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短編小説:出会い 落武者⇄食の冒険家編_2022.01.01
この短編は 長編:かみさまの手かみさまの味①と②の間に起こった出来事
とある月曜日。月曜日はひろ君の職場であるエルミタージュの定休日。暎万ちゃんは時々休みの日に仕事を入れて月曜日に代休を取ります。クタクタに疲れてて朝寝してるひろ君の横で洗濯機を回した。部屋を片付けて、掃除機をかけてるとその爆音で流石にひろ君も起きました。
「うるさい」
「ありがとうって言って」
「部屋なんか汚くても死なない」
暎万ちゃんは掃除機の電源を切りました。
「そんなに眠いの?」
「なんか今週はすごい疲れた……」
「じゃあ、先に買い物行ってくるから、寝てな」
「買い物って?」
「冷蔵庫何もないんだもん。朝ごはん」
食事を大切にしている暎万ちゃん。起きるのが遅れてブランチになったとしてもご飯は抜きません。
「わっ、何?」
「ちょっとだけ充電」
急に手が伸びてきて布団の中に引き摺り込まれる。
「ああ、もう服がしわくちゃになるよ」
暎万ちゃんはもう起きて着替えてお化粧もしてんです。でも、半分寝ぼけたひろ君抱きついて離さない。最初はちょっと怒った声を出してた暎万ちゃん、途中から笑い出した。
「もうわかったから、ね、離して」
何がわかったのかよくわからないが優しく諭してやっと抜け出した。それから出かけて、のんびり近くのコンビニで朝食を吟味しました。なぜ吟味するかというとですね、ゆっくり買い物して買い物している間ひろ君を寝かしてあげようと思ったからです。普通の人ならそれでもそこまで時間は潰せないかもしれません。しかし、そこは暎万ちゃん。買う必要のない棚まで具に点検しました。あのスナック菓子の激辛とあのスナック菓子の激辛はどっちがうまいのか、食べ比べをしなければなるまい。あそこのお菓子メーカーがチーズケーキ味のアイスを出したな。冷たくてチーズケーキ。食感はどんな具合なのだろう?お値段から行くと若干高め。ということはやはり素敵な柔らかさ。感動のふわさっと、ふわさっとくるものではないか?
決めた!
「ただいまぁ」
「おかえり」
「起きた?」
「なんとか起きました」
「寝癖ついてるよ」
「寝癖ぐらいつくよね?寝たんだから」
「顔洗って、歯磨いて、寝癖ぐらい直してきな」
しょうがないなと立ち上がるひろ君。しばらくして顔洗って、歯磨いて、寝癖はそのままに部屋に戻る。
「なに、やってんの?」
「見ての通りだけど」
その様子を見て、すっきりさっぱり目が覚めた。
「なんで朝からアイス食ってんだよ」
「えー」
ひろ君の信じられないものを見る顔を見ても、ケロッとしている暎万ちゃん。
「朝と夜中なら朝食べた方がマシでしょ?」
「いいや、お前は隙を見ては朝昼夜とアイスを食べる人間だ。せめて1日の終わりまで我慢しろ」
「新作なんだよ」
「そんなことは聞いてない」
「一口食べる?」
「ん?」
素直に食べるひろ君。なぜか?簡単で……、この人と付き合うようになってから、この人の食べる物、特に甘いものの量を自分が横から食べて減らすことは習慣になっているのです。
「なんか、不思議な食感だ」
「どうやって作ってんだろうね?こう、ふわさっと柔らかいんだよ。これ、一回溶かして固めたら無くなっちゃうんだよ」
「うん」
「科学?科学だよね?もはや」
暎万ちゃんの本領発揮です。目がキラキラしている。
「アイスもケーキも食感生命だよね」
「そうだね」
「ムースとかさ、普通に柔らかかったりしてもいいけど、ほろっというのもいいよね」
「ああ」
「ほろっだったり、もうちょっとだけ固かったり、そういうのがミックスされてても好きっ」
「おい、溶けるぞ」
「ああっ!」
なんかいつも同じボケとツッコミをしているような気がしてきました。ひろ君。
「で、あれか。アイス食って終わりか。朝飯は」
「まさか。わたしがそんなことするわけないでしょ?」
おにぎりが二個、インスタントの味噌汁が一個。
「お前にしては控えめな量だな」
「お昼に重点を置きたかったので」
「……」
この人、昔に比べて変わってきたんじゃない?顔に出さないようにしつつ驚くひろ君。なぜ、顔に出さないかというとですね。お前、前より食べる量に気をつけるようになったなと、飼い主褒める。褒められた犬は得意になり、気が緩む。やっとここまで辿り着いた。暎万に進歩したと自覚させてはならない。気が緩んでまたバカ食いするに決まってる。24時間監視できるわけないし、そんな趣味もない。
「何考えてるの?」
「いや、別に」
しかし、普通なら浮気しないか心配で彼女監視したいってのはあってもな、盗み食い監視したいからってのはどうなんだろう?
