高校生と読む外国文学3
ボリス・ヴィアン 『うたかたの日々』
3時限目がはじまって10分もしないうちに電話口に呼び出された。その時間は授業のない空きコマで、職員室に併設されている休憩室でドリップコーヒーを淹れて自分の机に戻ったところだった。
「保健室からだそうです」と言って、電話をとった二年一組の担任の坂田先生が受話器を手渡してくれた。
送話口を手で押さえながら「ありがとう」と言った後、「もしもし、電話かわりました」と話しかけた。
電話の向こうで、誰かが誰かに向かって話しているというよりは何かを叫んでいるような声が聞こえ、次に電話機に何かがぶつかるようなゴゴッという音がした。
そして続けて「すみません、もしもし、宮下です」と養護教諭の宮下先生の声がして、その声が少し息が荒いような口調だったので、わたしは身構えた。
「何かありましたか?」
「ええ、先生のクラスの秋葉君が体調が悪いので、帰らせて欲しいって保健室にきたんですけど」
「どんな症状なんですか?」
「頭が痛いって」
「ああ、こんな天気だから、片頭痛でもでましたかね」
わたしは少し緊張がほぐれて、いつもの調子に戻って言った。
六月に入りすぐに梅雨入り宣言が出た。最初の一週間は今年は空梅雨なのかと思わせるような、まったくと言っていいほど雨のない晴天が続いたが、一昨日から本格的な雨になった。
「それでは、秋葉に職員室に来るように言ってもらえますか」と、わたしは言った。
「それが、わたしも先生のところに行って、早退届を書いてから帰るように言ったんですけど、帰っちゃったんです」
宮下先生が申し訳なさそうな声で応えた。
「そうなんですか、しょうがないなぁ。わかりました。家に着く頃を見計らって、電話してみます」
「どうもすみません」
「いえ、こちらこそお手数かけました」
そのまま電話を切ろうと受話器を耳から離したが、まだ電話の向こうで宮下先生の話す声がした気がした。
「もしもし、ごめんなさい、もう一度言ってもらえますか」
「もし、先生のご都合がよろしければ、放課後にお時間いただけるでしょうか?」
「ええ、今日の放課後でしたら、とくに予定は入っていないので大丈夫です」
「では、4時にカウンセリング・ルームでよろしいですか?」
「わかりました」
わたしは受話器を置いて自分の席に戻るまでに、宮下先生がわたしにどんな要件があるのか思い巡らせてみたが、これといってなにも浮かばなかった。
まだ口をつけずに机に置かれたままのコーヒーは、がっかりするほどは冷めていなかった。
秋葉游一はクラスでは典型的なスポーツマンというタイプだった。バスケットボール部に入っていて、先日のインターハイ予選を終えて新キャプテンになったばかりだった。
クラスでは積極的に発言したりリーダーシップを取ることはなかったが、どんな場面でも協力的に動いてサボるところを見たことがなかった。
今月に入ってすぐ行われた特別支援学校の小学生との交流会でも、183センチの長身を折り曲げて熱心に小学生に折り紙で鶴の折り方を教えていた。
彼の人柄には好感が持てたが、わたしは秋葉にどこかつかみどころのないのっぺりとした印象を拭えないでいた。今までに秋葉と言葉を交わす機会が何度かあったが、秋葉は自分の意見など取るに足らないとでもいうようにはぐらかした言い方をした。たとえば秋葉がおそらく最も熱心に取り組んでいるはずのバスケットボール部でキャプテンになったと知って、彼に感想を聞いてみた。秋葉の答えは謙虚というより、まるで他人事のように冷めていた。
「俺がキャプテンっていっても、たまたまじゃないですかね。一番背が高かったからとか」
「今どきの生徒って、みんなそんなんじゃないですか」
坂田先生が少しして「どうかしたんですか?」と声をかけてきたので、秋葉が届けを出さずに早退したことと、秋葉に対するわたしの引っ掛かりを話した。
