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絵を見る心 ルノワールに寄せて
歳を取ってもいいこともある。これはどう生きるかは人によって違うので、万人の答えではないだろう。若さを愛し老いを憎む者にとっては、私が言葉を尽くして歳をとるのもある面においてはいいものだと言っても耳を貸さないだろう。
私の言葉に耳を貸さない人にとってはこの文章はゴミである。それはほっといて先へ進むと、ここで話がちょっと変わりますが、私は昔絵を描くのが大好きな人間でした。高校生の時は最初に剣道部に入り、ダイエットを成功させ(これが目的で入ったわけではなかったが)、その部活動のあまりの本格的さに(大会等でそれなりの成績を上げている部だった)尻尾を巻いてやめた後、無職、間違えた、帰宅部となった。帰宅部万歳。で、得意なことやりゃいいじゃんと美術部に入り、ついでに成り行きで最後は軽音部と兼部してた。美術部と軽音部と帰宅部(→ここ重要)の兼部だ。
何の話してたんでしたっけ?すみません。部活の話は余計でした。美術部だったし、絵が好きだったし、美術部の先生と仲が良かった。美術の授業での芸術鑑賞は真面目にやった。だから、私は比較的若い頃から絵を見て育った人間なのです。
絵を見て、その絵を理解しようとする。それを若い頃からやってました。口が達者だったので、適当なことを言ってはわかったような気になってたし、みんな詐欺師に騙されるように私に一目置いてました。しかし、その実、さっぱりわかってなかった。
この過去は重要だったと思ってる。私にはわかった気になって絵を見ていた過去があったのである。比較的小さな頃からわからないのに絵を見てきた。親や学校のおかげだ。自分が絵を描くのが好きだったせいもある。
絵というのは、はっきり言って若い頃にはよくわからないものである。わからない、わからないと思いながらも眺めてきて、とある日にその意味が見えるようになり始める。
だから、歳をとるのはやめられない。
ルノワールは喫茶店の名前でもあるが、画家の名前でもある。有名なフランスの画家だ。印象派の代表者と言ってもいい。私は若い頃、この人の絵をいいと思いませんでした。なぜいいと思わなかったというと簡単で、みんながいいというものをよくないといい、適当な言葉を続けるとみんなが感心するからです。
じゃあ、実際はどうかというと真面目に、というか、素直にルノワールを見ていませんでした。やっとその良さがこの歳になってわかった。それで、北斎を一旦休んでここのところルノワールを使って扉絵にしているのです。
私がnoteの写真で自分がたまに取った猫(→猫は私が嫌いなので大抵逃げられていてうまく映っていない)か、それでなければ美術館の絵を使っているのには訳があって、それは、彼らが時代を超えても超一流のクリエイターだからです。しかも、死んでいるので、「借りるね」という必要がない。そして、学生時代のあの頃のように様々な人の有名な絵を画面越しであるのが残念ですが、日々眺めて感じている。
絵はいい、絵はいいです。この画家は何を描きたかったんだろうと思いながら絵と自分で対峙する時、日常を離れて別の空間に行くことができる。多分、私はこう思うのだけれど、疲れている大人の方が絵を見る感度のようなものは高いのではないでしょうか。喜怒哀楽。自分の中の、喜びやあるいは突き抜けた悲しみや怒り、そういうものが芸術を必要とするのだと思う。一流の芸術品というものはそれが絵であれ音楽であれ、人の心を癒すものですから。
絵を見る心、という意味でだけ言えば、私は学生の頃は捻くれていて、歳を得るとともに玉ねぎの皮でも剥くようにただただ素直になってゆくのです。心の目は歳を取らないと開きません。
大事なのはこういうことだと思う。人は勝手に知っているつもりになっているということです。人間として色々なことを知っているつもりになっている。
でも、本当は、大半の人が 生きているとはどういうことなのか ということを知らないんです。わかった気になっているだけ。つまりは、まだ体験していないことが人生にはあるのですが、まるでもう全てを体験したかのような顔をしてそこここを歩いているのです。
人生の最高の時というのは自分の美醜が最高点である若い頃であり、体型や顔が崩れ始めたら、人生は崩壊し始めるのか?
どう生きるかは人の自由ですが、私にとってはそれは否なのです。
それは心の目はその時にようやく開くからです。私はあまり物質的なものに軸足を置いている人間ではないので、精神的なものに軸足を置く者にとっては、己の美醜の崩壊などにはあまり重きはなくて、精神の夜明けのような事に意味がある。
まだ、知らない、まだ知らないことがたくさんある。やっと目が開いたのだから、もっと色々見てみたい。
せっかく絵が好きでこの記事を開いてくれた人がいるかもしれませんから、もっと絵の話をすることに。最近ルノワールの絵を見ていて一番好きだった絵は 嬉しかったこと で使用した絵です。海辺にて 1883年
かわいい顔だなぁと、そして、私は青系統の色が大好きなのですが、ルノワールの使う水色が入った華やかさが綺麗だなと。それでやっと彼の使用する色彩の軽やかさに感じ入った。
ルノワールの描く女の人には、少女も若い女性も母親世代も色々いますが、それぞれにやはり表情や雰囲気が違う。やはり画家というのはその人間の内面を捉えようとするのですね。
最近は漫画を見ることが多くて絵を随分見ていませんでしたけど、漫画と画家の絵を比べるとやはり画家は上をいくなと思う。そりゃしょうがない。その絵にかけている時間も技量も違うからね。
今は写真があるのだから、わざわざ絵を描く意味ってなんだろう?
時々こんなことすら考えながら生きていて、その答えはまだないのだけど、ただ、やはりいい絵をいい写真も、美しさを感じる心がなければ作り出せませんから。何を美しいと感じ、どの構図で、どういう色の重なりで四角の中に収めるのか。
これがつまり切り取るということで、切り取った中でのこの表情。まるで生きているようではないですか。さすがだなと思って。
漫画を見慣れた目でこの海辺にてを見て、いや、この可愛らしさはそんじょそこらにはないよと。
一流の画家でなければ佇まいまでは描けない訳です。その佇まいを閉じ込めて仕舞えば、絵の中で女の子たちは永遠に生きる。命がこもっているのだと思う。
海辺にて の絵を眺めてから目を閉じて、この彼女が主人公の物語を想像してみました。いつか、ニューヨークへ行きましょうか。メトロポリタン美術館へ、彼女に会いに。
2024.10.04
汪海妹