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短編小説:運命の人_2022.03

この話は かみさまの手かみさまの味②   の番外編です

小林悟

 僕は生まれてすぐに運命の人と出会った。

 同じ日ではなかったけど数日違いで生まれた僕たちは、母親同士が同室に入院していた。家も近く年齢も近かったので仲良くなった。

 百江もえちゃん

 僕の運命の人です。

 百江ちゃんは近所のパン屋さんの一人娘でした。

 ……

 あ、間違えた。お兄さんがいました。三つ年上のお兄さん。忘れてた。
 家でパン屋さんをしていて、そして、百江ちゃんのお母さんは、パン屋の他にも何かお仕事をしていて、毎日ではないのだけれど時々出かけます。そんな時は、百江ちゃんのおばあさんが百江ちゃんとお兄ちゃんの晴生はるお君の面倒を見てくれるのだけれど、たまにおばあさんも来られない時がある。そんな時、2人はよくうちに預けられたんです。

 そんな時はお兄ちゃんの晴生くんがリーダーになって、3人で遊ぶ。
 トランプとかオセロとか、晴生くんに教えてもらった。

 幼稚園も一緒。家は近く。生まれた時からの縁もある。僕の中では百江ちゃんは僕のものだという考えがいつからかわからないけどありました。百江ちゃんも同じ気持ちだろうと思って確かめたことがある。まだ幼稚園のことでした。

「ね、百江ちゃん、将来、僕のお嫁さんになってくれる?」
「だめだよ」

 生まれて初めて告白、というか、プロポーズをして、あっさり断られました。
 でも、やだ、ではない。だめ。そこに希望があると思った。

「どうしてだめなの?」
「わたしはパティシエと結婚するの」
「ぱ……」
「パティシエ」
「その、ぱ…ってなに?」
「パン、作る人」

 なるほど、やっとわかった。

「パン屋は晴生くんがやるのではないの?」
「晴生はパン屋にはならない」

なぜかお兄ちゃんがいないところで、時々百江ちゃんはお兄ちゃんを呼び捨てにする。

「じゃ、晴生は何になるの?」
「べんごし」
「べ…」

弁当ではなくて、べ?

「ケイジみたいなものだよ」
「ああ、デカか」
「そうだ。デカだ」

似合うな。晴生。デカ。
お母さんやお父さんが見ているドラマで時々見るスーツ姿の私服刑事を思い浮かべる。大人になった晴生にスーツを着せてみる。なかなかいいぞ。それに身内にデカがいるのは何かと便利だ。

「じゃ、晴生はデカで、悟はぱ…になる」
「無理だ」

百江ちゃんにバッサリ切られました。

「いや、無理じゃない。悟、頑張る」
「……」

百江ちゃんはしらけた目で僕を見たけれど、僕は本気でした。
その日、幼稚園から帰ってすぐ母に宣言しました。

「お母さん、僕、将来ぱ…になる」
「え?その、ぱ…ってなあに?」
「パン作る人」
「ああ、パン屋さん。ってことは、片瀬さんとこのパン屋さん?」
「うん」

大きく頷きました。

「あら、随分身近なところで落ち着くのね。悟くん」
「だめ?」
「いや、だめじゃない」
「無理?」
「いや、頑張れば大丈夫。無理じゃないよ」

母ってやっぱりいいものだ。僕は母親に抱きついた。

「お母さん、だーいすき」
「お母さんもだいすきよ」

ところが、そんな僕の順調だったライフもいささか暗転する。
ご近所にあった百江ちゃんちのパン屋さんが引っ越しちゃったのである。

百江ちゃんのお父さんのパン屋さんは、時々、遠いところから車に乗って買いに来る人もいるようなパン屋さんで、今いるところではそういう人が車を停める場所が足りないから引っ越すことになったんだって。

