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短編小説:酒盛り_2021.01.11
この短編は、死水、パジャマパーティー に続くお話です。
「ごめんねぇ。ひろ君、本当に」
「いいですよ。このくらい。ちょうど休みでしたから」
「ほんとは旦那に付き添ってもらう予定だったんだけど、急に亡くなった方が出て……」
「あ、夏美さん、今呼ばれましたよ」
ひろ君と夏美さん、病院のお会計の前のベンチに座ってます。
「はいはい」
「あ、座ってていいですよ。保険証とかください。僕やって来ますから」
夏美さん、一番前列に座って受付の女の人に会釈をする。松葉杖の様子を見て、女の人も納得したようだ。
「お孫さんですか?」
ひろ君を見てニコニコしている。
「ええっと……」
ひろ君は嘘がつけない。
「友達のおばあちゃんです」
彼女のおばあちゃんを友達のというのも厳密に言うと嘘ですが……。
「それじゃあ、発進させますよ。シートベルト付けましたか?」
「はいはい」
今日はひろ君、中條家の車を運転してます。
「ひろ君、車持ってないのに運転できるのね」
「パン屋ってたまに配達することあるんです。だから、免許取れる年なったら取って、手伝ってたんですよ。それに今の仕事でもたまに車が必要な時があるんで」
「えらい、えらい」
バックミラーにニコニコしてる夏美さんが映ってます。褒められてちょっと嬉しかったひろ君。
「お医者さん、なんて言ってました?」
「あー、年寄りとしては順調だって」
「はぁ」
「骨なんかね、なかなか復活しないのよ。年寄りは」
ちょっと心配になる、ひろ君。お年寄りって、骨折して動けない間に、足腰が弱ってしまうと聞いたことがあります。
「大丈夫よ」
「え?」
そんな心中を察したのか夏美さんが声をかけてくる。
「いろんな事情があって簡単には死ねないの。絶対に復活してみせるから」
なぜそんなに切羽詰まった顔をしてるんでしょうか、夏美さん。
そうこうしてるうちに家に着きました。
荷物を持って夏美さんが転ばないように寄り添って歩いたひろ君。玄関に入ったところで夏美さんが言いました。
「さ、ひろ君、もういいですよ。うち帰ってのんびりして」
「ほかに何かないですか?」
「もう大丈夫よ」
「夏美さん、夕飯どうするんですか?その足だと料理大変でしょ?」
「冷凍食品でも温めて食べるわよ」
「僕なんか作りますよ」
そういうと勝手に靴を脱いで上がってしまうひろ君。
ちょっとぽかんとする夏美さん。
「座っててください。冷蔵庫開けちゃってもいいですか?」
「ああ、いいわよ」
普通なら、ただ、はれーと感動するところ。
でもね、夏美さんもそれなりにひねくれたところがある人だ。
この人はあれだ。マダムキラーならぬ、老人キラーだと思う。独居老人を狙わせたら、百発百中ではなかろうか……。
老人を感動させて、そのご老人がぽっくりいくと、あら不思議。なぜか家族ではなく遺産がそっくりとその子に……。
「夏美さん」
「はい」
「焼きそばの材料があるんですけど、そんなんでもいいですか?」
「はい」
旦那は先に逝かせる、えっとこの言い方はまずいな。大いにまずい。言い直します。旦那が先に逝くまでは生きることに決めたので、旦那の遺産は一旦わたしに入るわけだ。
台所で料理しているひろ君の背中見ながら考えます。
わたしが死んだら太一と千夏に残したあと、孫達にいくらかずつと思ってたけど、ひろ君もそこに入れようかなあ。
「あ、そういえば」
出来上がった焼きそばをテーブルに運びながら、ひろ君が急に顔を強張らせます。
「お父さんって何時ごろ帰って来るんですか?」
「樹君?」
夏美さんは壁の掛時計を見ました。まだ6時半くらいなんです。
「こんな時間に帰ってくるなんて、ないない。部長さんは忙しいの。早くて9時くらいなのよ」
それまでには絶対帰ろうと決めたひろ君。ふともう一つ頭によぎった考えが……。
「お兄さんが帰ってくるなんてことは?」
「春樹君は来るにしても週末くらい。忙しいのよ、あの子も」
