短編小説:犬を飼う_2021.03.31
月城道隆
本編はスカートに続く短編です。
僕がそれを連れて帰ると、妻は目を丸くした。
「え、犬?」
「だめ?」
「いや、だめではないけど……」
「折角一軒家に住んでるんだからさ」
驚いた顔のまま、僕の腕の中のこいつを眺めている。
「家の中で飼いたいんだけど」
「ええ?」
眉間に皺を寄せる。でも、嫌だと言っても押し通すつもりだった。家の中で飼わないと意味がないから。
くぅ〜ん
腕の中で子犬が鳴いた。柴犬。妻がその声を聞いて、顔を緩めた。
「お腹が減ってるのかしら?」
そう言って、自分の両腕を僕の方に伸ばした。僕は子犬を渡す。やつは尻尾を振った。
「犬にあげてもいいようなもの、何かあったかしら」
妻は子犬を抱っこして奥へと消える。
「道隆さんが犬を好きだなんて知りませんでした」
「君は嫌い?」
「嫌いではないわ。でも、飼ったことはない」
そう言いながらお昼の残りを与えて、よしよしと頭を撫でている。
「名前をつけないと」
「太郎とか、チビとかでいいんじゃないの?」
「もう、いい加減なのね」
妻は怒った。
「静香」
「は?」
呆れた。
「大切な娘の名前を犬につけるのはよしなさい。大体、その子はオスだ」
「あらほんとだ」
妻は食事をしている犬を覗き込んだ。
「じゃあ、春樹」
「それも絶対だめ」
「では、ハルにしよう」
「……」
「ハル」
おんっ
犬が答える。尻尾を振っている。
「ちび」
ちびには反応しなかった。
「しろ」
これもだめ。
「ハル」
おんっ
妻が呼ぶと尻尾を振っている。だめだ。反対したけれど、ハルで決まってしまったらしい。
「静香が気づいたら怒るぞ。なんでハルになったのか」
「怒るでしょうねぇ」
「これから先、2人が別れたらどうするの?」
楽しそうにしていた妻が怒った顔でこっちを向く。
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「お前がハルとそいつを呼ぶたびに静香、嫌な思いをするぞ」
「……」
少ししまったという顔を妻がしました。
「タロウ」
反応しない。
「クロ」
黒くはないのだが、クロと呼んでみる。反応しない。
「ハル」
おんっ
はっはと舌を出して尻尾を振っている。
「もう変更きかないみたい」
「なんでこんなにこの名前気に入ったのかしら」
「別れないことを祈るしかないね」
***
「ハル、行くぞ」
おんっ
飼い犬と一緒に朝、夕と散歩に出るようになった。
まだ慣れない街を歩く。空が広い。
「大木さん」
顔を上げると、隣の家の奥さんがいた。田中さん。
本名は月城なのだけれどテレビで顔と名前が売れたせいもあって、プライベートでもペンネームの大木と呼ばれることが多い。
「ワンちゃん、飼われたんですね」
「ええ」
「お散歩ですか?」
「はい」
笑顔で会釈した後に通り過ぎて行こうとする。
「あ、あの、すみません」
おんおんっ
僕が振り返って田中さんを呼び止めると、ハルも一緒に鳴いた。
「なにか?」
「あの実は、うちの家内のことなんですが……」
「はい」
「心臓が悪くて、一度手術をしているんです」
「あぁ……」
田中さんは斜めに向こうへ向けていた体をゆっくりと回すと僕の方へまっすぐに立った。
「自分も仕事を減らしてできるだけそばにいるようにはしているんですが……」
「ええ」
「もし自分が近くにいないときに何かあって、奥様が気づかれるようなことがあれば……」
「ああ、はいはい」
田中さんの僕を見る目が変わりました。どうして有名な人が仕事を減らしてこんな田舎に引っ込んできたのか、興味はあったと思うんです。その好奇心が、同情心に変わった。
「そういうことなら、わたしもできるだけ気をつけるようにしますから」
「ありがとうございます。今でも時々は東京まで出なければならないこともあって……」
「ええ、ええ、ご心配ですよね」
田中さんの奥さんは何度かご心配されないでくださいとか、困った時はお互い様ですからとか、そう言ったことを言った後で、去っていった。
ふと見るとハルがじっとこちらを見上げている。
「中断してすまなかったね。行こうか」
おんっ
犬はどこまで人間の言葉がわかるのだろうか。意図しようとするところ。
ハルはぐいぐい紐を引っ張る。
「なんだ走りたいのか?」
おんっ
「すまないが、もうちょっと我慢してくれ」
年寄りは走りながら、散歩なんてできない。
でも、ハルはぐいぐい紐を引っ張る。
「おいおい」
しょうがなく少しだけ合わせて走ってやった。無茶苦茶にはしゃいだ。土手までついて、リードを外してやる。外す前に抱き寄せて、話してきかせる。
「見えないところまで行っちゃだめだぞ。あと、誰かに噛み付いたりしてもだめだからな」
嬉しそうな顔をして聞いている。リードをカチリと離した途端に、弾丸のようにかけていった。
走り回ってるハルをしばらく眺める。いつまで経っても疲れないみたいだ。あの元気は一体どこから来るのだろうか。
