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霊の話 5 仕事として霊と関っていた頃の話

今のスピリチュアルな仕事をするずっと前の話です。

私はいつの日からか体質を活かし、霊媒師を始めていました。
いわゆるイタコというものです。

イタコってもうあんまり聞かないですよね・・。
私の子供の頃は、冝保愛子さん全盛期だったので、そういう名称をよく耳にする機会があったのですが、今は知っている人の方が少ない位なのでしょうか。

イタコは正確には青森恐山にいる霊と交信する方々のことを指すので、それ以外の地域では、霊と話すことを口寄せとか霊媒とかいうそうです。

でも、口寄せしてました。とは人に言った事がないので、職業的には霊媒師という呼び名が一番正しかった気がしますが、自分的には霊媒師という言葉にもピンとくるものがなく、かといってイタコでも口寄せでもなく、いつも自分をどう紹介すればいいのか困っていた記憶があります。


私のその霊媒の仕事は何も宣伝は一切せず、地味に紹介だけでしたが、月1.2くらいのペースでなんとなく定期的に人が訪れてくるような感じでした。

依頼者から連絡をいただくと、まずは亡くなった方の意識がどこにいるのかを探します。そして、所在が分かり、話すことが可能であれば依頼者に承諾の連絡をします。

場合によっては亡くなった場所でさまよっていることもあり、地縛を解くためにわざわざその場所へ事前に出向き、私の家で当日まで待っていてもらうというようなこともしていました。

霊媒の仕事は以外と手間がかかる時もあります。対話予定の霊が話せる状態ではないような時もあり、そういう時は、連れて帰ってきた霊や暴れる霊を確保してくれる存在が私にはいたので、その存在に預けておき、時間の合間に霊をなだめて当日までに霊のメンタルを調整しておくというような感じの事をしていました。そういう時は当日までラップ音がうるさくてストレスな生活になる事もよくありました。

そして、この仕事をしていてよく不思議だなと感じたことは、なんだかよくわからないけど大体どうすればいいのかわかるという事でした。そして実際わかることはできる。という感じでした。

なのでこの仕事に関しては、私には師はおらず、ただ知っていることをやり続けるような仕事だったのでした。そしてそのサポートをする霊的存在も生まれた時からずっと近くにいたような感じだったので不安もありませんでした。難しい仕事ではありませんでしたが、人生の中でとても静かな時間だったように思います。

そして、私のもとに訪れてくる方は、不慮の事故や事件で突然身内を亡くし、亡くなった人と最後の想いをかわしたいと願っている方が多くいらっしゃいました。

時間は大体1~2時間。それぞれの想いを伝え終わると、霊については確認を取り、次の世界へと送り出し、セッションを終えます。

それら全てを見届けた依頼者が生きる力を取り戻していくのを見ると、現実と見えない世界の狭間という変なポジションにいる私ですが、心の荷物を下すお手伝いできて良かったなという満足感を感じました。

ですが、この仕事の一番の悩みは、私は体に霊を入れるタイプだったので、霊が身体から離れ、セッションが終わると、たいてい霊が号泣しているので目がはれ、鼻水だらだらのまま鼻が詰まって話すこともままならないような感じになっていた事でした。

ものすごい残念な顔です。

そのままクライアントさんにセッション後のお茶を出し、クライアントさんと最後の締めのお話をするようなことになっていたので、ひどい顔でお仕事が終るのだけが悩みでした・・。
映画のようにかっこよく仕事が終わった事はなかったです。

振り返ると、この時期私はいつも、この仕事をしているせいなのか、もともとなのか、霊の悲しみを感じ過ぎていたせいなのか『死が待ち受ける生』を生きることの根本的な意味がわからず、だいぶ長い間、生と死に対してもやもやとした気持ちを抱えて生きていたのを覚えています。

続く。


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