「百江ちゃんと同じ小学校に行きたい」

僕は泣いた。

「あ、あの、悟くん」
「ずっと一緒だと思ってたのにー」
「あのね、ちょっと遠いところになるけど、でも、学校は一緒だよ」
「え?」

涙と鼻水をちょっと垂らした顔で母を見る。

「馴染みのお客さんが続けて来られるようにできるだけ近いところで探したんだって」
「じゃあ、百江ちゃんと同じ学校に行けるの?」
「そうよ」

しかし、同じ登校班ではない。そして、学校ではないところで百江ちゃんと会えるチャンスが減ってしまう。

でもね、そんなことでめげる僕ではない。
百江ちゃんは僕の運命の人なのである。
みなさん、知ってますか?チャンスは待つものではない。作るものなんですよ。

***

「あ、悟、お前……」

学校に帰り、ランドセルを置くとカバンから今日の宿題と筆箱だけ手提げに入れて、自転車を漕いでやってきた。百江ちゃんちの新しいパン屋。駐車場で百江ちゃんを待ってると、お兄ちゃんの晴生くんが帰ってきた。

「何してんの?お前の家、もっと向こうだろ?」
「百江ちゃんと一緒に宿題しようと思って」

僕が笑顔でそういうと、晴生くんは苦い薬でも飲んだような顔をした。

「百江、今日、ピアノ習いに行ってる」
「え……」
「ああ、まぁいい。せっかく来たんだから上がってけ」

トコトコ歩く晴生くんの後についてゆく。店舗の脇から裏の方へ行こうとすると、窓から僕らの姿を見たのかおじさんがお店の中からドアを開けて出てきた。

「晴生、おかえり。あれ、悟くん?」

ぽかんとした顔で見られた。

「こんにちは」
「百江に会いにきたんだけど、百江、ピアノでいないからさ。うち、あげていい?」
「ああ、いいけど。悟くん、お母さんにうちに来るって言ってきた?」
「あ……」

忘れてた。

「ばか。お前、言ってないのかよ」

晴生くんに言われて、青ざめる。まずい。お母さん、心配しているかも。どうしよう。

「ああ、おじさんが連絡してあげる。大丈夫だよ。しばらくしたら家まで送ってあげるから」
「でも、自転車」
「お店の車なら、後ろに自転車も乗せられるから、大丈夫だよ」

笑ってくれた。百江ちゃんのお父さんは優しい。

「お前、百江はいないけど、宿題しろよ」

家に入ると晴生くんがいう。結構、面倒見がいいのです。弟のように世話をしてくれる。

「腹、減ってる?」
「少し」
「こんなんしかないけど」

こんなんと言って持ってきたのは、お店で売ってる焼き菓子でした。

「これ、食べていいの?」
「売れ残ったやつだから」
「いただきます」
「手を洗え」

お母さんみたいだな。
百江ちゃんちの新しい家の廊下をゆく。突き当たりの洗面所でハンドソープを使って手を洗う。桃の香りがしました。
ふふふ。百江ちゃんちのハンドソープが桃の香りであることを、クラスの他の奴らは知らない。これは僕が百江ちゃんの運命の人だから知っている事実だ。そんなことを考えながら、手を洗い、壁にかけてあったタオルで手を拭く。

そして、宿題をやれと言われたけれど、とりあえず晴生くんと2人でジュースを飲みながら、焼き菓子を食べた。

「美味しい」
「ああ、俺は流石に飽きちゃったな」
「そうなの?」
「好きなだけ食え。持って帰ってもいいぞ」
「え、いいの?」
「他のやつにやったら怒られるかもしれないけど、悟なら怒んないだろ」

ちょっと嬉しい発言でした。その後、晴生くんはジュースを飲みながら、ちょっと難しい顔になる。

「なぁ、悟」
「なに?」
「これは、決してお前をいじめたいとか嫌いだとか思っていうわけじゃないんだけど」
「うん」
「その、百江はな……」
「百江ちゃんが?」

ここで、晴生くんはまた黙る。オレンジジュースをまた飲む。このオレンジジュース、なんだかちょっとうちにあるのと違いました。そう。百江ちゃんちって、なんだか食べ物も飲み物も、うちとはちょっと違うんです。

