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人を描くこと

少し長い付き合いになるモデルさんがいる。大学の学部時代課題で描いたのが始まりで、卒業制作も院の修了制作も彼女にポーズをお願いした。大学を出てからも定期的に大阪まで来てもらっていて、私が描く他人は今も9割が彼女だ。(たまに家族や同居人をスケッチしたりはするが)
私が他人を描くとき、側にはいつも彼女がいて、彼女を通して私は人を見、知り、人を描くことを学び、考えてきた。人と生きる喜びを、人と生きたいという希望を繋いでくれたのも彼女だと思っている。

人を描くというのはとても危険なことだ。人を描くとき、彼女は私の視線に耐えねばならない。自分のことを自分勝手に観察し、分析し、あれこれあたりをつけられることに不快を覚えない人間がどれだけいるだろうか。私はそれを彼女に強いることになる。本来そんなことは人にやってはいけない。決して良いことではない。
そう思っている筈なのに私は彼女を描く。描きたくなってしまって、描いてしまう。だから最低限守るべきことを守らなくてはならない。ゴミを拾うように免罪符を集めなくてはならない。

美しいことはいつも酷いことの上に存在する。なら、せめて自分のやった酷いことはわかっていなくては。

彼女を前に画面と向き合うといつも思う。人が人を観察し、描く。あたりをつけ、試す。
何様か。
驕りが過ぎる。正気じゃない。

人を描くとき(いや、それは人に限らず全てのものに言えるのだけれど)まず何も分かっていないことを肝に銘じなくてはいけない。常に、絶対に忘れてはならない。誰も何も、何かを観察することなんて本当にはできない。だからしっかりしなくてはいけない。しっかり見て、見て、ただ見て、そこにあるものを捕まえる。それさえやれば良い。それしかやってはいけない。
彼女のことを、自分のものにしてはいけない。

それが作法であり、人を描き、見るときに守るべき倫理であると私は思っている。

彼女が来ると必ず2人で滝道を散歩する。
その渓流のように、激しいときも緩やかなときも彼女との時間はとても自然だ。

流れる水の中、お互い石になって沈んで、「ここに居ます」と互いの場所で互いに手を振り合うような、流れる水のその形で、相手がそこにいることを知るような、そんな時間が心を強くしてくれる。
私たちは離れていて、一つにならない。
彼女は私の意識を越えて存在し、だが確かに存在することを私は知っている。
人と生きるということ。
その喜び。

人を描く変え難い嬉しさはこれだとも思う。

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