こんな人「俳句の先生じゃない!」 特徴
※ この記事は、特に「俳句の先生」と呼ばれる様な方、俳句の指導者、
選者、俳句の評論家の方達に是非とも
ご覧いただきたいと思っております。
「初心忘るるべからず」、「実る程頭を垂れる稲穂かな」
皆さんこんばんは。みつかづです。
突然ですが、皆さんにお尋ねいたします。
「俳句の先生とはどの様な人物である」と思いますか?
・俳句を生業としている人、俳句で生計を立てている人
・俳句の書籍の著者、監修者
・句集の著者、監修者
・歳時記や季寄せの著者、監修者
・俳句の大きな句会や大会の選者、評論家
・所属の俳句団体の代表格の指導者、評論家
・所属句会での指導者、評論家
・著名、有名、知名度が極めて高い俳人
他にも様々あるとは思いますが、大体はこの様でしょうか。
ここで題名に帰ります。
私が考える、「こんな人は俳句の先生ではない!」人物の特徴を
以下に述べます。
① 三段切れ、季重なり、季違い等の技法を問答無用で拒否する
② 提示された句の良い点、良くない点と理由を具体的に指摘できていない
③ 句の考察や論評の際、論理的思考ができておらず、思考が感情的
④ 出すアドバイスが曖昧、抽象的であり、客観的な理由や根拠が無い
⑤ 作句者に考えさせず、言わせず、自分の意見を押し付けて改作する
上記のうち1つでも当てはまる人物については幾ら評価が高くても、
俳句の先生とは断じて認めません。俳句の先生とは断じて呼びません。
俳句の指導者とも断じて認めません。少なくとも私は。俳人と認識します。
その理由なんて至極単純ですよ。
教えを乞うている作句者の創作レベル、鑑賞レベルを上げられないから。
酷い場合だと、作句者の人格や人間性を否定する事になるから。
そして、指導者側にも「自己成長」という得が何も無いから。
①について。
擬人化、一物仕立て、比喩表現、中八、破調、三段切れ、句切れ無し、
季違い、季重なり、句跨り。俳句の表現技法は沢山あります。
ですが有季定型の以外に、俳句の創作ルールなんて存在していますか?
存在していませんよね。あっても「当季定型」。
①は、成功させるのが難しい技法なのであるだけで、
使ってはいけないなんてルールは存在しません。
なのに、「問答無用で拒否する」客観的な理由はありますか?
成功させられる様に指導なされば、成功事例の句を紹介すれば
それで済む事なんですよ。
江戸時代の俳人、山口素堂の有名な以下の句をご紹介します。
目には青葉山ほととぎす初鰹
この句、季語3つの季重なり且つ三段切れ。更に、上五字余りです。
ですが、後世に語り継がれる程の好評を得て、大成功していますよね。
まず、句の切れ目。/の前後で切れています。
目には青葉/山ほととぎす/初鰹
次に季語。
青葉:三夏、ほととぎす(郭公):三夏、初鰹:初夏
見た青葉→視覚情報
郭公の鳴き声→聴覚情報
初鰹の味→味覚情報
以下、ザックリな解説です。
青葉が見られる季節になって良いねえ(上五)
山から郭公の鳴き声が聞こえる季節が来て良いねえ(中七)
初鰹の美味しさを味わえる季節が来たぞ。良いねえ(下五)
三段に切れていますが、全て「良いねえ」と作者は思っています。
切れている3つを全て足し算するとどうなりますか?
上五+中七+下五=夏が来て最高! と、作者は思っていますよね。
そうでなければ、そもそもこの句は作られず、世に出ておりませんし、
好評を得たので後世に語り継がれ、現代に残っているんですよね?
という事は、成功させられるのであれば季重なりしても良く、
三段切れにしても良いんですよ。作者が感動しているから句の構成が
この様になっているのです。きっと、作者は狙っていません。
感動を素直に17音で表現したら偶然こうなった。
それだけですよ。
それを問答無用で拒否する事は、作者の感動や感性を否定しているのと
同じ事なんですよ。繰り返しますが、成功させられる様に指導すれば、
成功事例の句を紹介すればそれで済む事なんですよ。
そうしないのは俳句の先生として、俳句の指導者としてあるべき姿ですか?
