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短編小説:ディズニーシーの帰り道に_2022.02.23
この作品は 長編:しあわせな木 の番外編です。
上条春樹
彼女からディズニーシーに行きたいと言われたのは、夏が陰りを見せ始めた季節。夏が終わるのに、なんだか思い切り遊んだ日がなかったねと。その後に言われた。ベランダでのんびり観葉植物に水をやっている静香さんの後ろ姿に向かって言った。
「じゃあ、今日行く?」
はははと笑われた。
「朝からちゃんと行かないと、ディズニーシーはダメでしょう?」
「そういうものか」
「行ったことある?」
「遠い昔に」
「どうでもいい女と?」
「……」
「どうせ、その日の全てのお金、女の人に払わせたんでしょう?」
「どうだったかな?何せ昔のことなんで」
こっちが学生であっちが社会人だった時、で、それが、どこの誰だったかいまいちよく覚えてないな。
「楽しかった?」
「いや、たいして」
静香さんは、ジョウロを持ってこっちを振り向き眉を顰めた。
「じゃあ、行きたくない?」
「いや、それは、場所の問題じゃなくて、誰と行ったかの問題」
「そう?」
「静香さんが行きたいなら、どこだって連れてくって」
「そうか」
するとまた、向こうを向いて楽しそうに水やりを始めた。その後ろ姿をぼけっと見る。明るい光の中で今日もまっすぐでさらさらな髪の後ろ姿に見惚れてた。一緒に暮らし始めて長くなってきた。やっと少しわがままらしいことを言うようになったなと思いながら。
***
「そのどうでもいい女と乗らなかったのはどれ?」
「ええっと……」
当日、混雑するパークに入ったとたんに言われる。そして、よく覚えていない記憶をまさぐってる横で静香さんは真っ直ぐ一つの建物を指差した。古い塔のような建物。
「あれは乗った?」
「多分乗ってない」
「じゃ、あれから行こう」
忙しかったし、そんなディズニーランドとかシーのマニアでもなんでもない。だからこれから乗るものがどんなものなのか知らなかった。
「これって、お化け屋敷みたいなの?」
「恐怖のタワーだよ」
「幽霊とかが出て来るの?」
「垂直にドーンと落ちるの」
「え……」
「どした?」
園内のマップ片手に1ミリも怖がってない彼女の顔を見る。
「……」
「春樹君、もしかして垂直落下はダメな人?」
「好んで乗ることはないですね」
「そうか」
「でも、あれだよね。ディズニーは子供の味方だからたいしたことないよね」
「うーん。従来のディズニーのイメージはそうなんだけど、今日はそのイメージを新たにする日かもね」
「……」
咄嗟に何も言えませんでした。
「やめとく?」
「いや、まさか。もう並んでるのに」
「そうだよね」
しばらくするとどこかから悲鳴が聞こえて来る。
「あれは……」
「悲鳴だね」
「これの……」
「そうだね」
「そうですか」
その時、ミッキーマウスの顔を思い浮かべていた。ミッキー、君を信じる。男が彼女の前で、怖くて乗れないなんて言えるわけないだろ。心の中でミッキーマウスを必死に思い浮かべている自分の横で静香さんがのほほんとした声で言ってくる。
「昔のそのどうでもいい女は、こういうの嫌いだったんだ」
「なんでそこ、そんなにこだわるわけ?」
静香さんもツボにはまるとしつこいんだよな……。
***
一日遊んで、もうそろそろ帰ろうかという頃、静香さんはお土産物屋で次から次へと買い込もうとした。
「まだ買うの?その中身はここで買わなくても外で似たような物をもっと安く手に入れられると思います」
「ここで買うから意味があるんだよ」
「静香さんが1人でそこまで頑張んなくたって、他の大勢の人たちが貢献してるから、ディズニーシーは潰れないよ」
「別にそんなこと考えて買い物してないよ」
そして、結局その大荷物は僕が持つ。
「なんか大昔のこと、思い出した」
「いつのこと?」
「覚えてない?大昔も俺にこうやって大荷物持たせたこと」
「いつの話?」
「ひどいな。覚えてないんだ」
彼女は返事をしないで楽しそうに笑う。その顔を見て幸せでした。あの、大昔の自分、報われたなと。報われる日が来るなんて思ってもみなかったけど。それからすぐ隣で彼女は恍惚とした表情をした。
「ああ、幸せだな」
「何が?」
「男の人と一緒に暮らせるのって」
「どうして?」
「何も考えないで買い物できる」
笑った。
「あのね。静香さん。俺にだって限界はあるんです。俺の限界はせめて考えて」