「どっち食べてもいいの?というか何味?」
一つはツナマヨでした。マヨネーズ大好きな暎万ちゃんらしい。もう一つは鶏五目でした。
「どっちがいいの?」
「どっちもいいの」
ビニールできちんと包まれたおにぎりをすかさず二つとも掻っ攫っていく暎万ちゃん。
「はい?」
「ひろ君にはこれあげる」
ぽいっと味噌汁渡された。しじみ汁。
「俺、別に二日酔いとかじゃないんだけど。一週間の労働の疲れが溜まってるだけで」
「でも、どっちも食べたいんだもん」
前言撤回。進歩したと言ってもやはりまだそこまでではない。
「じゃあ、わかった。半分こしよう」
「えー!」
暎万と話していると時々、小学生を通り越して幼稚園に戻った気がする。なんかおにぎりごときで罵詈雑言を吐いている彼女をほっときながら、二つのおにぎりをパッケージから出して丁寧にまな板に載せ包丁で切る。手なんかでちぎらないのにも訳がある。
「ほれ、選べ」
「……」
完全な二等分でなければ必ず多い方を取るのである、この人は。少しでもこの人の口に入れるカロリーを減らそうとしている身としてはきっちり二等分する。仕事柄、包丁の入れにくい物にも毎日包丁を入れてるし、きっちり正確に等分するのも、真っ直ぐ切るのも仕事なのである。おにぎりぐらいなんてことはない。
「こっち」
「……」
それでもミクロなレベルで多い方を選ぶこの人も大概である。ただ者ではない。
おにぎりとしじみ汁を、仲良く(?)きっちり二等分して外に出た二人。
手を繋いで歩いているとぐいぐいと暎万ちゃんが手を引っ張る。
「トイレットペーパーとかなんとかを買いたいんですが」
日用品を買いたいひろ君。
「トイレットペーパーは逃げない」
ぐいぐい手を引っ張られる。
「どこ行くんだよ」
「ついてからのお楽しみだよ」
駅に来た。スイカで改札を通った。ホームへと向かう暎万ちゃんに聞く。
「どこ行くんだよ」
「ついてからのお楽しみだよ」
全く同じ会話を繰り返してますが……。暎万しぶとい。口を割らない。
「お前がここまで言い渋るってのはなんかあるな?」
「ひろ君、疑り深いとモテないよ」
「別にモテなくてもいい」
彼女は一人いればいいです。
「ひろ君、疑り深いと出世しないよ」
「……」
そうきたか。
「いや、正直者はバカを見る世の中だよ?」
「荒んでるな。世の中」
眉間に皺を寄せて吐き捨てる暎万。でも、乗った電車と方向でなんとなくわかる。
「お前、横浜のケーキフェス行く気だな?」
「何が悪いか?行って悪いか?」
急にクワッとなる暎万ちゃん。
「俺に正直に言ったら反対されると思ったんだろ?」
「あ、ひろ君、寝癖がきちんと直ってない。自己主張の強い寝癖がまだ、主張してる」
「話を逸らすな」
「寝癖は直せよ」
ややギレにどうでもいいことにキレてるふりをして乗り越えようとする(何を?)暎万。
「なんでっ!休みの日までケーキ食わんといけないんだよっ」
「何を言ってる。パティシエといえばだなぁ」
「なんだ」
「休みの日も草鞋をすり減らして、ケーキを食べ歩くもんなんだよっ!それがパティシエとしての真の姿だ」
「草鞋……」
「ああ、草鞋だよ。士農工商の時代からそうだと決まってるっ!」
士農工商の時代にパティシエはいなかったと思うんです。
でも、そういう一つ一つの矛盾をついていては、暎万ちゃんと付き合ってはいけない。(時間の無駄)
「また、食べまくる気?」
