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漫画感想文:クズの本懐

横槍メンゴによる漫画で2012年から2017年にかけて掲載 推しの子の作画担当している方の漫画です。

推しの子を読んでいる延長で、クズの本懐も読みました。ただ、横倉メンゴさんは推しの子では作画担当で、ストーリーを組み立ててる方ではないので、クズの本懐のストーリーやその展開は押しの子とはかなり違います。

高校生の女の子と男の子が主人公で、女の子の好きな人は高校の担任でかつ幼馴染の男性、男の子の好きな人は高校の音楽教師でかつての彼の家庭教師。そして、それぞれの片思いの相手は教師同士で惹かれあっていてやがて2人の目の前で付き合いだしてしまう。

そこで、女の子と男の子はお互いを好きな人の代わりとして、相手と行為に及び、目を閉じて俺(私)をあいつだと思えば良い、という関係を結ぶのです。だから、クズ。クズとは本命に好きだと言えず拗らせたまま代わりの相手と行為に及ぶ人のことだね。そして、この2人の他に途中で登場人物が増えるのですが、女の子の親友の女の子は実は女子が好きな人で、主人公が好きなのです。それで、どうせならわたしを利用しろといって、女かける女の場面も出てくることになる。そして、男の子は幼馴染の女の子で昔っから彼を好きな女の子に中途半端に手を出すのです。つまりは、相手は自分を好きだけど、自分は気持ちのない相手との行為に至るということです。

もーぐちゃぐちゃな話なのよ。

まぁ、ただ、せっせとラストまで読み進めて一つ思ったのは、漫画や恋愛小説では好きな人がいて、その人との間に邪魔をするライバルとかがいるのだけど、最後には結ばれるというのが王道(少女漫画)で、気持ちと体は繋がっているのです。ところが、リアルな世界では、気持ちと体は繋がっていないままにいろんな人とそういうことをする人なんて石を投げればあたるくらいいます。

大学生の頃、自分はどちらかといえば身持ちの固い人間でした。そして、その頃たまたまそばにいた2人の女子が、どちらも高校生の頃から不特定多数と遊んでいる人たちで、私の身持ちの硬さに否定的だったのです。

彼氏しか知らないのなんてそんなんでいいの?世界は広いぞと。

10代から20代にかけてぐらいの頃って、こういうことで悩んでたよなと思い出す。クズの本懐を読みながら自分の高校の頃とか大学の頃を思い出してました。あの頃は、自分が真面目で硬い人間であることがコンプレックスでもあったから、もっと遊べといってくる彼女らの言葉を簡単に振り払えず、かといっておすすめに乗るわけにもいかず自分がフラフラしてたと思う。

10代って今の私にとってはこういうフラフラしている時代だったなぁ。自分と違う価値観や行動原理に従って生きる人たちが、友達になる条件として要求してくることについて、その線は越えられず、しかし、相手を完全に否定することもできずに悩んでた。

今は大人だから、こんなことで悩むことはないです。でも、10代は悩むかもな。

子供の頃って、自分の前に3枚ぐらいのドアがあって、どれを開くかで悩む時代だと思うんです。不特定多数と奔放に遊ぶのが正しいのか、身持ちはかたくいきた方が正しいのかで悩む。

その過程を過ぎた後に、つまりは自分が開くドアを決めた後に人間は開かなかったドアを脳内から消去してしまう。そして、自分が選ばなかったドアを選んで潜った人も一緒に消去してしまう。しかし、現実では自分とは価値観が違い、自分が選ばなかったドアを開いた人間は消去されていないわけなので、例えば子供の学校の保護者会とか、あるいは学校の同窓会とかで、自分とは異質な人と出会う。

表向きはみんな、相手がどんなドアをくぐった人なのかを見ながら、その場での正解の仮面をかぶるのが大人の舞踏会。決して簡単に本音は口にしません。

また、漫画の感想と言いながら本編と離れたところで文章を書いていましたので、本編に戻ろう。10代の自分の価値観が定まらずぐちゃぐちゃな中で何度も転びながら前へ進む主人公たちですが、報われない恋に囚われるのをやめて前へ進もうと足掻く、それで8巻で一旦終わる時に主人公たちは本命の代わりにしていたお互いを非常に気にかけているんですね。

始まり方が間違っていただけで、いつの間にかお互いを本命とは別の形で必要としていたかもしれない。そんな感じの心境になっている。でも、よくわからないままに離れてゆく。

このまま終わればよかったのになと思います。この漫画には9巻があって、めちゃくちゃ悩んでいたさまざまな脇役たちが人生の底を通過して幸せになっているのです。そして、2人も再会してやり直す場面が追加で描かれている。脇役の場面はいいのだけど、2人の再会、いらんかったなー。作者ご本人が消化不良で描きたかったなら、まぁ、でもいいかなと思います。描きたかったんだね。そうだねと。ただ、もし、描いたら売れるから描けという大人の事情だったのなら、あのラストはなー。

もともと8巻のラストも ちょっといきなり終わる感じで、はてな?ではあった。追加のラストは もっと はてな?になってしまった。

偉そうに文句言ってるなら、じゃあどうすればよかったのかお前言ってみろよと言われたら、そうですねぇ……

私はこの漫画の子たちとは違うドアをくぐり、進んできている人間ですから、こういう人もいるのかもしれないなと思っても、全く共感できない。だから、言えば言うほど「お前、文句言うなら読むなよ」の世界にしかならないので、よく考えてから発言しようと思う。