「あの、学校に行ったら、いろんな女の子がいるだろ」
「いる」
「それに学校の外にもいろんな女の子がいるだろ」
「いる」
「その、百江にこだわらず、いろんな女の子を見てみたら?」
「百江ちゃんだけじゃなくて、いつもいろんな女の子も見てます」
「……」

でも、百江ちゃんだけが、いつもスペシャルです。

「あくまでお前のことを思っていうんだからな」
「うん」
「百江は……」
「百江ちゃんは?」
「あの、絶対、ぜえったいってわけではないのだけれど」
「はい」
「ふ……」
「ふ?」
「フ、フランス人と結婚したいらしいっ!」
「フランス?」

僕の眉間に皺がよる。小学生の眉間に皺を寄せてどうすると思いつつ。

「日本人なのに、どうして?」
「知るかっ。あ、でも、あれだ」
「なんですか?」
「パティシエはフランスが本場なんだよ」
「……」
「な、だからさ。お前も、百江にこだわらずもっといろんな女の子を」

ふ、はははは
ちょっと悪役っぽく笑ってみました。

「な、なんだ。悟」
「決めました。僕は、フランスに行きます」

チーン

「つまりは、あれだ。フランス人に負けないぱ…になればいいわけですよ」
「パティシエね」
「待っててください。百江ちゃん」
「……」

すると、玄関の方でただいまぁと声がした。パタパタと廊下を進む音がしてガチャリとドアが開きました。
おばちゃんと百江ちゃんが顔を見せる。

「あ、悟、なんでいるの?」

百江ちゃんが照れているのか冷たい目で僕を見ます。

「俺が呼んだんだよ」
「お兄ちゃんが?」
「そうそう。ほら、新しい家、見せたくてさ」
「いらっしゃい。悟くん」

おばちゃんがにっこり笑う。その横で、照れているのか相変わらず冷たい目で僕を見る百江ちゃん。

「あ、悟、俺の部屋見せてやるよ」

僕は百江ちゃんのそばにいたかったのだけれど、晴生くんにそう言われて立ち上がった。後について階段をトントンと上がる。

「百江、手、洗って、それから宿題やりな。あ、悟くん、ご飯食べてく?」
「お母さん、やめて」

部屋に入ると、晴生くんはため息をついた。

「どうしたの?」
「あのさ」
「なに?」
「俺から見ると、お前って憎めないやつなんだよ」
「はぁ」
「親父から見ても、母さんから見てもだな、憎めないやつなんだよ」
「それはどうも」
「だから、言う。百江はやめとけ」
「はい?」
「あれは、そんな優しいいい女じゃないぞ」

ふ、ははは、と、また笑う。

「横で見ていると、結構つらいんだけど」
「僕は平気ですよっ!だって」
「だって?」
「百江ちゃんだっていつかわかります。運命を知るのにはね。時間がかかるんですよ」
「……」

***

助手席に座ってシートベルトをしているとおじさんが僕にいう。

「今度遊びに来るときは、先にお母さんに話してからにしなね」
「はい、すみませんでした」
「謝らないでいいよ」

おじさんに送ってもらって家へ帰る。

「それにしてもよく道を間違えなかったね」
「生まれた頃から住んでる街だから」
「それにしてもだよ」

百江ちゃんのお父さんはいつも優しい。晴生くんとはまたちょっと雰囲気が違う。運転する横顔を助手席から眺める。

「おじさん」
「なんだい?」
「ぱ…になるのって難しいですか?」
「え?ぱ…?」
「パンを作る人」
「ああ、パティシエ?」
「はい」
「そうだなぁ」

おじさんは前を見ながらゆっくり考えた。

「学校に行ってなるまでは、ちょっと難しいけど、でも、できる」
「はい」
「難しいのは続けることです」
「……」

それからそっとこっちを見て笑いました。

「悟くんはパン屋さんになりたいの?」
「ダメですか?」
「ダメじゃないよ」
「無理ですか?」
「無理じゃない。でも、どうしてパン屋さんになりたいの?」
「好きな子がパン屋さんになるから」
「……」
「ダメですか?」
「いや、好きな人のために何かしたいっていうのは、とても大切なことだよ」