「生徒って自分の存在をなるべく浮き立たせないようにしているというか、どんなに親しくなっても踏み込んではいけない境界っていうのがあって、それをのり越えないように必死に相手を測りながらつきあってるんですよ」
「そんなものなのかなぁ。だとしたら、ちょっと息苦しんじゃんない」
「ええ、そうでしょうね。でも、彼らにとってはそれがデフォルトなんですよ」
「デフォルト」
わたしは口の中でつぶやいた。
「だから、彼らは個性的な存在になることを極力避けているんですよね。もちろん、例外もいますけど。逆にキャラを立てて、最初にわたしはこういう人間なんだっていう見られたい自分を印象づけちゃうわけです」
「たしかに思い当たる生徒がいるね」
「でしょう」
「坂田先生は、生徒のことをよくわかってるんですね」
「先生、このくらいのことならネットにいくらでもあがってますよ」
坂田先生は学校で中堅のリーダー的な存在で、よく一部の若手の教員を引き連れて飲みに行ったり、いろいろと相談されたりしているようだった。話好きで、生徒とも冗談を言って一緒になって笑っている姿をよく目にする。
わたしは年を重ねるごとに、生徒との距離が遠くなっていると感じていた。特にこの二、三年はそうだ。でも、それは年齢だけが原因なのではなくて、わたし自身にもっと本質的でやっかいな問題があるからだった。
坂田先生の生徒に対する垣根の低さが、わたしには羨ましく思えた。わたしは生徒との距離の取り方に少し敏感になりすぎているのかもしれなかった。
放課後にわたしはカウンセリングルームに行ったが鍵がかかっていたので、隣の保健室にまわった。保健室のドアの前に立つと、中から宮下先生と女子生徒の笑い声がしていた。軽くノックをすると笑い声が止んで、宮下先生の「どうぞ」という声が聞こえた。
ドアを開けて中に入ると、さっきまで座って話していたのだろう、宮下先生と二人の女子生徒が長机を挟んで向かい合った位置でわたしの方を向いて立っていた。
一人の生徒が宮下先生に「それじゃ、ありがとうございました」と言って、二人は軽く頭を下げてドアに向かって歩き出した。
「また、いつでも来てね」と宮下先生が二人の背中に声をかけた。
二人は振り返って「はい」と返事をした。わたしに会釈をしてすれ違うと、保健室から出ていった。
「お邪魔じゃなかったですか」
「いいえ、大丈夫です。先生とお話があることは言ってありましたから。二人はご存じですか?」
わたしは首を振った。
「三年生の木暮さんと渡辺さんで、二人とも養護教諭を目指してるんですって。それで、わたしに話を聞きたいって来てくれたんです」
「そうですか。それで、どうして宮下先生は養護教諭になられたんですか?」
「やだ、生徒と同じこと聞かないでくださいよ」と、宮下先生は声を上げて笑った。
「いや、真面目な質問なんだけどなぁ」
三年前、宮下先生はこの高校で新任養護教諭として働きはじめた。大学を卒業したばかりの初々しさは、勤めだした当初は大丈夫だろうかという不安を感じさせたが、半年もすると彼女の見かけとは違った物怖じしない決断の早さと的確さに、すぐに先生方から頼られるようになっていた。宮下先生が赴任した年の夏に、複数の部活動で熱中症の生徒が同時に五人も出てしまい学校が大騒ぎになったことがあった。そんな中でも彼女は慌てるそぶりも見せずに、生徒の応急手当と救急車の要請や保護者への連絡などを手際よく行い、それで生徒も大したことにはならず済んだ。そして、その一件から宮下先生は生徒だけでなく、先生たちからも何かと相談事を持ちかけられるようになった
「わたしのことはどうでもいいじゃありませんか。それより秋葉君のことなんですけど」
宮下先生は少し顔を赤らめた。そして「どうぞ」と言いながら、さっきまで生徒の一人が座っていた椅子を引いた。それから保健室を出て、すぐに戻ってきた。
「面談中の掲示を出しときましたので、ここでいいですか?」
「ええ、構いません」
「お茶入れますけど、コーヒーのほうがいいですか?」
「すみません。お茶をお願いします」