胸を撫で下ろす。
「あ、すみません。僕の分もちゃっかり作っちゃったんですけど、家で1人で食べるのも寂しいし」
夏美さん、ころころと笑う。
「もちろんいいわよ。こんな安いものでごめんね」
「いただきまーす」
2人で声が被りました。
「そういえば、前から聞きたかったんですけど」
「なに?」
「夏美さんって無茶苦茶料理上手なんですか?」
「なんで?」
「暎万があんな食いしん坊になったのは、夏美さんのご飯が美味しかったからなのかなって前から思ってたんで」
はて?夏美さん、自分の半生を思い返します。
「腕が…」
「はい」
「よかったとかではなくて、でも、努力はしました」
「努力ですか?」
「わたしは、専業主婦ですからね。家族を喜ばせるのが仕事ですから」
ひろ君、ちょっと感動しました。
「暎万ちゃんはね。いっつも喜んでくれて、そりゃ作りがいがあったのよ。美味しそうに食べてくれるし」
いい笑顔で笑いました。
「でも、ある時はたと気づいたの。何かがおかしいと」
「何がですか?」
「作っても作っても食べ残しが出ないの」
「……」
「のせられるうちに何品も出すようになっていて、はたと気づくと、すごい量作ってて……。だってその頃わたしたち、基本3人だったのに」
「3人?」
「春樹君と暎万ちゃんとわたし」
「……」
「ほら、他のみんなは仕事で忙しいから。春樹君が中学生だったから。男の子が一番よく食べる時期だからかなっと思ったんだけど……。春樹君が食べてるにしても……。冷静になってよく見たら、暎万ちゃん、お兄ちゃんよりもっとたくさん食べてたのね」
その小学生の暎万ちゃんがぱくぱく食べる様子が、まるで見て来たようにひろ君の頭に浮かぶ。
「ちょっと、これはまずいかもと思って、作る量をさりげなく減らしてみたの。そしたら……」
「そしたら?」
「家庭内暴力一歩手前かと思うような剣幕で暎万ちゃんキレちゃって……。春樹君とわたしの2人ではとても抑えられなかったのよ」
モンスターみたいだな……
「ごめんね。ひろ君。これでも努力はしたのよ」
「夏美さんが謝る必要はないですよ」
「ただいまー」
噂をすれば影
「あれ?なんでひろ君がいるの?」
なんか両手にビニール袋抱えた暎万ちゃんが帰って来ました。
「あれ?暎万ちゃん、なんで今日早いの?」
「おじいちゃんから電話かかってきたんだよー。今日急に出かけなきゃいけなくなって、夕飯の支度してあげられないって。出来るだけ早く帰ってあげてって」
「あら」
優しいじゃないですか。清一さん。
「なに?ご飯もう食べちゃったの?買ってきたのに」
「なに買ってきたの?」
ビニール袋からいろんなものが出てきた。
コロッケが5枚、たこ焼きが1パック、山菜オコワが1パック、焼き鳥が1パック。
「これ、何人分?」
「へ?」
「これ、おばあちゃんと2人で食べようと思って買ってきたわけ?」
ひろ君が聞きます。
「わたしはそういう風にはものは買わないからっ!」
「じゃあ、どう言う風に買うんだよ」
暎万ちゃんにとって夕飯時の商店街はめくるめく冒険のステージです。今日はどんな素敵なアイテムをゲットできるでしょうか。
あの子供の頃から通い詰めているお肉屋さんにはまず行かなければならない。唐揚げにするかコロッケにするか究極の選択だった。
コロッケのお金を払ってる時に右側から、鰹節の香りが、お好み焼きだったら絶対買わない、この前食べたばっかだしと思ったら、たこ焼きだったのでゲットした。熱いうちに帰らなくてはと足を速める目の片隅に、タイムセールで安くなっているお弁当屋さんの山菜オコワを発見。ついでに焼き鳥買って帰ってきた。
「その、最後の焼き鳥が、すごく杜撰に買われてる気がするんだけど……」
「残った予算にぴったりだったんだよ」
「……予算があるの?」
「わたしは1ヶ月まるまるおいしいもの食べてたいの。給料日前にかけそばしか食べられなくなるようなヘマはしない」
まだ言い足りないひろ君。
「コロッケ、5枚は買いすぎだろ?」
「全部、味が違うの!」
