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私は橋の途中にいる 続き

深圳の自宅から地下鉄で数駅の先にある美術館でミュシャ展をやっているというので、足を伸ばした。期待せずに見に行ったが意外と出展数も多く平日だったために人も少なくて楽しんで帰ってきた。

中国だけでしょうか。NOPHOTOの掲示がないし、写真を撮っても怒られないので、ルノアールばっかりを扉絵にしていたのをやめてしばらくはミュシャが続く。写真ではあるが、記事を書く際に一枚絵を選びその絵を眺めると心が癒される。無心に毎日絵を描いていた頃の自分に繋がるからである。

話は少し飛ぶが、いつものことなので許していただきたい。

人生の中で一度だけ、父親に足をあげた事がある。それは手ではなくて足だった。酔っ払っている父を立ち上がり足で蹴ってしまったのだ。

本人は忘れ、止めに入った母も覚えていないかもしれない。しかし、私の足の裏にはまだその痛みが残っている。

私は反抗期をやり損ねた人間だ。そのためにかけがえのないものを失った。絵を描く自分である。自分の人生はもともとはとてもシンプルだった。木こりが森で延々と木を切り続けるように、無心に絵を描き続けたかった。

あの頃の自分は子供だったので、それがどういうことなのかわかっていなかったのです。

人は一人一人違いますね?今だから言える。本来の私は、とても簡単な人間なんです。毎日、絵を描いて生きていくことができたら幸せでした。愚直にその道を目指すべきでした。なぜなら、ただ絵を描いているだけで、心の底から幸せになれる人間というのは、いますけど、数が少ないのです。

才能や技術というのは、何か画家の目が構造的に物理的に違うとか、手や指が違うとか、そういうことじゃないと思うのですよ。圧倒的な集中力ではないかと思う。好きで好きでたまらなくて、何時間でも何日でもそのことをし続けられるかどうかということです。私にはそれがあった。それがあったけど、そんな自分を守ることができなかった。

父を蹴りましたけど、自分を守ることができず、自分の生き方を貫くことができなかった。私の青春のリグレットです。長い時間これを引きずって生きてきた。

非常に時間は経ってしまいましたが、その時のことを今思い出して反芻しているのです。自分は一体あんなに何に混乱していたのか?今ならある程度わかる。それをただ純粋に、今、青春を生きている人たちのために文字に記しておきたいと思ったのです。私の過去の問題と似ている問題を今抱えていて、まだ間に合う人たちのために何か書きたいと思いました。

それは思うに、愛情との葛藤だったと思う。

親を愛していて、父を尊敬していましたが、父の生き方と私の生き方は違いました。生き方が違うということと、愛情を混同してしまい、葛藤の中にいたのだと思う。言い換えれば、父と違う生き方をする ということが、父を愛していない ということになると思っていたのだな。

私の父は いわゆる 商人あきんどなのです。ビジネスマンではなくて、大阪の商人といったほうがわかりやすい。戦後、小学生の頃に父親を失い、片親で育った父は、あの頃の日本は多くの人がそうだと思うのですが、貧しさの中に育ちました。そこで大人になって働くようになってからは、いわゆるハングリー精神で持ち前の商人としての勘の良さを頼りに商いをしてきた人です。

商いが心底好きな父は、仕事をしていない時も生き生きと色々な考えを巡らせては子供に話しかけていた。私は知らず知らずのうちにそういう商いとは何かということを父から学んでいたのです。

それが自分を形成することになる。父から学ぶ商いの世界、いわゆるお金の世界と自分が純粋に惹かれている芸術の世界です。それは、自分にとっては異質なものでした。しかし、自分の中に両立するようになっていった。

勉強ができたことと、我が家には男の子がいなかったことで、私は親に期待をかけられた。親は商人であり、芸術家ではありませんから、芸術についてはよくわからない。ましてや、戦後の貧しい時代を過ごしてきた人にとって、お金とは離れたところにあるものの価値はわからないでしょう。

商人である自分と、芸術家である自分、そのどちらが本当の自分なのかについてあらためて考えてみます。自分は青春の時代に、少しずつ、一つの事に我を忘れて没頭する自分を薄く削りながら大人になった。なぜなら、社会を眺めながら自分自身の持っていた考えを社会の価値観と置き換えながら毎日を生きていたからです。

今だからわかる。
自分は木こりでした。自分の本質は木こりだったんです。
木こりというのは比喩ですから言い換えますと、毎日絵を描いていられれば幸せな人でした。生活していかなければならないからお金は必要だけど、それは二の次だったんです。

でも、そんな自分を捨てて、世間並みの人間になるために自分を鍛えました。

私は、世間の価値観、これは親の価値観でもあるけれど、他人の価値観に合わせるために、自分の価値観を捨ててしまいました。これが今では間違っていたなと思っているのです。

ただ、価値観を捨ててから後も色々なことがあったし、それなりに苦労をしているからいうのですが、自らの価値観に沿って生きてゆくというのは簡単なことではありません。ありとあらゆる人が、お前は間違っているとがなりたてて来るからですね。

父を蹴っても自分は守ることができずに、大切なものを失い大人になった自分は人生を失ってしまったんでしょうか?

