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漫画感想:推しの子

漫画ばっか読んでんな、この人、と思わないでいただきたい。しかし、漫画ばっか読んでますな!

推しの子は、息子が中国版のYouTube、快手で話題になっていて教えてくれたアニメで、2人で見ようと思った時にはもう放映が終わっちゃってたのです。ファーストシーズンね。それで電子コミックを買って読んでます。後少しで終わりなのかなぁ。アニメのセカンドシーズンが今やっていますが、アニメはまだ中盤ですね。

noteに推しの子について書こうかなと思って、それで律儀な私は昨日と今朝をかけて、コミックス15巻を再度読み直しました。一気読みすると頭が痛くなるので嫌なんですが、ただ、一気読みしないと全体の印象が残らないので、まぁ、頑張りました!ってほど頑張ってもないか。漫画読んでただけた。

この漫画の面白いなと思ったところをいくつか挙げてみると、芸能界ビジネスについてリアルに書かれていて、それが面白い。もちろん、本当に業界にいる人から見たらまだまだなのかもしれませんが、芸能界なんて入ったことのない人から見たら、十分にリアルです。

推しの子なんて知らない、という人がこの文章を読んでいるのかしらと思いつつ、作品概要を載せると、

ミステリー✖️転生✖️アイドル という感じの売りでして、親に捨てられた女の子であるアイが施設を逃げ出し東京で生活しようと出てきたところスカウトを受けアイドルを目指す、天才的なアイドルとして一世を風靡する。

一方宮崎の片田舎の病院、不治の病を患ったさりなは体の自由の効かない傍らアイの推し活に心血を注いでいた。その死に際に親が来ることはなく担当医師の吾郎にのみ看取られて12歳で亡くなる。四年後にその病院にアイが出産のために訪れる。吾郎はアイの担当となったが、その出産前夜何者かに襲われて死んでしまう。

そして、病気で亡くなったさりなと吾郎がアイの出産した双子として前世の記憶を持ったまま転生する。推しの子供となった2人は、アイと幸せな生活を過ごすが、20歳で狂信的なストーカー化したファンに殺されてしまう。

殺された当時アイは引っ越したばかりでその住所は一部の人にしか知らされておらず、実行犯の背後には手引きをした人間がいるのではないか、そしてそれは自分たちの父親ではないかと思うアクア(双子兄)成長したアクアはアイが死に至る糸を裏で引いた父親を探すために、そして、ルビー(双子妹)は半ばで死んでしまったアイの夢を叶えるために2人で芸能界に入ってゆくという話。

いくつか面白いなと思うポイントがあるのですが、一つに芸能人が売れてゆく仕組みのようなものが描かれているのは面白い。これが多岐に渡ります。まず、ドラマ、映画、演劇、地下アイドル、アイドル、ネットタレント、バラエティ、漫画からアニメ化の世界、2.5演劇。ネットで動画投稿してどうやってフォロワーを増やすかというくだりはnoteに原稿投稿している人にも参考になるはずだ。

そして、そこに現代ならではのネット上での炎上や、週刊誌でのリーク等の問題も出てきて、パパラッチ対芸能事務所的側面も含んでいるし、性加害、性被害の問題も一部含みます。そういう社会性の側面も含んでいる。

ま、しかし、メインの読みとしては、芸能界という一種特殊な環境の中で、潰されそうになりながらももがく若者たちの姿で、主人公たちと同世代の読者は、その苦しみに共感しながら読み進めればいいのではないかと思います。

演劇をする人たちの、演技とは何か、という部分ではガラスの仮面を思い出しながら読めるかもね。ガラスの仮面、知らなかったりして。

芸能人というのは自分自身を大衆に晒して勝負する分野です。光と影があると思うのですよね。大衆は芸能人に自分たちとは違う何かを求めるものですから、自然と芸能人は 演じる ことを身につけてゆく。これは映画やドラマを撮っている時だけじゃなくバラエティに出ている時も雑誌のインタビューを受けている時も、インスタに投稿しているときも、いつも です。

でも、もちろん芸能人にも舞台裏はあるわけで、推しの子は その舞台裏を割と普通に描いているのです。つまり、芸能人だって普通の人間だよって描いている。そこが私は結構気に入っている。

右を見ても左を見ても芸能人や芸能人の卵がいる高校では、同級生と売れてる売れてないで上下関係があって、そこにきゅうきゅうしている様子とかが私的には❤︎です。

例えば子役なら、演技できる子供ってのの絶対数が少ないので価値があるのですが、大きくなった子役はただの役者で価値が落ちるとか、
若い新人は新鮮さを画面に入れるために必要なパセリのような存在で、実は誰でもよく、鮮度が落ちる(歳をとる)と、もっと若い新人パセリが来るから取り替えられる運命。

つまり芸能界の定年は30歳で、それ以上を続けられるのは、本物だけ。つまり人に負けない皆を惹きつける才能を持った人だけ。

若い子供達(→私から見たら子供だ)が、10年後、20年後にはどうなっているのだろうと思いながら不安の中にもがく様子は、別に芸能人も普通の人たちも悩んでいるのだよねと納得させるのに十分である。

例えば芸能人とかがキャラとして出てくる小説で、私は、いわゆる大衆が求めるイメージのままに作中に登場するキャラには興味が持てないのです。いわゆる書き手が大衆と同じ視点を持っていて、アイドルっぽいキャラを創作し、そのままそのキャラが喋ったり動いたりするものね。

隣人が実は有名俳優でした!的な設定で、主人公は平凡なOLでどうのとか、幼馴染が有名な歌手になっちゃった!とか。そういう作品をダメだと言っているのではなくて、それは人気のあるジャンルだからそのままあればいい。ただ、私は読まないというだけで。

