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北斎の絵に惹かれるということ

自分はもともとはどちらかといえば西洋画の好きな人間でした。ただ、日本を離れて暮らしたことがきっかけになったようにも思っているのですが、日本欠乏状態というか、ゆるーい万年ホームシックにかかり、とある日一時帰国中になんのことはない実家のある東北の寒村を車で通り抜けていた時のことです。何を思ったか庭先の柿の木に一個だけ柿が残っている家があった。

その場面があまりに衝撃的でした。

私は子供の頃から、東北の冬が嫌いでした。ものすごく寂しい情景に死にたくなるからです。もちろん死んでおりません。ただ、死にたくなるくらい寂しいといえばわかりやすいから使っているだけで、そのくらい厳しい冬、人工的な灯りもない故郷は 侘び寂びのさびとはこういうことか?と思うような寒々とした場面に溢れてた。

刈り取られた冬の田んぼが続く中に時々ポツポツと家がある中をゆく、それが、冬の曇り空の夕方だったりすると薄ぼんやりとして、今が21世紀だということが一瞬曖昧になって、軽く200年とか300年、昔に迷い込んでしまったぐらいの気分になったものです。

こんなことがなんだか苦手で、自分は人工的な灯りを求めてさっさと都会へ出たクチですが、子供の頃に何度も何度も目に映してきたこの、 さび の情景、それが長い時間をかけて自分に響いてきた。

それがあの冬がれた景色の中で一個だけ取り残された柿の橙色でした。

日本を離れ、そして、故郷を離れ久しかっただけに、その画が心に迫りました。

侘び寂びを言葉で表すことなんてできないし、そんな必要もないと思うのだけれど、ただ、自分はいつも故郷の冬の情景に 死 のようなものをひしひしと感じながら大きくなったと思うんです。老い や 死 を。自分は若くて生き生きと生きているわけですから、その雰囲気が嫌で、人工的な灯りの中で、終わらない夜や、凍えつかない冬を過ごそうとここを離れた。

それから更に中国にわたり、色々な経験もしたし、いろいろなものを見てきた。そして、そんなふうにいろいろなものを通り過ぎた時に見た、なんということはない故郷のいつもの風景に心を揺さぶられました。

その時を境に自分は 日本の絵を見る目を持ったのかもしれません。ピカソがいいなとか、ミュシャのデザインに憧れていた昔の自分にはわからなかった静かな日本の絵の良さが少しわかるようになった気がする。

もともと若冲は好きでした。世間的に評価されている画家かどうかであるのとは別に、自分には昔から絵の好みがあります。この絵が好き、この絵はあんまり、そう言ったものを中心に好きな絵を何度も取り出しては、これの何が好きなのかしらと考える時間が好きです。若冲は好きでした。ただ、今日は若冲の話をしたいわけではない。

最近の私の新発見は、私が北斎を好きだということです。富嶽三十六景の印象が非常に強く、また、北斎については私は、正統派というかなんというか、何かかっちりとした印象を持っていた。

これは別に型にハマっていると批判したいわけではなく、ただ、なんというのかな?制服をきっちりと着ている感じ。ボタンを上までしっかり留めている感じ。簡単にいえば勝手ながら自分に似ている人のように思ってた。

そこで、素直にスコンと、好き!と思っていなかったのです。もちろん嫌いではない。ただ、本当に好きのかなり内側までは入れていない。

「どうしてくれようかな」

北斎がどんなに有名で、自分が無名であろうと、一人の人間として絵を鑑賞するときは、対等であっても構わないと思うんですね。自分の批評が何か社会に影響を与えるわけでもなし。偉そうに心の美術館の中で顎に手を当てて、

「どうしてくれようかな」

と偉ぶってたわけ。評価、保留中の倉庫に北斎はいれてました。

私の美術鑑賞は、学生の子供の頃はわかりもしないくせに偉ぶってましたが、なんだかわかったような感想も言ってたし、自分自身も少々絵を描いてましたのでひねくれたことを言って見せては周囲を喜ばしておりました。