それを聞いて嬉しかった。

「頑張ってね」

***

それからも、僕はよく自転車を飛ばして百江ちゃんの家に行きました。晴生くんにはこう言われた。
あまり頻繁にきてもギャクコーカだから、来るなと。そして、晴生くんの部屋にあげてくれた。

そんなある日のことでした。
いつものように百江ちゃんの家に行って、自転車から降りると、店の裏手の自宅の方へと自転車を引きながら進む。そして、目の端に人が動くのが見えた。目をそちらに向けると、お店の裏手の方、お店の人たちしか使わない出入り口のあたりに大人の男の人と女の人が白い服を着て立ってる。それは、いつも百江ちゃんのお父さんが着ている服でした。パンを作るときに着る服。よく見たら、その男の人は百江ちゃんのお父さんだった。

何やってんだろ?

ぼんやりと眺めていると、女の人は、泣いていた。泣いている女の人をおじさんが慰めているみたいだった。

たまたま僕は知っていた。その時、おばさんは家にいなかったんです。お仕事で海外に行ったとこの前晴生くんが言っていた。おばさんがいない時に、おじさん、あんな泣いている女の人と何してんだろ?

見てはいけないものを見てしまった気がしました。
もし、僕がここで見ているのがおじさんにバレたらやだなと咄嗟に思った。
それで、混乱した頭で回れ右をして、そっと自転車を引いて敷地の外まで来ると自転車に乗って走り去った。

心臓がバクバクしました。自転車を飛ばしたせいだけではないはずです。

あれはなんだったんだろう?
そのことが次の日もずっと心の中に引っかかっていて、モヤモヤとしてました。
お母さんが時々夜に見ているドラマの中の一場面に似てたような。あら、悟くん、まだ起きてたの?とこっそり覗いたら、追い出されるようなドラマの。

どうしよう?

おじさんに何かあって、おばさんとうまくいかなくなったら、百江ちゃんが泣くではないか。

それで、次の日昼休みの時間に学校の校庭でサッカーをしている晴生くんを見つけて近寄った。

「ちょっといいですか」
「なんだ?」

ぽかんとしている晴生くんを捕まえて校庭の隅っこへ引っ張っていく。昨日見てしまったことを話した。

「それは、まりちゃんかよっちゃんかなおちゃんかのぞみちゃんか?」
「え?」

お店にそんなに女の人がいるのを知らなかった。

「どんな服着てたの?」
「白い服」
「じゃあ、よっちゃんかなおちゃんだな。髪は?」
「えーっと」

一瞬だったからよく覚えてなかった。

「背は?ちっこかったか?」
「いや、ちっこくはなかったと思うけど……」
「じゃあ、なおちゃんだな」

そう言うと、顎に手をやって考え込む。こうやって真面目な顔をすると晴生くんはなかなかかっこいい。

「でもな。悟」
「うん」
「うちの親父に限ってそういうことはない」
「……」

やっぱり晴生くん、お父さんのことを信じてるんだなと感動した。

「あの平凡な顔のどこに若い女を垂らしこむ魅力がある?」
「……」

感動して損した。

「うちの叔父さんのそんな場面を見たら俺も色々悩むけど、うちの親父では悩まない。そんな色っぽい話では絶対ない」
「でも……」
「でもも何もない。心配するな」

その話はそれで終わった。
だけど、僕のモヤモヤはおさまらない。
意外とそういうことしそうにない人がそういうことをするかもしれないじゃないですか。

「ね、晴生くん、おばちゃんが帰ってくるのっていつ?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」

適当に誤魔化しておばちゃんの帰国日を聞いた。四日後の土曜日でした。
きっとおじちゃんが動くのはその間だ。その間に何か行動を起こすに違いない。水、木、金、のどれかだ。
もし、あの人の良さそうなおじちゃんが何かをしているのだとしたら、きっとそれはちょっとついそうなってるだけだ。だから、まずは現場を押さえて、その現場の証拠をもとにおじちゃんを元の道に戻させないと。