宮下先生がお茶を入れている間、わたしは保健室をぐるりと見渡した。清掃がよく行き届いていて、棚の中の保健器具や数年分の生徒の健康診断関係のファイルが整然と並べられていた。
南側の窓の近くには、小ぶりの物干しに二種類の大きさのタオルが二枚ずつ掛かっていた。部屋の空気はほかの教室に比べて少しひんやりとしているが、湿気を感じなかった。
「どうぞ」と言って、宮下先生がわたしの前にお茶とお煎餅を一枚をおいた。
わたしは「いただきます」と言って、一口飲んだ。
「秋葉君、失恋したそうですよ」
わたしは宮下先生の言葉がうまく飲み込めずに、すぐに言葉が出なかった。
「今日、頭痛で早退したというのは嘘で、ほんとうは昨日、彼女に別れ話をされてから気持ちがイライラして食事も喉を通らないくらいだったけど、それでも頑張って学校には来たんだそうです。でも、やっぱり授業に集中することができなくて、教室にも居づらくなってここに来たんです。秋葉君はこれまで保健室に来たことがなかったので、最初は頭が痛いと言っていたのでベッドで休んでもらったんですが、30分くらいしたら起きてきて黙ったままそこのベンチに座っていたんです」
宮下先生はそう言って、わたしの後ろにある壁に寄せて置かれたベンチを指差した。
宮下先生は、秋葉の頭が痛いというのは口実で、実は話を聞いてもらいたくてここにきたのだと直感した。そして、秋葉と並んでベンチに座り、最初は当たり障りのないクラスのことや部活動のことなどを尋ねたりしていたが、しばらくしたら秋葉からぼそりぼそりと昨日彼女から別れ話をされたことを話しだしたということだ。
「なるほど、そういうことだったんですね」
「なんだ、そんなことか、って顔をしてますよ」
「いや、そういうわけではないけど。でも、高校生なら恋愛の一つや二つしてもおかしくないし、それで失恋するのも珍しいことじゃないでしょう」
「一般論で言えばその通りでしょうけど、本人にとっては世界が足元からガラガラと崩れ落ちてしまうくらいショックなことなんじゃないですか」
「秋葉がそう言ったんですか?」
「いえ、今のはわたしの想像です。秋葉君の気持ちを想像してみたんです」
「宮下先生も失恋したとき、そんな気持ちになったんですか?」
「ええ、そうですよ。でも、今はわたしのことなんてどうでもいいじゃないですか。先生は失恋したとき、そんなことはよくあることさって言われて、納得しましたか」
「そんなつもりで言ったわけじゃないんです。ごめんなさい」
「いえ、わたしこそちょっと言い過ぎました。でも、普段、生徒のことを親身に考えてらしゃる先生にしては、意外な反応だなぁと思って」
わたしは「そうですか」と呟くように答えて、目の前にあるお煎餅の袋を裏返したり、また表にしたりして弄んでいた。
生徒や同僚から恋愛に関する話題をふられたり、まれに恋愛の悩みを仄めかされたりすることがあった。そして、生徒から無邪気に「先生はどうして独身なんですか?」と尋ねられたことも何度かあった。その度にわたしは話をはぐらかし、それとなく別な話題に会話を逸らした。
わたしにはパートナーがいるが、結婚はしていない。というか、今の日本ではわたし達に結婚という制度は認められていない。わたし達はゲイのカップルだからだ。
わたしの高校時代の恋愛に関わる悩みは、周囲の友達が女の子の話で盛り上がっているのに、どうして自分はそうしたことにまったく関心がないのかということだった。クラスには女子生徒もいて、その中のある女の子と一対一のデートらしき時間をもったことも何度かあったが、そこには恋愛感情はなかった。
第二次性徴が始まる中学から高校にかけての思春期には、異性に対する関心が高まる、と保健の教科書にあった。わたしはそこに書かれたことの意味は理解できたが、それは自分には当てはまらないことだった。わたしは心から親友と呼べる彼らといるときも、目の前にいる友達とは自分はどこか異質な存在なのだという意識を追い払うことはできなかった。
