りとか習えんだよ。これ」
チラリとその画面を眺めた秀斗君
「こんなん習ったら、姉ちゃん、間違えて相手のこと攻撃しすぎて、警察沙汰とかなるかもよ」
「そんなことないって」
「自分の能力を過信するのは、小者のすることだよ」
「そうか」
「お母さんだって妥協して習ってもいいって言ってんだから、姉ちゃんもある程度譲歩すべきだよ。お母さんは敵じゃなくて味方でしょ?」
「そうか」
おもむろに立ち上がり、麗子さんの前に直立不動で立ちました。
「じゃ、合気道で、お願いします」
ビシッと礼をする。
結構、複雑な気分の麗子さん。じっと長男の顔を見る。
「なに?お母さん」
「いえ、別に……」
長男に論破されました。そして、その後に長男による説得で、事態が少しだけ好転して収まるとこに収まりました。
秀斗君って軍師みたい。
まだ、小学生なんだけど……
***
数日後、休みの日、急ぎの仕事がないので家にいた秀さん、和華ちゃんに話しかける。
「和華、お前、合気道習うことにしたの?」
「うん」
「かっこいいな」
それで終わり。その後、タブレットで何か読んでる父親に向かって話しかける和華ちゃん。
「なんか他にないの?」
「他にって?」
「他には他によ」
しばらくはてと考える秀さん
「ぶちのめしていいやつと悪いやつはちゃんと区別しろよ」
「それは、面倒になるかどうかという意味?」
「勝てない奴に挑むとお前だけじゃなくて周りも迷惑するよ」
「なんかカッコ悪いお父さん」
すげー大音量で、ストレスフリーなはずの休みの日にダメージ喰らうようなこと言われてるし。
やれやれと思う秀さん
「ばか。力は使いようなの」
「どういうこと?」
「こう、勝てるか勝てないかわからないやつの前で、もう少し格下のやつをだな、軽ーく捻っておく」
「うん」
「その噂が行き渡るとだな……」
「その噂が行き渡るとお嫁の行きてがなくなりますっ」
2人で声のした方を見る。これから干す洗濯物抱えた麗子さんが、麗子さんとしては珍しくかなり不機嫌な顔をして突っ立っている。
ぽかんと見ている2人をよそに、ぷりぷりと怒ったままで、洗濯物干しにあっちへ行ってしまった麗子さん。
「もしかして、お母さんって反対してるの?」
「反対はしてないけど、いい顔はしてなかった」
麗子はお嬢だからなぁ。俺と育ちが違うからなぁ。でも、合気道はお嬢でも習うんじゃね?
瞬時に色々考える秀さん。
しかし、喧嘩のやり方を覚えさせるのはちょっと、お嬢ではないのか。
そうか、麗子の前でこういう会話をしてはいけないのだな。結論。
「お父さんのせいじゃないんだから、和華、お前、お母さんの機嫌とってこい」
「え?」
「ほら、洗濯物、一緒に干してこい」
素直に立ち上がってお母さんの後を追う和華ちゃん
パジャマ姿で寝癖のついた頭で、遅い朝食を取りながらちょっと離れたところからみんなの様子を見ていた秀斗君
じいっと秀さんのことを見ています。
「なに?秀斗」
「お姉ちゃんとお父さんって」
「うん」
「同じ穴のムジナだね」
「それ、褒めてる?」
「いや、事実を言ってるだけ」
むしゃむしゃむしゃ
それだけ言うとトーストを咀嚼している。
了