「ああ、じゃあ、ちょっと手伝うよ」
そう言って手を伸ばしてくる。
「いいよ」
「いいからさ」
荷物の引っ張り合いを帰り道の駅のフォームでしていると、不意に近くにいた男の人が彼女に呼びかけた。
「しいちゃん?」
呼ばれた彼女は顔を強ばらせた。
「やっぱりしいちゃんだ」
息を呑んで目を見張った後に、ふわりと笑顔が浮かんだ。
「ああ、びっくりした。誰かと思った。高坂君」
高坂君と呼ばれて、その男の人は懐かしそうな優しい目で静香さんのことを見た。
「お父さん、おしっこ」
「あ……」
お父さんと言われて横を向く。近くに眠ってしまっている小さな男の子を抱っこした女の人がいて、そして、お父さんと呼んだ女の子がいた。男性の手を横から引っ張っている。
「おしっこ」
「はいはい」
こっちを向いて、じゃあねとかなんとか言おうとしたんだと思う。そこで奥さんが声をかけた。
「お母さんと行こう」
「えー」
「いいから。ね」
奥さんが男の子を抱っこしたままで、女の子の手をひいてゆく。
「俺もトイレ行ってくる」
「え……」
静香さんの方を見ずに持っていた荷物をすぐそばのベンチに置くとその場を離れた。まっすぐ進んでちょっと離れた自動販売機の後ろまでくると、その陰からそっと覗く。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
「わっ」
急に話しかけられて飛び上がった。男の人の奥さんと女の子がいた。
「どう考えても彼女さんみたいな美人とうちのお父さんが何かあったなんてことはありませんから」
「あの、トイレは?」
「終わりました」
早いな。トイレ。さっき向かったばっかだったと思うけど?
「きっとね。学生時代の憧れの人なんですよ。久々に偶然会えて喜んでんです。ちょっとだけ、貸してあげてください」
そう言って笑う。なんというか……。
「ねぇ、お母さんジュース飲みたい」
「ええ?」
「飲みたいー」
「さっき飲んだばっかでしょ」
奥さんは男の子を抱っこしていて、そんな状態で女の子にスカート掴まれて駄々をこねられている。
「おじさんが買ってあげるよ」
「お兄さんが?」
いい子だな。お兄さんと呼んでくれたぞ。
「もう、ダメよ。みっちゃん」
鋭い声が飛ぶ。お母さんに怒られて泣きそうになった。うるうると。
「あ、あ、泣かないで」
「みっちゃん、お姉ちゃんでしょ?たっくんが寝てる間にお姉ちゃんだけジュース飲んだらずるいでしょ?」
動揺している俺の横で、お母さんはぴしりぴしりと言葉をぶつけてる。
う、わーん
結局泣いてしまった。
「みっちゃん、どうしたの?」
気づくといつの間にか、男の人がそばにいる。
「お母さんがジュースダメだって」
「今日、もうさんざん飲んだでしょ?」
みっちゃんは盛大に泣いている。男性はふっと笑うとひょいとみっちゃんを抱き上げた。
「ね、ジュースの代わりに抱っこしてあげるから、抱っこで我慢して」
そして、ぎゅうっと娘の体を抱きしめた。
「すみません。お騒がせしまして」
俺に謝った。
「あ、いえ」
「さ、帰ろう」
夫婦でそれぞれ1人ずつ子供を抱っこしながら、何度か俺たちにお辞儀をしながら去っていく。みっちゃんは去り際にはもうお父さんに抱っこされて笑ってた。
静香さんはそれを突っ立って見てました。いつまでも、まるで魂が抜けてしまった人のように。
「静香さん、帰ろう」
「あ、うん」
のろのろと荷物を持ち上げた。ちょうどホームに電車が入ってくる。一人分だけ席が空いたので、静香さんを座らせて僕は荷物と共にそばに立っていた。随分たってから彼女は言った。
「あ、ごめん。持つ」
「ありがと」
僕の腕から荷物を取った。
「全部はいいよ」
「重いでしょ?」
「一番重いのだけ持って」
そのうち彼女の横の席が空いたので、自分も並んで座った。
「何も、聞かないの?」
ずっと黙りがちだった彼女が不意に口を開く。
「もしかして……」
「うん」
「婚約…してた人?」
「うん」
ズーン
彼女の横で頭抱えた。
「どうした、どうした?」
「普通……」
「うん」
「よっぽどのことがなければさ」
「うん」
「彼女の元彼には会わないと思うんだよ」
「うん」
「なんで、俺は2人とも会うわけ?」
「ごめん」
「いや、別に……静香さんが悪いわけじゃ」
言いながらさっきの男の人の様子を思い浮かべる。普通そうな人だった。普通のお父さん。どこにでもいそうな。
「びっくりした……」
「ショックだった?」
「いや、全然噂とか聞いてなかったから……。結婚してるくらいじゃびっくりしないけど、まさかもう2人も子供がいるなんて」
