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短編小説:僕は無気力に生きている_2024.11.02

とある日に美術展へ出かけて、画家が自分の心の中にある母親を描いているのを目の当たりにした。言葉だけでこういうと意味が伝わらないが、それは、大きな蜘蛛だったのである。蜘蛛のオブジェを母と呼ぶ、画家の心情に少し思い馳せてから美術館を後にした。

幼い頃、自分は東北の寒村に住んでいた。冬、学校から帰ると、玄関は時折冷たくしっかりと閉ざされていた。

家もあり親もあるが、家に入れずすべすべとしたしかし冷たい玄関の前の土間に座る。あの石の冷たさと東北のどんよりとしたグレイの空が忘れられない。

風まで拭くとそれは容赦なく生き物から全ての温度を剥ぎ取ってゆく。頬を乾かし、カサカサにして黙々と歩き、しかし、家は硬く閉ざし、僕を受け入れない。一度や二度ではなかったのである。

親は、こんな寒風吹き荒ぶ寒村などの生まれではない。もっと賑やかで華やかな場所で生まれ育った。仕事の都合で遠く離れたこの土地へ移ってきたのだ。この時、玄関には片隅に母のブーツがおいてあった。それを奇妙に詳しく覚えている。

その黒いロングブーツを母が履いているのを一度も見たことはない。そのブーツは親の住んでいたあの賑やかで華やかな街では映えたのであろう。しかし、この雪混じりの風に晒される土地では映えない。映えないのではなく、そんなもので歩いたら滑って転ぶのだ。道が全て凍りつくところなのだから。

履かないものをそれでも捨てずに隅に置きながら人は生きてゆくものなのだなと、家に入れない僕は冷たい石に直に座りながら思う。

それは家があって親もいる僕のショートトリップだった。
家のない親のいない子供が見ている景色というのはもしかしたらこういうものなのかもしれない。

その時、あと少しで凍えてしまうかもしれないと思いながら、僕はあのブーツを思い出す。玄関の前に座っているのだから、そのブーツは玄関のガラスの引き戸を隔ててすぐそこにあったのだけど、そのブーツについて思い浮かべる。

母は、あのブーツを履いてどこかへ行ってしまいたいのではないだろうか?

寒さに晒されて感覚がおかしくなってくる中で、人が考えることなど冷静でも、客観的でも、公平でも、公正でも、ない。

人を冷やすものは、物理的な温度ではない。正確にいえば、物理的な温度なのだけど、でも、物理的な温度ではない。それは、母親がこの寒さの中に子供を放置して平気であるという事実の方である。その時間が長ければ長いだけ僕の心の芯を冷やした。

どこぞの、子供のくせに弁の立つ子供が、長ったらしい恨み言をつらつらと書いているだけで、親がたまたまうっかりと帰る時間を間違えたのだろうと考えることもできる。

……それで、いいのである。人生はそれでいいのだ。

寒さの中から現在の暖かい秋の日の午後に戻り、ぼんやりと考える。

人間は、幼少時の記憶を上書き修正しながら生きていく。あの時の自分は考えすぎだったなと、くすりと笑いながら歩き出す。そういうものだ。

ただ、一度や二度ではなかったのである。

「ごめんねー」

笑いながら明るく帰ってくる。その瞬間に呪いは完全に溶けて、自分は親などいない、家などない、そんな世界を妄想するショートトリップから帰り、現実に戻ってくる。しかし、これがうららかな日に起こったことなら、こんなにくどくどと語りはしない。東北の冬の真っ只中に何度も子供を家の外に放置することなど、普通ならしない。

普通の母親ならしない。
あの時、母は確実に、あのブーツを履いてどこか別のところへ行っていた。僕が家のない子供としてやはり別のところへ行っていたように、母もあのブーツを履いて母ではない何かになって別のところへ行っていた。

でも、それは短い時間の出来事で母も僕もその別のところから毎回帰ってきたし、少し経てば、僕は鍵を持つ。だから、そんな白昼夢を見ることも無くなった。

普通なら、このまま、終わるはずだった。
大抵の人は多分、多かれ少なかれ、似たような記憶を持っている。しかし、上書き保存してなかったことにして生きていくだろう。それが正しい。

