上善如水
ついこの前までこの言葉は、お酒の名前だと思ってました。
正確にいえば、この名前のお酒はありますし、何度もこのタイトルの様々なタイプの日本酒を飲んだことがありますので、お酒の名前でもあるのですが、もともとは老子の言葉。
へー、そうだったんだ!
そこで、美味しいお酒は水のようでなくてはならない、という今までの理解を上書きしました。
古事百選より抜粋
老子:八章
「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る」つまり「最高の善は水のようなものでなければならない。水は万物を助け、育てて自己を主張せず、誰もが嫌うような低い方へと流れて、そこに収まる」
こんなふうに生きるのは難しいなぁと思いつつ、上善如水とは少し離れるのですが、水のようであるという部分について、最近体験したことと合わせて今日は文を綴ろうかと。
息子が学校で一番仲のいい親友の男の子と一緒に昨年空手を習い始めました。その深圳の空手道場は、昨年始まったばかりですので、息子をはじめ子供達は全員ゼロから始める初心者、幼稚園から小学6年生までの仲間です。
広州を中心にいくつかある近辺の道場の子達が集まって行う内部試合というのがあって、この前2回目の大会にみんなで参加した。
既に大人になった私からみて、この子供たちが中心になって出る空手の試合というのは、人生の縮図なのです。日本庭園の箱庭が宇宙の縮図として造られ、物事の理をあの小ささの中に表そうとする、それと似ている。あの、真剣に戦い、後ろには親がいて、そして、必ずどちらかが負けるという世界。あれは人生の縮図であり、社会の縮図です。
その時親は、大切な自分の子供が、目の前で蹴られたり殴られたりしているのに、何もできないわけです。たくさんの親が声をかぎりに叫ぶのです。後ろに下がるな、とか、上段(頭)を狙っていけ、とか、技を取られた後にまだいける、諦めるなとか、叫びます。
親に見られている前で負けたくない、そのプレッシャーが子供を強くすることもあれば、重すぎて弱くすることもある。たくさんの子が親の期待に添えなかったことで、あるいは、シンプルに負けて悔しくて、涙する。
目の前の相手が怖いのか、それとも背後の親が負けた後に見せるがっかりした顔を見るのが怖いのか、どっちかわからなくなる子もいるでしょう。
それはそれはたくさんの親子の様子を1日で眺めました。
母親というのは、子供のまごうもない応援団代表でしょう。子供のためなら、なんだってすることを辞さない存在です。
少し話の視点を変えますが、息子が初めて幼稚園に入る時、とても怖かったんです。その時までこの子の社会性の部分がよくわからなくて、幼稚園でいじめられたらどうしよう?学校でいじめられたらどうしよう?自分が昔、学校で嫌な目にあったことがあるから、それだけに不安でたまりませんでした。
子供達に空手をさせてみると、その個々の性格の違いが驚くほどよくわかる。子供は簡単に言えば二つに分かれます。攻撃的な人とそうではない人に。また、本能のままに行く人と、行動する前に考えてしまう人に。
みんなで一斉に空手を始めたばかりの頃は、余計なことは考えずに積極的に攻撃をする子の優勢が目立った。その中で我が子はどちらかといえば防御に徹し、なかなか攻撃を繰り出せないのでした。
息子は学校でも、いつも友達に機会を譲る子でした。目立ちたい子がいればその子に役を譲り、自分から前に出ようとしない子です。私とは違いいじめられるようなことはなかった。皆に好かれてずっとやってきている。ただ、人から奪って機会を得るようなところは全くなく、他に欲しがっている人がいたらどんどんあげてしまう、そういう子に育ちました。
よく言えばいつも余裕があって涼しい顔をしている。でも、悪く言えば自分の欲しいものを欲しいと言えない。いつも本気で走っていないような、そんな感じ。よくいるタイプの男の子と言ってもいいのかもしれないけど。
ただ、学校生活とは違って空手は、そういう余裕を剥がしてしまうのです。
とてもシンプルに生きるか死ぬかの模擬演技。戦わなければやられる世界。どちらかが勝ち、どちらかが負ける、それが明確に示される世界。
初めて試合に出た時、息子は親友の男の子に負けて、泣きました。
うちの子が悔しくて泣くのを見たのは初めてでした。母親である自分も、なんとも言えない気持ちになりました。空手の試合に出て、生きるか死ぬかの模擬をやっている子供の背中を見ている時、母親は地獄のような気分です。愛している我が子を勝たせたい。競う気持ちが隠しきれずに表へ出て、会場は子供達だけではなく親の気まで孕んで張り詰めるのです。
そういったところもまた、人生の縮図のようです。
そこに様々な親がいる。相手を蹴落として上へ上がれ、是が非でも勝て、そうじゃなきゃお前が死ぬんだと。黙っていられずに無我夢中で相手に向かっている我が子の傍でがなり立てる親もいる。たくさんいます。