この点に関しては歳をとるほどにどんどんと純粋になってきて、ただひたすらに自分のために絵を見ています。自分が好きかどうか、ただそれだけです。

いろいろな経験をして、いいこともあったけど、辛いこともいっぱいあった。日本に帰りたいのに帰れないというか、長く緩く続くホームシックの中で、一つ残された柿の橙色に泣きそうなくらい感動した。

私はこうやって目を手に入れた。名画が一体人間に何を与えてくれるのか、昔よりはわかるようになったつもりです。

ひねくれた心は捨てて無心にさまざまな浮世絵や日本画を眺める都度、やはり若冲は素敵です。もっともnoteで検索使用できる若冲は、海外にわたった物が多いので偏りがありますが。そして、広重もよく目にする。広重が悪いわけでもなく嫌いなわけでもないのですが、北斎と比較するとその両者が違うということが前よりもよくわかる。

富嶽三十六景が有名な北斎の、生き物を描いた絵に驚かされたのです。その緻密さ。北斎といえば、富士山でしょ、波でしょ、ダイナミックな構図でしょ。

そこに計算された奇抜さ。そして、制服のボタンをきっちり上まで止める。すごいと思いつつ、なんか自分に似ている気がして微妙に苦手な感じがしてました。

富嶽三十六景に対するこのモヤモヤしたものがなんなのか、なんともいえない。じゃ、嫌いなの?と言われると、いえ、かなり好きです。好きなんだけど、なんというのかなぁ、好きと言わされてる感があるというか。

ものすごく勝手な話なんですが、お母さんが選んだ服を着させられている感じだわ。母はラルフローレンが好きなのですが、自分がラルフローレンが好きなのかどうかよくわからないままラルフローレンの服を買っているような感じです。えっと、わかりやすくするための例えね。これ。

富嶽三十六景は世界的に有名すぎるし、なんだか前評判が凄すぎて、私は北斎と自然に出会う機会を逃していたのだと思う。だからむしろそこまで有名ではない生物を描いた絵の方が私には良かったんだと思います。鳥や花を描いた画を見てはっとする。

広重もいいんでしょう。ただ、北斎の絵と広重の絵を見比べてみると、私はやっぱり北斎の方がもっと好きなんだなとわかるようになってきた。

昔に比べて静かなものの方がもっと好きになりました。ぴたりと止まっている静かな絵で、ただその背後に永遠を感じるようなものが好きになりました。例えば鳥が、蝶が、飛び立とうとしたりしているのだけど、完璧に止まっていて、そして、永遠に生きている、永遠に美しいまま止まっている、そういうものを見たいのだと思う。

例えば孔雀や鸚鵡のような鳥ではなくて、雀の様子を美しいと思う。毎日のなんでもないことが、実はかけがえのないことだと知るということが大事なわけで、それを美しいと感じることができるということは、とても貴重なことなんだと今になっては思うわけです。

生き物は生きている限り変化し続けるものだし、生きることの美しさというのは一瞬にしかなく、だからこそその一瞬をつかまえて止めてしまったものに惹かれるのだと思う。そしてだからこそ、我々は変化し続けて変わってしまうのに、どんなに長い時間をもこえて変わらぬ自然に、山水画に美が宿るのだと思います。

変わっていく自分の儚さを感じながら、その美しさが心に響くとき、人は心から生きていると言えるのではないでしょうか。子供の頃には感じることのできなかった、美、です。

私は素朴な自然の中で大きくなったので、華やかさよりももっと静かなものに心を寄せるようになったのでしょう。

だから、北斎が好きなのだと思います。
もっと好きな絵を探しに出掛けてゆきたいものですね。
名画は私を時間のない世界へ一時的に連れ去ってくれるものですから。

汪海妹
2024.09.16


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