文体練習

 おれはその日用事があってわざわざ、混んでいるだけでなんの取り柄もない、昼のS系統のバスなんぞというものに乗っていた。
 碌でもないバスゆえに、何もかもが気に入らない。そう思いながら蒸したバスの中でイライラしながら揺られていると、次の停車場、九段下近くのバス停よりなかなか奇妙に思える格好をした男が乗ってきた。
 男はまだ26、7ほどに見え、顔は、よく見なくても凡庸な事務職のように見えるのだが、彼の被っているソフト帽子は、まるでティッシュペーパーをねじったような珍妙な紐がリボンの代わりに巻かれていたのだった。
 おれは後部座席に近いところで立っていたので、あまりの狭さに持ってきた本も開けず、他に何もすることがなかった、ので見飽きた神保町の街並みの代わりにその妙な帽子を被った男を眺めていた。
 その男はなかなか見ていて飽きなかった。奇妙な帽子をかぶっているだけではない。男は乗車口付近に陣取っていたせいか、客が乗り降りするたびに、隣に立っていた別の乗客に押されていた。
 なんとも情けのない姿であったが彼もそんな状況に腹を立てていたのだろう。男が前の乗客に押されることが4、5回続いたところで彼は何か決心したのだろう。その目の前にいる、彼を押してくる乗客に対して今にも怒鳴ってやろうといった表情になっていた。
 しかし、いざ実行に移すところで怖気ついたのだろうか。表情はいつの間にかシュルシュルと勢いをなくして頼りないものになってゆき、ついにメソメソとしたか細い口調で「あのう、もう少し、、」と言っただけに終わった。男の前の乗客は「ああ、すみません」と短く言った。
 オフィスビル前にバスが停車するとぞろぞろ乗客が降りていき、バスの席にも空きがぽつぽつできた。男は、その気を見逃さず、バスの狭い席にねじ込むようにして急いで座った。
 おれはその次のバス停で降りた。夏ではあったが外の風は涼しかった。

 用事はあっさりと終わったので少し暇になった俺はぶらぶらと駅の方へ歩いていった。そしてどこかキッチンカーでサンドイッチでもかって駅前の広場にあるベンチで優雅に昼食を取ろうと思いついた。
 キッチンカーはあったがサンドイッチはなかったので代わりにハンバーガー片手に広場へやってきた。俺は上機嫌とまではいかなかったものの悪い気分ではなかった。
 ちょうど昼時も少しすぎたので人も煩わしいとは思わないほどまばらだった。日陰になっているベンチには誰も座っていない。おれはそこに座ってハンバーガーを食べつつ、改めて広場を見回した。
 すると広場の噴水の前に見覚えのある、先ほどバスで珍妙な帽子を被った男が、連れと思しき男と会話していたのが見えた。連れの方は、営業職らしい格好をしていた。少なくとも変な飾りの帽子はかぶっていなかった。
 二人がいるところと、俺の座っているところと距離がさほど離れていないので、はっきりとは聞き取れないものの、とぎれとぎれで会話が聞こえてくる。どうやら連れのほうが、男に向かって何やら身だしなみのことを言っているようだった。俺は二人の会話に耳を集中させた。
 「君のコート、ボタンをもう一つつけた方が良さそうだね」と連れの方の男が、例の妙ちきりんな帽子を被った男の胸のあたりに指を差して言っていた。コートには第二ボタンがあったと思しきほつれた糸がぴょんと突き出ていた。


後記:
 昔はただ何かを読んでいるだけでよかったはずだった。だけれど最近厄介なことに、しっかりと何かを伝わるものを描きたいと思ってしまった。
 何かないかとクーロン城のように積み上がった本を漁っていると学生時代に買った『文体練習』が見つかった。
 一つのシーンに対して100個ほどの文体で表現するというコンセプトだがそもそもが有名すぎるのでこれ以上は語らない。
 ともかく文体練習にも文章練習にもまさに打って付けなので早速これを元に書いてみたのだった。

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