自分が、社会で人と競い合い、鍔迫り合いをしながらガチャガチャやっているのと、我が子が競走のるつぼで揉まれているのをみるのとは、全然違う。
息子のためになんだってするのに、なんだって差し出すのに、目玉だろうが、心臓だろうが、そりゃもう大抵の親がそんな思いで子供を育てているのですが、でも、実際の人生では、子供のために親がしてあげられることなんて見守ってあげることぐらいしかないんです。
ずっと仲良しの友達に、いつもは手を抜いて本気の自分を見せてこなかったけど、でも、本番では負けないと息子は思ってたのでしょうか。でも、頭の中の世界と現実の世界は違った。仮想現実の中で戦っていた息子は、現実の世界で友達に負けてしまいました。本気で戦って、でも負けました。そして泣いた。
何もいってあげられなかった。
それからのことです。今までも習い事をしてきたことはあったけど、初めてではないでしょうか。自分から一生懸命、何かをすると決めて頑張ったのは。
それでも息子は息子のままでした。
横断歩道を渡ろうとして、そこに自分より小さい子やおばあさんがいたら、先に通してあげる。そして、自分より先に行きたい友達がいれば、先に通してあげる。息子は人が欲しがっているものを取り上げてまで自分を通す人間じゃない。
そして、空手をすれば相変わらずなかなか攻撃の手が出ないのですが、ですが、先に防御が上手くなった。それから、細身でパワーはそこまでありませんが、身の軽いのを活かしてよく躱すようになった。そして、落ち着いて相手をよく観察し攻め手を考えるようになりました。
そして、いつも譲るばかりで主張の弱かった息子が自分を守るために相手に積極的に打ち出て行くようになった。
久しぶりに出た試合で見たうちの子は、数ヶ月前とは別人のように強くなっていました。これがあの小さな頃から見ている我が子と同じ子だろうかと思うくらい。自分の子の新しい一面を見た。
うちの子だけではなく、他の子達も変化を遂げていました。初期では攻撃的な子が優勢でしたが、全体のレベルが上がってくると、攻撃一辺倒の子の手は単純で防御を覚えてきた子にはカットされ、そして、攻撃一辺倒の子はガードが甘いのでそこを攻められる。また、初期ではおとなしい子をひたすら叩きまわし、見ているこちらとしてもなんだか嫌な戦い方だなと思って、その子が好きになれなかった。でも、そんな嫌な戦い方をしていた子が、もっと正々堂々というかきちんと戦うようになった。
思うに、表面的には攻撃的な子も大人しい子も、根っこは同じで自分を守りたいんです。守るための表現の仕方が違うだけ。それが、空手を続けてゆくと、最初のやり方ではもっと強い人に簡単に負けてしまうのです。それで、負けて泣きながら仮初ではない本当の強さを手に入れるために、自分を変化させてゆく。
変化……
ここでやっと冒頭の水の話に戻るのです。
如水
大人はこれができない。既に自分はこういうやり方をするこういう人間であると自分で自分を固定してしまっているからです。でも、子供は違う。子供の本質は非常に柔軟で、まるで水のようです。
水のように変化しながら成長するのです。
今回の相手は全部年下の子達。ただ、空手の経験年数は相手の方が上かもしれません。年下の子相手にストレート負けしたらどうしよう?本人ではなく母親がドキドキしていた。正確に言えばドキドキなんて可愛いものではなく、ずうんと重い気持ちでした。
これはいろいろな母親の皆様にも共通の心理だと思うのですが、赤ちゃんの頃から育てていると、ついつい子供の弱い部分にばかり着目してしまう。うちの子はきっと負けてしまうとか、だってあそことあそこがダメだしとかひたすらエンドレスに思ってしまう。そりゃもう心の底から子供には勝ってほしいですよ。他の子なんてどうでもいい。許されるなら他の家の子を突き飛ばして自分の子供に道の真ん中を歩かせようとするのが親というものです。
それなのに、矛盾しますが、実はこの世で一番自分の子供の強さを信じていないのは、母親だと思う。めちゃくちゃに愛していると同時に、絶対にうちの子は負けるに違いないとほとんどの母親が思っている。
そして、いざ試合が始まると、ついつい横から指示を出してしまう。自分が手を出さなければ子供が勝てないと思っているから、親は怒鳴るのです。
それが、いけない。多分本当はそれが、子供が強くなる機会を奪ってる、私はそう思う。
そうは思うから私は空手の稽古の時も、終わった後も、できるだけ余計なことを言わないように言わないようにと思ってやってきました。だけど、それでも自分の子は勝てないと思ってました。自信がなかったんです。
子供が強くなるために、親がしてあげられることは何もなく、見守ることしかないと書きましたが、もう一つだけある。それは、
子供が強いと信じることです。
これが、言葉としては簡単ですが、ほとんどの親ができない難しいことだと思う。
年下の子との試合で、負けたらどうしよう?決め手を出さずにずるずると試合が長引いて引き分けになったら、年齢が下の方が勝つのが試合のルールです。そんな感じで負けたらどうしよう?