「だからって、いくらお前でも、一気に5個もコロッケ食えないだろ?」
ふふんと暎万ちゃんわらいました。
「一気に食べるとは言っていない」
「え、そうなの?」
「キャベツを千切りにして、トースト焼いて、コロッケあっためたの挟んでソースかけて、コロッケサンドにして、明日の朝食べるの!」
それは、ちょっとうまそうだとひろ君思いました。でも、ちょっと待て。
「朝からそんな重たいもん食うなよ。どう考えても、昼飯だろ、それ」
「いちいちうるさいなー」
ついでにいっておくと、暎万ちゃんが食べようとしているコロッケサンドのトーストは、ひろ君のご実家で買ったパンです。
「ただいまー」
ん?伏兵の登場です。
「あ、ひろ君だー!」
この人の存在をひろ君はすっかり忘れていた。
「なんでお母さん、ひろ君のこと知ってんの?」
コロッケとたこ焼きとおこわと焼き鳥を広げたテーブルを背景に暎万ちゃんが噛み付く。
千夏ちゃん。今まで何度となく修羅場をくぐってきた人。恋愛偏差値は限りなく低いが、出たとこ勝負には強い。
「そんなん、暎万と同じくらいの年頃の男の子がうちにいたら、ひろ君に決まってるじゃーん。初めまして〜。暎万の母の上条千夏ですー」
ドン引きしました。ひろ君。あらゆる意味で。
しかし、そんなことで怯む千夏ちゃんではない。
「あれー?なんか美味しそうなもんいっぱいあるじゃん。内容がすげー偏ってるけど」
たしかに……
「あ、そうだ。折角こうやってお近づきになれたんだからさ」
そのお母さんのにこやかに笑う顔を見た時に、背筋がゾクッとしました。
がしっ
腕を掴まれた。
「酒、飲んでけ」
「へ?」
体中の血液が足の方へ向かって下がってゆく。
「あの、俺、明日仕事で、朝早いんで……」
ほんとです。パティシエは朝が早い。
するとお母さん、いつぞやみたいにニコッと笑った。
デジャヴだ……。
「なに、若者が年寄りみたいなこと言っちゃって」
助けてください、暎万ちゃんを見ました。
「ごめんね。お母さん、寂しがりやなの。会っちゃった以上は、ちょっとだけ付き合ってあげて」
そして、食べ物をレンジで温めに入る暎万ちゃん。彼女に放置されました。
そっと時計を見るひろ君。いつのまにか7時半を越している。
「じゃあ、俺、8時半には帰りますから」
「そうこなくっちゃ」
そして、千夏ちゃんは楽しそうに冷蔵庫を漁る。
塩辛と、キムチと、もずくと、ホタルイカの沖漬け出てくるし。そして極めつけが……。
「甕酒」
赤ちゃんの……、頭くらいの……、甕に入った酒を、お母さんが満面の笑みで抱えてくる。
「ほら、柄杓ついてんだよ。これ、そそるでしょ?」
まったくそそりません。
「ほらほら、いい酒は水で割るなー」
まさかの芋焼酎ロック……。
「暎万ちゃんも飲もうよ〜」
「パス」
そして、その時……
「ただいまー」
男の人の声がした……。
いや、落ち着け、俺。まだ8時前だ。あれはきっとおじいさんだ。
「あれー。珍しいじゃん。早いね〜」
夢は……
「なんで、君が、いるの?」
破れた……。
チョモランマのお父さんがそこに立っている。
しばらくじろりとひろ君を見ていた樹君は、仏頂面のまま、暎万ちゃんの方を向く。
「暎万、お前の彼氏は日本語わかんないのか?」
「100%日本人だよ〜」
暎万ちゃんはたこ焼き食べるのに忙しい。
「もういいじゃん、理由なんてさぁ。ね、樹君もこっち来て、のも?」
千夏ちゃんが言う。
ひろ君がグラスに酒を注ぎます。お母さんのと、お父さんのと。
「わー、ひろ君に注いでもらっちゃったぁ。じゃ、お返しー」
ドボドボドボ
いや、千夏ちゃん、ロックってそんなにドボドボ入れるものではない。
「さ、飲め。若者」
すっかりエンジンのかかった千夏ちゃんと、飲まされているひろ君を見ながら、夏美さんがのんびり聞きます。
「ね、暎万ちゃん、ひろ君ってお酒強いの?」
「フツー」
暎万ちゃんは今、コロッケの食べ比べに忙しい。
すぐ寝られるようになってたかしら?春樹君のベッド。
夏美さんは、布団の心配をし始めた。
この家、トイレどこなんだろう?