少し前まで自分は後悔ばかりして生きていたように思います。今はしていません。なぜかといえば、私の人生に起こったすべての良かったことも悪かったことも、意味があると思うようになったからだと思います。

こうなるべくしてこうなったのだと、自分の人生に起きたことを受け入れることができた。それぞれの人の人生に起こる出来事というのは、人によって違うと思いますが、自分の人生を受け入れるということは人間にとって大切な過程、プロセスです。

道を間違えず、まっすぐに成功の道を歩む人もいますが、うまくいかない人の方が、世の中には多いのだと思う。少し前の私のように、あそこで間違ってしまったから、自分の人生は最大の成功を迎えることなく終わるだろうと思い込んでしまっている人もいるだろう。

ただ、成功とか失敗ではないと思うのですよ。今はね。
これは私なりの考え抜いた答えなのですけど、人生の意味は結果にはない。その過程にあるのだと思っているのです。

なぜならば、人は成功したその次の瞬間には崩壊を始めるからです。成功に重きを置く人はそれを維持し続けることに無我夢中になるでしょう。そして、成功を維持することができる人もいますが、維持できない人もいる。

するとまた、人は、自分の人生は失敗だったと思いながら死ぬ事になる。そんなことに意味なんてありますか?

物事は連なっているのです。延々と続いていきます。それは歴史上のありとあらゆる文学作品の中で繰り返し語られているではないですか。

昨年の夏、家族と日光へ行った。徳川家康が割と好きな人間なので、独断で日光と決めて、何もわからない家族を引きずっていった。日光には逆さ柱というものがあるのです。これは、日光東照宮の建築を完成させないためにわざと逆さに建てられた柱です。

これにはいたく感じ入りました。

人生の中で最も良い時期というのは確かにあるかもしれない。成功の瞬間というものです。それは大切な記憶でしょう。だから、大切にしてもいい。しかし、人はきっと成功に固執してはいけないと思うのです。

物事は完成すればその次の瞬間から崩壊を始める。
これが、日光東照宮の逆さ柱の教訓です。

自分は生きている。自分は全然生きてるぞ。
少し拙い文法で、その白い柱を見ながら思う。自分は全然終わっていないぞと。心臓は動いているし、死に至るような病にもかかっていない。
指は全部揃ってるし、手足もある。

何を甘えているのだと思いました。
まだまだ一生懸命生きようと思えば生きられる、私がここに存在しているのに。

他人の価値観に左右される、他人と自分を比べてしまう、
これらを一掃して生きてゆくのは難しい。

私にとって生きるということは毎日が修行なのです。
弱い心を強くするために歩んでゆく道のようなものです。
その過程を楽しむ。

結局、私は本当は、何も失っていなかったのだと知ることになった。

本当に手に入れたいものを手に入れるためには、人は心を磨かなければなりません。それは簡単なことではありません。

毒親という言葉が最近よく使われますが、純粋に毒親と呼ばれる人のためにではなく、毒親と親を呼ぶ人のためにここに書きます。毒親と親を呼んで、親を乗り越えてゆきたい気持ちはわかる。ただ、本当に毒親と呼ばれるほどの酷い親はそう呼んでもいいと思うのですが、そこまで酷いわけではない親を毒親と呼んでも、多分あなたは何も乗り越えることはできないと思う。

毒親という言葉は決して、万人が使うことができる魔法の言葉ではないのです。
自分から逃げてはなりません。これが私が長い時間をかけて悩み抜いてきた中でかけられる唯一の言葉です。自分を救うのは自分しかいません。自分から逃げていては何も変えることはできません。ありのままの自分を受け入れることが、次へ進むために重要なことなのだと思う。

本当は今日は、自分の足裏に残る、父を蹴った痛みを思いながら、お金と芸術について考えてみたかったのですが、文章が違う方向に流れてしまいました。それもまた一興。お金と芸術についてはまた今度。また、愛してやまないミュシャについて書きたいなと。

出かける時間を忘れておりました。
それではみなさま、良い週末をお過ごしください。
汪海妹
2024.10.26

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