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日本人は忘れてはいけないに寄せて
先日、Yahoo!ニュースを読んでいて印象に残った記事です。宮﨑駿監督がマグサイサイ賞を受賞した時に語った言葉を読みました。
戦争の時に日本人はフィリピンでたくさんの民間人を殺しました。私たちはそれを忘れてはならない
と発言されてます。
中国や韓国等に旅行をしたり留学をしたり、あるいは日本で中国人や韓国人の人と交流がある人は経験したことがあるのではないかと思いますが、時々直球で、日本人が戦争の時にしたことについてあなたはどう思ってるのかと聞かれることがあります。そして、しどろもどろと会話を続けると、中国の人や韓国の人は、日本人である私たちが、戦争の歴史について非常に無知であることに驚くのです。
日本の学校教育では加害者としての日本人の歴史をあまり教えません。それに対して韓国はどうなのか知りませんが、中国はかなり詳しく学校で教えているのです。それが反日教育だと言われているのだけど、中国が教えすぎているのかどうかということは置いておいて、やはり控えめに見ても日本人は知らなすぎると思う。自分も含めてですが。
ただ、自分は人を殺したことはないわけだし、うちの両親も姉もそうだし、母方の祖父は中国に行ったけど通信兵だったので後方支援で人は殺さなかったと聞いている。人間の自然な感情として、自分自身が起こした罪ではないのに悪かったと素直に謝ることや罪を認めるのは抵抗がある。
このモヤモヤはもう長い間言葉にできないままで長く私の中にあるものです。
簡単にごめんなさいと謝られても、それで相手が納得するとも思えないし、それに謝ることで何か日本人としての自尊心のようなものに傷がつくような気もして、持て余していたし、待て余しているのです。
ただ、一つだけ最近ぼんやりと形になり出したものがある。それは、戦争というものがどれだけ長い間、影を引くものなのかということです。一度他国に攻め入り人を殺せば、その恨みは未来永劫とは言いませんが、かなり長い時間忘れてもらう、許してもらうことのできないものになる。ずっしりと我々を沈めようと絡みついてくる船の錨のようなものです。
その重さに対して、我々はキレてはいけないのだと思う。その重さに我々は学ばなければならない。戦争とは最悪の手段です。
ウクライナの子供達が、砲火の鳴り響く下で音楽に合わせてダンスをしていた。好きなことをしている時だけが、生きる希望が湧いてくると言っていた。だから、戦火のもとで踊るのだと。その後に「皆さんは私たちのようにならないで」と言っていた。
日本人として戦争責任を問われた時、私はこれからもごめんなさいなんて謝らないだろうと思う。自分がしたことに対して謝るのは個人の責任ですが、日本人に対して謝罪を求められても私は日本人代表ではないし、それに、謝ったから相手が許すとも思えない。
ただ、宮﨑駿さんなら、世界に向けて日本人を代表して発言をしても許されるような気がしてました。
子供の頃から、次はいつジブリの映画が出るのかなと思いながら、ジブリと共に育ったような人間でそういう人は私だけではないだろう。そういう宮﨑駿さんが発言されたことに、自分としてはすごくホッとした。
私は子供の頃から海外に対する興味が強く、また、海外文化という異質なものに対して非常に受容力の高い人間です。努力してこうなったというよりは、そういう生まれなのだと思う。
弱虫のくせに心の奥には水戸黄門のような正義感があって、そのまま自分の心の赴くままに海外へ、中国へ出て、縁あって中国人と結婚しました。若い頃、未熟で青い頃には、青い正義感と狭い考えの中で、海外の人、というか中国人ですが、に反感を持つ日本人に対して、逆にこちらも反感を持つような時もありました。
その青い正義感と反感で行動して酷い目にあったことがあるのです。自分は自分としては信じている正しいことというのがあって、それと共に前進しても、それでは成果が出ないと学んだ。まぁ、私陣営の人たちが負けたという話です。
だから今は、自分が海外に対して受容力が高いのですが、そこでそうはなれない人たちが日本だけじゃなくて中国にだっているし、世界中にいるわけです。どっちが正しいかという話でもない。そういう人たちをゼロにするために戦う必要なんてないんです。だってゼロにはなりませんから。