ひろ君は、トイレの心配をし始めた。
「おい、暎万」
不意に黙って不機嫌そうにお酒飲んでたお父さんが声を上げる。
「なにー?」
「お前、彼氏とお母さんの間座って、付き合って飲みなさい」
「え〜!」
「彼氏このままじゃ、つぶされるぞ」
ひろ君は、今日何度目かの感動をした。
お父さんって、すっげー怖いけど、いい人じゃん!
というか……
少し酔っ払ってきた頭で考える。
今、この一つ屋根の下にいる人達の中で、一番まともな人かも……
「もう、お母さん、うざい。さっさっとつぶれちゃってよ」
「お、暎万、参戦?」
そして、暎万ちゃんはまだなみなみと残っていたひろ君のグラスをかっぱらうと……、飲み干した。
え?
ひろ君、思考が停止した。
「さすが我が娘ながら天晴れな飲みっぷり」
「ほら、お母さんも人に飲ませてばっかいないで、自分で飲みなさいよ」
あんなに一気に飲んどいて、顔色も変わらないし、口調に乱れも見られませんが……。
唖然とした顔のひろ君を見て樹君が声をかける。
「なんだ、知らなかったのか。まぁ、暎万は飲めるけど飲まない性質だからな」
「暎万ってお酒、強いんですか?」
樹君は母娘で乾杯しあってる様子を見て、ため息をついた。
「千夏さんは騒ぐのが好きだけど、そこまで強くない。うちで酒が一番強いのは、俺でもなく、春樹でもなく、暎万だ」
まったく知りませんでした……。
「ただいま。あれ?片瀬君?」
振り向くとおじいちゃん。
「まだいたの?」
「ええ、なんか成行で……」
「今日はごめんね。お言葉に甘えちゃって」
「いえ。たいしたことしてませんから」
「え?ひろ君、なんかしたの?」
暎万ちゃんが口を挟んでくる。
「おじいちゃんの代わりにおばあちゃんのこと病院まで送り迎えしてくれたのよ」
夏美さんが答えます。
「あ」
そんな真っ当な理由があったんだ、と思った3人。
今更、ありがとうと言いにくい。タイミングを逃してしまった。
一番早くリカバったのはやはりこの人。
「ね、お父さんもたまには一緒に飲もうよ!」
すっかりできあがった千夏ちゃん。
清一さん、じっと娘の顔を見ます。
「樹君、いつもすまん。頼む」
「はい」
婿に託す。
夏美さんはご主人につかまりながらやれやれと立ち上がりました。
「じゃ、わたしもちょっと疲れちゃったから、先に休ませてもらうわね。あとは皆さんでどうぞ。千夏、あんた樹君に片付けさせるんじゃないわよ。ひろ君」
「はい」
「春樹君の部屋が使えるから泊まっていきなさいよ」
「……」
お兄さんのベッドでなんて一睡もできる気がしない。
「わー!じゃ、一緒に寝よー」
向かうところ敵なし。千夏ちゃんが叫ぶ。
いや、しかし、敵はいた。さすがに怒った暎万ちゃん。ぎろりと睨みました。
近くで涼しい顔して飲んでた樹君が口を開く。
「千夏さん」
「はい」
「さすがに今のは洒落なんないから」
「……」
たしかに……
ドボドボドボ
傍らから不気味な音が……
「失言。母親、飲め」
暎万ちゃんの妙なスイッチが入った。
はらはらしながら見てるひろ君の横で、お父さん涼しい顔してます。
「まだいける?」
不意に話しかけられた。
「ああ、はい」
柄杓で入れられた。お父さんに注がれてしまった。
つまらなさそうな顔で、母と娘の様子を見ているお父さん。
「あの、大変ですね」
「ん?」
お父さん、こっち見た。
「ああ、慣れてるから、平気」
いつもこんな大騒ぎなのかな、この家。
ぼんやりと横顔でその後お父さん続けました。
「静かなのより賑やかなのがいいですよ」
そして、不意に立ち上がると奥さんの傍に立つ。
「ほら、千夏さん、もうそろそろ終わりにしなよ」
「えー、まだまだいけるわよ」
「時間が自由な仕事してんの、千夏さんだけなの」
「あとちょっとで暎万に勝てんのにっ!」
「負けるの間違いだよね?」
まったく顔色の変わっていない暎万ちゃん。
「ムカつくー」
それを聞いてご主人笑った。
ひろ君はお父さんの笑顔を初めて見ました。
「お酒なんかで勝たなくたって他んとこでいっぱい勝ってるんだから」
「え、そうなの?」
「そうだよ。だから、お酒ぐらい負けてあげなさいよ」
「いーだ」
宥めてるお父さんの脇からちょっかいかける暎万ちゃん。小学生か?