それでも高校時代は大学受験という大きな足枷があったので、そうした違和感にある意味で真剣に向き合わずに、自分をごまかして済ますことができた。
ほんとうの自分に向き合わざる得なくなったのは、大学に入ってからのことだ。それは今のパートナーと出会ったことが決定的だった。
わたしには大学の四年間の記憶がない。大袈裟に聞こえるかもしれないが、わたしはようやくありのままの自分を見つけ、その自分を受け入れるために、大学生活のほぼすべての時間を要した。大学の授業に出たりサークル活動に参加したりしている自分は、今どきの言葉で表現するならわたしのアバターで、そこにはわたしの本来はなく、ただひたすら周囲に適応してその時々の自分を演じているに過ぎなかった。だから、わたしには大学生活の思い出らしきものがなに一つ残っていなかった。
大学で彼に出会い、生まれて初めての感情に襲われた。それはわたしが今まで目を逸らし続けていたことから、もう逃れられないことを意味していた。彼はすでにゲイとしての自分を受け入れ、ゲイとして生きると決めていた。わたしがゲイであるという自分を容易に認めることができずに苦しんでいるときに、彼は冷静にわたしの凝り固まった偏見に耳を傾け、その一つひとつを時間をかけて解きほぐしてくれた。ようやくありのままの自分を受け入れることができてからは、家族や友人といったこれまで関係を築いてきた人たちが、ゲイである自分をどう思うのかと想像すると、不安と絶望感で潰れそうになった。そんなわたしを彼は辛抱強く励まし、支えてくれた。
わたしは打ち捨てられ誰からも見向きもされない古井戸の底に横たわり、はるか頭上の百円硬貨ほどの小さな丸い明かりを見つめていた。すると井戸の周囲を取り囲んでわたしを見下ろすいくつもの人影が現れた。しばらくすると彼らは井戸を蓋で覆い始めた。見る見るうちに丸い明かりは月が欠けるように痩せていき、終いには完璧な闇の中にわたしは取り残された。
わたしはこの夢を繰り返し何度も見た。夢の中でわたしが最も怖かったことは、わたしは夢の中で声を発することができなかったことだ。助けを求めたいのに、助けを求める声を出すことができなかった。それは現実の中で、わたし自身がわたしから声を奪っていたことの反映だったのだろう。
「宮下先生、わたしは高校から大学にかけてのある時期、取り憑かれたように恋愛小説を読みまくったことがあったんです」
宮下先生は、わたしの唐突な言葉に驚いた様子だったが、何も言わずにわたしを見つめて話の続きを待った。
「きっと、当時のわたしは異性を好きになるという心理がどういうものなのかを知りたかったんだと思います」
「それで、わかりましたか?」
「理解はできたと思います。でも、それはわたしには関係のない別な世界のことなのだと知ることにもなりました」
「まあ小説の中の話ですから、現実とは違いますよね」
「そういう意味ではないんです。……でも、一つだけ、わたしが感情移入できた小説があったんです。ボリス・ヴィアンの書いた『うたかたの日々』という小説です。ご存じですか?」
「いえ、読んだことありません。どんなお話なんですか?」
そのときチャイムが鳴り、生徒に下校を促す校内放送が流れた。宮下先生とわたしはしばらく放送に耳をすませ、それが終わると顔を上げて目を合わせた。
「もしよかったら、『うたかたの日々』を読んでいただけませんか。そして、その後にもう一度お話ししたいと思うんですが」
宮下先生は少し考えるように俯いたまましばらく何も言わなかった。
「ええ、いいですよ。でも少し時間がかかっても大丈夫ですか。わたし、本を読むのが遅い方なんです」
「かまいません。待ってます。急ぐことじゃありませんから」
そのあと秋葉の失恋については彼の口から話が出るまでわたしは触れずに、無断早退のことだけを軽く注意をしましょうということになった。
保健室を出るとき、宮下先生が「よかったらどうぞ」と言ってわたしが手をつけなかったお煎餅を手渡してくれた。