平日の午後、近くには特に人もいない。監視するように見てなくても平気かなと寝っ転がった。
空を眺める。
はっはっはっは
不意に視界にハルが飛び込んできた。
「わっ」
僕が驚くと、ペロペロと顔を舐めてきた。
「やめろ、やめろ、くすぐったい」
たまらなくなっておき上がると、おんっとうれしそうに鳴く。
ふと思った。
「なぁ、ハル、もしかしてお前、今、俺が具合が悪くなって倒れたと思ったのか?」
犬の澄んだ目に向かって真面目に問いかけた。
おんっ
「なぁ、お前、俺や香織が具合が悪そうだったら、心配してくれるか?」
土手にあぐらで座り込んで、ハルを膝の上に載せて、両手で体を撫でながら話す。ハルの目はキラキラとしていた。
「香織はさ、心臓が悪いんだ。一回倒れたことがあるんだ。香織が倒れて、今みたいにそばに行って顔を舐めても動かなかったら……」
犬には言葉がわかるだろうか。毎日大切にしてあげたら、お願いを聞いてくれるだろうか。
「外へ出て行って、吠えながら、誰か人間に知らせてくれるか?」
おんっ
答えた。
「今のは了解って意味でいいのかな?」
はっはっはっは
「さぁ、帰ろうか」
立ち上がって、服のごみをはらう。リードをつけるとき、ハルはくうんと鳴いた。
「また、明日連れてきてやるから」
僕を見上げる。
「僕は約束を守る男だよ。だから、お前も守りなさい」
おんっ
了解ってことでいいのだろうか。
のんびり家へ向かって歩いていると、
「大木先生」
後ろから声がかかる。振り向くと、出版社の人だった。
「驚いた。本当に大木先生だ」
「なんだ。失礼な言い方だな」
「どうしたんですか?犬なんか連れちゃって」
「うちの犬だ」
おんっ
「別人かと思いましたよ。あんまり雰囲気違うんで」
「田舎暮らしが板についたかな」
「お宅にお邪魔するところだったんです」
「もう、そんな時間?」
腕時計を見た。
「あ……」
今日の午後に約束はしてあった。余裕を持って出てきたはずなのに、あと少しで約束の時間だった。
「珍しいですね。先生が時間を忘れるなんて」
「田舎暮らしが板についたかな……」
ずっと忙しい暮らしをしてきた。そう言えば最近、時計を見る回数が激減した。
家へと向けて歩き出す。
「時間が有り余ってるみたいじゃないですか。毎日、何をされてるんですか?新しい本、書かれてます?」
「最近はずっと読めていなかった読みたい本を読んでます」
「どんな本?」
「君に言ってもわからない本」
「……」
おんっ
ハルに励まされて彼は話題を替える。
「そうそう、急な話なんですが、先生、明日はお忙しいですか?」
僕はハルを見る。ハルは僕を見る。
「ごめん。先約があるかも」
「どんな先約ですか?断れませんか?」
「大事な相手なんだ」
「そうですか。残念です」
「ごめんね」
でも、それは僕でなくてもきっと構わないような話だと思う。
「そうだ、君」
「はい」
「今晩は早く帰らなければならないの?」
「いえ、特には、なんでですか?」
「時々ね、うちのがお夕飯召し上がってってくださいって言うんです」
「はい」
「もし、それが出たら、付き合ってやってくれないかな?」
「ええ」
「いや?」
「まさか。とんでもないです。ありがたい話で」
「2人きりの生活で寂しいもんだからさ。ごめんね」
おんっ
突如、ハルがなく。
「なんだ。不服なのか?お前がいるから3人か」
おんっ
「大木先生が犬と話されている……」
出版社の人はショックを受けた。
「最近、話し始めたんだけど」
「はい」
「犬って、本当に人の言葉わかるんじゃないかな?どう思う?」
真剣に聞いてみた。
「はぁ」
役に立たなかった。
「いろんな文献に当たってみようかな」
「先生が、動物のことについて調べられるんですか?」
「悪い?気になることは全部調べたい」
「それだと、次の本にかかられるのはいつ頃に?」
「そればっかりだな。君」
「いや、わたしも仕事で来ていますから」
彼の顔をじっと見る。
「なんかまだ書く気にならないんだよなぁ」
「ええっ」
彼はショックを受けている。
「先生、本当に変わられましたね」
「田舎暮らしが板についてきたかな……」
「いや、それで済まされないですよ。もう」
***
ハルを飼い始めてからしばらくして、娘が東京から訪ねてきた。
「かわいい〜」
抱き上げて喜んでいる。心なしか、ハルも喜んでいるようだ。
「お母さんが飼いたかったの?」
「いいや。お父さん」
驚いてこちらを向いた。
「お父さん、犬なんて好きだったっけ?」
「嫌いではない」
「……」
娘は心理のプロ。今、何かが変だと思われたな。
「広い家に2人しかいないのは防犯上良くないかと思ったし」
「なんだ。結局、合理的な理由か」
少し顔が冷たくなった。娘は僕が嫌いなのだ。残念ながら。
「でも、お父さんすごいかわいがってるのよ。ね?ハル」
するとハルはするりと静香の手から逃れて僕の膝に載る。
おんっ
「ほら、ね?」
「ふうん」
ハルを見る。ハルも僕を見る。
お前は本当に人間の言葉や気持ちがわかるんじゃないか?