見せるべき姿、態度でしょうか? 違いますよね。
自己成長する気は無いと公言してるのと同じですよ。
受講者を成長させる気は無い、共感する気は無いと公言しているのですよ。ですので、その様な人物を私は俳句の先生とは認めず、指導者とも認めず、
先生と呼びません。
その様な人物を「俳句の先生」と呼んだり評価したりしてしまうと、
その人物はますます天狗になり、思考が凝り固まります。
その様な人物を先生と呼んだり、認めたりするのは双方にとって害悪しか
無いのです。なので、受講者側から突き放す方が賢いと言えます。
①と⑤のケースは「俳句教室」に多いのではないでしょうか。
②~④について。
これは実際にあった、私のエピソードを書きます。
2024年7月度の『房州オンライン句会』に私は以下を投句しました。
ゆく夏や蜩交じる蝉時雨
この句に、滝口照影さんから以下のコメントをいただきました。
「季語を考えましょう。」
私の思いは以下。本当に呆れました。もうね。面と向かって反論したい。
「私なりに季語を考えたからこうなってるの。文句ある?
よそ様へ投句してる以上、季語を考えるなんて前提、当然でしょ。
先生なのにそんな事も分からないの?
何の受賞歴も一切無い素人にこんな事を言わせるの?
それに、私に季語の何をどの様に考えてほしくてそのコメント書いたの?
理由も書かれていないし、そんな書き方で分かる訳が無いでしょ。
「何を、どの様に、なぜ」が無い。ただ「季語を考えましょう」との
上から目線。何様なの? 「俳句の先生」だから何?
俳句の先生・指導者だろうとアマチュアだろうと、
レベルに関係無く俳人は俳人なのよ。
得られるもの(思考の材料)が私に全く無い失礼なコメントだな。
本当に腹立たしい。もどかしい。今度からは具体的に書いてほしい」
ちなみに、この句の原形は「七月や蜩交じる蝉時雨」で、
2022年7月26日(火)のエピソードをその当日に作句しました。
この時はまだ歳時記や季寄せを持っておらず、
季語は全てインターネットで調べておりました。今年になって最新の
『新版 角川季寄せ』(2024年1月24日 初版発行)を
買った後にもう1度季語を調べて、季語「ゆく夏」を知りました。
「今までしっくりこなったけど、上五の季語はこちらが断然良い。
私の夏への惜別の情を表現できていると、客観的に判断できる。
残り2つの季語は実際の景の音の情報なので、このままが最適」と
推敲の上で判断し、「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」を完成句としました。
自句自解は俳句の世界では嫌われますが、解説の為にいたします。
まずは型。
テレビ番組『プレバト!』の俳句コーナーで有名な夏井いつき先生の
お言葉を引用いたしますと、これは「基本形」と呼ばれる型です。
具体的には上五に季語を置いて「や」で詠嘆し、中七下五で1フレーズ。
そして名詞止めになっています。
「後ろ側から作り、取り合わせる頭の季語を最後に考える」という
極めて基本的な作句方法です。
次に季語。
ゆく夏(晩夏)、蜩(初秋)、蝉時雨(晩夏)
晩夏同士の季重なり、且つ晩夏と初秋の季違いです。
そして句意の景。
夕方に、夏の蝉達のとても大きな蝉時雨がしていて、そこに小数の
蜩の鳴き声が交じっておりました。家のすぐ近く。裏は山です。
「えっ? まだ7月なのにもう蜩が鳴いてるの?
聞こえている蝉時雨は夏の蝉達なのに」と思って家に帰って
掛け時計の日付を見ると、「7月26日(火)」の表示。
「ああ。もうすぐ夏は終わってしまうのか。残念だな……。
どおりで蝉時雨に蜩の鳴き声が交じっていた訳だ」との思いが
句になっているのです。実に素直でしょ?
「俳句は実体験を素直な気持ちでありのまま描写するのが最良」
これが私の信条です。皆さんもその様な気持ち、ありませんか?