「だって、特別だもん。このケーキフェスが輝かしく始まって以来、わたしは一度たりとも参戦しなかったことはない」
二人の話しているケーキフェスとは、ここ数年とある横浜の高級ホテルで秋になると催されているアフタヌーンティーと兼ねたケーキ食べ放題のことです。ここまでなら、都内の他のホテルでもあるかもしれない。このホテルのすごいところは、そこで振る舞われるケーキが、都内近郊の有名パティスリー複数店舗から集められることです。ここに足を伸ばすことで、本来ならせっせとそれぞれの店へ足を運び、並び、高いお金を出さなければ食べられない高級洋菓子が、食べ放題。コアなケーキファンには垂涎の催しです。
反面、有名パティスリーには高価格帯の新規顧客をゲットできるかもしれないチャンスなイベント。グルメランキング等で上位に入ってなければお声はかかりませんが、是非とも参加したいイベントで、利益度外視でも自信作を並べたいのです。ひろ君の働いているお店、エルミタージュも幸運なことにここ数年お声がかかって出店をしている。
「ああ、もう、俺と来るんじゃなくて、友達とかと来ればいいじゃん。そんなに食うなと言われるのわかっててさ」
すると、暎万ちゃん、急にジトッとした目をして黙った。
ひろ君、やべと思った。心臓がヒヤリとした。
「……」
「ごめん、ちょっと言い過ぎた」
いつもは賑やかな暎万ちゃん。突然漬物石のように押し黙りました。
たまにこういうことがある。ついついいつもの調子でぽんぽん話してて、怒らせてしまうことが。
「暎万?」
石は動かない。しょうがないので電車に並んで座りながら、二人で黙った。黙ったけど、隣の暎万ちゃんの手をそっと握ったひろ君。
「な、機嫌なおせ。せっかくのケーキがまずくなるぞ」
「……」
女の子って一旦怒るとしばらくテコでも動かないですよね。一生懸命話しかけても逆効果になりますよ。
「一番……」
「ん?」
そして、また、油の切れたロボットみたいにしかめ面で黙り込む暎万ちゃん。ひろ君、辛抱強く待ちます。
「楽しくて好きなことは」
「うん」
ガタンガタタンという音と、車内の他の乗客が立てる音を耳にしながら、暎万ちゃんの次の言葉に耳を澄ませる。
「……好きな人と一緒にしたい」
「……」
それだけ、前をまっすぐに見ながら口に出した。
「他の人と行くより、俺と一緒に行った方が楽しいの?」
「おいしいねと言ったらおいしいねと答えてくれる人がいるのは……」
「うん」
「わたしにとってとっても大切なことなの」
そして、そのおいしいねと答える人は誰でもいいわけじゃない。
「ごめん」
「……」
本当はそこまで嫌だったわけじゃない。もともとは美味しいものを食べて幸せそうにしている暎万ちゃんの顔を見るのはひろ君だって好きなんです。少し長くなってきて、二人でいるのが普通になってきて、それでちょっと悪ふざけをしてしまうというか……。
「な、機嫌直して」
「うん」
唇の端っこの方だけで、少しだけ暎万ちゃんが笑った。それを見てほっとしたひろ君。
***
「ま、でも、お前はそういうかもしれないけど、休みの日にまでケーキ食べ歩いて研究するパティシエなんて実際はほとんどいないと思うぞ」
会場について、さっきよりも落ち着いた暎万ちゃんにそう言うひろ君。
「熱心な人はするんじゃないの?」
「だけど、オフも必要でしょ?休みの日にケーキ見ると、仕事思い出すからなぁ」
「ふうん」
「な、エルミタージュのケーキはいつでも食べられるだろ?なんで取るの?」
