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短編小説:紫陽花箱根行_2021.06.25
澤田暎
「暎君、もうそろそろ誕生日でしょ?誕生日プレゼント買ってあげる」
とある休みの日にそう言って起こされた。
「ああ、はい、それはどうもありがとう」
寝ぼけた頭でそう答えた。
「さ、早く起きて顔洗って着替えて。出かけるよ」
「一緒に買うの?」
「一緒じゃないと買えないもんなの」
なんだろう?
その後、ダイニングテーブル座ってコーヒーを飲んでいると、目の前に焼いたトーストを置かれる。
「朝ごはん苦手なんだけど」
「まぁそう言わないで食べな」
毎朝のように繰り返される会話。しぶしぶとトーストの端っこを齧る。
「結局2人ともパジャマ着てないじゃん」
「あ……」
理沙がヨーグルト食べる手を一旦止める。
「それはまた今度ね」
朝ごはん食べて、理沙が食器を片付ける間、ぼーっとニュースを見て、それから出かけた。
理沙が僕に買おうと思っていたプレゼントはメガネでした。
「こっちかな?こっちかな?ね、かけてみて」
「はいはい」
渡されたのをかけて理沙の方を見る。
「どう?」
「うーん。こっちもかけてみて」
「はい」
「うーん」
「こんなん、そんなに変わる?それに、週末とかしかかけないしさ」
「だから、大切なの」
「なんで?」
「わたししか見られないから特別なの」
そう言ってにこにこしている。
「俺、メガネかけた顔よりかけてない顔のほうがよくない?」
「わたしはメガネかけた顔のほうが好き」
「え、そうなの?」
理沙が僕の顔からメガネを外して、また別のをかけてくる。知らなかった。理沙が僕のメガネかけた顔が好きだったなんて。
「だから他の女の人には見せないでね」
「……」
「あ、これがいいかも」
視力測る段階になって、僕の電話がなった。ちょっとしたトラブルで、とある作家が臍を曲げてしまったらしい。お気に入りの僕が行って機嫌を取らないといけない。
「ごめん。理沙」
両手を合わせて頭下げた。
「仕事ならしょうがないよ」
さっきまでのニコニコした顔が消えてちょっとしょぼんとした。
「とりあえず今日はフレームだけ買います。また時間のある時にレンズ作りに来ます」
「はい、お待ちしております」
会計を済ましている理沙を置いて、駅へ向かった。あのしょぼんとした様子が胸の奥に引っかかった。
***
手土産を持って先生の自宅に訪問し、こちらの非を平謝りに謝ると、程なく先生は機嫌を直した。その後、他愛もないおしゃべりに付き合いながら時間を過ごす。夕方が近くなると、先生は出かけたがった。
「久しぶりに澤田君に会ったんだからさ。飲みに行こうよ」
お酒のすごく好きな御仁なのである。いつもだったら断らない。
「先生、申し訳ありません」
膝に手をついて頭を下げた。
「なになに急にどうしたの?」
「僕、実は新婚なんです」
「ええっ」
しばらくのけぞって固まった。一時停止ボタンをもう一度押して再生しなければならないかと思った。
「ええっ〜!」
「いや、そこまで驚かなくても」
しかし、先生は僕の言葉が耳に届かない。立ち上がって部屋のドアのところに立つと、家の奥にいる奥さんに向かって言った。
「おい、お前、ちょっと来なさい」
「なんですか、騒々しい」
「澤田君が結婚したって」
「ええっ!」
普段は静々と上品な奥様が、パタパタと廊下をかけてきた。
「あなた、聞き間違いじゃないの?」
「今、確かにそういった。え、聞き間違いだったのかな」
2人でこちらを見る。
「聞き間違いではありません。結婚しました」
「ええ〜!」
2人でもう一度驚いている。いや、ここまで驚くと流石に失礼ではないか?