百江ちゃんに対する愛が僕を動かした。
僕は、水、木、金と百江ちゃんちの向かいのコンビニの外のベンチに座って夕方までではあるけれど監視をすることにした。

「ねぇ、僕」
「はい?」

そして、一日目、数時間経ったところでコンビニの店長さんに話しかけられた。

「迷子か何か?」
「え、いや」
「どうしてお家に帰らないのかな?」
「……」
「お家の電話番号わかる?」
「あ、あのっ」
「なに?」
「あのお家に僕の別れたお母さんがいるんです」

僕は百江ちゃんちを指差した。

「え……」
「たまに顔が見たくなってここにきているだけなんです」

かみさま、それと、別れてなんていないお母様、ごめんなさい。

「そうなの……」

人のいいオジサンはちょっと涙ぐんでしまった。ああ、オジサン、ごめんなさい。愛のためなのです。許してください。

「お店の中からも見られるでしょ?寒いし、心配だから中に入りなさい」

それで、コンビニのイートインの座席に座って監視を続ける。オジサンに悪いと思い、せめてもの償いに少ないお小遣いからジュースを買って飲むことにした。ジュースを飲みながら、監視する。ついでに、宿題を。
でも、何もなかったんです。水も木も。

やっぱりあれは、なんでもなかったのかもしれない。

そう思って、木曜日の夕方、コンビニを出ると自転車に乗って家に向かって漕ぎ出した。
すると、赤い軽自動車が後ろから来て僕の横をすうっと通り過ぎていった。
見てしまったんです。運転席のなおちゃんと、助手席に座るオジサン。

えー!!

一生懸命漕いでついていこうとするけれど、所詮小学生の僕と自動車。追いつくことは叶わず見失った。

ああ、オジサン、おばちゃんいない間に何やってんだよ!
色々と悪い想像が膨らみ、僕の頭の中で百江ちゃんが泣いている。そんな暗い想像をしながらとあるファミレスの横を通り過ぎようとした時に、赤い車が目に入った。駐車場に止めて、そこから降りてくる2人の人。

あ……

オジサンとなおちゃんでした。
なんだ。こんなとこでご飯食べるのか?

ファミレスに1人で入るような歳ではありません。しょうがなく駐車場の植え込みの陰からお店に入っていく2人の様子を追う。幸いに窓際の席に座ったので、外から覗けました。おじさんとその人は4人掛けのテーブルに2人並んで座ってた。ご飯を食べに来たのだろうと思ったのだけど、何か飲み物を飲んでるだけでした。
そして、しばらくすると、明るい髪の色をした背が結構高い若い男の人がやってきて、2人の前にストンと座りました。

……
2人じゃなかったんだ。

それから3人でなんか話してる。なおちゃんは怒ってて、その若い男の人はだらしなくファミレスの席に座ると不貞腐れた顔でそれを聞いている。しばらくすると急になおちゃんはテーブルのグラスの水をその男の人に引っ掛けた。氷ごと全部思いきり。

ぽかんとした。

慌てて立ち上がったおじさんが、水を引っ掛けた後に真っ赤な顔をして何か叫びながら泣き出しているなおちゃんの手からコップを取り上げている。そのまま投げかねない勢いだった。下手したら傷害罪である。反面、水をかけられた男の人も真っ赤になって、2人で罵り合っていて、おじさんがオロオロしている。ファミレスの店員さんも、慌ててよってきて大騒ぎだ。

あらーと思って見てたら、不意に明るい髪の男の人が大声上げながら泣き叫んでるなおちゃんの手をぐいと掴んだ!