ボリス・ヴィアンは作家のみならずミュージシャン、俳優、画家といった顔を持つマルチタレントだった。彼はまるで火山が噴火するようにその才能を一気呵成に撒き散らし、39歳の若さで没した。
『うたかたの日々』は彼の最もよく知られた小説で、「現代でもっとも悲痛な恋愛小説」と称されている。
しかし、読んでみるとハツカネズミと心を通わせたり、〈ピアノカクテル〉なる音楽を奏でながらお酒を作る不思議な機械がでてきたりと、シリアスさからはほど遠い言葉遊びと諧謔に満ちた文章で綴られている。
コランは料理人のニコラとなに不自由なく暮らしている。ある日、コランは友人のシックとその恋人のアリーズとともにパーティーに出席する。そこでコランは敬愛するデューク・エリントンがアレンジした曲と同じ名前の女の子クロエと出会い、たちまち二人は恋に落ちる。二人は結婚し新婚旅行にも出かけ幸せな時間を過ごすが、それも束の間のことだった。クロエが不治の病に取り憑かれてしまったのだ。クロエの肺の中に睡蓮が巣食い成長していくという奇病だった。コランはクロエの病気を治そうと全財産を使い果たし、それからはお金になるなら仕事を選ばずに働いた。そして稼いだお金で花を買い、クロエのベッドを花々で埋める。クロエは花の香りを嗅ぐと楽になるからだった。しかしコランの看病の甲斐なく、クロエは日増しに衰え、死んでしまう。一方、シックは哲学者のパルトルにのめり込み、恋人のアリーズをほったらかしにしてしまう。シックのパルトル熱は高じるばかりで、彼の本をコレクションするために借金までするようになる。見かねたアリーズはパルトルと彼の本を扱う本屋の主人を殺し、店に火をつけて自分も死んでしまう。シックも税金を払っていない罪で連行しにきた警官にピストルで撃たれて殺されてしまうのだった。
宮下先生と話したその日の帰り道に、わたしは駅前の書店に寄って『うたかたの日々』の文庫本を買った。
わたしが以前に読んだのは、早川書房から出てていた単行本だったが、今では三種類の文庫があった。しばらく迷った挙句に、かつて高校生のときに読んだ伊藤守男の訳した文庫を選んだ。
夕食を終え、ビールを飲みながら買ってきた文庫を居間のソファで読んでいると、パートナーが帰ってきて「何を読んでるんだい」と訊いた。
「これさ」と言って、表紙を見せた。
「ほー。読んだことないな。面白いのかい?」
「高校生のときに読んだことがあって、あのとき、どうしてこの本が気に入ったのか確かめたくなってさ」
「なるほど。でも、どうしてまた、今になってそんなこと確かめる気になったんだい?」
「今日クラスの男の子が失恋して、と言っても、厳密には昨日のことらしいんだけど、そのショックで学校を無断早退しちゃってさ。そのことについて養護教諭の先生と相談してたら、話しの流れでこの本に行き着いたというわけ」
「ほー。それでどんな内容なんだい、その『うたかたの日々』という小説は?」
「ほー」というのは、パートナーの口癖だった。
「それが、この本に関してはあらすじを説明しちゃいけないことになってるんだ」
「それはまた、なんで?」
「しちゃいけないというか、あらすじだけ説明したとしても、この本について何ひとつ伝えたことにならないと思うんだ。だから、この本について語ろうとするときには、相手にもこの本を読んでもらっていることを前提にしてるんだ」
「ほー」と言って、パートナーは緩めていたネクタイを抜き取って、肩にかけた。
「ということは、その養護教諭の先生もその本を読んでるの?」
「うん。読み終わったら、また話すことになってる」
「なかなか面白そうだ。それ、読み終わったら貸してくれよ」
「ああ、いいよ」
パートナーは頷いて、自分の部屋に入っていった。
二週間ほど経ったある日、宮下先生がわたしの机にきて「読みましたよ」と声をかけた。
「どうでした?」と、わたしは尋ねた。
「もし、お時間大丈夫なら、放課後に保健室にいらっしゃいませんか?」
「ええ、わかりました」