悶々とした気持ちで試合会場にいて、息子と一緒に子供たちの試合を眺めていましたが、余計なことは言うまいと指示らしいことは何も言わずにいました。とうとう息子の試合の番になってしまった。自分の方が足が震える気がしたぐらいで。負けることに慣れてほしくないな。勝ってほしいなと思いながら、記録を残すためにスマホを構えて試合を見た。
やはり1分で決め手は出せなかった。ただ、果敢に攻めていました。だから、審判の中には息子の優勢勝ちを示した人もいましたが、総合的には引き分けとなり延長戦に入った。
すると、決めた。決まりました。ちゃんと息子が上段の蹴りを決めました。
それは大人しい我が子が前ではなくて斜めに初めて入れた蹴りだった。……入った。あの子がちゃんと入れられた。
技を決められる能力を持っていても、試合になると迷ってなかなか入れられない。そういう子がたくさんいる。最初の一本が難しい。その壁をうちの子が越えました。
息子は次の試合では年下の子に負けてしまった。負けてもいいからもう少し頑張って欲しかったなと本心では思いましたが、でも、それは欲張りというものかもしれません。周りの人と必要以上に比べない。過去のあの子と比べたら今日のあの子は立派でした。だから、まずは立ち止まってそのことを十分喜ばないと、人は続けて頑張れないですよね。
今回は泣いてはいませんでしたが、気分は悪いだろうと思い、それでも、そばにいたいなと、まるで片思いしている女の子のようにおずおずと座っていたら突然
「今の試合の相手、なんて名前だったっけ?」
「ん?」
息子は冊子で相手の選手の名前を確認すると立ち上がって行ってしまった。離れたところから見ていると、どうやら自分を負かした、年下で自分より背の低い男の子のところへ行って笑って話しかけている。
……あなたはそういう人なんですか。
これもまた、新しい息子の一面を見た気がする。親である私とも違う。自分をさっき倒した相手で、しかも、年下で、あなたより小さい人と笑って話せるなんて。プライドの高い人や負けん気の強い人には絶対無理ですね。こういうことが凶なのか吉なのか私には咄嗟にわからないのですが、ただ一つ言えることは、うちの子は確かにこういう子です。無理してやったわけじゃなく、普通に自然にこういう子なんだと思います。
その後、帰り道で話した。
「あの子、泣いてたんだって」
「誰?」
「僕が倒した子」
「ああ……」
はじめと号令をかけられた、その直後の頭への斜めの蹴りの動線が綺麗でした。決して筋が悪い子ではなかった。ただ、うちの子がそれをかわし、かわしながらも後ろには下がらずどんどん前へ攻めたら、その勢いに負けて技を出せなくなった。その怖さを克服して次に行けたら、もっともっと強くなれるだろうなと思う男の子だった。
その後、しばらく黙っている。その横顔を眺める。
自分も初めての試合の時、泣いたじゃないですか。だから、気持ちがわかるのだろうなと。そして、うちの子優しい子だから、可哀想だなと思っているのだと思う。思っているのだけど、そこ、可哀想だなといっても始まらない。強くなったらいいなときっと思ってるのだと思う。
そして、そんな空手の日を終える夜に思っていたことです。負けてしまった子達に何か言ってあげられることはないかとぼんやり考えていた。それが、
上善如水、だったわけで。
負けてしまった、その自分で、そのまま固まらずに、水のように変化してください。人にはいつだって強くなれるチャンスがある。
負けてしまった自分を本当の自分だと思わずに、その自分の形を定めずに水のようにいてください。そしてまた、次の試合の時には形を変えてその姿をみんなに見せてほしい。
長くなってしまって大変恐縮です。
愛してやまない息子と、子供たちに向けて
2024.05.21
乙女著