「ほら、暎万も。明日仕事なんだろ?」
お父さんがお母さん促して立ち上がらせたのを機にひろ君がテーブルの上片付け始めると、
「そんなのいいから、君は帰りなさい」
「え?でも……」
「それとも、本当に泊まってく?」
「……」
時計を見た。今からならギリギリ間に合う。
「帰ります」
「暎万、駅まで送ってあげなさい」
「そんなん子供じゃあるまいし」
お父さんは眉をしかめました。
「折角できた彼氏、いなくなってもいいのか?」
暎万ちゃんはしぶしぶ玄関へ向かい、スニーカーを履く。駅へ向かう道すがら、ひろ君は胸がいっぱいでした。
チョモランマレベルで怖くて、ドラム缶にコンクリ詰めにされて海に沈められるかもしれないくらい嫌われてると思ってた人が、実は温かくていい人だった。
そこまで嫌われてもいないようだし。
人間はギャップに弱い動物です。
まだじんとしている。
これは、何かに似ている。この感じ。
そう、まるで恋に落ちたようではないか。
「どうしたの?ひろ君。急がないと終電行っちゃうよ」
思わず立ち止まってしまった。
いやいやいやいや。
俺はそういうキャラではないはずだし、これはそういう小説ではないはずだし。
「なに?なに考えてんの?さっきから無口だけど」
「いや。他愛もないことです」
ちょっと時間を前に戻します。
中條アンド上条さんのお宅。一階奥の清一さんと夏美さんの居住スペース。
「ほんとひろ君て優しくていい子。今日改めて思ったわ〜」
「そうか」
「太一みたい。あの子も優しいもんね」
仙台に住んでる長男です。千夏ちゃんの弟。
「ああ、太一と暮らしてたら、今日ひろ君と一緒に過ごしたみたいに毎日ほのぼのしてたのかなー。千夏はまったく」
清一さん、思い切りしかめ面しました。
「太一と暮らしてたらお前、嫁姑で、今みたいにのびのびとなんてしてないって」
「え?京香さんってそんなタイプ?」
「お前も京香さんも普通の女の人、普通の人は普通にぶつかるよ。実の親子だって喧嘩してるくせに。お前も俺も気持ちよく暮らせるのは樹君のおかげなんだぞ。嫌な顔一つせず、合わせてくれるから」
「……」
夏美さん、ちょっと泣きそうになるくらい反省しました。もともと感情豊かな人なので。
「無理させてるのかなぁ?」
「いいや、無理してないと思うよ」
「どういうこと?」
「樹君は、子供の頃にいっぱい無理をしてきているから、今ぐらいの無理は無理だと感じないのだと思うよ」
「ええ?」
夏美さんにはわからないのだと清一さんは思います。普通に幸せに育ってきた人にはわからない。
幸せではないとはどういうことなのか。
でも、分からなくていい。
夏美さんは少し深刻な顔になりました。
「別にお前が落ち込むことじゃないでしょ?」
「でも……」
ふと清一さんはお母さんの塔子さんが大昔に言った言葉を思い出しました。
「人生は平凡が一番。大切なのはその平凡な幸せがたくさんの奇跡の上に成り立っていると感じながら生きること」
「なに?急に」
「母さんが言ってた言葉。ふと思い出した」
運命に翻弄されながらも負けずに生きた人
塔子さん
「千夏に樹君みたいな人がいるというのも、僕たちの幸せを支えてるいくつかの奇跡のうちのひとつなんじゃないかな?」
「うん」
「それを奇跡だと感じながら、感謝しながら生きるのとそうではないのとで、きっと人生は天と地ほども違う」
夏美さんはしばらく清一さんのその言葉の意味について考えました。
「あなたもたまにはいいこと言うじゃない」
「お前も相変わらず口が悪いね」
了