俳句の技法(季重なり・季違い、三段切れ)と素直さについて
こんばんは。みつかづです。
今夜は俳句の技法と詠み手の心について。
一般的に、「初心者は季重なり・季違い、(意味上の)三段切れは避けようね」と言われます。
それは読者が字面を追った時に、「作者の感動の焦点はどこ?」となり易いので、「成功させる事が難しい」というのが理由と私は考えております。
ですが、「詠み手が自分の気持ちにウソをついてまで避ける必要あるのか? せっかくその情景に感動してるのに」を考えると、「それは違うよね」というのも同意なのです。例え詠み手が初心者・初級者であろうと。
例えば、私の句帳(Excelファイル)には、初心者の頃に詠んだ句もあります。(未発表作はここであまり公開したくないですけども)
ドラマーの額に汗の冬ライヴ
(「ドラマーの額には汗冬ライヴ」とどちらを完成句にしようか迷っていますが)
この句、もし「ドラマーの額に汗のライヴかな」と詠んだとして、
「ドラマーの額に汗の冬ライヴ」とどちらが面白いか?
季違いになっているとはいえ、当然後者ですよね。
何故なら「汗」は夏の季語、「冬」は冬の季語。
前者には「汗」しか季語はありません。
となると、前者の句では「冬」が無いので、ライヴがどの季節に行われているのか読者にはハッキリせず、もし読者が夏のライヴを想像すると、
「夏だったら暑いんだから、汗かいて当たり前でしょ? 何に感動したの?」となります。
後者は「冬ライヴ」とありますので、「ライヴが開かれたのは冬だ」と読者はハッキリ分かりますよね。「冬なのにドラマー(ドラムの演奏者)が汗かいている。という事は、ドラマーは激しい動きで情熱的にドラムを演奏していたに違いない」と読者に伝わり、「作者の感動ソコか!」と読者に伝わります。これは「季違い」という技法です。
ですので、「想像ではなくて見た目や音をそのまま描写するなら、初心者でも失敗を恐れずにしてみなさい」と私は思う訳です。
三段切れも同様で、私が房州オンライン句会に投句したものに以下があります。
開くる窓ながめしとしと散らぬ花
「晴れない暗い気持ちで障子窓を開けると、外の眺めは春の長雨がしとしと降り続いているけれども、(それでも)桜は散っていない(何という桜の生命力だろう)」という句意です。
これが三段切れでないとすると、「ながめ」が「長雨」と「眺め」の掛詞であると気付かれにくくなります。
「ながめ」が名詞ではなく、動詞「眺む」の連用形かな?と誤解される余地もあります。
是非はあるでしょうけど、上五(最初の5音)と中七(真ん中の7音)と下五(最後の5音)を足すと1つの光景になりますよね。
作者としては、「こうなっていれば問題無いよね」という判断な訳です。
繰り返しますが、季重なり・季違い、三段切れについては成功させるのが難しいので、初心者・初級者は確かに避けて、まずは基本形(上五に季語+中七と下五で季語を含まないワンフレーズ)をマスターしていただきたいのですが、どうしても季重なりや季違い、三段切れが回避できない(無理やり回避しようとすると感動が薄れる)場合は取り敢えずは推敲してみて、「それでも回避できないならもうやってしまえ」と私は思います。
良し悪しは先輩方が判断してくれますので、そのフィードバックを参考にして、作句に活かせば良いのかな、と私は思います。
俳句の先生の中には「季重なり・季違い、三段切れは内容を吟味せず(←ココ重要)に問答無用でダメ出しする」人もいらっしゃいますが、そんな先生に師事しても上達できないので、さっさと先生を代える方が良いと私は思います。
「有季定型」という俳句のルールを守っているのに内容を吟味しないのであれば、それは先生の主観に過ぎず、指導者としての役割を果たしているとは言えないからです。