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veganismについて
1.ヴィーガンという生き方
ヴィーガンviganismは菜食主義vegetarianとは違うものだ。
菜食主義vegetarianは、動物性食品の一部または全部を忌避して生きている人たちを意味するという(wiki情報)。日本人の9%が菜食主義というが、坊主の方や、年齢が高くなって肉がしんどい(正確には脂が胃にもたれる)からタンパク源は魚や大豆という人も大勢おられるだろう。私も平日の昼間は豆腐バーである。viganismでは魚は余り論じられていないように思う。食っていいのか?
江戸時代以前の日本人の多くがそうであったように、仏教的非殺生の観点から肉食を忌避した文化も存在した(ただ、当時も「ぼたん鍋」など、名称を変えて肉食自体はあったことは指摘しておきたい)。
諸々を読むとヴィーガンviganismとは「人間は動物の搾取なしで生きるべきであるとする主義」であり、「衣食他全ての目的において、実践不可能ではない限りいかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方」であるらしい。哲学なのか社会運動なのか。
さて、なんでこんなことを書いているかというと、年明けにヴィーガンについての勉強会があったからである。
マクドのハンバーガー(帰途、夜のロードサイドで夜倍マック270円を2個買って、一個ずつ下のバンズを取り払い、4枚分の肉と2枚のパンを重ねて運転しながら食う。これがうまい。)その他、各種肉を愛好している私としてはヴィーガンは相いれないものが多い。
しかし、相いれないばかりでもなかった。少し書きたくなったので以下に記す。
2.ヴィーガンの歴史
菜食主義はそれこそ仏陀やピタゴラスの時代からある。これが、一歩進んでヴィーガンとなったのは最近の事だ。ごく例外的にはジャイナ教徒(意外と商人としてご活躍の方が多い)にはヴィーガン的な方が多いという。
ヴィーガンというとき、それは健康にいいか悪いかだけを問題にするものではない。「汝、(人に限らず苦しみを感じられる命ある動物を)殺すべからず」である。不殺生は昔からある戒律だ。問題はどこまで不殺生であるべきかということにある。
社会運動としてのヴィーガンは1944年、ドナルド・ワトソンによってヴィーガン協会が設立されたことによるものが大きいという。ヴィーガン協会は、それ以前に存在した菜食主義協会からの離脱<分派>であるが、これによってヴィ-ガンが社会運動になった。菜食主義を掲げるだけならば穏健かつ他への規範強制にもならないが、ヴィーガンは倫理的に動物を食するべきではないとする主義であるから、趣を異にする。
さて、当初は社会運動であったヴィーガンがその哲学的根拠を持った時期は、1975年、ピーター・シンガーによる『動物の解放』の出版が大きいだろう。
ヴィーガンは菜食主義とは異なり、革製品や乳製品やハチミツ(なぜ乳製品と同一視されるのか不明であるが)をも避けるべきとする。また、動物実験も拒否する。
なぜか。ヴィーガンが「脱搾取」の倫理を動物にも推し進めたものであるからだ。革製品や乳製品やハチミツは動物の肉そのものではないが、それらの果実といっていい。そのようなものを利用することが動物に対する搾取に他ならないのだという。
そこからリベラルの発展と共に、ヴィーガンもその勢力を増すことになる。「意識の高い」人たちのものだったヴィーガンがいつごろにある程度の市民権を得たのかは定かではないが、2000年代ではないか。
さて、ヴィーガニズムは「人間は動物の搾取なしで生きるべきであるとする主義」であり、「衣食他全ての目的において、実践不可能ではない限り、いかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方」である。
初期のヴィーがニズムは、①動物の福祉を重視する(たとえば産業畜産においてケージの広さを確保するとか屠殺場で動物が「次は自分の番だ」とわからないようにするであるとか)か、②動物を権利の主体として認めるべきとして、人間以外の動物を「動産」として扱うことに抵抗するか、入り方はさまざまであるが、動物を動物として扱う。
近時のヴィーガニズムは、「人もまた動物であり、その差異は恣意的なものである」とする。動物も他者であり、他者との関係性において殺すことが倫理的に許されるのかを重視する。つまり、「汝、殺すなかれ」はそのままに、「人間も動物ではないか。そして、霊長と言っても、牛や羊と私たちにどれほどの違いがあるのか。したがって、人を殺してはならないように動物を殺してはならない」という事であろう。
理論は無限にメタ化するので、これ以上は踏み込まないが、理論的にも近時発展している分野であろうと思われる。
3.個人の思想と社会の規範