「飼ってみるまでわからなかったけど、犬は不思議だな。こんなに人間に近いとは思わなかった」
撫でてやると眠そうに人の膝の上で目を閉じる。
「ふうん」
静香がまた、ふうんと言った。
「ね、なんでハルって名前にしたの?」
香織が目を輝かせて口を開いたが、僕はそれを遮った。
「古い映画のタイトルからとったんだ」
「え?」
静香がぽかんとした。
「お父さんが映画?」
「悪いか?」
「そんなの見てるの、見たことないけど。嫌いなんじゃないの?映画とか」
「嫌いではない。時間の無駄だと思ってただけで」
「……」
「今は時間があるからね。興味がなかったこともやってみようかと思って……。いい映画だったよ」
「ふうん。誰の映画?」
「森田芳光」
「へぇ〜。聞いたことないな」
「結構古いんだ」
静香と香織が顔を見合わせた。
「ハルって映画ではどういう意味なの?」
「はやみのぼるという名前の最初と最後を取ってハル。ハンドルネームだ。パソコンを通して人がやり取りし始めたばかりの頃の話だ」
妻と娘がまた顔を見合わせている。柄にもないと思っているんだろう。自分でも思う。辻褄合わせのために見ただけ。でも、本当に意外と面白かった。
「自分ではずっと無駄だと思って切り捨ててきたものが本当は自分に足りないものだったのかなぁ」
そう言いながら自分の膝の上に載ったハルを見る。犬を飼いたいなんて、一時も思ったことなどなかった。
「最近、自分はもう長い間、時間を盗まれていたような気がするんだよ。まぁ、盗ませていたお父さんが悪いんだけど……。時間というものが、どれだけ大切なものか、わかってなかったんだな」
お金より名声よりも、大切なものは時間だった。
時間に追われて奴隷のように生きて、自分は人生を味わう喜びを知らずに歩いてきてしまった。
取り戻したいんです。今更かもしれませんが。
香織は僕の言わんとすることがわかっているのかどうか……。ただそっと笑いました。
「さ、静香。お夕飯作るから手伝いなさい」
「えー、なんか疲れちゃった。座ってちゃだめ?」
「なに言ってんのよ。あんたの今の料理の腕じゃ、お嫁にもらってもらえないわよ」
「また、そういう話?」
静香がうんざりとした顔をした。
「ね、今度春樹君も連れてきなさいよ」
「ええっ?」
「いいじゃない。ねぇ」
「そういうのはタイミングが難しいんだって。向こうはまだ20代なんだよ?」
「あんたはもう30代じゃない」
「こっちばっかり焦ってるみたいでいや」
「なに言ってんのよ。焦ってるみたいじゃなくて、実際に焦ってるんじゃない」
「もうっ」
横で見てると漫才してるみたいだ。
おんっ
寝てると思ってたハルが鳴く。
「香織、そのくらいにしときなさいよ」
香織がきょとんとこちらを見る。それから、はいはいと言って立ち上がった。夕飯の支度に取り掛かるのだろう。
「あっ、あのっ」
立ち上がった母親の背中に向けて、静香が声を掛ける。香織は振り返る。
「なあに?」
「……」
自分で引き止めたくせにもじもじとしている。静香がものをはっきりと言わないのは珍しい。
「なによ」
「あのね、もうちょっと先の話なんだけど……」
「うん」
「一緒に住もうかって言ってて」
香織はぽかんとした。
「結婚しようって言われたってこと?」
「もうっ」
静香はすぐにまたうんざりとした顔になる。
「今どき、一緒に住んだから即結婚なんてないから、お母さん」
「ええ?でも、それなら尚更、きちんとうちに挨拶に来るべきじゃない。春樹君」
「そんなの、結婚しろってプレッシャーかけてるみたいじゃない。ちゃんと会わせて紹介したからもういいでしょ?」
「お父さんはちゃんと会ってないじゃない。ねぇ、あなた」
2人でこちらを見る。
「今は別に結婚前に住んだりするのもそんな珍しいことではないし、うちに来るタイミングは静香が決めればいいだろう」
「ええー」
香織がつまらなさそうな顔をする。しばらくして、諦めた。