考え方の違いや反感というのは、そこに自然にあるものですから、それがあるからと言って即酷い結果に結びつくものではありません。ただ、ある一定のラインを超えてそれが伸長すると、悲惨な事態を招いてくることはありうる。それこそ日本だってまた戦争に巻き込まれるか、戦争をするかもしれない。
日本が嫌いで日本人に対して、あなたは日本の戦争責任に対してどう考えるのかなんて相手にごめんなさいと謝ろうが謝るまいが、多分相手は自分の言葉なんかに納得はしないし、やはり許さないだろうと思います。だから、これ以上怒らせないために対応すればそれでいいのではないでしょうか。
ただ、この宮﨑駿さんの 日本人は忘れてはならない という言葉を私は私なりに解釈していますが、これは海外の人たちのために忘れてはならないというわけではなく、私たち日本人のために忘れてはならないのだと思う。
未来、再び同じことにならないためには、過去から学ぶべきだからです。戦争を回避するために必要な言動や行動は、そこからしか学べないでしょう。この言動と行動は主に国際的な言動や行動を指しているのですが。
過去、日本語を教えていた時、私の生徒はみんな日系企業で働く若い中国人の子たちで、みんなは私の授業が大好きでした。みんなが眠らないように教案のあちこちに爆笑させるようなネタを仕込んでいたからです。クラスの雰囲気はいつも良かった。
そんなある日、とある一人の生徒が授業中に突然、
「先生、なんで日本人は戦争が好きなのか」
と私に尋ねたのです。その時、彼女以外の生徒全員が困った顔をして彼女の方を見ました。日本の会社に働いていて、あの頃の中国は高度経済成長の道を歩んでいて、未来は明るかった。皆、日本の技術を尊敬していて、そして、前向きに日本語を勉強していた。私のことも慕っていました。
だから、反日の中国人というのはいるのですが、一部の人たちなんです。その空気感は、実際に彼らの中に入り込んで体験してみなければわからないことです。
ただ、そこにもう一つ長くここで暮らしたことによる考えを追記して、本日の文章は終わらせようかと思う。私は海外に対しての許容力が高く、コミュニケーション力がありますし、そもそも中国人と結婚してますから、中国人の人にとっても受け入れやすい人間です。だから私の周りには日本に好意的な中国人の人が多いと思う。
もしも、反中の気持ちでこの国を行けば、やはり周りには反日の人が寄ってくるでしょう。
私が言いたいのは、私のように親中の人間になれと言っているわけではないのです。私が見ている中国というのはやはり一部なのだろうと思っている。長く中国に住んでも私は日本人。やはり一番心配なのは日本の安全です。その日本の安全について思う時、私の主張や経験からくる知識はきっと不完全なのだろうというのが一番新しい私の考えなのです。
大切なのは、対立する人たちが話し合うことができる社会なのかということなのだと思う。AとBで対立していた場合、大抵はAが正しいわけでもなくBが正しいわけでもない。AとBが話し合った結果のお互いの妥協案であるCが正しいのだというのが、いわゆる民主主義なのではないでしょうか。
しかし、お互いの主義主張を持ちつつ相手と対話するというのは難しい技術です。
ここにも言葉があるのだなと思う。実力に行使する前にある人間の武器は、言葉である。そう思えば、日々使い続けている言葉の別の側面に思いはせる。
そんな漠然とした考えにモヤモヤとしていた時に、子供の頃から慕ってきたジブリの宮﨑駿さんのされた発言にホッとしたのです。
自分はいわば砂浜の一粒の砂、あるいは大海の一滴の滴
こんな自分が大きなことを悩んだりそれについて発言することなんて
はっきり言って無駄だと思う
ただ、以前のようには悩まなくなった
この世界は大きいように見えて、でもそれはたくさんの砂粒や水滴によって構成されていて、一人が悩むことにより何かが動くのではなく、たくさんの人間の想いによって何かが動くのでしょう。
悩んでいるのは自分だけじゃない。そう信じることができるから、私はそんなに心配はしていないのです。
信頼することができる他人の人たちがいると信じることができる。
朝ごはんを早く作れと言われまして
中途半端なままに筆を置きます。
汪海妹
2024.11.30