あ、殴る、と思いました。
僕だけじゃない、周りの店員さんやおじさんも慌てた。

でも、次の瞬間、その人はなおちゃんを抱きしめた。ぎゅっと。

あらーっとさっきとは違う意味のあらで見る。周りもホッとした。

やれやれ

胸を撫で下ろした後に気づいた。やばい。暗くなってきている。お母さん心配してるな。
自転車を飛ばして家路についた。我が家からはカレーの匂いがしました。

「ただいまー」
「あー、悟くん」

お母さんがわざわざ玄関まで来る。

「もう、遅いから心配したわよ」
「ごめんなさい」
「なにしてたの?最近毎日のように遅いけど」
「明日はどこも行かない」
「ほんと?」
「うん。昨日と今日はね。友達と約束があったから」

靴を脱いでドタドタと上がった。

「お腹すいたー」
「もう、悟くん、靴はちゃんと揃えなさい」
「ごめんなさーい」


片瀬晴生


朝、一階にトントンと降りていくと、父親が食卓に僕らの朝ごはんを並べている。

「おはよう」
「おはよう」

自分の席に座ってトーストを齧りながらじっと父親の顔を見る。

「なに?」
「なんでもない」

父は、目の前のトーストに手をつけずにゆっくりコーヒーを飲んでいる。

「なんか疲れてる?」
「ん、ああ、ちょっとね」
「昨日、夕方、どこ行ってたの?」
「夕方?」
「なおちゃんと出かけただろ?」
「見てたのか」
「うん」
「ま、ちょっとね」

そして、ため息をつく。

「やめたがってるとか?」
「え?いやいやそういうことじゃないよ」
「じゃ、なに?」
「なんだ。なんでそこまで気にするの?」

小学生男子をちょっと好奇心の目で眺め出す父親。

「なおちゃんみたいな人が好みなの?晴生」
「おばさんはない」

チーン

「お前、お店の子たちにおばさんっていうなよ。確かにお前から見たらおばさんかもしれないが」

若干青ざめた顔で言ってくる。黙々とトーストを食べる。

「そんなバカしないよ。ちゃんと機嫌は取るって。お世話になってんだから」
「……」

ドタドタと階段を駆け降りる音がする。

「もう、お兄ちゃん、なんで起こしてくれないの?」

百江が降りてきた。

「お前、ちゃんと髪とかしたか?」
「え?顔は洗ったよ」

トーストを抱えたまま、フリーズした。

「いただきまあす」

百江は何も気にせず朝ご飯を食べ始める。

「お父さん、ヨーグルトがない」
「はいはい」
「いちごのジャム落としてね」
「はいはい」

朝からニコニコしている。食べ物前にした時の母親の笑顔にそっくりだ。

「朝からよくそんな食べられるな」
「お兄ちゃんって時々おじさんみたい」
「春樹おじさんみたいってこと?」
「違う違う。発言が中年のおじさんみたい」
「……」

こいつの、どこが、優しいというのか、悟は。

「はい、どうぞ」
「わーい」

そして、一口食べて、しかめ面になった。

「どうかしたの?」
「このヨーグルト、古いね」
「え、うそ」

父親が顔を寄せて匂いを嗅いでいる。

「大丈夫。悪くなってはいないよ」
「ああ」

百江がいって、父親がほっとした。

「このヨーグルト、新しい時はもっと爽やか」
「お母さんが百江のために買いだめしてたからな」
「しょうがないね。明日帰ってくるね。お母さん」
「そうだね」

もう一度笑顔になった。
やれやれ。
トーストの残りをかきこんで、手のパンくずを払うと席を立つ。

「ご馳走様」
「もう、いいの?」
「うん」

そして、洗面所からブラシを持ってくる。

「ほら、百江、お前、女の子なんだからさ」
「いたっ」
「ちょっと我慢しろ」

長い髪の下の方が鳥の巣みたいになってたのである。

「お母さんいなくても晴生がいれば大丈夫だな」
「ああ、もう、自分でやる」
「いいから速く食え。時間なくなるぞ」
「あ、だから起こしてって言ったのに」
「はいはい」

もう一度思う。本当に、悟は、こんなんでいいのだろうか?
女の子なんて星の数ほどいるけどな。
よく知ってるようで、本当は百江のことよく知らないのではないか?