「なんでそんなに驚かれるんですか?」
「いや、でも、普通は結婚というのは前振りがあってだね」
「はい」
先生は、両手で見えないエアーの箱を持ち上げて右から左へ置くジェスチャーをする。
「彼女ができたとか、今度の彼女とは真剣なんですとか……。そんな素振り全然なかったじゃない。君は見事に次から次へと女を乗り換えててさ。ねぇ、お前」
「ええ、ええ」
「……」
「世の中にはああいう生き方もあるものだとある意味、呆れるのを通り越して尊敬してたのに」
「羨ましがってたわよね。あなた」
「そんな澤田君も年貢を納めるのか……」
「はぁ……」
「なんか……、正直、ちょっと残念だな」
バシッと奥方がご主人を叩く。
「あなた、そんなこと言ってはいけません。おめでたいことなのに」
「そうだ。そうだな。こんなことをしていてはいけない」
先生、すくっと立った。
「お前、菊水を予約しなさい」
「予約っていつですか?」
「今晩だ」
「何言ってるんですか。菊水は今から予約してなんて無理ですよ。予約受けてから仕入れするお店なのに」
「ああ、じゃあ、あれだ。しょうがないな。澤田君、君の奥様は鰻が好きか?」
「ええっと……」
話が妙な方向へと流れてきた。ちなみに理沙がうなぎを好きかどうか知らない。
「知らないのか?」
「はぁ、すみません」
「早く電話して聞きなさい」
「はい」
素直に電話した。
「もしもし」
「理沙」
「はい」
「うなぎ好き?」
「へ?なんで?」
「説明していると文字数を使うので、大した質問ではないと思うから答えてほしい」
「普通に好き」
「先生、普通に好きだと言ってますが」
「そうか。それでは、今すぐ電車に乗ってうちの最寄りの駅まで来なさいと伝えなさい。おい、お前、着替えるぞ」
「あなた、別に今の格好で構わないじゃないですか」
「何を言ってるんだ。人間は第一印象が80%なんだぞ」
ドタドタと奥へ消えていった。
「なんか、賑やかだね」
電話の向こうで理沙が言う。
「理沙、お休みのところすまないのだけど」
「なに?」
「今から電車に乗ってこちらまで来て欲しい」
僕は最寄りの駅を告げた。
「何のために?」
「うなぎを食べに」
「その、暎君と2人で?」
「いえ、僕の仕事関係のお付き合いのご夫婦と一緒」
「困ったな」
理沙は大して困っていなさそうな声を出した。
「何が?」
「今、買い物していて外出てるんだけど、午前中の格好のままだよ」
ジーンズ姿でした。
「うちに帰って綺麗な格好に着替えたほうがいい?」
先生は……、せっかちである。
「いや、そのままの格好でいいからおいで」
***
だけれど、駅の改札に現れた理沙はワンピース姿だった。
「え、どうしたの?それ」
「急いで買いました」
「そっか」
「選ぶ時間なくてお値段気にしていられなかったんだけど」
「うん」
「後でお金ちょうだい」
笑った。
「え、だめ?」
ショックな顔をしている。彼女にしては結構したのだろう。
「いいよ」
僕の返事にほっとした後、理沙は周りを見渡した。
「そのご夫婦は?」
「先にうなぎ屋さんで待ってるよ。行こう」
手を繋いで歩き出す。
「あ、理沙、洋服のタグがついてる」
「え、うそ?どこ?」
「うそ」
「もう」
叩かれた。
***
先生は鰻屋の2階の座敷でそわそわしていた。座布団の上でお尻が浮いている。
「お待たせしました」
座敷の襖を開けてまず僕が、僕の後ろから理沙が顔を覗かせると、
「ええっ!」
「またですか」
今日1日でどのぐらい驚いているのだろうか、この夫婦。
「妻の理沙です」
「初めまして」
「ああ、どうぞお座りください」
まだ驚いているご主人の代わりに奥方が座布団を勧める。僕と理沙が座ると、先生がジロジロと理沙を見ている。
「先生、流石にちょっとジロジロと見過ぎかと」
「そうよ。あなた失礼よ」
「いや、でも」
「でも、なんですか?」
ため息をつかれた。
「いや、世の中は不公平だな」
いやーな予感しかしない。余計なことを言いかねない。この先生。
「さんざん、エキゾチック系とか、悪女系とか、氷の女王系とかさ……」