しかし、なかったことにした記憶はそれでもそこに隠れていて、そして、自分に影響を与えてくる。大人になった今でもずっと。

僕は無気力に生きている。
あの一瞬、寒さの中に一時的に母に捨てられた記憶は、今も僕の心の奥の一部を冷やし続けている。人間を冷やすものとはそういう記憶である。

母親が蜘蛛だと言って造形をした画家の気持ちがよくわかる。彼女が造っているのは立体なので、画家といっても正しくないのだろうけど。

人間はきっと、言葉にしないような、あるいは形にしないような原体験を持っている。一部の人間だけがそれを形にする。

人は苦しみを言葉かあるいは形にして外に出すと、その苦しみを越えられる。苦しみや悪いことを形にして他人に晒すと、それは大抵非常にプライベートな事象であることが多いので、見せられた方はギョッとするのであるが、僕には確信のようなものがある。

みな、何かしら、持っているのである。
僕の母も持っていた。僕も持っている。
とても普通のことなのだ。ただ、それを他人とシェアすることは普通はない。

人間はたくさんの人と共同で生きているけれど、しかし、誰にも言わない秘密を抱えて生きているものだ。そして、記憶を上書き修正し、自分にすら嘘をつく。

人はこの意味において、非常に孤独なのである。
本当の自分の気持ちを知らないまま、多くの人は死んでゆくであろう。

でも、たった一つだけ、自分のそんな秘密を誰かと分かち合う方法がある。
それは、アートなのである。

おかあさんがどうしようもなく恋しい

画家の展示品の一つ。画家自身の言葉。自分の母親を蜘蛛として描き、それと同時にこのような言葉を叫ぶ。この気持ちがよくわかる。

この世界には二つの問いがある。

なぜ、母親をバケモノのように描くのか?
あなたの母親はバケモノではないのか?

たいていの人が バケモノではない と答えて生きてゆくであろう。
それでいいのである。それが人生だ。

ただ一つだけ僕から老婆心ながら忠告がある。

僕の母親はバケモノではないといっていい。
しかし、自分の心の中では嘘をつかないでいい。

この世界には目に見える世界と目に見えない心の世界があり、それは重なっていて、お互いに影響を与えながら続いている。時にアーティストが吐き出した 苦しみ そのものを目の当たりにして、それに便乗して、自分の苦しみとこっそりと向き合っても構わない。そして、他人の苦しみと共に自分の苦しみを外に出してしまっても構わない。

誰ともシェアできない辛い秘密は、芸術作品と自分との間でだけシェアをして、そして、外へ出してしまえばいい。誰に話す必要もない。それはあなただけの秘密なのだから。

そのためにアートというのはきっとある。

僕の母親は バケモノではないのか?
もちろん、バケモノではないですよ。

では、僕は、バケモノではないのか?

追記
自分自身は現在中国にいるために足を運ぶことはできないのですが、noteの下記記事を読ませていただき、美術館には行ってないのですが、この美術展を間接的に見たことによる感想からもう少し足が伸びまして、短い小説の形をとりました。

Naota_t様、記事にリンク貼らせていただきましたが、問題あれば修正いたしますので、コメント欄にてお知らせくださいませ。<(_ _)> 汪海妹

こちらの 小説は わかりやすくするために現実をデフォルメしておりました。つまりは 僕 = 私 ではございません。小説というのは多分、本来の自分が削られない鉛筆だとしたら、それを削って尖らした鉛筆を使って書くもので、そうすることにより意図がより伝わるのだと思うのですが、場合によっては人を傷つけてしまうこともありますので、注釈を書きました。

ハッピーエンド症候群。この世には楽しいことばかりではないと知っていても、明るいものや綺麗なものに目が向きます。下地に黒がなくては、何も映えないと知っていてもね。ワタクシも若干の過渡期にいるようです。

ルイーズ・ブルジョワ展では ヒステリーのアーチ が一番素敵だと思います。写真を見たのみの感想で失礼。背景の東京を見下ろす遮るもののない光景の前に終わることのない苦しみが描かれるのが、不思議な逆説でむしろ清々しい。次の帰国予定までに日程が合わないと思うし、息子を連れてくわけにもいかないし、本物を見ることは叶わないかな。残念です。

それでは素敵な週末をお過ごしください。
汪海妹
2024.11.02

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