つまりは、「ナマコなんか食うな」とは言わずに、自分はナマコは嫌いで食べないとしてもそのナマコ自体に文句を言うのはやめて、ナマコの調理法についてのみ発言しましょう。

私としては、八巻ラストの方がいいと思うのですが、その八巻ラストもあまりに突然に終わってしまっているので、読者が

「え、終わったの?」

と置いていかれた感が半端ないのです。だから、八巻ラストで2人が別れた後にそれぞれが1人で生きながら、回想の中で心情を語る余韻のパートが何頁か追加されていたらよかったのではないかな?2人のやってたこととか、2人の心の中というのがあまりにぐちゃぐちゃなので、そのぐちゃぐちゃがある程度整理されたまとめの様子が見たかったのですよ。

ぐちゃぐちゃの太巻きのようだったよ。きちんと巻かないと太巻きは包丁入れる時に崩れるじゃないですか。作品の途中では何回巻いても太巻きとして形を保つことができないそりゃもうぐちゃぐちゃな心理なのですが、それが最後には、形は汚いけれどなんとか太巻きとして存在したな。お客様には出せないけど。

くらいにはなって欲しかったんですよ。ところがそれが、九巻で突然、男の子の方は相変わらず女を梯子して渡るようなクズになってましたが、女の子がお客様に出せる太巻きのようになってたのよ。大学生になってさ。もう別人。

いつ、どこで、どうやって巻き方覚えたんだよっ!

という感じで、なんだか右の方向に消化不良だったのが、左の方向に消化不良だぜっと、私の腸はどうなってんだかな、ウエーイ!

あんた、結局嫌いなんじゃん。そんなんなら読まなきゃいいじゃん。と突っ込まれて終わる感想文だな。サーセン。

しかしだな、クズの本懐は大事なことを私に思い出させてくれました。
しっかりした自分の価値観を持たずに、周りの別の価値観の人たちが仕掛けてくる攻撃にフラフラしていた昔の自分です。

セックスなんてスポーツのようだと思っていて、誰とでも簡単にやってきたと言われた時の衝撃が忘れられない。東京は怖いところだなと本気で思ったよね。自分の硬くて真面目なところがコンプレックスだった自分。それに、昔の自分というのは本当に自分で自分のことが嫌いで、全然違うものに変身しなきゃいけないんじゃないかって強迫観念を抱えていたんです。

結局ね、彼女たちにとっても 私の存在は 脅迫 だったのよ。だから、取り込みたかったんです。10代の頃というのは自分と異質なものを自分に同化しようとするのだと思う。そして、大人になったら、自分と異質なものを自分から切り離し、遠くにおきます。そして、同質な人たちと一緒に暮らしてゆくものだ。

今は、自分とは違うものに同化されそうになることなんてなくなりました。同化しようとすることもね。だけど、それができないのが10代から20代にかけての頃だったのかなぁ。

もう大人になった人が、10代のあのぐちゃぐちゃな心のリアルを書こうとしたら、こういうことを思い出さないと書けないのだよね。他の人がどうなのかは知らないけど、とってもつまらなかったよ。10代から20代にかけてなんてさ。

私はあの頃、何度も危ない目に遭ってるけど、危ない目なんていっても、心理的な危機でいわゆる物理的な犯罪に巻き込まれるなんてそんなことではないですよ。その時に私を守ってくれた人たちが何人かいて、なんとか落ちずに生きてきたなと思ってます。綱渡りのようなものだったよ。

正直思い出したくないですねぇ。辛かったし、今は安全なところにいるのだから、思い出したくない。大人になる時にドアをくぐるってそういうことですよ。自分の価値観を揺るぎないものにして、他人に左右されないように自分が渡ってきた橋を落とすということです。

ただ、そうやって大人になった後、私たち大人は子供に自分の価値観を強要するようになるというわけ。だから、子供は大人を敵対視して、我々の言葉は通じなくなります。

安定した自分を手に入れた代わりに失った自分がそこにあるのだと思う。それでもね、生活人としてはそれでいいのだと思う。そのまま進めばいい。だけど、もし自分が創作者、クリエイターだったら、どうなのかなと思うわけ。

クリエイターというのは、後ろの橋を落として、選んだドアを閉ざした後に、自分がドアを選んだということすら忘れて、自分以外の価値観を全否定して、自分が選んだドアからこちら側と、自分と同じ部屋に属する人たちだけが見えていればそれでいいんですかねぇ。和気あいあいとその人たちと通じる言葉で語り合えばいいのでしょうか。

それでもいいと思う。それもフィクションのあり方でしょう。ただ、そうではないフィクションもある。曰く、Aの価値観を持つ人の横にBの価値観を持つ人がいて、2人は対立するのです。

それが現実世界じゃないですか。

セックスなんてスポーツみたいなものだから、気軽に楽しめばいいのだよ

と突然言われて、和菓子ばっかり食べてないで洋菓子も駄菓子も食べちゃえというようなノリで言われて、いや、セックスと菓子は違うだろと反論すると、

あんた、つまんない人間だね

といきなり言われるようなのが、それが、現実世界ですよ。
当たり前のことを当たり前のように書いていたら、それを読んでくれる人ももちろんいるけれど、だけど、ある程度のレベルまでいってそれ以上は広がらないでしょう。そこを越えて広がっていくものには理由がある。

クズの本懐は間違いなく、とあるラインを越えてしまった先のものを描いていると思います。だから、ナマコは好きではないけれど、だけど、このナマコは食べてみてもいいと思いますよ。

まとまりのないままに
母の作った太巻きが食べたいなと思いつつ
汪海妹
2024.08.18

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