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私なりに書き方の進め20:自己主張

すみません。メモをしていなくてどなたの記事だったのかわからなくなってしまったのですが、とある方の記事で「作者の主張が前に出過ぎている」というものがあり、またこれはまた他の方の記事で「作者は読者に考える自由を与えるべきだ」と書かれているものもあった。

つまりは、グイグイと前へ自分の優秀さというか独自性というかを書かねばと前のめりになるのが文章だと思うのですが、↑上の言いたいことは私もよくわかるのですが、不思議となんか立派なすごいことを書いている文章って疲れるんだよなぁ。それよりも読んでいてホッとするのは、なんていうのかなぁ、表現が難しいなぁ。例えていうなら、

あなたはどうでしょうか?わたしはこうです。

こんな感じの文章でしょうか。

文章というのは奥が深いもので、顔を合わせているわけでもないのに不思議とその人の人となりが伝わるものだと思う。

多分、会って話してて話がつまらない人というのは、きっと文章もつまらない!

だから、いい文章を書きたいなと思ったら、自分の周りの話をしててつまらない人を頭に浮かべて、あの人の話はどうしてつまらないのだろう?とコーヒーでも片手に考えてみてもいいかもしれない。

自分が興味がない話をされるとつまらないものです。
 うん。
話が長すぎてわかりにくいとつまらないものです。
 (グサッ→エアーの包丁が刺さった音)
どうしました?続けていいですか?
 うん。
人の話を聞かずに一方的に話をされると、つまらないものです。
 (グサッ、グサッ→エアーの包丁が二つ刺さった音)
大丈夫ですか?
 はい。

_(´ω`_ )_

どうして、私の分身というのはこんなに殺傷力が高いのだろう?もう、投稿やめようかな……
みなさま、つまらないものをそれなりに長い間、続けて読んでくださってありがとうございました。魔法の皆様、小説家の皆様、noteの皆様、どうぞこれからも末長くお元気で。
ありがとう( * ॑꒳ ॑*)⸝ᵗʱᵃᵑᵏᵧₒᵤ
汪海妹

……気を取り直して続けましょうか。
リアルでの日常の会話シーンでも、投稿している文章においても、身に覚えがありすぎて背筋がゾッとしましたが、もしかしたらこれが巷でよく言われる読者の身になって考えろ、とか、読者の気持ちを考えろ、というものなのかな?

たとえばですね、私と言う人間をあけっぴろげに冷蔵庫でも開けるみたいに解説しますと、自分は初期に容姿コンプレックスが重い人間で、そのコンプレックスを補うために勉強頑張ったわけ。

ふぅ、すごい短い文章で、自分の最大急所のようなものを公開してしまったな。

だから、自己主張にはもちろん美貌ではなく論理性を使うのですよ。

頭のいいところをチラチラ見せて人の関心を買うのは決して悪い方法ではありません。ただ、やりすぎると嫌味になるというのはリアルでの会話でも、文章でもきっと同じなのだと思います。

そして、自分の自己主張の後ろにはコンプレックスがくっついています。私はね、論理性や面白さみたいなものを盾にして、ブスで自信のない自分を隠そうとしているわけ。いつ人に盾の後ろに隠しているものが覗かれやしないかとビクビクしてるわけ。

自分を守ろうと力が入ると、人間は自己主張をしすぎます。そしてその文章が嫌味になりすぎちゃうのよね。

(ちなみに脱線しますが念のため言っておきますと、私は別に変な顔をしておりません。ただ思春期の時は、コンプレックスってそういうものなんでしょうけど、自分の顔が大嫌いでした)

子供の頃から今までを思い浮かべてみてください。
それぞれの人に、友達になれそうだなと思う人たちと、近寄りがたい人たちが思い浮かんでくると思うのです。
文章を投稿するというのは、ネット上で繋がっている不特定多数の人に向かってやるわけなので、そこには自分が苦手とする近寄りがたい人たちも含んでいるのですね。だから、怖いんですよね。