「あなた……」
ご主人の言動パターンに精通している奥方。黙らせようとご主人の袖をくいくい引いているが、そんなので止まる御仁ではない。
「一通り制覇した後で、卒業して、王道に落ちるのか。しかも、こんな若い子」
ちーん
「先生、僕、新婚なんです……」
結婚したての夫婦を前にそんなこと言うなんて。本当はこのセリフの後に、だから奥さんを1人で家に置いておくわけにも行かないので、今日は帰らせてもらいますと続くはずだった。それがどこをどう間違ってこんなところでうなぎを食べる羽目になったのか。
「さ、さ、そんなことより今日はお祝いなんですから、美味しいもの食べましょう」
奥方がパンパンと手を叩く。
「美味しい?理沙ちゃん」
「美味しいです。うなぎってただ焼くだけじゃないんですね。こんなにいろんなお料理初めて食べました」
奥方に答えて理沙がそういうと、先生がお酒を片手に相好を崩す。
「さ、さ、遠慮しないで好きなだけ食べなさい。おや、澤田君は全然箸が進まないじゃないか」
「先生、僕の歳ではこういうものはもうそんなに食べられないですよ」
「あ、また、歳のこと言った」
理沙が突っ込んでくる。
「そうだそうだ。情けない。うなぎも満足に食べられないくらいなら、こんな若い奥さんもらうんじゃない」
「あなた」
この人、書くものは本当に格式高いんだけどなぁ。こうやって見てるとただの親父だ。
***
先生はその日の夜、大いにはしゃいだ。こんなに楽しそうな先生を見たのは久しぶりだった。ほろ酔いの千鳥足の先生を奥様が支えて、夫婦が2人何度も振り向きながら手を振るのを店の前で見送った。
「なんかいい夫婦だね」
理沙はのんびりとそう言った。
「ああ、流石に食べすぎた。お腹が重い」
それから人に向かって手を出してくる。
「帰ろ」
「うん」
券売機で切符を買って、改札をくぐってホームへ向かう階段の途中で理沙がきく。
「そういえば今晩会った人って誰?」
「ああ、天野実篤」
理沙はぴたりと足を止めた。
「どっかで聞いた名前」
「教科書とかで読んでるんじゃない?」
「え?」
「受験の時の問題文とかでもよく使われるな。昔の作品が多いけど」
「そんな偉い人だったの?」
「会ってみるとただの普通のおじいちゃんだけどね」
「……」
手を伸ばした。
「帰ろ」
何かを考え込んだ顔で人の手を掴んでのろのろとついて来る。
「どした?」
「なんかわたし、失礼なことしなかった?」
「いや、じいさん、喜んでたし」
「じいさんって」
僕は笑った。
「先生は、周りの人が畏まるの好きじゃないんだよ。だからあれでいいの」
「そうか」
2人で並んでホームに立って、電車が来るのを待った。
「あ、そういえば」
「なに?」
「来週末はわたし、いないから」
「なんで?」
「紫陽花見に行くの」
紫陽花ですぐにピンと来た。
「それは、あれか、このはちゃんと?」
「え、なんでわかるの?」
そりゃ、紫陽花見に行けって言ったのが俺だからだ。でも、理沙を連れていけとは言ってない。すぐに携帯取り出した。
「もしもし」
「夜分遅くにすみません。澤田ですが」
「あ、お父さん」
「……」
「もう、そろそろ、娘さんの話を聞いて血相変えて電話をかけてくるんじゃないかって先生と噂してました」
ふああと電話の向こうであくびをする声がする。
「娘さん、お借りしますよ。来週末」
「それって、一緒に行くのはこのはちゃん?」
「それと、先生」
やっぱり……
「だめすか?」
「どうしても行くなら、蒼生を置いていけ」
「え、いやいやいや。だって、元々は出不精の先生を外に引き摺り出して風情を味あわせるために紫陽花見にいけって話でしょ?」
「3人はだめ」
「そんな」
「じゃあ、こうしよう。来週末は、このはちゃんと理沙が行く」
「はぁ」
「再来週末に蒼生とこのはちゃんが……」
「そんなに毎週紫陽花見にいってられないっすよ」
「夜はどこ泊まるの?」
「あの、おすすめいただいたリゾート旅館」
「まさか3人で一部屋ってことはないよね?」
「え?」
あろうことか、ここでしばらく無言になるこのはちゃん。
