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短編小説:琴線_2024.09.03

私小説風の文章であり、残念ながら愉快な内容ではございませんが、私にとっては書く必要のあるものでして。最近あげている短編小説とはちょっと趣が異なりますので、よくわからないと思った方はそこでこの内容はスキップいただけたらと思います。
汪海妹



恥の多い生涯を送ってきました という冒頭で始まる太宰治の人間失格だが、あれをわたしは何回読んだのだろう?よく覚えていない。おそらく1回か、読んだとしても数回のはずで、それなのに冒頭を覚えていたことにはたと気がついた。

それはもしかしたらこれが有名な小説なので、冒頭のみがあちこちにキャッチフレーズのように出回っていて、それで冒頭のみを覚えていたのかもしれない。

あるいは、それだけではなくて……

この小説が時間を経て現代でも読まれたり取り立たされたりするのは、この冒頭にどきっとするからではないかと思うのはわたしだけだろうか。
様々な人間の心理を独白の形式で書いてきた太宰治は、人間失格ではわたしを引き摺り出して、長い遺書を書いた。これを読むと心がざわざわとする。自分一人の心の中に秘密にしている わたし を読んだ人も引き摺り出して、遺書を書きたくなるのだ。だから、どきっとするのだ。

誰にも見せていない自分を語って晒してしまいたい。これは多分、大多数の人が持つ欲望である。

では、自分は太宰にあやかって、冒頭の文章を何にしようか?

無駄の多い生涯を生きてきています。

なんとも収まりが悪いが、これでいいではないか。太宰の冒頭に比べていまいち響かないのは 生きてきました と過去形を選ばないからである。それはしょうがない。過去形にしてしまっては縁起が悪い。まだ生きたい。無駄に生きてきたなどと言うからには死ぬまでに無駄ではなかったと思いたいではないか。まだ死ねない。

琴線という言葉が浮かんで寝られなくなってしまった。とある夜である。止まらない思考を追いかけているうちにこれはもう書いてしまった方が寝られるかもと思い起き上がった。

琴線

最近、ふと考えたことがある。

どうして自分は短い時間でこんなにたくさんの文章を書いたのだろう?
そのことについて真面目に考えたのが初めてだった。ちょっと量が多すぎたように思ってる。どうしてこんなに書いたのか。

2019年に書き始め、それから堰を切ったように書き続けてきた。小説や随筆を合わせて、それは結構な量なのである。

自分は昨日まではこう思ってた。

逃げたい現実があったから、文筆の道で生きていけるのではと思い無我夢中だった。

ところが今晩、それは違うのではないかと思い当たった。それで、寝られなくなった。そして、太宰治の人間失格の冒頭が浮かんできた。

一つ、分かったことがあるのだ。最近までよく分かっていなかったこと。

わたしは多分、人より考えている量が多い。思慮深いということを言いたいのではなく、単純に考えている量が多い。日々の生活で、考えているありとあらゆることが多いのである。そんなものを人と比べたことがなかったから、知らなかった。

そして、おそらく自分は無駄に考えているのである。

人より多く考えるその部分で自分が何を考えてきたか?

悩んできた これに尽きる。

人より多く考えるその部分でわたしは悩んできた。だから、せっかくのそのエクストラを 延々と無駄に使ってきたのだ。

昔、友人に悩みを打ち明けたことがある。それがなんだったのか忘れてしまった。高校生のことだ。そして、その友人が誰だったのかも残念だが忘れてしまった。ただ友人の言った一言をよく覚えている。

「考えすぎだよ」

わたしの人生はきっとこれで終わってしまう。説明がこれで終わるくらいシンプルなものだ。余計なことを考えるから、悩んでしまう。考えなければいい。ところが、自分は考えてしまう。

わたしがどうしてあんなに大量の文章をここ数年で吐き出したのか、それは、今まで誰にも見せずに延々と考えてきた大量のことがあったからで、誰にも見せず語らず一人で延々とものを考えることは、心の健康によくないのだ。

悩むことに人生の大半を費やしてきたように思う。わたしがいつも生産性のない行為を、つまりは悩むという行為を何に向けてきたのか?

他人の心を読むことに費やしてきた。

どうして自分があんなに混乱していたのだろうとよく考える。幼少期や学生の時、どうしてあんなに何度も落ち込んできたのか。

わたしは多分、共感力が高すぎる。
それは、例えばこういうことが起きていたのだと思う。ピアノの曲を聴いていると、左手と右手で曲を奏でる。左手が自分の心が奏でる音であれば、右手が他人の心が奏でる音で、自分の頭の中では自分の心と他人の心がごっちゃ混ぜになって曲を奏でていた。

そういうことなんだと思う。

そばにいる人間がどういう気持ちでいるのか、それが相手が隠そうとしていようといまいと分かってしまう、それも自分の心と境界線がないような形で分かってしまう。だから、どれが自分の感情でどこからが相手の感情なのか、そこで混乱していた。

また、ある程度自分の状態が良い時でなければ、今度は相手の心を読み間違える。深読みする。ちょっと機嫌が悪かったというシグナルを自分の中で拡張して、とても機嫌が悪かったとしてしまう。そして、周りの人間が皆、私に怒っているような私を嫌っているような、そういう 声 が聞こえてくるのである。

もちろんこれは言い過ぎで、しかし、この道をこのまま進んでいくとまずいということは本能的に知っていて、自分の調子をうまく保てない若い頃の自分は、自分を守るためにあまり好んで人と関わらず、距離を置くようにしていた。