個人の思想は個人の自由である。思想信条の自由が保障されているのは日本ばかりではないが、日本は世界の中でもかなり思想信条の自由が幅広い国であろう。それが良いことだとも思う。
しかし、個人の思想はともすれば社会運動になり、社会運動は社会規範の形成につながる。その事の危険性を指摘しておきたい。
「私は肉を食わない」ということと、「あなたは肉を食ってはならない」ということは完全に異なる態度だ。ただ、両者を混同する者が多いことは街角でヴィーガン活動にいそしむ者たちからも容易に理解できるだろう。
前者は個人としての思想の表明であり、後者は他者への規範の強制であるが、この区別を弁えている者ばかりではない。
他者への規範の強制が一定程度市民権を得たとき、これは社会規範となる。このような社会規範を立法事実として、法が形成され、明文化された法律が制定される。したがって、「倫理的に肉を食うべきではない」ということは、現在の我々の秩序に対する挑戦である。このことはまず認識しておくべきだ。
4.ヴィーガニズムに対する若干の親和性
ここからヴィーガニズムをバキバキに攻撃しようと思ったのだが、「ヴィーガン的な」ものに対しては、私も親和性を感じるところがある。
たとえば、私は屠殺の現場を見たくない。牛や豚の屠殺はかなりくるものがあるし、鶏でギリ耐えるという感じである。
某youtubeチャンネルでは毎回、お魚を捌くところから料理するところまで見せるが、たくさん見ていると、お魚の本体を捌くのがちょっと気持ち悪いなと思うようになった。
配偶者が昨年の年末(というかクリスマス)に鶏の丸焼きを買ってくれて一緒に食べたが、鶏本体の形がそのままドーンと出てきた。ちょっとしんどさを感じた。900円だったので安さに駆られて食ったのだが。
屠殺(魚、牛、豚、鶏全部)の現場に触れたことがない人を「あいつ、魚の切り身が海を泳いでいると思っているんじゃないか?」「あいつ、工場で肉がそのままで出てきてると思っているんじゃないか?」と揶揄することがあるが、現代人は屠殺から生活を切り離すことで安心して肉や魚を食う事が出来ている。
植物は声を上げない。収穫の現場でも動かない。収穫の現場で残酷さを感じる人は少ないだろう。だからこそ、植物を食べる事には抵抗がないという感覚に近くなるのではないか。
屠殺が賤業とされた時代が長かったことも、皆が屠殺に対してケガレのような意識を持っていたからではないか。
工場畜産でも「ゲージの大きさを一定程度保て」系の議論が出てくるのは
「残虐なことをしてはならない」こと、痛みを伴う現場に(肉食によって)関与することを忌避したいという思い、があるだろう。
ここで、「殺すことと食べることはセットである、手の感触として殺すことが必要である」という考えもある。自分の食べるものは自分で始末をつけるべきだという意見だ。分業化の進んだ現在で成り立つとは思えないが、それも「自分で食べるものは自分で用意するべき」という素直な倫理観にもとづくものだろう。
各種、一個一個は単純な倫理の連続だが、もちろんそれらの根底にあるのは痛みを感じる他者への憐みや共感であろう。
理論的にどうか、というのも大事だが、理論を基礎づける「情感」があるからこそ、ヴィーガンに一定程度支持があるのだろう。理論をそのあとで整備する事ももちろん大事な作業だ。理論化するというのは、相手方から見て説得的な議論にする作業だろうから。
先鋭化したヴィーガンは忌避されることは周知だが、ヴィーガニズムが情感的には一定程度の妥当性を有しているからこそなのかもしれない。
ヴィーガンは既存の我々の価値体系に挑戦する営みでありつつ、実は私たちもヴィーガンの情感を共有しているからこそ、反発が起こるのだろう。そうでなければ皆が無視する。
つまり、相手が痛みを感じるものかはヴィーガンが忌避の対象とするかどうかにおいて重要な意味を持つ。実際に、各種の動物について「~~は苦痛を感じるのか」という研究は数多くある。競走馬はムチにそれほど痛みを感じないという見解もある。
ただ、私たちは「こいつが(生物的に)苦痛を感じている」ことを証明しないといけないのだろうか。どちらかと言えば、「そのものが苦痛を感じているように私たちが認識するか」によって対象に他者性を認識しているのではないか。
精神反応の物質の伝達が問題という訳ではあるまい。ただ、「そのものが苦痛を感じているように私たちが認識するか」だけでは「実証的でない」からこそ、苦痛に関する研究が多数存在するのだろう。
ただ、重要なことは、人間以外の動物について私達が「彼は痛みを感じると思うか」と思うかどうかであろう。痛みを感じる者に対して痛みを与えることは忌避されるべき(よくないことだ)、といえば、多くの者は賛同するのではないか。
5.人間は責任と権利の主体であり、人間以外はその主体としてはいけない。
以上、ヴィーガニズムの概論と若干の親和性を記した。