私が読みたいのは、芸能人であるキャラが光と影を行き来して、表で見せる顔と裏にある顔の両方が描かれるもの。そして、その裏の顔のリアリティ度が高いものです。推しの子は結構いい線をいっていると思います。だから、せっせとコミックも買ってるわけで。

芸能人も一生懸命 嘘をつきながら 自分を演じている。私から言わせれば、一般人だって同じで 嘘をつきながら生きています。それが人間じゃないですか。ただ、芸能人は不特定多数に自分を晒して嘘をついていますから、その嘘が転んだ時に、大変な目に遭うのです。

自分は平和主義者の、ちょっと変わった人、変人ですので、一般大衆があんなにも芸能人という公人であるとはいえ他人の事情に対してピラニアのように一斉に食いつくのとか、ピラニアが食いつくのを煽る大人たちがいるのとかに

えげつない

と眉を顰めるし、その大いに叩かれている人が私とは直接関係ない人でも、かわいそうにと思う時があるものです。ただ、大衆心理というのも、それも現実であり、昔っからあるものだし、それに、自分だって嫌いだなと思う芸能人の悪口を言ったことだってあるわけだし、そういうことにくどくど言うつもりはない。

ただ、演じる、と言うことについて、狭義の意味での演じるも、広義の意味での演じるも、興味深いなぁと思うのです。

自分の心を守るために、みな、多かれ少なかれ ペルソナを被る。私がここで言っているペルソナとは、どちらかといえば心理学的用語によってます。

人は皆、ペルソナを被っている。そして、被り続けるうちに何が本当の自分なのかを人によっては忘れてしまう。私と言う人間はそれを剥がそうとする人間なのです。被った顔と剥がした顔の両方をお皿に載せようとする。他人のね。

実生活でこんなことをしたら冗談ではなく刺されます。だから私は架空の人物を創造して、その人にそれを託すわけで、いわば作中の人物というのは、昔でいえば人形のようなものです。私たちの念を背負ってくれる人形です。

なんでそんなことをわざわざするかといえば、仮面を被りながら元気に生きていられればいいのですが、人は時に心を病んでしまうからですね。歪んだ仮面をつけてしまい、でもそれを自分では外せなくなった時、人はそれはそれは苦しむものだと思うのです。

その時、フィクションという偽物の世界の中で、あなたに似た別の人物が、仮面を被った顔と外した顔を見せながら、そして、何かから解放されて前へ進む姿を見た時に、人は救われる。場合によってはその作中の人物は劇の中で、あなたの代わりに死んでくれるかもしれません。

自分の代わりに死んでくれる 人形ひとがた とはつまり、人形のことです。

でもね、作中でその人物が死んだとしても、観衆であるあなたは 生きていかなければなりません。あなたを生かすために作中で代わりに死んでくれたというふうに考えるべきだ。私はフィクションがいかに絶望的なものを描いていたとしても、その底には人を正しい方向に歩かせる力を持っているべきだと考えている人間なので。ただの絶望を描いてもいいけれど、でもきっとそういうものはたくさんの人には読まれないと思うのです。

もう一つ、アイドルというのは、観衆の望みを叶えてくれる偶像ですが、これもまた人形のようなものなのです。アイドルは 代わり身です。自分の代わりに色々なことをしてくれる人です。

でも、舞台から降りたら、アイドルは人間なのです。普通の人間です。でも、アイドルが普通の人間であることに怒りを覚える人もいる。がっかりしちゃう人もいる。

昔ね、身代わりにするために我々は人形をつくりました。時には厄を生きた人間から持っていってもらうために人形を川に流したりもしている。感謝しつつね。だけど、生きた人間は川に流せないのです。のめり込むのもわかるが、舞台から降りたアイドルが人間らしく生きるのは許してやってくれ。

自分としては、なんというか、こういう、自分自身から目を逸らしてアイドルとか何かそういうものに救いを求める人間の心理構造に興味があるのです。特に10代の若い人は、こういう時に限度を超えて自分という舟を大きく揺らしてしまうのではないかなぁと思う。

だから、その揺れる舟と海と、でも、揺れながらもその大きいとはいえない舟で嵐を掻い潜り、生き残って子供が大人になるような何か、そういう姿が書けたらいいなと思う。

ちゃんとそういう偶像と本物みたいな主題が底に隠れているのなら、一般人の隣に有名な俳優が引っ越してきて、私の部屋に醤油を借りにきて恋が始まってもいいよね。ははは。そして、顔は普通だが、書道の字を見て、字から私に惚れるとかな!ははは!字は大事だ。字は。普通の東京のOLのアパートの壁に、似合わないのに掛け軸が掛けてあって、書き初めの字が飾ってあったとかな!

ちなみに私の字は汚い。学校なんてくだらないと思い、小学校1年生の時に、あいうえおを真面目に練習しなかったせいだ。

この文章はもう終わらしていいと思うのだが、それでもしつこく続けると、わしゃ、面食いなのでイケメンは大好きだが、外見により人間を松竹梅に分けていて、松は芸能人だと思ってる。

松は、遠くから眺めるものである。長い人生の中で非常にラッキーなことに松の方とお話しするようなことがあったら天にも昇る気分だが、その松を家に持って帰ろうなどとは思わない。せいぜい上へ行って竹までだ。松はあかん。どんなに酔っ払ってへべれけになっても、自分の外見の程度はわかっている。私はトークはある程度いけるかもしれないが、いくらトークで水増ししても松に手が届くような人間ではない、そんな身分不相応のことをしたら、どんな阿鼻叫喚な地獄を見るか。

イケメンはワケアリ煎餅レベルで良い。座右の銘である。

2024.08.11
汪海妹



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