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棋士たちのサバイバル(下)

前回はこちら。

2020年7月17日 上野裕和六段戦

川上七段の2019年度は17勝13敗。星1つ足りず惜しくも順位戦復帰を逃した。しかしイチからやり直しになったわけではない。「いいところ取りで、30局以上の勝率が6割5分以上」という別の復帰条件を満たす可能性が残っていた。

2020年度のスタートとなった棋聖戦一次予選で2連勝。これで直近28局を18勝10敗とし、朝日杯一次予選の上野裕和六段戦を迎えた。実はこの週の末にNHK杯の放映が控えており、もし収録済みのNHK杯を勝ったなら上野六段戦に順位戦復帰がかかっている状況であった。

朝日杯は持ち時間40分の早指し。ABEMAで中継があったものの、平日午前中なのでリアルタイム視聴はできなかった。昼休みに4倍速のダイジェストを見る。

動いている川上七段を見るのは何年ぶりのことだろう。30年前の姿からあまり変化がない。細身で、正座を崩さず、感情が前面に出てこない。淡々と、棋譜並べでもしているかのように淡々と。

将棋は相矢倉。先手の川上七段が優勢を築くが、上野六段も巧みに玉を固めながら反撃。先手は後手玉を詰ますしかない局面になったが、玉周りの金銀が健在でなかなか詰みが見えない。しかし川上七段は読み切っていたようで、震えることもなく正確な手順で詰ましあげた。

見事な収束を見せたにもかかわらず川上七段に興奮した様子はなく、やはり淡々と感想戦をしていた。私は、ああNHK杯は負けたのだなと悟ったが、変わらぬ川上七段を見て安心もした。

この日は午後の対局も勝ち、1日で2勝を積み上げた。後日放映されたNHK杯はやはり敗れていたのだが、直近31局で20勝11敗となり、再び順位戦復帰まであと1勝と迫ったのだった。

2020年7月30日 北島忠雄七段戦

棋聖戦一次予選準決勝。やはり持ち時間1時間の早指し戦。相手の北島忠雄七段は温厚な人柄で知られ、「長原こども将棋教室」の運営も行っている。私も小学校の将棋教室で一緒になる機会があったが、周りの空気まで優しくしてくれる人だなと感じた。一方で50代半ばながら竜王戦4組、順位戦C級1組の座を維持している。これは簡単なことではない。

将棋は先手川上七段が矢倉を選択。川上七段は四間飛車も指すが、近年の主力戦法は矢倉である。後手は急戦の構えから右四間飛車に。銀桂交換の駒得から拠点となる歩を設置して先手陣にプレッシャーをかける。

川上七段は果敢に反撃していった。銀のタダ捨てのようなハッとする手も入れて後手玉に迫る。だが一見して無理をしている。このままでは攻めきれず一手負けの様相である。1分将棋の中、懸命に逆転の一手を探す。

そして89手目、▲8四角という奇手をひねり出した。竜の利きに角を飛び出す手で、角を犠牲に竜を引かせ、一手稼ごうという狙いである。私は興奮したが、それもわずか2、3分のことであった。

92手目△8八竜! 北島七段はお返しとばかりに竜をタダ捨てする王手。指された瞬間に観念する一手である。▲同玉に△8七銀とさらに捨て駒の追い打ちが来たところで川上七段は投了した。

棋士たちのサバイバル

その後の川上七段は一進一退、2020年度を11勝10敗で終えた。目立つわけではないが、この勝ち越し1つという成績も簡単に手に入るものではない。中村太地七段や高見泰地七段といった強い若手も倒してきた結果である。

9月18日の朝日杯。中村太地七段に快勝した後の2局目は飯島栄治七段戦。ABEMAで中継を見た。飯島七段は私と同時期に将棋会館道場に通っていたので、手合係だった川上七段は飯島少年のことを知っていただろう。2人の対局姿を見るのは感慨深かった。この将棋は飯島七段が制勝。

川上七段は順位戦復帰の足掛かりとなる星を持たぬまま2021年度を迎えた。あと2年の間に復帰条件を満たせなければ引退である。

私は順位戦復帰がかなうことを願う一方、仮にそうならなかったとしても悲しむことはないかなと思っている。八百長も忖度も手加減もない。だからこそ1つの勝利の価値が高い。This is 将棋界 after all.

川上七段との対局からしばらくたった後、北島七段は将棋教室のブログでこのように書いていた。

10月から講師のシフトが少し変更になります。火曜日に対局があり、体調がヘロヘロな時や、木曜日に対局で前日に対局に向けた準備が必要な時は私北島に代わって福原先生に、シフトに入っていただくことにしました。現代の将棋界は強い人ばかりで、メダカがサメに戦いを挑んでいるような感じですが、やり切ったという気持ちで引退の日を迎えられるよう、頑張って行きたいと思います。ご理解を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

(「長原こども将棋教室」ブログ 2020年9月18日の投稿より)

「やり切ったという気持ち」が胸に響く。棋士に限った話ではない。果たして私たちは「やり切ったという気持ち」に至ることができるのだろうか。

通算413勝403敗、勝率.506。

棋士たちのサバイバルの中で、川上猛七段はまだ勝ち越しを続けている。新しい一年が始まる。

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