「先生、お部屋って一部屋でしたっけ?二部屋でしたっけ?」
電話の向こうで聞いている。
「ああ、もう、蒼生に言っといて。俺も行くから」
「へ?だって、澤田さん、忙しいでしょ?」
「夜には合流するようにするから、部屋、二部屋取れって蒼生に言っといて」
それだけ言って電話を切った。
「なんか、だめだった?」
電話を切ると、横から理沙が聞いてきた。
「暎君が忙しいから、寂しいでしょってこのはちゃんが気をきかしてくれて」
「このはちゃんはいいけど、蒼生が……」
「え、いやだって、暎君の知らない人でもないし、それに奥さんも一緒でもだめ?」
「いや、許せない」
「え、何が?」
「蒼生が1人で両脇に女の子抱えて、しかもその片方が俺の奥さんだなんて、絶対、許せない」
「……」
待ってた電車がホームに滑り込んできた。
***
そして翌週の夜、なんとか仕事や用事を片付けて箱根へ向かう。ロビーで部屋番号を確認して、部屋へ行った。二部屋のうちの片方の部屋で食事をしている最中だという。
「今晩は」
襖を開けた。
「あ、暎君」
僕を見て、理沙が笑った。もう温泉に入ったのか浴衣姿だった。そして、やはり浴衣姿の蒼生とこのはちゃんがまるで雷にでも打たれたようにショックを受けた。一瞬。その次の瞬間。
ぶっくっくっくっく
蒼生が両手で顔を隠して笑い出す。
「先生、笑っちゃ失礼ですよ」
そう言いながらこのはちゃんも笑いを堪えている。
「え、変ですか?暎君って」
「いや、新鮮です。君付けで呼ばれているの初めて見た」
俺は相変わらず顔を隠して笑っている蒼生とこのはちゃんの前の席に、理沙の隣に座った。
「俺だって、澤田君とか暎君とか呼ばれたことぐらいあるぞ」
「いや、年上とか同い年の人に呼ばれるなら違和感ないけどさ……」
「ほら、理沙ちゃん、だから言ったでしょ?40の男が20代の子に君付けで呼ばれるのはイタイんだって」
「え、でも、やめたくない」
時々どうでもいいことで譲らない。この人。
「いや、いいよ。すごくいい。やめないで理沙ちゃん」
蒼生が言う。
「さ、さ、澤田さんも来て揃ったことだし、お食事続けましょう。わたしたち、前菜だけで待ってたんですよ」
料理が運ばれてくる。理沙が感嘆の声をあげる。
「先週はうなぎ食べて、今週もまた、こんなお料理食べて……」
それから彼女は部屋を見回した。
「こんな綺麗な旅館泊まるの、初めて。去年の自分が見たらびっくりだよ」
お吸い物の椀を両手で抱えてしみじみと言う。
「人生ってわからないものだなぁ。次から次とこんな贅沢する日が来るだなんて、思ってもみなかった。あのね、露天風呂がすごかったんだよ。綺麗な景色が見えてね」
不意に僕の方を見てキラキラとした目で話し出す。
「ああ、残念。一緒に入れないね」
若干、聞いている残り3人リアクションに困り固まる。
「明日の朝、また、入りに行こう。明るいときっとまた違うよね」
「うん、楽しみ」
このはちゃんに言われて、ニコニコしてる。その顔を見て、忙しい中苦労してきてよかったなと思った。
「よかったね。理沙ちゃん」
ギョッとした。お前が、それを言うなよ。
「なんだ。暎、なんか言いたそうだな」
なぜか、珍しく微笑みながら俺を見てやがる。蒼生のやつ。絶対こいつ、俺がイラッとくるのわかっててやってやがる。
「理沙、この露天風呂が風景画みたいで美しいと絶賛されているリゾート旅館を選んだのは俺だから、こいつじゃなくて」
「お金は全部、僕が出したけどね」
「いくらだ。経費で落としてやる」
「いや、澤田さん、だめ。公私混同。経費使い込みで問題なるよ」
このはちゃんに止められた。
「あのね。紫陽花もすごい綺麗だったよ。いっぱい写真撮ってもらった」
「誰に?」
「火野先生」
「……見せて」
「え、いや、食事終わってからでいいでしょ?」
このはちゃんが言う。
「ちょっと見せて。皆さんは食事続けていていいから」
このはちゃんがしぶしぶカメラを取り出して来る。理沙の写真がいっぱい出てきた。
勝手に人の奥さんの写真とりやがって。
「ちょっちょっ、消しちゃダメ」
