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霊の話 3 祖父の死

祖父は私が20代半ばの頃に亡くなりました。

祖父のお寺は地元では一番古く、歴史のある大きなお寺だったので、お葬式は本山からの僧侶と地元のお寺の住職様が集まり、お堂の半分が僧侶という状態になりました。

それはそれは盛大なものでした。お経が始まると大合唱です。荘厳です。近所周辺にいる浮遊霊なんかも一緒に浄化されそうな勢いでした。

肉体を失った祖父は、僧侶だっただけあって、動揺することもなく、霊体という状態でしたが、正装である紫衣を来て自分の棺の脇に佇んでいました。

挨拶に来る参列者一人ひとりに、生前の感謝を伝えながらお辞儀をし(もちろん聞こえているわけではないのですが)

読経の時はただ、自分の棺の上方に静かに立ち、自分の死を受け入れ、次の世界へと旅立つけじめをつけているような雰囲気でした。

その姿は凛として、祖父ながらかっこいい感じがしました。

普通、お葬式の時期は、亡くなった人も悲しみにあふれています。お葬式のあたりで死を100%受け入れることができる人は少なく、冷静な状態の人をあまり見たことはありません。
なんとなくですが、天寿を全うした老人は初七日くらいまでに、一般的には四十九日までに様々な想いを手放し、それでようやく穏やかに上がっていきます。

そして祖父を見ていた時、
あぁ この人はもう生まれてこないなと ふとそう思いました。
『生』が何なんであるかを理解した人は、転生しなくなることが多いのですが、祖父からはそんな雰囲気が漂っていました。

視えるという能力は難しいもので、普通の人とはどうしても死生観が変わっていきます。人生の中で何度となく『死』と向き合っていると、死は悲しいけれど、不幸なことではないのかもしれないとどこかでわかってしまうからでしょうか?それとも、死の先にも、行くべきところがあるのを知っているからでしょうか?

私は、死を受け入れられない人に言う言葉は知っていても、死を受け入れた人にはどう声をかけていいのかよくわからない事に気づきました。

お葬式の間、祖父になんて言っていいものか悩んだのを覚えています。成人して会いに来ることもなくなった外孫と祖父。という微妙な関係と、視えるもの同士。

ご愁傷様なのかお悔み申し上げるのか
お疲れ様という感じでもないし、
軽く、バイバイというのも変だし、
私がショックを受けつつも、さほど悲しんでいないのは伝わってしまうし、結局悩んだ末、ありがとうと感謝だけ伝えました。

それは、祖父にどう伝わったのかはわかりませんが、私はうっかり棺の中に向かってではなく、傍に佇む祖父の目を見て伝えてしまいました。

祖父は一瞬、目が合った事に驚いていましたが、
その後すぐに一言、
「あぁ、お前は視えるんだったな。」と、さらっとした返事だけ返ってきました。

なぜかものすごい気まずい感が漂い、、、
そして祖父からほんのりと、お前には興味がない感も伝わってきました。

私も大人になり、祖父とは縁が遠くなっていたので、まぁそんなもんだよね。と思いながらも少しほっとして、祖父へのお別れを済ませたのでした。

祖父の体は、その日、荼毘に付せられましたが、祖父はそれもしっかり見届け、天へと還って行ったのでした。

続く


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