最後に、句の構造と3つの季語について。
中七の季語「蜩」、下五の季語「蝉時雨」は
蝉の鳴き声という共通点があり、違うのは季節感。
感動が無くはないのですが、この2つの季語は音質と音源の情報としての
機能程度であり、この句においては季語としての力は強くないのです。
それこそ「この句においては、私は季語として使っておりません」程。
最後に上五の季語「ゆく夏」。
この季語は映像も音声も無く、五感の情報は一切無い時候の季語です。
でも、とても大きな季語なんですよね。
短歌を嗜んでいる方ならご存知でしょうけど、「秋の暮」という
和歌の時代から使われていた伝統的な季語がありますが、
それに劣らぬ程の大きさや力強さを持っている晩夏の季語です。
「ゆく夏」が主季語、「蜩」と「蝉時雨」はセットで脇役の季語なのです。
今度は、読者の視点から「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」の句を
読み解いて参ります。
スタートからいきなり「ゆく夏」という大きな季語が出てきて、
「や」で詠嘆して強調されています。
「「夏が終わってしまう!」と作者は悲しみか、寂しさか、嘆きか、
その類の気持ちなんだろう」。中七へ入ってすぐ「蜩」が出てきます。
「えっ? 先程「ゆく夏」と書いてたよね? 何故ここで蜩?
まぁ取り敢えず先へ進むか」。直後に「交じる」が続いています。
「蜩が何かに(判別がつく程度に)交じる。それは姿? 鳴き声? 場所?
何だかよく分からないけど先へ進むか」。
そして最後の着地が「蝉時雨」。
「夏の蝉達が一斉に鳴いている声の大きな音の事だな。
一斉に鳴き出したり止まったり。ああ、そういう事か。
先程書いてあった「蜩交じる」は蜩の鳴き声が蝉時雨に交じっているのね。
蝉時雨は晩夏の季語なので、本来なら蝉時雨に交じらない筈の
蜩の鳴き声が交じっている。蜩は初秋の季語よね。
最初に晩夏の季語「ゆく夏や」があったので、まさに晩夏から初秋への
季節の変わり目で、作者は夏が過ぎ去ってしまうことに対して
嘆いていたり、寂しがっていたりして、とにかく作者にとっては
夏が過ぎてほしくなかったという句なのね」
この様に読み解く事ができます。
つまり、季語3つは全て、よく吟味した上で使っている訳です、私は。
それに対して「季語を考えましょう」と、それも先生たる者が
コメントしているのですよ。
「この人、本当に俳句の先生なの?」と疑われて当然です。
何の受賞歴も一切無い素人でもこの季語の使われ方は
読み解けるんですよ。この句から作者の気持ちも読み解けますし、
景も脳内に聞こえるんですよ。
季語3つによる季違い且つ季重なりの句は、実は先行作があります。
夏井いつき先生がご自身の動画チャンネルで
取り上げていらっしゃいました。
高野素十 打水や萩より落ちし子かまきり
季語は打水:三夏、萩:初秋、子かまきり:仲夏
型は私の句と同じ基本形且つ名詞止めです。
「滝口照影さんは俳句の先生として、高野素十のこの句に対して、
「季語を考えましょう。」とコメントできるのですか?」という事に
なりますよね。また、「素十と私の句では何がどう違うの?」という事にもなりますよ、当然。「具体的に論理的な説明はどうなりますか?」と。
私は「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」を投句した時には既に素十の句を
存じておりましたので、後出しではありません。
ですので、滝口照影さんは「俳句の先生」として、私に安易な言い逃れは
決してできなくなります。
俳句の先生ともあろう者が、素十の句「打水や萩より落ちし子かまきり」を
知らなかったとは言わせませんよ。
何故なら素十のこの句を知っていて考察していないと、
季語3つによる季重なり且つ季違いの良し悪しの判断基準を
俳句の先生、俳句の指導者として持っていない事になりますので。
ここには敢えて書きませんが、AIであるCopilotに質問してみました。
Copilotは、素十の句と私の句の共通点と違いを明確に示しております。
そして、どちらの句に対しても「季語の使用については問題は無い」と
答えています。これで論理面からの裏付けは取れました。
