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恋のあとがき

エピローグ

 摂氏1桁代の風が指の隙間を抜けて街を凍えさせる。ゆっくりと息を吸うと鼻の頭がじんわり冷えて、口から吐く息は生ぬるく返ってくる。ホットのコーヒーを赤くなった唇に近づけ、恐る恐る傾けた。体の芯に確かな安心感を覚える。その一方で、心にはぼんやりとした空白があった。東京の街は恒常的で、人の人生が集まってできた街とは思えないくらい寂しくて、日常を送るだけのように侘しさを感じる。冬の寂しさとはまた違う、人の温もりが恋しくなる街だと感じる。2月になれば、この恐れ知らずのようで人一倍恐怖に恐怖している田舎人は地元に帰ってまた人間の温かさを感じることができるだろう。彼は知っている。この街に馴染めないのは自分がこの場所で用意された場所に心を開かなかったからだということを。彼は知っている。得るということは同時に失うことでもあると。そして彼は恐れていた。この街で大切なものができないように。いつか失っても暗闇に覆われた人生を歩まなくてすむように。彼はいつでも愛に恐怖していた。そしてそれと同じくらい愛を求めていた。あなたと出会った季節がやって来る。

いつか愛した君へ

 本当に久しぶりに体調が悪かった。体力的にも疲れていたし精神的にはここ2ヶ月くらいずっと落ち込んでいた。東京が嫌いなのは自覚しているけれど、東京の中にも救いがあった。彼にとって恋人は東京で初めて愛していると思える存在だった。あなたに会いたくなったけれど、体調が悪いので電話した。あなたは頑張って本心を語ってくれたね。1時間の通話で、彼は東京で恋人を失った。その代わりに得たものは、しんみりとした絶望感と、あなたを知らなかった、知ろうとしていなかった自分に対する怒りだった。楽しいことも好きなことも考えることも全然違うあなただったから、思ったことは言わなきゃ伝わらないのは知っていた。時間が経つごとに、あなたの表面を知った気になってあなたを思うことがおざなりになっていた。言われなきゃわからない自分を憎んだ。あなたが恋人じゃなくなってから、全ての景色が色を失った。見るもの全ては切なく暗く、自分の未来はまた出口のない迷路みたいになって、歩む気を失った。電話の最後に「大好きだよ」と付け足した。あなたは少し笑って、そこで電話を切った。あなたに最後に伝えた愛だった。

 ハロウィンは一緒に過ごせないのを知った時、あなたは思っていたよりも寂しがっていた。ハロウィンがそんなに楽しみだったのかと微笑ましく思ったけれど、今ならわかる。不安を隠そうと頑張ってくれていたんだね。大学の後の木曜日と金曜日、それとデートの後、あなたの家の前で別れ際必ずキスをした。相変わらず身構えるその小さな口が愛しかった。地元に連れて行ってコキアを見た。自分の好きな場所を好きだと言ってもらえたことと、自分より好きな友達を褒めてもらえたことばっかり嬉しくて、あなたより大切にしているように振る舞ってしまった。あなたも彼らに負けないくらいに愛しているんだと伝えたかった。だけど彼は伝え方を間違えていた。言葉じゃ愛は伝わらないのわかっていたけれど、それ以外にあなたに愛を伝える方法を知らなかった。帰りの電車の中で、あなたは体調を崩した。犬アレルギーだと知っていたのに、犬に触れてあなたに近づいた。彼は他人に対しての想像力が著しく欠けていることをその時に知った。

 何度か朝の勉強会をした。あなたが勉強している彼に近づいて、イヤホンをしている彼は表情に出さずとも早く会いたかったんだという表情であなたを見つめた。あなたの見た目も全てが好きだった。一重の優しい瞳も、小さな小さな耳も、小ぶりでちょこんとしていながら筋の通った鼻も、あなたは自信があるようには見えなかったけれど、彼は全てを愛しく思っていた。もっと近くで見たくなって、でも少し恥ずかしくて、あなたの横顔を見つめていた。あなたは彼を愛していた。あなたも彼の横顔を見つめたり、後ろ姿を眺めたり、手を繋いでいるときは、彼の手を優しく撫でた。朝のスターバックスで、彼は課題が進んでなかった。彼は失ってしまった未来への希望を身勝手にもあなたに預けていた。あなたに生きていたくないのだと伝えた時、あなたが悲しい気持ちになるのはわかっていた。彼は死ぬ刻を探していた。あなたに資されている心地よさと同時に、生きていくことに対する恐怖も持っていた。いなくならないでねと言われる時には、居場所を得られたようで嬉しかった反面、嫌われて一人死んでしまいたいという臆病な彼の本質が顔を出していた。好かれるのと同じくらい嫌われてしまいたいと思っていた。あなたは言った。「何してるとかは言ってくれるから不安じゃないよ」と。あなたはわかっていた。彼が言わずにいたことも。それでも信じようとしてくれていたことを彼は知らないままだった。

 行こうとしていた美術館は閉まっていたけれど、動物園とスヌーピーのカードは買えて嬉しかった。動物を見て嬉しそうなあなたはやっぱり可愛かった。あなたはスヌーピーで喜ぶ彼を見て嬉しそうだった。写真を撮ろうとすると決まって片足を上げて腕を上げる。変なポーズは非常口のマークに似ていたので心の中でピクトグラムと名付けた。

 水曜日のお昼休みにご飯を食べることになった。ご飯を食べたくない彼にあなたは自分で握ったおにぎりをくれた。あなたが関わったものは美しく、何気ないおにぎりが美味しかった。もっとあなたの作ったものを食べたかった。

