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空気よみます。

我が夫婦は時々、仕事の合間に気を抜きたくなると自分のスマホで息子の写真を見る。そして、家族4人のグルチャに写真を送る。息子が中心の家族写真である。みんなでシェアする。それを見て、自分も小休憩をする。ほのぼのと幸せである。子供がスクスクと大きくなってきているのを見るのはほのぼのとする。

それで、調子にのってそれを転送した。我が父と姉に送った。親戚である。向こうもよく意味もなく写真を送ってくるから良いのだ。挨拶みたいなもんだ。

で、勢い余ってさらに日本の友達に送りそうになった。ささやかにハイテンションだったのである。気分はDJ、イエーイ!ポチッと送信ボタンを押しそうになって、そして、

ヤベヤベ

正気に戻り、アフロのカツラを取り、グラサンを外し、友に写真を送るのはやめて地味な中年のおばさんに戻り粛々と仕事をした。仕事をしつつ頭の片隅で思い出すとおきある日に読んだヤフーニュースだったか、知恵袋だったかの記事を思い出していた。

曰く、たまに年賀状で子供の写真を印刷して送ってくる人がいるけど、嫌だというのである。家族写真ならまだいい。自分が我が子を可愛くてたまらないのはわかるが、他人もそれを見て喜ぶと思っているのがなんというか、まぁ、不快だという記事であった。

仕事中に突然友達に子供の写真送られても微妙だよね。しかも、相手が仕事でドツボにハマってる時に呑気に送ってたら、地雷だぜ。やれやれ。

空気、よみます。空気。

そして、ふと思う。
そういえば、私、昔はもっと地雷を踏んでいた。あるいは、地雷を踏んだんじゃないかと思って、毎日ヒヤヒヤしてたよなと。なんかいつの間にかヒヤヒヤする日が減った気がする。

ちょっと ホエエ と思った。
この顔はあれだ。埴輪でなくてはならない。埴輪ポーズとあの穴の空いた目と口で ホエエ と思った。

そうだよ。私といえば昔はもっと毎日、人の地雷を踏まないかとヒヤヒヤし、しかし、ちょっと、あれな、普通そうでいてずれたところのある人で、気をつけているのに人様の地雷を踏んでは 戦々恐々としてたやん!

センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、センセン、キョーキョー、
(センセン、キョーキョー、のBGMのもとヒイヒイ言ってた過去が走馬灯のように蘇る)

いつのミャに、気にしなくにゃったんだろ?ホエエ?
(ねこ アンド 埴輪 ミックス)

空気を読み 地雷を踏まずに 生きて行くためには たゆまないリサーチアンドドゥー(?)が必要である。つまりは、どんなことをしたら人が怒るのかをたゆまない努力でコツコツリサーチし知識として脳にインプット、アクションである。これが、簡単そうで難しい。なぜならば、姑と、ギャルギャルしいギャルと、ハイミスなお局さんと、名刺を手裏剣のように使ってくるプライドの高いおっさんと、地雷はみんな違うのである。どかん!

ちょっと前まで自分は 間違っちゃったかも、間違っちゃったかも と発言や行動の後に、ヒヤヒヤしては心拍数を上げ、引いては、こんなドキドキするなら、

①人前になんぞ極力立たないほうが良い
からの
②つうか、人と極力話したりしないほうが良い
へとアップグレードし

はいほーはいほー仕事がスーキー ではなくて
よーれひひやよーれひよ(→ハイジのテーマ)

インドア気味で、現実逃避気味な残念な大人になりました。

それが?最近はなんだろう?なんか空気前ほど読んでないな。
なんでだろ?

