![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/160799857/rectangle_large_type_2_c95aa6bc290f2ae3cdc8602c7141e73d.jpeg?width=1200)
霊の話 8 地上にとどまる者たち
人は死を迎えると、生前に記憶している、死んだらここへ行くはずだという場所に向かいます。
なので、時々死んだらお墓に行くと思って亡くなった方がお墓にいるのを見かけることがあります。
私がよく見るお墓の霊は、実家の菩提寺にいる、とあるお墓の見知らぬおばあちゃん。黄土色のかすりの着物を着て、白髪を上の方で結わえた小さいおばあちゃんの霊です。年代的には、大正時代あたりの人かと感じます。
お彼岸やお盆になると、一生懸命自分のお墓の手入れをして、自分と、自分の家族とご先祖が埋まっていると思われるお墓に手を合わせて祈っています。
毎年、その後ろ姿を見かけて、まだいる事に少し安堵します。実家のお墓参りの時、このおばあちゃんに会えると、ちょっとうれしくなるような、ほっとするような不思議な気持ちになるほど子どもの頃から長く見ている霊なのです。
話した事はありません。
びっくりされそうなのでそっとしておいています。
自分の読経のエネルギーで少しずつ上がってしまって、大分薄くなってしまって消えかけていますけど、毎年頑張ってお墓の手入れをしています。多分あと数年で消えてしまうでしょう。
死んでいる自覚があるのか、
生きているつもりなのかはわかりません。
とても真面目な雰囲気しか感じないので、未浄化ではありますが、悪意も執着もなさそうです。ただ、そう思っているだけという感じです。
生前、人は死んだらお墓に行くと教わり、死と同時にお墓へ行き、そしてそのまま生きていた時と同じようにお墓の手入れをしてお墓という家を護っているのです。生きていた時から、日々を真面目に一生懸命に生きる方だったのだろうと思います。
今の日本には宗教というと悪いイメージがついてしまい、宗教の教えを理解しようとする人はあまりいなくなってしまいましたが、生と死というものを生前ある程度学び、自分の中で消化しておくことは、死んだ後に行くべきところを間違えないためにも必要なことのように私は少し感じています。
海外でも、天国などの、死後に行く場所があるという教えがない宗教を持つ国は、普通に生きている時とさほど変わらない雰囲気の霊が、公園のような墓地にわらわらいるのを見た事があります。
すごく暇そうでした。
死んでいるので死なないし、死んでいる自覚はあるので食べなくても働かなくてもいい事は分かっているようで、ただ墓地でぼーっと日向ぼっこしながら生活しているのです。
何年こうしてるんだろうなと思いました。
執着とかはないのですが、死んだら上がるという概念がないので、上がるのは本当にまぐれみたいなもののようでした。お墓を訪れた人の祈りとか、日向ぼっこで浴びている太陽光とかでなんとなく上がっていくのでしょうね。
そして、こんな話をしたので、
霊たちのこの現実世界への滞在方法についての話(^-^)。
霊は自由に動き回れる霊もいれば、場所にとらわれる霊もいます。肉体のない霊がこの現実世界に存在しようとするには、この現実である次元の何かにつかまらなければなりません。
土地や建物につかまれば地縛霊。
恨みなどの悪感情につかまれば怨霊。
人につかまれば憑依霊となります。
感情や人につかまる霊も浮遊霊とも言いますが、特に目的を持たず、帰る場所がわからなくてふわふわしているのを浮遊霊と言った方がいいかもしれません。
そういう霊は、たいてい現実にしかいる場所がないという強い感覚を持っているので現実にとどまることができているようです。
さっきのおばあちゃんや海外のお話なんかは、お墓という場所が執着ではなく、いる場所と思い込んでいるだけなのですが、その想いが信念に近いものになってしまっているので、それがこの世界につかまっているエネルギーになります。浮遊霊に近い在り方なのですが、そうした霊はその場から動きそうもないので地縛霊になるのかなとも思います。
現代の日本は無宗教に近い感じではありますが、お寺にお墓がある限りは仏教管轄です。
とりあえず健やかに上がるためにも、日々、執着が残らないように日々精一杯生き、死んだらどこに逝くのだろうかという仏教の概念くらいのことは、法事などの機会に、お坊さんに少しお話してもらう程度の軽い勉強をしておいた方が良いかもしれませんと思ったお話でした(^-^)。
続く。