「俺が明日取り直してやる」
「お前、俺ほどうまく撮れないだろ?」
「そんなことはない」
「だめだめ。暎君やめて」
止められてしまった。
「そんなに怒るなよ。大人気ないやつだな。ほら、これで機嫌を直せ」
蒼生がそう言って僕と理沙に向けてシャッターを切った。
「暎、不細工な顔するな」
「もともとこういう顔なんだ」
「ね、折角だから暎君笑って」
理沙が僕の片腕を捕まえてぴったりくっついてきた。パシャパシャパシャと連写された。
「見ろ。この間抜けヅラ」
このはちゃんに撮ったばかりの写真を見せている。
「蒼生さんもからかい過ぎですよ。ゆっくり食事ができません」
「それはどうもすみません」
蒼生がカメラを置いた。
食事を再開した。なんとなくしばらく静かになる。
「そういえば、このはちゃんのペンネームだけどさ」
「ペンネーム?」
「いろいろ考えたんだけど、そのまま野中このはがいいかと思って」
「火野このはじゃないんですか?パッと見て先生の奥さんってわかった方がいいんじゃないんですか?」
「それもそうなんだけどさ。よく考えてみてよ」
はてなという顔でこのはちゃんが首を傾げてる。
「火野このはって燃えちゃうじゃん。灰に帰すよね?」
「へ?」
「そうだな。燃えるな」
蒼生が応じる。
「お日様の日の日野このはならまだいいんだけどさ」
これがこのはちゃんの現在の本名です。
「でも、野中このはの方がもっとほのぼのしててよくない?」
「うん。ほのぼのしてる」
理沙が同意した。
「そうですか?」
「お父さん、結構ネーミングのセンスあるよね」
「ペンネームってこんな風に決めるもの?」
本人が若干納得していない。
「でも、燃えるから」
「うん。燃える」
蒼生が同調する。
「いや、そんな駄洒落じゃないですか」
「でも、全国の様々な書店で君の本の背表紙見た人が、ぷ、こいつ燃えるじゃんって思うんだよ。ウケ狙って敢えて使う?火野このは」
「……」
「縁起が悪い」
ぼそっと蒼生が言う。
「敢えて漢字にしてみたらどうか。火野木葉。ん?これは結構いいんじゃない?」
「頭よそさそうだな」
と蒼生。
「火曜日と木曜日みたい」
と理沙。
「もう、野中このはでいいです」
と本人。
「野中木葉を漢字にしてはどうか」
「頭よさそうだな」
と蒼生。
「おじさんみたい。かわいくない」
と理沙。
「もう、野中このはでいいですってば!」
と本人。
「あ〜、お腹いっぱいなったぁ」
「旅館の料理ってほんと、食べきれないよね」
満足のため息が出る女性陣。
「ね、暎君、疲れたでしょ?温泉入ってきなよ」
さすが奥さん。優しいじゃないですか。
「わたしももう一回行って来ようかな?」
「え、でも、理沙ちゃん朝風呂しようって言ったじゃん」
「あ、そうか」
それから、理沙はうーんと考え込む。
「なんか、時間決めて待ち合わせするのも大変だね。ね、わたしこのはちゃんと同じ部屋で寝ちゃダメ?」
「え?」
「ね、そうしようよ。修学旅行みたい」
「いや、でも、折角だから、ご主人と……」
「だって、暎君とは毎日一緒に暮らしてるもの」
「あ……」
このはちゃんが困ってちらちらと俺の顔を見てる。
「あ、でも、このはちゃんはご主人と一緒がいいか」
この話の流れで口を出そうと思った時に、
「いや、別に構いませんよ。折角だから女同士で楽しんだら?」
にこやかに笑う蒼生。
***
「なんで、こんな、箱根くんだりまで来て、お前の横で寝なきゃなんないんだよっ」
「往生際が悪いな」
「大体、お前、何だよ。大人の余裕みたいな顔で構わないとか言ってさ。本当はお前もこのはちゃんと同じ部屋がよかったくせに」
「別に。ただ、お前と2人は嫌だった」
「じゃあ、なんで、やだって言わないんだよ」
「レディーファーストってやつだ」
「カッコつけやがって」
「ああ、うるさいな。電気消すぞ」
一緒にホテル泊まったことはあるけど、旅館は初めて。理沙の浴衣姿見たの、初めてだったのに。
くそ……
「寝られない」
暗闇の中で蒼生がちっと舌打ちをする。
「しょうがないやつだな」
もう一度電気をつけて、寝酒に付き合ってくれた。