 食事に興味のない彼とは反対に、あなたは美味しいご飯が好きで、よく誘ってくれた。今でも有楽町はあなたのイメージがある。つるとんたんで食べたうどんは特別美味しいわけではなかったけれど、あなたと並んだのも全部含めて楽しかった。あなたがトイレに行っている間に座っていたベンチにポケモンカードが落ちていたのを今思い出した。彼はあなたの写真を撮るのが好きだった。また写真を消すのは苦手だった。綺麗に撮れなかったあなたの写真も愛しくて、消したらあなたがいなくなった時に後悔するのを知っていた。彼は毎日、明日あなたが死ぬかも知れないと恐怖していた。あなたが体調を崩しやすいからというわけではなくて、大切なものはいつの間にかなくなることを知ってしまっていた。死んだ時に傷つかないように、あなたを大切にしすぎないように、あなたを思いのまま大切にはできなかった。

 あなたが何度目か体調を崩した。あなたはいつも会う約束を守れないことを申し訳なさそうに謝った。彼にはそんなことどうでもよくって、ただあなたに元気がない時に何もできない自分の非力さを実感していた。その日に自転車を買った。ただあなたが辛い思いをしている中でぐっすり眠ることは許されないような気がして、自転車を漕ぎ出した。中野から自転車を漕いで、限界のわずかな手前で、実家に着いた。あなたはそれを通じて元気が出たと言ってくれた。彼にはその経験がなかったけれど、あなたが元気になったのが本当に嬉しかった。

 残暑はまだ厳しく、8月の末だというのに病み上がりで体調を崩すことが多かったあなた。あなたの家の近くで会うことが多かった。この日は少し元気だからと言って、ハンバーガーを食べた。撮った写真に写る二人の顔があまりにも似ていたので、なんだか嬉しかった。それを報告したらあなたも同いことを考えていたからますます嬉しくて、壁紙にこの日の写真を選んだ。

 あなたがコロナに罹ってから、1ヶ月ぶりにあなたに会えた。病み上がりだというのにいつも彼ばかりが気を遣われていて、彼は自分がいない方がいいんじゃないかって何度も思ったけれど、あなたに伝えられなかった。神楽坂のカフェに行き、公園で話した。あなたばかりが蚊に刺されて喫煙の副作用を実感した。

 コロナで会えなかった。会いたかった。あなたの役に立ちたかった。ホテルにお見舞いに行った。電話もできるときはたくさんした。いつでも力になりたかった。あなたはいつも助かっていると言ってくれているけれど、自分にできることはそれしかないのが悲しかった。あなたの苦しさがわからないのが辛かった。

 好きな景色の写真をあなたに送った。あなたと一緒にみたいとずっと思っていた。初めてあなたにキスをした。愛しくてたまらないから我慢できなかった。あなたはこっちを見ることもできないまま固まっていてかわいいなって思った。

 あなたを褒めたり触れたりすると鼻をふふっと鳴らして目を細める。嬉しい時の小さな合図が好きだった。

 プラネタリウムは何回かの延期を繰り返してようやく行けた。彼は星を見るのが好きだったので、あなたも好きになってくれたら嬉しいと思っていた。カップルシートで柔らかく温かいあなたがくれたのは途方もない安心感だった。華奢なあなたの細い体が、腕が好きだった。

 あなたの読む本は彼の好みからは外れていて、新鮮な気持ちが付き合っている二人を肯定してくれているような気持ちになった。あなたの好きな苦い飲み物たちは、好きになるまで時間がかかった。ハンギョドンは、今でも好きになれない。

 東京タワーとひよこはそれぞれの幼いところを写した。ひよこを振り回すあなた。一番楽しい時の笑い方はいつもよりちょっと声が低かった。東京タワーから見える夕日はいつも見えない街を写した。あなたは曇りだったことを悔しそうに喋ったけれど、彼は隣にあなたがいれば雲だっていつもより美しく見えた。電車で彼の肩を枕にして寝ているあなたはかわいらしくて、思わず頭に唇を当てた。

 おしゃれなカフェを見つけたらあなたに教えたくなった。日常にささやかな楽しみが増えたことが純粋に楽しかった。あなたのラインの返信を見て、あなたが行きたくなるか行きたくないかを予想するのもなんだか楽しかった。2回目の美術館にいき、その後水族館に行った。雨の日が多いあなたとのデートは、雨も好きな彼と相性が良かった。しばしば彼はあなたに傘を刺さないことを指摘された。うまくは言えないけれど傘を刺した時の不安感が、最後まで言えなかった。

 ハンバーガーが好きなあなた。雑誌が好きなあなた。桜を見れなかったあなた。学校帰りに中目黒に行った。二人なら緑色の桜の木も素敵な思い出になるんだ。どこに行くのも楽しいだろうな。

 チームラボではイメージと違ってアクティブなあなたの一面を知れた。シカゴピザはやっぱり落ちて、伸びるチーズはやっぱり嫌いだった。海沿いのベンチで少なくなった人を眺めていた。お互いにものものしい空気感で、お互い話す言葉は宙に溶けていた。「話変わるんだけどさ」2人の目と目が合う。逃げていくあなたの目を見ながら照れ屋なんだなとかぼんやり考えていた。「何?」あなたの一言で引き戻された緊張感から、永遠とも言える間を感じた。忘れられていた呼吸の仕方を思い出すように1、2回繰り返して、言った。「好きなんだ」「付き合ってほしい」あなたは少し嬉しそうに鼻を鳴らして、「私も今日言おうと思ってた」と一言付け足しただけだった。最初にあなたに伝えた愛だった。

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