ちなみに話はちょっとズレるが、この 空気を読むって 日本独特の文化のように思う。

日本人は こういうことを言ったら相手が怒るかな? というのを常に考えている。気遣いの文化である。これはいいのだ。基本的には。ただ、問題なのは、程度がいきすぎてしまうことである。気遣いしすぎて、何を話しても相手の気分を害してしまうような妄想にかられてしまう人が少なからず出てしまう。ボリュームのつまみを絞るみたく程度がいきすぎないように回したほうが良い。

そして、例えば、こんなことを話題に出したら相手が傷つくかもとAさんが気を使うと、どうして言ってくれなかったのだろうとBさんが傷つくこともある。まさにコミュニケーションはラビリンス、迷宮である。

じゃあ、もともとかなりつまみを絞れず、コミュ障な私が今はどうして平気になったのかというと、

ショック療法かなぁ。

ここで、チャイニーズに悪役になってもらうか。チャイニーズは日本人ほど空気は読みません。特におばあさんの年代はやばい。例を出そう。息子がまだ1歳くらいだった頃、マンションの隣人は別に友人でも知人でもないが、向こうは暇なばさまだから私が日本人だとか一児の母だとかは噂で知ってるわけだ。とある日、エレベーターで一緒になると、人のことをジロジロと見て、

「その腹は、二人目が腹にいるのか?」

いや、ただ、太ってるだけですが。
…………
つうか、お前、誰じゃーーーーー!

かと思えば、タクシーに乗ると、

「なんだ、お前、外国人か?」
「日本人だ」
「へー」

それから、仕事とか、いつから中国にいるのかとか根掘り葉掘り聞かれる。めんどくさいので、最初に中国語がわからないふりをすべきである。からの

「給料いくら?」

出会ったその日に、そして、そのまま通りすがる人に、即、給料の金額を聞くのがチャイニーズである。ちなみに一応擁護しておくと、インテリなチャイニーズとか、若い人はここまででもござんせん。

どうよ。空気を読むとか、読まない以前の話やねん。
それに比べて自分の踏んでる地雷のささやかさはなんやねん。こんなに失礼なことを言っても堂々と生きてる人々がいるのに、オラは、何をちまちまと様々なことを気にしてきたんやろか。

そして、私は日本人としての美徳である 空気を読むスキルを 捨て去った。

ジャジャン!

わけにもいきませんでした。なぜなら、日本人としてここでお仕事いただけるのは、日本人としての 空気を読むスキルを 使えるからなので、現在は 空気を読まない中国人と 空気を読んでほしい日系のお客様の間で、日本人なんだけど若干オリジナルな日本人とは違う存在になって生きております。

個人的には、多分これはその多くがあっけらかんと生きてる(→褒めてる、褒めてるよ)中国人の人たちに囲まれているおかげで、私の地雷センサーと空気を読もうとするつまみがちょうどいいところで止まっていきすぎない。だから、めっちゃ楽になりました。

今はね、できるだけ人を傷つけたりがっかりさせたくないなと気をつけながら生きてますけど、たまに知らず知らず相手を害してしまうことは、しょうがないと思いながら生きてます。

それでも、人は許してくれるし。もし、許さず私に対して文句を言ってきたら、文句を言ってきたら会話のチャンスができたということだから、分かり合えるかどうかわからないけれど、話し合えると思えるようになった。

人間は 自分 OK   他人 OK   自己肯定感と他者肯定感のバランスのようなものが人それぞれ違うと思うのですが、自分の場合は、若い頃自己肯定感が非常に低く、いわゆる地雷を踏んで相手を怒らせてしまった場合、まず100%自分が悪いと思ってました。だから、自分の発言と行動をとにかく直さなきゃいけないといつも思ってたんですね。そこに間違いがあった。

相手が間違っていることだってあるんですよ。相手が間違っている時は、どんなにこっちが努力して自分を変えても、その人とはうまくいきません。

だから、そういう相手と対話を試みる、これが大事だと思う。また、自分は相手を間違っていると思っているけど、それだって正しいとも言えないのだから、対話によって自分が間違っていたのだと知ったら、自分が折れるのです。

相手を気遣うことも、空気を読むことも、日本文化のいいところだと思いますが、最近はそれが裏目に出て、言いたいことがうまく言えず、人と分かり合える自信はなく、人間関係は希薄になっているように思う。

人と時にぶつかったり、人と意見が違うことは、必ずしもそれだけで、問題になることではないのです。ぶつかっても許し合えたり、意見が違ってもお互いを尊重できれば、そこに踏まれる地雷はない。地雷を恐れて口をつぐむ必要はなくなるのだと思います。

純粋な日本人とはもう言えないかもしれない
汪海妹
中国の自宅より
2024.11.05

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