真っ先にお皿に自分の店のケーキをせっせと載せる暎万ちゃんに突っ込むひろ君。
「好きなんだもん」
「でも、そんなん食べてたら、他の店の食べられないぞ」
「そんな心配はないよ。全部ちゃんと制覇するから」
「全部制覇しなければならないって法はないよ」
「食べ放題の掟だよ。ひろ君」
「食べ放題というので元を取ろうとするのは間違っている」
「でも、果敢なチャレンジを続けることによって、胃袋は鍛えられるのだからさ」
「胃袋は鍛えなくてもいいって」
あまりに熱心に討論をしていたせいで、周りをよく見ておらず、隣の人にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
慌てて謝って横を見て、固まった。
「え?」
「なんだ、お前」
「なんだはないじゃないですか」
「休みの日にまでケーキ見て、気持ち悪くないの?」
「気持ち悪いは言い過ぎでしょ」
「誰?」
横から暎万の声がする。
「え、この子って、もしかして……」
顎に手を当てて、まじまじと暎万ちゃんを見る男性。歳のころ40代。ちょっと強面のがっしりした感じの人です。
「ヒロオの例の彼女?」
「あ……」
「誰?」
暎万の顔が胡散臭いものを見る顔になってる。
「その、皿に載ってるケーキ作ってる人だよ」
「え?」
暎万ちゃんもともと大きい目を更に見張りました。
「お前、倒れたぞ」
「ああっ」
暎万ちゃんともあろう者が皿に載っていたケーキを倒した。
「パパ」
不意に男性の後ろから女の子が抱きついてきた。可愛らしい幼稚園くらいの子でした。髪をポニーテールにしてる。
「どうしたの?お知り合い?」
後ろから女の人の声がした。ひろ君慌ててちょっと姿勢を正す。
「あ、あの、片瀬大生です」
「ああ……、お店の人?」
ちょっと目を丸くした女の人を失礼にならない程度に眺めるひろ君。あれ……。
「人の奥さんジロジロ見るな」
ごつっ
殴られた……。
「いや、そんなジロジロ見てなかったですよね?」
「いや、見てた」
「やだ。あっくん」
「あっくん?」
思わず奥さんの方を反射的に見たひろ君。
「あっくんだって……」
似合わねぇ。オーナーがあっくんと呼ばれてる。
笑ってはいけないところで思わず笑ってしまったひろ君。
ごつっ
もう一回殴られた。
「オーナー、ちょっ、本気で殴るのやめてくださいよ」
「うるさい」
「パパ、だめ」
「陽菜?」
ポニーテールの女の子が止めに入る。
「いけないんだよ」
「はい」
陽菜ちゃんの言うことを聞く武藤さん。かたや、いつもは存在感の強い暎万ちゃん、お皿のケーキをパタリと倒したまま直立不動で固まっていたが、やっと我にかえった。
「武藤淳」
「はい?」
「製菓専門学校卒業後、倍率の高い某ホテルのシェフパティシエとして就職、その頃から評価は高かったがホテルの堅苦しい上下関係に馴染まず数年働いて経験を積んだ後にヨーロッパへ」
急にまるで壊れたレコードのようにつらつらと語り出した暎万ちゃんに一堂ぽかんとする。
「おい、暎万」
慌てたひろ君暎万ちゃんのきている薄手のセーターをくいくいと引っ張る。しかし、止まらない。
「武藤淳の行動的で素晴らしい点は、一つの店や一つの国にこだわらなかったことで、洋菓子の本場フランスにとどまらず、スイスのホテルやイタリアにまで足を伸ばしたことです。最終的にはフランスのパリに落ち着き、そこで修行を終えた後に東京へ戻る」
「暎万……」