そう言っている横顔を見る。いつもの彼女に見えました。
「いいお父さんだったね」
「いや、いいお父さんにはなるだろうなって思ってた。あったかい家で育った人だから」
静香さんは遠い目をした。
「やっぱりわたしじゃなくてよかったなぁ」
「それ、どういう意味?」
「わたしとじゃあ、透、あんなに自然で素敵なお父さんになんかなれなかったよ」
その言葉にプチっと切れてしまいました。
「そんなわけないじゃん」
「え?」
僕の声が怒っていることに驚いて彼女がこちらを見る。
「静香さんがあの人じゃなくてよかったんだよ」
「……」
「あの人がどれほどのもんか知らないけど、俺の方が絶対もっといいお父さんなるし」
何も考えずにスラスラと、自分は妙なことを口走ってた。ふとわれに返る。
「……すみません」
「なんで謝るの?」
「いや、別に、その……」
そのまましばらく黙って電車に揺られてた。彼女が先に口を開いた。
「ごめん」
「なに?」
「確かに。透とうまくいかなくなったのは、春樹君と出会うためだったのかも」
「そうだよ」
さっきの人には悪いけど、どうせもう会わない人だし。
「ひどい別れ方だったから、どっかに罪の意識があったというか。でも、幸せになっててよかった」
「そうだよ。そうだよ」
「わたしはちょっと遅れてるな」
「……」
こんな時、咄嗟になんて言えばいいのだろう?
でも、ここ、電車の中だしな。
「あ、ほら、着いた。乗り換え」
「あ」
言いあぐねているうちに、駅に着いてしまった。静香さんが乗り換えのホームを探す。
「どっちだったけ?」
「ね、疲れたからさ。今日はもうこっからタクシーで帰ろうよ」
「ええっ?年寄りくさいなぁ」
「いいからいいから」
片手で荷物持って彼女の手を引っ張った。人の多い駅の構内をタクシー乗り場に向けて歩き出し、列に並ぶ。
「いつからこんな贅沢をするように?」
「ほんっと静香さんってお嬢様なのに、らしくないね」
「お嬢様だったことなんてないわよ」
「よくいうよ」
「なんか、春樹君のことはいまだにどっかで学生のような気がするんだよな。こんな贅沢するようになって」
「はいはい」
あんな風に別にただ普通の人だけど、だけど、大人になっていた元彼を見せられた後で、こういうこと言われると地味に落ち込むな。それからタクシーに荷物と一緒に乗り込んで行き先を告げた後、2人ともぐったりとして黙った。
さっき
さっき、幸せそうに消えていく家族の後ろ姿を呆然と見送る静香さんの姿がたまらなかったんです。それから、あの、わたしじゃなくてよかったって言葉。断片的に彼女の子供の頃の話や様子を知っていた。そういうジグソーパズルのピースたちが、今日、あの静香さんの幸せそうにさっていく一家を立ち尽くして見ている様子を見たときにピッタリと一つに合わさって、僕に一つの絵を見せた。
それは帰ってこないお父さんを待っている女の子の絵でした。
どんなに寂しかったのか、僕にその寂しさが時空とかそういうのを越えて伝わった。
たまらなかった。
静香さんは間違いなく僕にとって大切な人なんです。
その人がそんな思いをしていた。過去に戻っては何もしてあげられない。だから、僕は未来に何かをあげたいのだと思います。
やっとわかった。何度か言葉で言われてもいまいちピンとこなかった。
静香さんが欲しいのは、自分のお父さんのような世間的に偉大なお父さんでもなんでもない。
今日見たあの男の人のような、普通のどこにでもいるような、いいお父さんなんです。
あの人に会うまでは、ずっと今日幸せそうにしていたのに。僕の横で。
それなのに、まるで心をごそりと盗まれてしまったように萎んでしまった。
そんな必要はない。だって、あの人は去ってしまったかもしれないけど、あなたの横にはちゃんと僕がいるじゃないですか。
窓から流れ去る景色を見るとはなしに見ている彼女に話しかけた。
「静香さん」
「ん?」
「僕は、あなたのお父さんほどには成功しないと思います」
「いや、そんな言い切らなくても、まだ若いのに」
「でも、ここは敢えて言い切りたいの」
「はい」
「だけど、さっきの男の人以上にいいお父さんになる自信はある」
「うん」
「結婚してください」
彼女は目を丸くした。僕の横で。
「ここでいうの?」
「すみません」
「今日、謝ってばっかじゃん。春樹君」
そう言って笑い出した。
「ごめん。本当はこんな言い方したくなかったんだけど」
「そうだよ。あなたはそういう人じゃないでしょ?」
