無理やりオックスフォード大学の学生になった話 その8:就職、再就職そして離婚
学問にも、高等教育にも縁がなく日本で育った私がイギリスに渡り、オックスフォード大学の学生になるまでと、なってからの逸話自伝エッセイ。
経済的、精神的な苦労もなく甘やかされてワガママに生きてきた日本女性の半世記。
同年代の同僚がいる職場は楽しく、仕事もやりがいがあった。特に事務職の方達は私を技術のある人としてリスペクトしてくれていたように思う。ロバートはフリーランスのアーチストだったので、収入は不安定でかつてのような需要もなくあまり仕事をしていなかった割には、私にはいろんなアドバイスをした。就職して定収入のある私の名義で住宅ローンを組み、ヴィクトリアンテラスの家を買うことができた。暖炉や階段の手摺や出窓がヴィクトリア時代の趣を残していたとはいえ、一人暮らしの老女が長くすんでいたその家は相当修理が必要だったので安く買えたし、DIYが得意なロバート以前にも改築を自分でやってきたこともあり、自分達ので住むための大工仕事はやりがいがあるようであった。
勤めるようになった会社はオーナーの家族が元々サラブレッドのブリーダーだったこともあり、周りを農場に囲まれた、以前は馬の厩舎だったという煉瓦の建物を改造した建物だった。その中に、保湿保温の完備した版画、版板のライブラリー、ギャラリー、世界中の顧客に販売をする営業のオフィスとともに高級設備の整った製版のワークショップがあった。私が刷った版画が世界中のコレクターにファインアートとして売られていった。
ヴィンテージの銅版などを刷ってファインアートとして販売するというビジネスモデルはあまりなかったようで、元々ベンチャー的な試みで始まられた事業、初めのうちは元々いた他の事業での顧客さんたちが購入してくれて商売が成り立っていたようだが、それ以上にマーケットを広げるのに苦戦していたようであった。
クオリティーコントロールも任されていたが、仕事の質に関しての相談をできるような同僚もいなかったので、やりたい放題でもあり、どこまで質を追求するための無駄をしていいものかも判断に困窮した。
6年ほど勤めて、その仕事にも慣れすぎ、あまりの刺激のなさに多少飽きてきた頃、会社のオーナーが会社を売りに出し、人員整理を始めた。残ろうと思えば最後まで残れたが、ちょうどケンブリッジの博物館で版画の教育部門のスタッフの募集があった。そこでもまたそれまでの経験経歴も役立って、難関の倍率を突破して仕事についた。
転職
しばらくは一時間ほど離れた自宅から車で通っていた。上司はその域では名の通ったで学者で、学問に忠実で威厳のある方だったが、私が創造的なアイデアを出すと素直にとても喜んでくれた。仕事は楽しく毎日ウキウキして出勤した。仕事の帰りにお店に寄り道したり、同僚とお茶をしたりして帰宅がちょっとでも遅れるとロバートは怒った。私があまりにも楽しそうにしているのに嫉妬し、浮気でもしているのではないかと疑っていたようである。それで関係はギクシャクし始め、些細な口喧嘩から、彼の方から別れを切り出してきた。
その時点で結婚して8年たっていた。その間もよく些細なことで喧嘩になったが、彼からあやまってきたり、歩み寄ってくることはまずなく、全て私が経験足らずな悪者で、私が謝らなければいつまでも険悪な雰囲気が続くので、大抵は私から折れた。その間わかってもらえないというストレスから自傷的なこともした。
彼の方から別れを切り出してきたその時もいつものように私の方から折れて謝ってくると思っていたらしく、「そうね、別れよう」との合意には驚きを隠せていなかった。
イギリスでは協議離婚でも2年の別居を経て裁判所で認めてもらわないと正式に離婚できないので、すぐに別居することになった。
いつになったらオックスフォードの学生になった話になるんだと思っている方、それはこの時点から16年後のことです。
続く
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