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東浩紀@hazuma「東浩紀巻頭言集Ⅰ、Ⅱ」


1.本書は東浩紀の闘いの記録である

東浩紀氏については既にゲンロン友の会パワーディナーでお会いしたことや、観光客の哲学に関する薄い感想を本noteにも記している。

東氏は、1971年生まれ。筑駒→東大というエリートコースに進み、25歳で出版したデリダ批評「存在論的郵便的」が大ヒット。早期に論壇に躍り出て、早稲田大やglocom(国際大学 グローバル・コミュニケーションセンター)に所属していた一方で、テレビや雑誌にも出まくっていたが、2010年に会社を設立し、その後、出版社+イベント企画会社+放送事業会社を運営している。いまだにツイッターや各種雑誌を始めとして影響力は大きい。

しかし、彼自身の目線でその人生が順調であったわけではない。挫折あり、危機あり、苦悩ありであった。その経緯はゲンロン戦記でも読むことができるが、その間の彼の内面を記した葛藤の記録としては本書がより適切である。
かれはいつも何かと戦っていきた。恐らくこれからも色々と戦っていくだろう。そのすべてについていく必要もなければ賛同する必要もないが、いつしか信用性を失い消滅してしまった論壇の復活、ひいては人文知の復活という大きな目標の為に必死に生き残ってきたことを裏付ける資料としては良いのではないか。希望に満ちた文章、絶望しながら書いている文章、問題の多かった2018年(彼が経営するゲンロン社においていろいろあったらしい)くらいは文章がちょっと壊れている感がある(少なくともそれまでのスッと入る読みやすさはなくなっている。これは精神に失調をきたした人間によくあることである。私も仕事が詰まると文章が下手になる。今も下手だろう?)。

これらも含めて、本書では時系列的に東浩紀の戦いの記録を見ることができる。私は東氏に対して、頭がいいけれども不器用で、そして容易く人を信じてしまう純粋な人なのだろうなと思うが、彼が哲学や人文で生きてきたことが現代においていかに困難であるかということが、これを読むだけでよくわかる。
と同時に、ゲンロン社の社長を引き継いだ上田洋子氏がいかに大きな決断をしたのかということもよくわかる。(本書2冊が終わってから、ゲンロン社の代表は東氏から上田氏に代わり、東氏の巻頭言もなくなる。)ゲンロン社の体制はこの数年でかなり強靭になり、一つの道を示しているなと思うが、そこに至るまでの絶望の記録でもある。

2.節々の言葉

本書には、東氏の言葉のセンスが光る文章が散見される。
「本当の希望は、絶望を潜り抜けたあとにしか存在しない」
東浩紀. 東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇 (p.8). 株式会社ゲンロン. Kindle 版. 

「同じ消費行動、いわばショッピングという共通言語が、ほかのあらゆる差異を塗りつぶして彼らをたがいに深く結びつけている。」
東浩紀. 東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇 (p.12). 株式会社ゲンロン. Kindle 版. 

「願わくば、もういちど「考えること」が力を取り戻さんことを。そして新しい連帯がこの国を救わんことを。」
東浩紀. 東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇 (p.34). 株式会社ゲンロン. Kindle 版. 

「ぼくたちは、 新しい星座を必要としているのだ。」
東浩紀. 東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇 (p.44). 株式会社ゲンロン. Kindle 版.

余りに多く引用することは著作権の関係から憚られるが、とにかく文章が良い。

ゲンロンや思想地図βは東氏の文章を読むだけでも購入の価値があるが、本書は彼の文章を触れるのによい機会になるだろう。

3.「共同体」への志向

巻頭言を追うと、東氏が「ばらばらになってしまった共同体を再構築するにはどうしたらいいのか」ということを考え続けていたことが読み取れる。tiktokを見る若者、youtubeにこそ真実があると信じる者、オールドメディアの可能性をまだ信じる者。今の日本は「共通体験」が減った。本書でも書かれているが、皆が同じ体験をしていることがあまりに減少しているのだ。

折しも年の瀬であるが、新年をどこで迎えるのかも人によってかなり違うだろう。年越しライブに行く者、寺社仏閣で年を越す者、家で紅白を見る者、ヘッドマウントディスプレイを被って仮想空間で過ごす者。そしてどこにも行き場がない者。

同じ日本人でも、いや、日本という比較的自由な国だからこそ、私たちには「共通項」が少ない。そして、どんどん少なくなっている。

これからもそうなるだろう。みな自分の子供は可愛く、少しでも良い環境を整備しようとする。その資力がない者は脱落していく。社会階層はどんどん固定化し、階層によって見た目も変わってくるかもしれない(現に地方都市や東京においては、その片鱗が見られる)。比較的均質化に成功していたはずの日本でさえそのようになっている。イギリスやアメリカに行けば、そもそも階層によってしゃべる言葉が違う。

資本主義が落ち着いて数十年たてば、どの国もそうなる。

東氏が育ってきた70年代80年代は、日本人が同じであることが所与の前提とされてきた時代である。所得税率も高所得者層では90%であったので、高所得者層が自らの給与を上げることにあまり意味がなかった。なによりインターネットもなく、情報は新聞ラジオテレビ雑誌から入手するべき者だった。出版に対する信頼も高かった。

現在はどうか。
何が共同体を担保するのか。

本書は、共同体を保とうとする東氏の奮闘という意味でも、読む価値のあるものだった。

なお、本書の巻頭言はそれぞれの雑誌を買えばその冒頭についているので、これらの文章が初出という訳ではない。しかし、配置というのは結構大事なもので、それぞれの雑誌を手に取ることと、kindle本で一冊にまとめられた文章を通し見するのとでは、その文章から受ける印象は大きく変わる。

ここまで違うものなのかという驚きもあって、本noteを記した。

4.共同体は担保できるか

東氏は70年代初頭の東京に生まれ、育った。
だからこそ共同体幻想が重要であると説く。

私は80年代中盤の大阪に育った。
物心がついた時にはバブルは崩壊しており、95年には阪神大震災があった。10歳になる前に友人が死ぬ経験をしている。

そして、90年代の大阪はバブル期の遺構ともいうべき建築が出来上がり、誰もそれに対して異議を述べなかった頃でもある。明らかに失敗する都市計画が批判もなく進められている状況は、まさに末期ソビエトの様だった。光化学スモッグを注意する旗が小学校で掲げられる時代。そしてまだ治安の悪い大阪という土地。どこに希望があったのだろうか。私はどちらかというと「ここから逃げ出したい」という思いで中学受験を頑張って、大学受験を頑張っていた記憶しかない。

時は下り、家族の縁で今も大阪で仕事をしている。大阪は今も経済的に敗北し続け、その反動として大阪維新の会は勢力を伸ばし続けている。現地に住むとそれもそうだろうと思う。

共同体は未来を必要とする。しかも明るい未来を。
描くことがどんどん難しくなる明るい未来を求めて、人々は見当違いの努力を続けるだろう。そして共同体はどんどん崩壊していくだろう。

私は「無計画な贈与」に一抹の期待をしているが、それは火事の建物に一杯のバケツの水を掛けるようなものでしかないことも痛感している。

共同体は担保できるか。維持できるか。今の日本や世界でナショナリズムはどのような形をとれば、人を害さずにいられるのか。

本書を読んだ後、止まらないイスラエルの狂気を見ながら、そんなことを思った。

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