「一緒に住んでそのままずるずるとかは、お母さん、嫌ですよ。ちゃんといつまでにはって期限決めるのよ」
「はいはい」
「男の人って、女から言わないと動かないものなのよ」
「あー、もううるさいなー」
やっぱり漫才を見てるみたいだ。
おんっ
「お前もそう思うか?」
僕を見上げるハルの目がきらきらしている。
***
翌日、静香が帰った後に香織が言う。
「あなた、映画って本当に見たんですか?」
「見たよ」
するとコロコロと笑った。
「あらやだ。言い訳するために調べて、見たふりしてるのかと思ったのに。あなたが映画なんて。しかも恋愛映画だったんじゃないですか?」
「ハルという名前で検索したら、その映画ともう一個はアニメだったんだよ。アニメを見たなんていうよりマシだろう?」
「別に、きちんと見なくたって……。本当に真面目なのね」
「静香が偶然見ていたら、細かいところでバレるだろう?それに、本当に意外と面白かったんだよ」
「あら」
妻はしばらくおもしろそうに僕を見ていた。
「あーあ、春樹君の名前つけたって言って、静香をからかいたかったのに」
「そういう子供みたいな悪戯をするのはやめなさいよ」
「静香は平気よ。怒ったって、本気で怒りはしませんよ」
「静香のために言ってるんじゃないよ」
「え?」
ため息が出た。
「静香から本人に伝わって嫌な思いさせるだろう?」
「え?春樹君は怒りませんよ。冗談のわかる人ですよ」
「まったく」
おんっ
ハルが僕に同調する。
「ちょっと会っただけでその人のことわかった気になって」
「ええ?」
「君の思惑が外れて、本気で怒らせたり、嫌な気分にさせたらどうするの?」
「はぁ」
いまいち腑に落ちないという顔をしている。何を大袈裟なとでもいうような。
「君は戦略が足りない」
「せんりゃく?」
「きちんとした結果を得たいのなら、リスクはあってもリターンのない行動は慎むべきだ」
「あらやだ」
「なに?」
「道隆さん、もしかしたら春樹君のこと気に入ってないのかと思ってたのに」
「なんで?」
「さっさと挨拶に来させて、結婚するよう仕向けないからですよ」
「もう」
「なんですか?」
「だから君には戦略がないと言っているんだ」
「え?」
おんっ
何かハルは最近、僕が香織を嗜めると、自分も一緒に嗜めている気分になるらしい。
「男はね、囲い込まれるように落とされるのは嫌なものなんだ。あくまで自分から進んで来たと思わせなくちゃ」
「ええっ?」
香織が目を丸くしてショックを受けている。
「道隆さんが、こんなこと言うなんて……」
言いますよ。この際。僕だって。
「なんか、結婚させられそうになってるって感じたら、下手したら逃げられるよ」
「そうですか?」
「そうですよ」
「じゃ、具体的にどうすればいいんですか?」
「まぁ、まず焦らない」
「はい」
「それから、彼氏の名前から犬に名前つけたなんて絶対言わない」
「そんなにだめでした?」
香織にはピンと来ないらしい。
「両親の執念みたいなもの感じるんじゃない?それこそ、自分の名前つけて身近に置かれてるなんて……。早くあなたにもこうやって鎖をつけたいって伝えてるようなもんだ」
そういうと、香織はまたコロコロと笑う。
「やだっ。道隆さんたら、考えすぎよ〜。ねぇ、ハルちゃん」
ハルはキラキラした目で香織を見ている。僕を裏切って香織につくだろうか?
「ね、お父さんは考えすぎよね?ハルちゃん」
香織は二度言った。ハルは僕と香織を見比べている。散歩をしてくれる人につくか、ご飯をくれている人につくか。
おんっ
今のはどっちだったんだ?
了
作中引用
(ハル)
1996年
監督脚本 森田芳光
主演 深津絵里、内野聖陽
パソコンでのやりとりで知り合い、実際には会ったことのない2人が次第に交流を深め、心を通わせていく話。東北出張が入ったハルと約束した深津絵里さん演じるほしが、ハルが乗った新幹線が通過するのを路上で見送る。顔を知らない2人が遠くから一瞬お互いを見つめて手を振りあうシーンがとても素敵な映画でした