その怖さが書くものにも現れてくると思います。人間って不思議ですよね。

じゃあ、どうすればいいですか?というと、
実はいい文章を書くためには、書くだけじゃなくて、自分の毎日を前向きに生きることが大事なんじゃないかなと思ってます。

特に、出会える様々な人と話すことというのが大事なんじゃないかなぁ。
つまり私が言いたいのは、自分が得意だと思っている人と話すのもいいけど、近寄りがたいと思っている人とも話して、そして、自分が思い込んでしまった『
きっと私は嫌われるに違いない』という檻のようなものを壊すことが大事なのだと思うわけ。

そこにしか双方向はないんですよ。
人により読んでもらえるものというのは、一方向ではなくて、双方向なものなのだろうと思う。だから、ネットの発達してどんどん、どんどん、現代人はリアルのコミュニケーションを苦手とし、遠ざかってはいますが、それだけに自分ではない他人というものがわからなくなってきちゃっているんだと思う。

人と話すのが苦手だけど
苦手なだけに
勇気を出してそれをやって
自分が失敗すると思っていたそれが
成功した時
人は必ず成長しているし、美しいのです。

とはいえ、実生活での人との付き合いを大切にしつつ、文章を書こうとした時に、これはやっぱり一方的にあげるものだから一体なにをすれば『相手の主張を聞こうとする 』文章が書けるのか、これは本当に難しいよね。

日々反省です。

自分はどういう経歴で、年齢で、性別で、だから、読んでいる相手にどう思われるのか?
私もよく人に誤解される人です。
人生の初期では、美貌に自信がなかったので勉強をとにかく頑張り、田舎の優等生でした。東京大学に行くほどのレベルじゃないですよ。念のため言っておきますが。
だから、私もある意味ではみんなから見て近寄りがたい人だったわけです。
これが嫌だった自分は、お固くない自分というのを一面性としてもち、笑いをとりながら生きてきて今に至るわけ。

思春期の時には自分の悩みに一杯一杯で、周りが見えていなかった。
自分にとって近寄りがたい人は、大人になってから勇気を出して近寄ってみたら、相手にとっても私は近寄りがたい人だったのだと知ることになる。
自分から見たら「この人コンプレックスなんかないんだろうな」と思うような人も、私とは種類が違うけれど、コンプレックスがあって、

人と話すのが怖いんだ

ということに気がついた、気がつけたことが、私の人生での宝だったわけです。

そして、また脱線しましたが、どうすれば相手の話を聞いているような文章が書けるのか?

うーん

最初は、一方的に書いてもいいんじゃないかなぁ。
自分の聞いて欲しいことを一方的に書く。
すると自分自身に人間としての美しい部分があり、それに目をとめてくれる読者がいたら、それを受け止めてくれるのですよ。
きっとそういうふうに始まるのだと思う。
その後、人は少しずつ成長しますから、自分の思いだけを抱きしめるのではなくて、他人の心もまた抱きしめつつ前に進むのだと思います。

するときっと選ぶ言葉が変わってくる。
むしろ、言葉が減るのだと思います。

AでBだからCなんだ

と主張しようと思っていた時に

でも、こんなふうに書いたら あの人はどう思うだろう?
強く書きすぎたら、怒るかもしれない。あるいは傷つけるかもしれない。
そもそも、自分のこの主張はそこまで正しいのだろうか?

正しいかもしれない、でも、正しくないかもしれない。
自分もわからない。わからないけど、だけど、
伝わってほしい。
伝わるためには、どう書けばいいのだろう?

きっとこんなふうに人は考え始めるのだと思う。
というか、これは文章を書く話ではないのです。
成長してゆく過程で、人はいっぱい転びながら、こういうコミュニケーションの方法を獲得してゆくものなのだと思う。

それが、他者とわかりあうという道ではないですか。

若者は一方的でいいのです。
運が良ければそれを受け止めてくれるみんながいる。
その受容があるからこそ、次があるのです。
決して、発信している側だけで成り立つ行為ではないのです。

今日は最後はかなり真面目に終わりました。
それではみなさま素敵な週末をお過ごしください。
汪海妹
2024.08.24



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