放課後、わたしは用意しておいたロイズのチョコレートを持って保健室を訪ねた。保健室のドアには『会議中』の札が下がっており、そこに大きめの付箋に『急用の場合はノックしてください』と手書きされて貼り付けてあった。
わたしはノックしてドアを開けた。「失礼します」と言って中に入ると、ハンドドリップして淹れたコーヒーの匂いがした。窓際の流し台でこちらに背を向けて宮下先生が立っていた。
「どうぞ腰かけててください。いまコーヒー淹れてますから」
宮下先生は振り向かずに言った。
「いい香りですね。チョコレート持って来ましたよ」
「うれしい、ありがとうございます」
わたしは前回と同じ席に座った。わたしが腰を下ろした向かいの長机の上には、紀伊国屋書店の紙カバーのかかった文庫が置いてあった。宮下先生がお盆に二つのマグカップを乗せて運んできて、一つをわたしの前に置いた。
「ほんとうはもっとちゃんとしたカップを用意するはずだったんですけど、家から持ってくるのを忘れちゃって。でも、コーヒーは美味しいと思いますよ。自分で言うのもなんですが」
「ありがとうございます。いただきます」と言って、コーヒーを一口飲んだ。
「ほんとだ、美味しいコーヒーですね」
「でしょう」と言って、宮下先生もカップを口に運んだ。
わたしは持ってきたチョコレートの包装紙を破り、上蓋を開いて宮下先生の前に置いた。宮下先生は覗き込むように「どれも美味しそうで迷いますね」と言って、一つ摘まんで口に入れた。
わたしは机の上に置いてある文庫を指差して「それ」と言った。宮下先生は軽く手を擦り合わせるように叩いてから、文庫にかかっていた紙のカバーを外した。わたしの持っているのと同じ『うたかたの日々』の文庫本だった。
「確か三種類の文庫があったと思うんですが、どうしてそれを選んだんですか?」
「表紙の絵がいいなって思って」
「読み比べてみたわけじゃなくて?」
「ええ、買うまでなかは開いてません。わたし、本の表紙だけ見て気に入ったら衝動買いしてしまうことがよくあるんです。でも、そうして買った本で外れたことないんです」
「レコードの『ジャケ買い』ってやつですね。それで『うたかたの日々』はどうでした?」
「もちろん、面白かったですよ。でも、途中、クロエが病気になったところあたりから、先生はこの本のどこに共感されたんだろうって、そのことが気になって……」
「あまり楽しめませんでしたか? それはすみませんでした」
「いえ、そんなことはありません」
「宮下先生は、この小説を読んでどんな感想を持ちました?」
「そうですね、とても哀しい物語だなというのが率直な感想です。それとここに出てくる人たちって、みんな純粋で儚くって、自分に正直に生きてるがゆえに痛みを引き寄せてしまう人ばかりじゃないですか」
「ほんと、そう思います」
「わたし、特にアリーズへの思い入れが強いかな。シックのことをとても深く愛してるのに、シックのほうはアリーズのことが一番じゃないんですね。もちろんアリーズのことを愛してはいるんでしょうけど、それ以上に哲学者のパルトルに夢中なんです。それはシックにとっても、そしてアリーズにしてもどうしようもないことなんでしょうけど。でもアリーズは傷つき、シックをなんとか取り戻そうとします」
「そして、ついにはパルトルを殺してしまう」
「ええ、でもわたしはアリーズのことを責める気になれないんです。もしかしたら、わたしだって同じことをしてしまうんじゃないかって思うところもあるんです」
「宮下先生って、見かけによらず激しいんですね」
「そうなんです。実は怖いんですよ」
わたし達は顔を見合わせて笑った。
「それじゃ、そろそろ先生がこの小説のどこに共感されたのか教えてください」