「いくつかのパティスリーへの就職を考えていたが、人柄とその作り出すケーキに惚れて桜木恭介の経営するルグランに入店。桜木恭介が病気になった時には同年代のパティシエ夏目玲司とルグランの後継を争うが、その時、全国製菓コンクールで優勝を果たした夏目にルグランを譲り、自分は桜木恭介亡き後に独立し、エルミタージュを開く。優勝を果たしはしなかったが、本人も全国製菓コンクールに入賞した経歴を持つ」
ぽかんとしていた人たちのうち、奥さんが口を開く。
「辞書かなんかみたい」
「ねぇ、早くケーキ食べたい」
陽菜ちゃんの高い声がする。
「ああ、ごめんごめん」
「パパ、取って」
武藤さんは、陽菜ちゃんに手を引かれてあっちの方へ行ってしまった。
「せっかくだから、ご一緒しませんか?」
奥さんがひろ君に声をかける。
「ああ、お邪魔じゃなければ」
恐縮しつつ応じるひろ君。さっきまでレコードのようになっていた暎万ちゃんはまた不意に黙って黙々とひろ君と奥さんについて来る。
「暎万、お前、色々食べたいんだろ?ケーキ取ってきたら?」
「……」
でも、黙ってついてくる。どうしたんだろ?まぁいいかと3人で窓辺の席に一旦座りました。
「あの、失礼ですけど」
「はい」
「オーナーより随分お若いですよね?」
「ああ……、ええ。一回りくらいかしら」
「そうですよね」
いつも奥さん、奥さんと話には出てくるけどみんなに会わせたことはなかったし、写真を見せびらかしたりはしない人だから、知らなかった。
「年下で頼りないから、お店には顔出すなって言われちゃのかしらね」
不意にそんなことを言う奥さん。ひろ君慌てて否定した。
「いや、違いますよ」
「そう?」
「揶揄われるのが嫌なんだと思いますよ」
「え、あっくんが?」
「結構、恥ずかしがり屋ですよね」
「そんなことないと思いますけど」
「だって、さっきだって、本気で殴ってましたよ」
「ええ?」
おかしそうに笑い出す。その奥さんの顔を見た後でふと自分の脇を見る。忘れてた。暎万の存在を。
暎万は相変わらずぼんやりとしていた。倒れたケーキに手もつけず。
「おい、暎万、どうかしたか?」
声をかけるとパッとひろ君のことを見て……、泣き出した。
「ど、どーしたんだよ。おい」
「あらあら」
暎万ちゃんの取り扱いには慣れてきたつもりでしたが、予想外の故障だ。おい。なんかしたか?俺。
「感激したぁ」
「はい?」
「あの、武藤淳に会った。本物に」
「え?」
それから不意に目の前の奥さんの手をガシッと両手で握った暎万ちゃん。ぐいっと前のめりに奥さんに迫る。
「ずっとファンだったんです。ご主人の」
「え?」
「もう何年も陰から見てました」
「え、あの?」
さーっと顔から血の気が引いたひろ君。
「おい、暎万、やめろ。とりあえず手を離せ」
「本格的を押さえながらも、自由にアレンジを加え、常に変化する」
「ん?」
「ご主人のケーキのファンだったんですっ!何年も」
「あ……」
やっと手を離させることに成功した。ひろ君。
「ほんっとすみません。この人、ケーキには目がないというか」
「ああ」
「ケーキ以外の意味は全くないんで。おい、暎万、謝れ」
「感無量。あの落武者の武藤淳とそれに奥様にも会えた」
「しっかりしろ。普通の人にわかる言葉で喋れ」
手を離された後、ぽかんとしている奥様の前で暴走を始めた暎万ロボットを直そうとするエンジニアひろ。
「あの、彼女さんですよね?」
「あ、はい、そうです。すみません」
