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不遜さについて

抱きがちな不遜な誤解がいくつかあって、例えば完全なものを作り得るという誤解。作り上げられたものが完全であるという誤解(これは観者にもよくみられる誤解だけど、描いている人間も何故か散々失敗し続けているはずなのにそう思っている人がいる。理性の力を信じる西洋の影響か、全てがコントロール可能なもので、それによって絵画全体を理性的に制圧し、完全にできる。というような。しかしその場合制御できないものがどうされるかというと無いものや邪魔ものとして排斥されるので、筆が進むごとに自然から離れ、画面にはただの描写か、既に完結したもの(死)のみが並ぶ。私たちが生きているという前提の現実からも遠く離れていく。)
絵画的意図(理性)によって画面をつくりあげようとするとき、それを導くものは絵画的正しさであるけれども、絵画的正しさなんて限定されたものが完全であるはずはなく、また私たちが生の最中にいるということは見ること・知ることにおいても完全ということはあり得ず、故に正しさもまたあり得ない。それは完結してはいないし、不完全なもの。
人が絵を描くというのは本来、不完全なまま絶対の秤に乗ることで、だからとても怖い。でも、それが人間の仕事に課せられた最も重要な瞬間だと私は思う。
人の秤やそれこそアートシーンみたいな限定的な秤にのみ乗るなら変動的な正解も変動的な完全(変な言葉!)も人は作り得るかもしれないし、何も臆せずその天秤に万能の面持ちで乗れもするが、それはあくまで不完全な場所においての判定であるからなんですよね。大きな、本当に完全なもの絶対のものの秤に乗るときは、分からないもの、アウトコントロールの中を見ることを避けられないし、その中でわからないまま腕を動かし間違える。そして不完全で間違えた存在のまま、それを分かりながら秤にのらなければならない。だけどその瞬間にこそ真の救いはあり、夜明けは来ずとも光があります。それだけで描いていける。それだけで生きていける。そういうもんだと思います。

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