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私たちの物語

皆さん息できていますか?

私は最近息ができていないように感じています。なので、好きなことを好きなだけとことん考えて思いを馳せて、たくさん息を吸おうと思います。

今回は古舘春一先生の『ハイキュー!!』です。


邂逅


私が古舘先生の作品を読んだのは『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談』です。確か小学校高学年か中学生の時、集英社の漫画を試し読みできるサイトで最終巻である3巻を読んだのがきっかけです。「3巻ならすぐ買える」と思って親にねだったのが一番最初だったと思います。初めて買った少年漫画だったかもしれません。そこからずっと古舘先生の次の作品が出ることを待っていました。そして待ちに待った『ハイキュー!!』が始まったのです。

しかし最初は、バレーボールのことを何も知らなかったため少し避けていました。そして少し経った頃、確か3巻くらいが発売された頃、バレーボール部に所属していた友達が勧めてくれたのです。そこからはやはり転がり落ちるように魅了されていきました。それは今でも続いているし、新しい友人や新しい楽しみ方(舞台や好きな登場人物になりきってプレゼント交換を行う会など)をもたらしてくれました。ここからはただひたすらにどこが好きなのかを語っていきます。


永遠の私たちの代弁者


『ハイキュー!!』を読んでいると、部活を全力で過ごした中学生時代や高校時代に抱いた感情、けれども誰も表現してくれなかった感情をまるで抉るかのように描いていると感じる場面があります。

まずは、IH宮城県予選、常波戦。最終回を迎えた今、思うとここからこの作品は一貫していたんだなぁ、と思うのです。惜しくも一回戦で負けてしまった選手たちを背景に「俺たちもやったよ バレーボール やってたよ」と綴られています。

部活をしていた人の多くはあっけなくあっという間に、最後を迎えると思います。勝ち続けることなんて不可能です。そして、そうなると今までの練習も崩れていくような、無かったことになってしまうような気がします。なんの記録にも残らなくなってしまいます。しかし、『ハイキュー!!』はそんなその他大勢の選手の「これまで」を刻んでくれたのです。「みんながこれまでしてきた努力を知っているよ」と語りかけてくれたのです。こんな作品がこれまであったでしょうか。

次に、東京合宿編。ツッキーの「絶対に”一番”になんかになれない どこかで負ける それをわかってるのに 皆どんな原動力で動いてんだよ!?」という思いに対して山口が「そんなモンッ プライド以外に何が要るんだ!」と答えるシーン。

答えがあったのか、これが答えだったのか、と思いました。部活をしているとき「プロになるわけでもないのにどうしてこんなにしないといけないんだ」と思ったのは一度や二度ではありません。しかしその時答えは出なかったと思います。なんとなく頑張らなければいけないものなのだと思い込んでいました。このシーンを読んだとき、山口の返答はスッと入ってきました。実はもう元から知っていたのかもしれません。しかし言語化することができていなかったのだと思います。全力で闇雲に部活をしていたあの時の自分にこの答えを教えたいです。

次に、春高予選、和久谷南戦。何日も部活をサボった縁下が「暑い中走らなくていい 怒られなくていい」と思いながらも、苦しんでいる回想シーンです。

このときの縁下には、後悔や後ろめたさや罪悪感や負い目や…たくさんの感情が渦巻いていたと思います。それをあえて明言しないのもいいと思いました。だって、あの感情は言い表せません。ただひたすらに居心地が悪くて、しかしサボってしまったという負い目からその時の苦しさは誰にも伝えられなくて、自分の中を渦巻くのです。『ハイキュー!!』はそんなのことも全部ひっくるめて描いてくれたのだと思います。

最後に、春高準々決勝、鴎台戦。「こいつらと一秒でも長くバレーをしていたいとおもう でもただ一人 信頼してこなかった奴が居る ・・・さぁ相手は強敵だ 「自分」と戦っている余裕は無いぞ 罪悪感も恐怖心も在って当然 ぜんぶ背負って 俺は今日 俺を味方にする」という旭先輩の回想です。

ハッとしました。なぜわざわざ敵を増やしていたのだろうと。自分のことを一番理解している存在をなぜわざわざ敵にしていたのだろうと。どうしてそこまでして自分の首を絞める必要があったのでしょうか。もっと物事は単純だったし、大切なのは目の前のことだったのです。それを差し置いて己の中でゴタゴタしていることの愚かさといったら、無駄というか、勿体ないことだと感じました。至らない部分も足りない部分もダメな部分も受け止める、存在しているのだと認識する、それが自分を味方にすることだと思います。

ここまでつらつらと印象深かったシーンを語ってきました。

何が言いたかったのかというと、ここまでその他大勢の私たちのことを描いてくれた作品は無いのではないかということです。つまり『ハイキュー!!』は私たちの圧倒的代弁者だったのではないでしょうか。私たちは物語に触れる時、共通点や共感点を見出し、登場人物を憧れの存在として位置付けると思います。しかし彼らはどんどん私たちから遠のいていきます。まるでアメコミのヒーローのように気が付いた時には、並大抵の努力では到底なれない様な存在になってしまいます。しかし、『ハイキュー!!』は物語が進んでいっても私たちの代弁者で居続けてくれました。寄り添い続け、少し隣の世界で私たちを描いてくれていたのだと思います。


誰も締め出さない物語


ハイキューは最終章で「今日 敗者の君たちよ 明日は何者になる?」と問い続けます。裏を返せば、敗者の私たちはどんな選択でも取れるということです。なんにでもなれるということです。何を選んでも間違いではないといことです。最初の常波戦のエピソードに繋がりますね。だって私たちのこれまでは消えないのですから。恐らく部活でしていたスポーツを続ける人はほとんどいないと思います。そのことを表すかのように、最後にはこれまでの登場人物のその後が描かれています。バレーボールをしていなかったキャラクターが多かったのではないでしょうか。ここでもやはり『ハイキュー!!』は私たちの代弁者であると伝わります。

そして、バレーボールマンガでバレーボールを続けなかった人たちも締め出さずに、オリンピックシーズンにオリンピックを見ないという選択を取った人すら締め出さずに『ハイキュー!!』は幕を閉じます。ここまで、人の人生を描いた作品はあったでしょうか。すべての人生を選択を肯定してくれています。最終回を読んだ友人は「人が死なないタイプの人間賛歌だね」と言っていました。本当にその通りだと思います。部活時代は私たちの代弁者であり続け、プロリーグ編ではすべての人生の選択を肯定してくれました。まさに人間賛歌、むしろ人生賛歌です。

バレーボールだけでここまで描いてくれるとは思いませんでした。そして大切なのは、人生は続くということです。そのことを表すかのようにして『ハイキュー!!』はこれからを想像させてくれるような終わり方をしています。

誰も締め出さなかった物語。

私たちの圧倒的代弁者であった物語。

そして、作品は終わるけど人生は終わらない、ということを最後に示してくれた物語。

『ハイキュー!!』は私たちの物語だと思うのです。



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