しかし、法律家のはしくれとして、述べねばならぬことがある。
ヴィーガニズムが持つ最大の欠点は、人間以外の者を権利の主体とするところではないだろうか。
権利があるということは、その相手方に対して何かしらの主張を行うことができるという事である。
権利があるということは、その権利を行使するかどうかの意思能力を有することでもある。
動物は物を書くこともしゃべることもできないし、そうなることも期待できない。チンパンジーでも人間と同じように物を判断することは期待できない。であれば、権利主体とすることには躊躇する。
また、権利主体として権利を主張するということは誰かに対して一定の義務付加することになる。例えば、畜産業において各個体のゲージの広さを確保すると、それだけ畜産農家の生産効率は下がる。畜産農家の経済をひっ迫させるのである。
近代以後の法体系は、あくまで個人(その似姿としての法人)を基礎として発展してきた。これは、人間のみを権利の主体、義務(責任)の主体としたものである。人間中心主義と言われようが、そのようにして法は発展してきた。
いまだ、人間の間でも権利が適切に保護されていない中、そしてそのような日が来ることは当分ないだろうという現在において、権利主体をいたずらに広げることには大いに反対しなければならない。権利を広げすぎると保護できない、ということは憲法の授業でもよく言われることだ。
社会資源は有限であり、我々の時間もまた有限である。そして裁判所は常に予算と人員が不足している。
人間以外に権利主体を認める前ことは法の役割ではないし、哲学も人間の世話で手一杯だろう。
ただ、動物が完全に人間と離れたものとも言えないのは確かであるから、一定程度の「配慮」を行うべきとはいえる。ただ、それは権利義務の主体として動物を認める事でもなければ、我々の義務としてあるものではない。
「残虐なことをするな」ということ一つだろう。
そして、経済動物と愛玩動物の違いもあるとおもう。そのあたりは人間が決めたものとはいえ、愛玩動物を引き受けた責任を人間が果たすべきことと、食肉の為の飼育と屠殺に関してどこまでの倫理を持つべきかは少し区別してもいい気がする。
6.罪業を引き受けること
人間は、有史以来、動物を殺しまくり、植物の品種改良をしまくり、動物実験で製薬をつづけ、人間が死なない状況を整備している。一方、動物のことは人間の都合で殺す。この不均衡が問題として認識しうる。
人間の都合で去勢し、ただ愛玩し、(ネコの場合は)家から出さないようにするような生物を家に置き、それによって精神的充足を得る事、
病気のために数十万匹といわれるラットを無理やり癌にさせて、抗がん剤を(ラットの寿命からすると一生に掛けて)投与し続け、その効果を図る事、
マクドナルドで工業的にベルトコンベアで整形された牛の轢死体を食う事、
そのすべてが行ってしまえば欺瞞的であり、罪であり、仏教用語的には罪業(ざいごう)「罪となるべき業」であろう。
いってしまえば、タバコも酒も(性欲もか?)すべてが罪業ではあるだろう。
しかし、である。罪業をすべてとりさることはできるか。そしてそうあるべきか。「罪業から逃れて綺麗に生きる」というのは一つの美しい生き方かもしれない。しかし、私は「罪業をすべて取り去った人生なんぞ楽しいか?」ということを思う。
それよりも罪業に自覚的になりながら、過度に残虐にならない姿勢があるべき姿ではないか。
「よーないことは知っている。そのうえでそれを引きうけてやる」という考えに帰着する。
7.周辺の問題
人間は動物を交配によって自らの都合よく改変し、その生活を豊かにしてきた。穀物の原種はそのほとんどの部分が食用に適さない。コシヒカリができたのも戦後である。
競走馬も、よく走る馬を掛け合わせてよい早い馬を生み出してきた。
牛も豚も同じであるし、ブロイラーに代表されるように鶏でも同じである。食肉への禁止ということであれば、これらの後輩による改良が道徳的に許されるのかも疑問である。
搾取するなということであればこれらすべてがダメであろう。
それだけではない倫理を持つべきだ。
8.どこに線を引くのか
問題は、「権利と義務の主体としてどこに線を引くのか」「私たちはどこまで配慮するべきか、配慮しなければならないか」という問題に帰着するだろうか。
権利義務の主体は人間に限定されるべきということは既に述べた。
残るは「配慮」の話である。
私自身、病人として配慮される身でもあるが、人々が無限の配慮を求める現在の状況はあまり好ましく思ってはいない。人生は有限であり、配慮も有限なのだ。多様性が主張される(最近トランプのおかげで反発しているようにも思うが)現代において、どう生きるべきか、どこまで誰に配慮するべきかというのも、順番をつけざるを得ない。そして、動物はえてして最後になるだろう。
勉強会を経て、そんなことを考えた夜だった。