AIは感情を考察する事はあっても、
物事を感情的に判断しませんからね。
以上のエピソードより、滝口照影さんを私は俳句の先生とは呼びませんし、
俳句の先生とは認めません。俳人として認めます。
ですので、私が「俳句の先生である」と認識するまでは、
「滝口照影さん」とお呼びします。
それで悔しいなら、俳句の先生らしい態度をお取りいただければと
私は思っております。
⑤は私は経験しておりませんが、俳句教室や地元の句会等で、
「先生は全然話を聞いてくれないし、赤ペン入れた理由の説明も無い」と、
「赤ペンで二重打ち消し線を引かれて、横に先生が句を書いて
くださったけど、私が詠みたかった内容とは全く違う。
勝手に作り変えられた」
この様にお困りの方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。
結論から申し上げます。
そんな人を俳句の先生と呼ぶのは今すぐ止めてください。
そして、その様な人物が居る集団から今すぐ離れてください。
あなたが月謝などをお支払いなら尚更です。
理由なんて至極単純。
あなたにも、その指導者にも、お互い交流する利得が一切無いからです。
冷静に考えてみてください。
あなたが俳句創作している理由は何でしょうか?
楽しいからではありませんか?
指導者が欲しいと思った理由は何でしょうか?
今よりも表現豊かな作句できる様になりたいからですよね?
(「上手くなりたいから」とは書いていませんので、誤解無き様に)
⑤に該当している指導者に教えを乞うて、その様な集団に属していて、
あなたの目的は達成できますか? 楽しめますか?
絶対にできませんし、あなたは楽しくないでしょう。
なので今すぐ離れましょう。
優秀な指導者は、ちゃんとあなたの話を傾聴しますし、
指導者の考えや思い、感情を一方的に受講者に押し付けません。
「~の理由で私はこの様に考えましたが、受講者さんはどう思いますか?」
この様な会話になります。
優秀な指導者は、受講者に答えを教えません。
受講者が答えに自力で辿り着ける様に、
見つけ易い手掛かりをばら撒きます。
優秀な指導者は、受講者が求めても花は渡しません。
代わりに花の種を与え、育て方を詳しく丁寧に教えてくれます。
受講者が花を咲かせられる様に育つまで。
優秀な指導者は、受講者が求めても魚は与えません。
代わりに、魚の釣り方を詳しく丁寧に教えてくれます。
受講者が魚を釣る事ができる様に育つまで。
それができないの先生や指導者は、俳句の先生でも指導者でもないのです。
ただの俳人です。あなたと同じく「俳句が趣味」なだけなのです。
そして、俳句の指導者側も自己成長ができませんので、
それ以上のレベルには到達できないどころか、
他者に追い抜かされる事もあります。
何故なら、俳句を教える事ができないのであれば、
それは指導者の技量や技術、知識が少ないからです。
または語彙力、共感力、感受性などが足りていないからなのです。
俳句は、日本語による季節を取り入れた詩なのですから、
それらが足りていないのは指導者として致命的な欠点です。
指導する事は自己成長にとっては手段であり、目的ではありません。
なのに教える事が目的化して、自己成長が疎かになっている
俳句の指導者や俳句の先生も居ます。
そんな人に教えを乞いたい受講者なんて居ないのですよ。
① 三段切れ、季重なり、季違い等の技法を問答無用で拒否する
② 提示された句の良い点、良くない点と理由を具体的に指摘できていない
③ 句の考察や論評の際、論理的思考ができておらず、思考が感情的
④ 出すアドバイスが曖昧、抽象的であり、客観的な理由や根拠が無い
⑤ 作句者に考えさせず、言わせず、自分の意見を押し付けて改作する
あなたは、①~⑤のうち1つでも該当している俳句の先生、
俳句の指導者、集団からは一刻も早く離れてください。
そしてあなたも、①~⑤に1つも当てはまらない様に
おなりいただければと、私は思っております。
今回は以上です。
長文を最後までご覧くださり、ありがとうございました。
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