ふとどっかで読んだ言葉を思い出す。

恋は盲目

……いつまで続くかな。悟のためにはいつかどこかで夢から覚めたほうがいいと思うんだけど。


翌日、土曜日



「ただいまぁ」

午後のリビングに賑やかな人が帰ってくる。

「ああ、疲れたぁ」

ドサリとソファーに横になる。首に花飾り。お花の首飾り。リビングでテレビを見ていた兄と妹。妹の百江ちゃんが声を上げる。

「お母さん、これ、かわいい」
「あ、百江にあげるー。スーツケースの中に頭にのっけるのもあるよ」

ヒラヒラの首飾りを娘の首に付け替える暎万ちゃん。

「よくそのまま帰ってきたね」

冷ややかな眼差しで母にいう息子。

「え、なんで?」
「恥ずかしい」
「いいじゃん。周りの人たちにああ、いいな。あの人旅行行ったんだ。わたしも旅行行きたいなっていうリゾートな気分を振りまいて歩いてきたんだよ」
「なんのために?」
「旅行会社のため?」

玄関のドアが開いて、ひろくんが入ってきました。暎万ちゃんが旦那さんの顔を見て言う。

「あ、ただいまー」
「おかえり」
「休憩?」
「うん」

冷蔵庫から麦茶を出してコップにいれて飲むひろくん。そのままキッチンで麦茶を飲みながら、スーツケース開けてお土産を広げながら騒いでいる親子を眺めます。買ってきたもの全てを広げ終わるとついと立ってご主人の横へ来た暎万ちゃん。

「留守中、変わったことなかった?」
「ああ……」

げっそりとした顔で目を閉じたひろくん。

「なに?子供たち?」
「いや……」
「お店の方でなんかあったの?」
「お店っていうか、なおちゃん」
「あ、もしかして、またあのヤリチンがなんかしたの?」
「おい、お前、子供たちの前でそんな言い方するなよ」

ぼーっとしてたのがシャッキリした。

「もう、あのクズ男とはさっさと別れろと言ってるのに。で?今度こそ別れた?」
「いや、仲直りした。その前、激しく言い争ってたけど」
「ナーンで、わかんないかなぁ」

ゴジラのように興奮する暎万ちゃん。ゴジラも確か女子でしたよね?

「なおちゃんなら、もっといい男捕まえられるのにっ」
「何回酷い目にあっても、あの人がいいんだね」
「なんだかんだ言って、最後にはなおちゃんのとこ戻ってくるんだから。あのヤリチン」
「だから、その言い方、やめろ」

かなりマジにキレかけの顔で奥さんを見るひろくん。

「で、なんて言って泣きついたの、今回は?」
「ええ?わざわざ聞いてないよ」
「もうやらないって言ってた?」
「言ってた」
「なお、俺にはお前しかいないんだよって言ってた?」
「言ってた」
「ワンパターンだなっ!」
「でも、嬉しんだよな。ワンパターンでも。そういう言葉って」
「よくわかんない。そういう気持ち」
「わかんないね」

とりあえず興奮していたのが収まって、自分も麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けて麦茶をとってパタンと閉じる。

「ね、試しに言ってみて」
「何を?」
「もうやらないって」
「いや、俺、もともと何もやってないけど?」
「じゃあ、俺にはお前しかいないんだよって」

笑ってしまった。ひろくん。

「ちょっと笑うとこじゃない。さ、ほら」
「なんのために?」
「いや、なおちゃんの気持ちを理解するために」
「ごめん。でも、ちょっと無理」
「なんで?さ、ほら。遠慮はいらないよ」

なぜか、片手に麦茶のピッチャー持ったまま両手を開いてハグを待つようなポーズで言葉を待つ暎万ちゃん。

「ああいうのは勢いがないと」
「そんなごちゃごちゃ考えないで、棒読みでもいいから言ってみ?」
「お母さーん」

両親が2人で何か楽しそうにしているのを見て、よってきた百江ちゃん。
百江ちゃん、ちょっとお邪魔ですよ。

「お腹すいた。なんかおやつ食べたい」
「お土産のチョコレートは?」
「食べた」
「いや、でも、たくさんあるでしょ?」
「いっぱい食べた。もう、チョコは満足」

よく見ると、口の周りにチョコがついている。

「ほら、百江、拭きな」

そばのカウンターからティッシュを取って百江ちゃんの口の周りを拭く暎万ちゃん。そんな3人の様子をソファーの方から眺めていた晴生くん。やっぱり、うちの親父に限ってなおちゃんとなんかあるなんてないよなと改めて思う。