自分の感情だけではなく他人の感情にまで飲み込まれるから、とてもじゃないが自分の心の器では足りなかったのである。

わたしが考えることを書くようになったのは、ごちゃ混ぜになってしまった自分の感情と他人の感情の間に境界線を引くためだったのだと思う。そして、見えてしまう他人の感情の扱い方を覚えるためだった。

ここでわたしは太宰治のあの人間失格にあるような独白の わたし を引き摺り出した。

ここでわたしが言いたいのは、私小説風に自分を暴く文章というのが今度は何を連れてくるかというと、現実と創作の境界線を曖昧にするのだ。小説の中の わたし に 私 を据えてしまうと、それはもう小説の中の主人公である。

それは、 わたし であって 私 ではない。

独白形式の中の わたし は 薄い薄いコーヒーのようであった思考を煮詰めて、そして思考の淵に立つ。濃縮された思考はそれはそれで正しいのだけど、でも、それは現実から創作されたもう一つの現実であり、決して本物ではないのだ。

ここが見分けられなくなると、人はそれを長い遺書のようにして、現実と創作の境がわからなくなり、自らが創作した わたし に操られて 本物の 私 を淵に沈めてしまうのだろう。

人間は自らの思考に殺されてはならないのである。
わたしは無駄に悩んではならない。

夜に寝られなくなるほどに頭を働かせてはならない。スイッチを切ることができなくなった機械のように考え続けてはならない。書くことは考えることをやめるために大量の思考を外へ吐き出すための行為だ。

その結論でいいのだと思う。

毎日のように大量に文章を書く生活を始めて気がついたことがある。それは、人間の記憶力の侮れなさというか、その広がりである。自分の思考の中に深く入っていかなくては気付かないことがある。

自分の中に広がる、広がりの巨大さに、多分多くの人が気付かずに生きている。

人の中には本人が忘れてしまったと思っている無意識下の記憶と感情が存在しています。そのストレージの大きさをきっと多くの人が知らないまま生きて、そして、知らないまま死んでいくのだと思うのですよ。

最近、よく、そういうことを考える。

毎日、山のように言葉を吐き出していると、書かなければ辿りつかなかったような昔にまで思考が伸びる時がある。そこに、大昔に取り残してきてしまった子供の自分を発見することがある。

本当はありとあらゆる自分がいたのだということをこの時思い出す。それは形にされないまま私の中にずっといた。

形にされてこなかった大量のガラクタのようなものが、あるいは、宝物のようなものが自分の中の広大なストレージの中に存在していて、それを片っ端から 言葉という形にしてゆくことは、

他人にとってどうなのかは知らないが、自分にとっては意味のある行為だ。
だから、書いてるんです。ものすごい量の文章を。

考えるということは、本来は、何も生み出さない行為なのではないかと思うんですね。じゃあ、なんで考えるのか。これについて人はきっと向かい合わなければならない。

知るためだと思います。答えを知るために人は生きているから、答えを知るためには考えなければならない。

人はきっと何かをこの世に生み出すために生きているのではない。
でもきっと何かを生み出さなければ自分の存在は無なのだという概念に取り憑かれている。そして、お化けのようにおうおうと彷徨っているのだと思う。
でも、違う。わたしに言わせるとそれは違う。

人は知りたいことを知るために生きているのです。
世の中でそれがすでに明らかにされていたとしても、でも、自分がそれをまだ知らないのなら、それを体験するために鞄に服と細々としたものを詰めて、お金を準備して旅に出るのでしょう。

そもそも自分が生きていることに意味なんてない。
自分はただ、神様によってこの世に押し出された大勢の中の一つにすぎない。
でも、生きている意味が欲しいなら、神様からそれをもらうのを待ったりしないで、勝手に自分で自分に自分が生きている意味を与えてしまえばいい。

自分の物語を語るのは、自分にしか許されない、人間の持つ権利です。

あと何年生きられるだろう?
死ぬまでに知りたいことを指折り数えながら寝る。
こんばんはきっと夜中に起きることはないだろう。

わたしはただ今日も自分のためだけに生きてます。

自分の心が本当の意味で元気になったのは、大量にものを書き始めた2019年からだったように思う。それまでは、少し元気になってはまたどんよりとしたものがぶり返し、崖からズルズルと落ちてしまうように登った分を落ちて、しばらくそこに佇みまた登る。何度もそういうことを繰り返して、永遠に続くのではないかと思ってた。

感覚的にわかる。わたしが生まれてから今まで、たくさんの事柄に対して、考え中、になっているという事実です。

なにせ 人生を 無駄に 生きてきましたので、本来やるべきだったことをあっちこっちに放り出したまま、ただ、悩むことに時間を使ってきてたから。

自分の中にあるたくさんのものに形を与えて一つ一つ順番に外に出して仕舞えば、やっとゴタゴタとモノが置いてあったから見えなかった隠れたモノが見えてくる。

子供の頃に置いてけぼりにしてしまった、子供のわたしにごめんねと謝って、その分身と手をつないで、旅を続けよう。この子はわたしの中でずっとわたしが迎えにくるのを信じて待っていた、わたしの分身。

今度こそ、本当に行きたかった方へ

わたしに言わせると、この世の大半のものが、無害ではあるけれど無意味なものの集まりで、せっかく生きているのだから、自分にとって意味のあることをしなければ、人生は損です。自分の心に嘘をつかなければ、人はみんな素晴らしい人生を歩むことができる。きっと。

戦争が早く終わりますように。
誰もが自分の意思で自由に生きることができますように。

2024.09.03
汪海妹


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