こんな変わった人が彼女ですみません。しかし、本当は謝る必要はないのかもしれないが。ひろ君が悪いわけではないので。
「そんなに主人のファンだったのなら、お店に行って片瀬さんを通したらいくらでも会えたでしょ?」
「いやっ、そんな」
急に眩しいカーライトを浴びせられたかのように、両手を前に出して顔を背ける暎万ちゃん。
「ご本人にお会いするなんておこがましい。わたしは草葉の陰から見守る1ファンですからっ」
おい、暎万、草葉の陰というのは死んでいるということだぞと思いながらも突っ込まないひろ君。(時間の無駄)
「あの、本当にこれは純粋にケーキに対する想いなので」
彼氏の前で別の男性の熱烈なファンだと興奮し、しかもその想いの丈を語ってる相手はその男性の奥様である。なぜ、彼氏である俺が、奥様が誤解しないようにこんな説明を加えなければならないのだろうと思いながらも、役割をこなすひろ君。
「ママー、いっぱい持ってきてあげたよー」
キラキラした目でテーブルに戻ってきた陽菜ちゃん。後ろには武藤さんがお皿を持って控えてる。
「わ、わたしも、ケーキ取ってこなきゃ」
「え、これは?」
「ひろ君にあげる。倒れちゃったし」
暎万、ぴゅっと逃げた。
ひろ君、静かに目の前に置かれた事故で倒れた一山のケーキを眺める。
それはですね、仕事で自分たちが作って納めてるケーキなんです。
もちろん、食べたことがあります。自分たちで作ってるケーキの味を見るのも仕事ですから……。
せめて、他の店のケーキを食わせろよ。暎万のやつ……。
「あれ、なんだ。どっか行っちゃった。ヒロオの彼女。話してみたかったのに」
「あなたのファンなんですってよ」
「え?」
「ケーキのファンです。ケーキの」
さっきとはちょっと違う気持ちで注釈を入れる。夫婦でこっちを見る。
「なんだ。お前、悔しいのか」
「別に悔しがってなんかいませんよ」
笑われた。
「でも、一番好きなのはお前の作ったものなんじゃないの?」
「僕のケーキなんてオーナーのケーキには敵いませんから」
「でも、頑張ってるじゃん。彼女ができてから、特に」
「……」
「なんのお話してんの?」
陽菜ちゃんが不服そうな顔で大人たちを見る。
「ね、食べていい?」
お行儀よくママに聞く陽菜ちゃん。
「どうぞ。召し上がれ」
「いただきまーす」
よく見るとその皿の上にはやっぱりエルミタージュのケーキばかりが載っている。
ひろ君はそれを見て、陽菜ちゃんに聞いた。
「陽菜ちゃん、それ、パパのケーキ?」
「うん」
「他にも色々あるけど、それがいいの?」
「うん。あのね」
「なあに?」
「一ついい事教えてあげる」
「うん」
「世界で一番美味しいケーキはパパのケーキなんだよ」
生クリームを少し口の端につけながら、可愛い笑顔で笑いました。
「世界で一番は言い過ぎだぞ。陽菜」
武藤さんが言いました。
「いいや、世界で一番だよ」
陽菜ちゃんは言い返した。すると、武藤さんは娘の頭を大きな手で撫でました。
明るい光がホテルの壁一面のガラス窓から差し込んで、午後のひと時を楽しんでいる様々な人たちに降り掛かってる。
ひろ君は武藤さんたち家族とその後ろにいるそんな様々な人たちを眺めた。
そして、向こうの方で熱心にケーキを吟味している暎万ちゃんを見つけた。
「ちょっとすみません」
折角きたのだから、ケーキを前に興奮している彼女の横で他店のケーキに対するうんちくを聞こうかと、ひろ君は席を立った。
了