「ダメだった?」
「いや」
今日一度落ち込んだ全ての憂鬱を忘れて、彼女が笑っている。
「返事は?」
「そこは普通は考えますでしょ?」
「あ、じゃあ、ダメってことだ」
「なんでそうなるのよ。もう。あ、すみません。騒いじゃって」
静香さんはタクシーの運転手さんに謝っている。
「世間一般の答え方じゃなくて、なんか変わった答え方で答えて」
「知らないわよ。こんなとこで言い出すなんて思ってないから準備してません。あの、ほんっとすみません」
もう一度運転している運転手さんに謝る。育ちがいいんだ。静香さんって。
「ああ、いえ」
「速攻で待ってましたとか言って欲しかったな」
「何言ってんのよ。もうっ」
タクシーの後部座席で恥ずかしがって顔を赤くしながら笑ってる彼女を見ている時、本当に幸せでした。
***
そして、その日、僕は生まれて初めて避妊するのを忘れて女の人を抱いてしまった。
家に帰って玄関から上がって、リビングの電気つけようとする彼女の手を止めて。カーテンが開いてたんです。でも、僕たちのマンションは近くの周りの建物より高くて、望遠鏡とか使って狙い撃ちにでもしてみようとでもしない限り中は見えない。しかも電気つけてないし。
その時、本当に何にも考えてなかったんです。ただ、彼女とつながってそれで、お互いにお互いがしたいように動いて、そして相手を感じてた。1ミリの理性もその時だけは吹っ飛んでなかった。
「ごめん。どうしよう」
「いや、だからね。春樹君。そんなに簡単に人は妊娠しないって」
「でも、してたら?」
「そんときはそん時でしょ」
「……」
「いいお父さんになるんでしょ?」
そう言ってこっち見て明るく笑ってる静香さんのこと、背中から抱きしめた。
「指輪、買いに行こう」
「あの出世魚の?」
「うん」
「今度は何になるのかな?」
「俺、覚えてない。なんだっけ、えーっと」
「ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ」
「あ、それそれ」
「今度はメジロ?」
「いや、ハマチ」
「えー、ケチだなぁ」
腕の中で怒る彼女に笑った。
「違うよ」
「何が?」
「省略しないで、ちゃんと、最後まで贈るから」
「ほんと?」
「うん。ちゃんとずっと俺と一緒にいてくれたら、最後のブリまでちゃんと贈るから」
静香さん恥ずかしがってこっち見ない。でも、きっと微笑んでると思う。かわいい顔で。僕の大好きな彼女の髪にそっと顔を埋めた。彼女の香りがした。
「俺さ」
「うん」
「さっき変な顔してなかった?」
「え?」
驚いた顔でこっち向いた。
「してた?」
「どうしちゃったの?春樹君」
「いや、なんかあんな完璧に理性飛んだの初めてで。自分がどんな顔してたか覚えてない。こう、犬が腹ペコで涎垂らして目の前の肉眺めているような顔してなかった?」
すると、僕の彼女は僕の腕の中で大笑いし始めました。
「そんなに笑うほどのこと言ってないよね?」
「いや、でも……」
「つまりは、やっぱりそのくらい変な顔してたんだ。俺」
「違うわよ」
「違う?」
「別に綺麗な顔してた。変な顔なんかしてません」
「じゃ、なんで笑うわけ?」
「あなた、生まれて初めて自分が変な顔してなかったか心配したでしょ?」
「ん?」
「出会ってから初めてだよ。春樹君が自分の顔の心配したの」
ちょっと考える。
「そうだっけ?」
「そうだよ。普通の人は普通に時々、自分の顔の心配するけど。あなた、絶対心配したことなかった」
「そうか」
「そうだよ」
そうか……。昔から今までのことを思い返してみる。
「今日、ほんっとどうかしてる」
「ごめんなさい」
「別に謝んないでいいよ」
「なんで?」
「今日の春樹君のいつもと違うはさ、いい違うだから」
「いい違う?」
「いっつも、こうじゃなきゃ、ああじゃなきゃっていうの、疲れるでしょ?」
「うん」
「だから、わたしの前では忘れて。そのまんまの自分でいればいいよ」
「いいの?」
「うん。忘れて」
「じゃあ、今度、Hしてる時に犬が涎垂らしてるような顔していい?」
彼女は笑った。
「見たい、見たい」
「じゃあ、頑張る」*1
「だから、それが違うんだって」
「ええっ?」
馬鹿なことを言い合って2人でひとしきり笑い合いました。
了
*1 これだけでは分かりにくいだろうための補足
見たい見たいと言われたので喜ばせるためにそういう顔をしようと頑張るという意味です。もちろん冗談でそんな変な顔を春樹君がすることは一生ないと思うけどね。