見出し画像

1990年12月23日、渋谷道玄坂「高柳道場」

2020年に生きる私は、その日付を検索によって特定することができる。本日のちょうど30年前、1990年12月23日のことである。場所は東京・渋谷の「高柳道場」。芹沢博文、中原誠、田中寅彦、島朗、蛸島彰子、清水市代といった著名棋士を門下に有する高柳敏夫八段(当時)の名を冠する道場である。渋谷駅から伸びる「道玄坂」を少々上り、左手の袋小路に入って最奥まで進む。ガラス製のドアから、多くの客が盤面と向き合っている様子が見える。畳敷きに座布団、脚付きの盤という、よく言えば本格的なスタイルだが、畳も座布団も盤駒も使い古されている。休日の客数はかなりのものだ。場所が足りなくなれば2階に上がって指す。

私は毎週土曜日に地元の将棋センター、そして月1回日曜日に千駄ヶ谷の将棋会館道場へ通っていたが、小学校高学年になり、この高柳道場にも顔を出すようになっていた。というのも、将棋会館道場はかなりの連勝をしないと昇段させないため、なかなか昇段に至らず停滞した感じがあったためである。他方、高柳道場は少し緩かった。手元に残っている段位認定証を見ると、1991年9月(中1)で四段の認定を受けている。となればおそらく、小6当時は三段で指していたのであろう。そして同じ三段でも「赤」「青」「黒」と三段階あるのがこの道場の特徴だ。三色の上下関係は忘れてしまったが、細かくランクアップできるので励みになっていた。

画像1

そう足繁く通ったわけではないものの、いくつか思い出される場面がある。地元の将棋センターで毎週教えてもらっていたおじさんに、高柳道場でも会ったこと。四段のお兄さんの振り穴に完敗した後、「振り穴されたら、例えば銀冠に組むんだ。固め合うだけじゃなくて、主導権を握って戦わなきゃいけない」と教わったこと。2学年下の村中秀史君に当たって勝ったところ、村中君が「なんであんなのに負けてるの?」と手合係のお兄さんに怒られているのを見てしまい、ああ自分程度では見込みがないんだなだと思ったこと。親に禁止されていたコーラを初めて自販機で買ったこと、などなど。

中でも、1階に置いてあったテレビが思い出深い。今のような液晶ワイドテレビではない。ブラウン管の、正方形に近い、色味に乏しいテレビである。ある日の対局で私は序盤から優勢になり、相手のおじさんが長考に沈んだ。しかしどうやっても受けがない局面で、何を指されようと優勢は動かない。私は何となくテレビに目をやっていた。すると、いつの間にかテレビに気をとられてしまい、おじさんが次の手を指したのかどうか分からなくなってしまった。おそるおそる「指しましたか?」と尋ねると、「……あんた、ちゃんと将棋見てた?」と凄まれた。二の句を継げず黙ってしまうと、おじさんは舌打ちしながら早指しを始めた。指し手はいい加減だったのでほどなく私が勝ったが、おじさんは手合係に「なめた野郎だねぇ。テレビ見てやがったよ」と不満を吐いていた。気まずいことこの上なく、その日は早々に帰った。

テレビの思い出はもう1つある。1990年12月23日のことである。テレビは部屋の真ん中あたりにあったのだが、そのときはちょうど私が正面に当たる位置で対局していた。3時10分を少し過ぎて、誰かがスイッチを入れた。以前の失敗に懲りて、もう二度とテレビに目はやるまいと思っていたのだが、この日は様子が違った。相手のおじさんの方がそわそわして、たびたびテレビを振り返るのである。私の相手だけではない。しばらくすると多くのおじさんが対局の中断を申し出て、テレビの周りに集まってきたのである。テレビの中にもスタンドを埋め尽くす群衆が映っている。なんだなんだ、力道山でも出てくるのか?

出てきたのは馬であった。その日は第35回有馬記念。あのオグリキャップの引退レースである。2年前に笠松競馬から中央競馬に移籍して怒涛の連勝。その後はタマモクロス、イナリワン、スーパークリークといったライバルたちと激闘を繰り広げたオグリキャップ。よく素性も知れぬ種牡馬から生まれた地方馬が中央のエリートたちを圧倒するという痛快なストーリーを演じて、抜群の大衆人気を誇っていた。しかしこの年の秋は2連敗。内容も悪く、多くのファンが限界だと感じる中で迎えたラストランであった。騎乗するのは21歳の武豊。前年、デビュー3年目にしてリーディングジョッキーとなり、天才の名をほしいままにしていた。この年4戦して1勝のみのオグリキャップであったが、その1勝をもたらしたのがほかならぬ武豊である。陣営は「芦毛の怪物」最後の舞台を若き天才に委ねた。

……などという話を当時の私が知るはずもないが、それでもオグリキャップと武豊の名前くらいは小学6年生でも知っていたのである。

G1のファンファーレが鳴る中、誰かがテレビのボリュームを上げた。場内の歓声が聞こえてくる。私の対戦相手は、首だけでなく体ごとテレビの方を向いてしまった。道場の中の駒音が徐々に止んでいく。ゲートが開く。1周目、最初のコーナーを回りきって馬群が正面スタンド前に差し掛かると、テレビの中の群衆が沸く。道場のおじさんたちは静かで、だがしかし画面を凝視して動かない。第1、第2コーナー、向正面、第3コーナー。目立った動きはない。第4コーナー、芦毛の怪物が中団から上がってきて先頭に並びかける。スタンドのボルテージは最高潮、もう誰も盤面を見ていない! アナウンサーがオグリキャップ、オグリキャップ来た、と連呼する。お、おっ、おおっ、来たっ、とおじさんたちも思わず声を出す。他の馬も追い上げを図るが、差が詰まらない。最後ははっきりと抜け出してオグリキャップの勝利である。おじさんたちは口々に感嘆の声を漏らす。オグリを労い、また奮闘を称えるように首をたたく武豊。見とれてしまうような美しいウイニングラン。スタンドからは大歓声、絶叫、やがて「オ・グ・リ! オ・グ・リ!」のコールに変わって……


この当時、渋谷だけでも他にいくつかの道場があり、『将棋世界』や『近代将棋』に掲載される広告はかなりの数にのぼっていた。しかし年を経るにつれその数は減っていく。高柳道場がいつ閉店したのか私は知らない。あの袋小路はいまどうなっているのだろう。

平成の初期、将棋にも競馬にもスマートでクリーンな若きスターが現れた。その後の30年、どちらも「おじさんの娯楽」という従来のイメージからの脱却を試み、ある程度の成果を収めたのではなかろうか。JRAは毎年さわやかなテレビCMを打ち、若く健康な男女がスターホースを追いかけて競馬場に赴くというイメージを作り上げる。将棋界は、折り目正しい棋士が和服を着て戦うタイトル戦、礼儀作法の習得を売りの一つとする将棋教室の展開などを通じて「日本の伝統文化」イメージとの融合を図る。真剣師や坂田三吉の時代が強調されることはない。

私は、タバコの煙たっぷりの中でおじさんに遊んでもらった時代を懐かしむことはあれど、子どもが将棋に親しむ上で望ましい環境であったとは思わない。将棋教室があり、親しみやすいアプリがある現代の方が、次世代を育てやすいことは明らかだろう。ただ、真剣師が闊歩した時代も、縁台将棋の時代も、町中の将棋道場が栄えた時代も、将棋は常に大衆の傍にあったことを記憶し、その時代の境目にあったにおいを忘れたくないだけである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?