小林悟


いつものように百江ちゃんちに行く。晴生くんとこに遊びに来たというのがもはや定番の言い訳になっている。リビングにはおばちゃんがいました。

「あ、悟くん、久しぶりー」

いつもの明るいおばちゃんでした。

「ちょっと待っててね」

パタパタとどっか行く。他人の家で1人っきりになっちゃった。

「悟?」

上の方で声がする。見上げると、愛しい百江ちゃんがいました。階段の手すりのところで下を見下ろしてる。

「なんか久しぶりじゃん」
「え?」
「お兄ちゃーん、悟、来てるよ」

一瞬だけ僕に声をかけて、すぐに後ろを向いて晴生くんを呼びに言ってしまった。背中を見送る。

「あ、悟、上がってこいよ」

晴生くんが顔を出して、僕を呼ぶ。言われた通りに上がろうと階段の一番下の段に足をかける。

「あ、悟くん、悟くん」

おばさんがパタパタと戻ってくる。何か抱えている。

「これ、持って帰ってね。ハワイのお土産。マカダミアナッツのチョコレート」
「あ、ありがとうございます」
「みんなで食べてね。それと……」
「それと?」
「百江に見つからないようにしな」

急に声を落としてひそひそ声で話し出すおばちゃん。

「え……」
「見つかったら食べられちゃうから。ね。これもおばちゃん戸棚の奥に隠しといたからさ」

かなり真剣な顔で言われた。

「あ、はい。わかりました」

階段をトントン上りながら思う。戸棚の奥に隠しておかなければチョコを食べてしまうような子では、百江ちゃんは本当はないはずです。おばちゃんはきっと何か勘違いをしている。百江ちゃんは食べないでといえばちゃんと食べずにいてくれるいい子のはずです。

お兄ちゃんの晴生くんの部屋に入る。

「これ、晴生くん、食べる?」

もらったばかりのチョコレートを僕が開けようとすると晴生くんは首を振った。

「俺はもう食べたし。それに、それはさ。悟のおじさんとおばさんにあげたいやつだから、ちゃんと持って帰りな」
「ああ、うん。わかった」

僕のリュックにはうまく入らない。でも、自転車は両手が開かないと危ないな。ファスナーの間からチョコのパッケージが覗くような形になった。それを見るとはなしに見ていた晴生くん。

「百江には見つかるなよ」
「……」

晴生くんにも言われてしまいました。みんな、誤解しているな。百江ちゃんのこと。

「そういえば、晴生くん」
「ん、なに?」
「さっき、百江ちゃんに、久しぶりじゃんって言われたんです」
「ああ、それが?」

僕は目をキラキラとさせながら晴生くんに語りかけます。僕の胸の震えが伝わるように。

「いっつもはね、来たの?って言って、ちょっと嫌な顔をするんです。百江ちゃん」
「……うん」
「それが、今日は、久しぶりじゃんって、ちっとも嫌な顔じゃなかった」
「……」
「前進ですよね?」
「えっと……」
「晴生くんの言っていた、しつこく来るのはギャクコーカってやっとわかりました」
「ああ、うん」
「いっつも来てる僕が、しばらく来なかったから、きっと百江ちゃん、寂しかったんですよね?」
「……」
「希望が見えてきました」

僕たちの未来のウェディングベルが僕には聞こえる。りんごーん。

「なぁ、悟」
「なんですか?」
「前から言ってるけど、俺も、父さんも、母さんもお前のことは憎めないやつだなと思ってるんだよ。生まれた時から知ってるしな」
「はい」
「幸せになってほしいんだ」
「はい」
「百江以外にも女はいるぞ」

またいつもの話をされる。

「でも、僕には百江ちゃんしかいません」
「……自分の人生をそんな早く決めてしまっていいのか?」
「かまいません」

僕には聞こえる。僕たちのウェディングベルが。りんごーん。

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