どうでもいい話をだらだらしながら酒を飲んだ後に不意に蒼生が言った。
「暎、お前さ」
「ん?」
「いろんな奴がお前を便利に頼るのはわかるけど、もう1人じゃないんだから」
「うん」
「自分の時間を作って、理沙ちゃんのそばにいろよ。もう少しでいいからさ」
「わかってるよ」
蒼生は俺の顔を見ながらふっと笑った。
「わかってるならいいんだけどさ。理沙ちゃんのためだけじゃなくてさ。お前ももう若くないんだから。休む時間を作らないと」
「お前も若くないけどな」
「俺はお前ほど他人のために走り回ってないよ」
「……」
「どっかで一線引かないと。周りはそこまで気を使ってくれないぞ」
その後、ああ疲れたと言って蒼生は布団にパタリと寝転んだ。
「歯、磨けよ」
「酔っ払った」
「汚い奴だな」
「お前、まだ酒が足りないな」
それから、人のことほっといて寝出した。
***
「じゃあな。俺たちは疲れたからお先に失礼するよ」
次の日の朝、蒼生たちは朝ごはんを食べると早々に帰ると言い出した。
「理沙ちゃん、なかなか暎のこと独り占めできないだろ?今日は携帯の電源切ってしまえばいい」
「ええっ?」
「人には携帯の電源を入れない日も必要なんだよ。特に暎みたいなやつにはね」
そう言って笑いながらのんびりと去ってった。
「理沙、箱根、初めて?どこ行きたい?」
「えーと」
「じゃ、俺のお勧めのところでいい?」
「暎君、箱根なんてわかるの?」
全国津々浦々、作家先生に行きたいと言われればあちこち調べて必要であればアテンドまでする。
俺は下手な旅行社のガイドより腕がいい。でも、理沙はあまり良く知らないのかもしれない。
「ハワイの時だっていろいろ案内してあげたでしょ」
「わー、楽しみ」
時間やエネルギーをかける方向を少し、調整するべきなのかもな。
理沙のために、というよりは、蒼生が言った通り、自分のために……
理沙と一緒になるまで気づいてなかった。
自分は結構疲れている。
***
「あー、たった一泊だったけど長く感じたなぁ」
理沙は靴を脱いでパタパタと家にあがる。
「換気しよう」
リビングの窓を開けた。その後こっちを振り向いて笑った。
「やっぱり我が家が落ち着くね」
いつのまにか僕の家が、僕たちの家になった。
夜、洗面所で歯を磨いていると理沙が横に来て並んだ。並んで鏡に映りながら歯を磨く。色違いのお揃いのパジャマで。
同じような服を着て、似た雰囲気を纏う。家族なんだなと実感したいからとある日理沙が買ってきたパジャマ。外で着る物を揃えるのは流石に恥ずかしいからと。
本当はきっと彼女は、小さなパジャマも揃えたかったと思います。一瞬だけその様子を思い浮かべた。もう一つ小さな姿が僕たちと一緒に並ぶ様子を。それはなんて美しい光景なのだろうか。
だけどそれはやはり幻なのかもしれません。
「なにぼーっとしてんの?」
「ああ」
口を濯いでタオルで拭いて洗面所を出る。
僕はこれからもこの、手に入れられなかったものに対する、これも、喪失感と呼んでいいのだろうか?これと付き合っていかなければならないのだろう。
リビングに戻ると理沙が足の爪を切っていた。
隣に座った。
「暎君も切ってあげようか?」
「いや、絶対やだ。怖い」
「なに言ってんの?別に傷つけたりしないよ。信用してないの?」
「本能的に嫌」
「理性的に考えなよ。足の爪は自分では遠くて切りにくいでしょ?他人に切ってもらったほうが便利だって」
「いや、全然届くし」
実演して見せる。
「結構、身体硬いじゃん。ね、試してみると思ってさ」
「じゃあ、お礼に理沙のを俺が切ってやろう」
「え?」
「さぁ、爪切りをよこせ」
「やだ。本能的にやだ」
「なんだよ」
二人で笑った。くだらないことで。
火野蒼生
箱根からの帰りの電車の中でこのはさんが聞いてきた。
「先生、紫陽花楽しめました?」
「紫陽花より暎の方が面白かったな」
「ええ?」
「あいつ、変わったな。この短い間に」
すると、彼女は前の方を向いてのんびりと言った。
「そうかもしれませんね」
「よかったな」
「そうですね」
了