「いま宮下先生がおっしゃられたことと繋がってると思うんですけど、わたしはコラン、クロエ、シック、アリーズ、それにニコラとイジスの誰もが、自分の意思から招いたのではない現実を、なんとか受け入れて必死に生きようとしている姿に惹かれたんだと思います。それを昔なら運命だとか、宿命だとか呼んだのでしょうが、現代では少し大袈裟に聞こえますよね。でも、コランとクロエが愛し合うようになったことも、クロエの肺に睡蓮が寄生してしまうという奇病に取り憑かれてしまったことについても、「どうして?」という問いに、誰も答えることなんてできない。自分の身に起こってしまったことに抗うこともなく、自分の気持ちを偽らずに精一杯生きているところに憧れたのだと思います。それはこの本を初めて読んだ高校生だったときのわたしは彼らと違って、自分に降りかかった現実を受け入れることができずに目を逸らし自分を偽り続けていたからだと思います。小説の終わり近くに、クロエの葬儀のシーンがありますよね。コランが教会の正面の壁に磔にされたイエスに問う場面です」
宮下先生は手に持っていた本のそのページを開いて、ゆっくりと声に出して読んだ。
「なぜクロエは死んでしまったんです」
「そんなこと知らないよ。他の話をしようよ……」とイエス。
「だけど他の話をしても関係がないじゃありませんか」とコラン。
彼らは低い声でしゃべっており、他の者には二人のやりとりは聞こえなかった。
「なぜ彼女を死なせちゃったんです」とコラン。
「うーむ。そう粘るなよ」とイエス。
彼は釘に打ちつけられたままで、なるべく居心地の良いようにしていた。
「あんなやさしい人を。およそ悪いことは考えもしなかったんですよ」とコラン。
「そんなことは宗教とは関係ないよ」とあくびをしいしいイエス。
彼はイバラの冠の傾きを少々なおすため、首を振った。
「なんで私たちがこんな目に合うのかさっぱりわかりませんよ。本当ですよ」とコラン。
宮下先生はそこまで読んで顔を上げ、わたしを見た。その眼差しは、高校生だったわたしにいったいなにがあったのか問いたげな様子をしていたが、最後までその問いは宮下先生の口から発せられることはなかった。
わたしは手を伸ばして宮下先生から『うたかたの日々』の文庫を受け取り、宮下先生が読んだページの最後の一節を読んだ。
聖堂番と助手は華やかな明るい色の服を着込んで現れた。二人はコランを罵倒し始め、トラックの周りを野蛮人のように踊りまわった。コランは耳をふさぎ、それでなくとも、何も聞こえなかった。彼は貧乏人の埋葬にサインをし、ひとつかみほどの石を投げられても、もう微動だもしなかった。
「わたしはコランのように、我が身に起きたことを丸ごと受け止める勇気と自信を持ちたかった」
「それで先生は高校生のときにはできなかったことに、そのあと向き合うことはできたのですか」
宮下先生は、控えめな声で尋ねた。
「ええ、できたと思います。時間はかかりましが」
「そうですか。よかったですね」
「きっと一人では耐えられなかったでしょうね。大学に入って、運良くわたしを助けてくれる人に巡り会えたから、なんとか……」
わたしは宮下先生に何もかも打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。しかし、それは宮下先生に重い秘密を強いることになる。
「秋葉にも自分の本心を受け止めてくれる人がいればいいけど」
わたしはさっきとは違う口調で話題を変えた。
「先生じゃダメなんですか?」
「彼が話したいと言えば、しっかり聞きたいと思います」
「よかった」
宮下先生はほっとした表情を浮かべ、コーヒーを口に運んだ。
わたし達はそれからしばらく『うたかたの日々』のなかの、お互いが好きな場面を朗読し合った。
「ほんとに、こうしてじっくり読んでみると不思議な小説ですね」
「こんな哀しい結末の小説をシリアスな文体で書かれていたら、きっと最後まで読み通せなかったかもしれないな」
「こんど秋葉君に薦めてみようかな」
「彼が読むかな?」
「失恋して一つ大人の階段登ったんだから、この本の良さが少しはわかるんじゃないですか」
宮下先生の言葉にわたしが思わず吹き出してしまうと、宮下先生も赤くなって「わたし、変なこと言いました?」と、笑った。