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棋聖、藤井聡太(下)

第92期ヒューリック杯棋聖戦第1局の正確な進行については、棋聖戦中継サイトの棋譜中継及び中継ブログを適宜参照いただきたい。

午前、56手

振り駒で先手番を握った渡辺は相掛かりを選択。藤井も長考せずに追随すると、開始30分で早くも本格的な戦いが始まった。

この進行は2月に行われた両者の対局をなぞっている。先手は桂得する一方で歩切れとなるが、飛車先を切って1歩を得る。端では先に香を捨ててさらに1歩を補充し、あとから後手の香を回収しにいく。後手は手にした香を使って反撃し、一見厳しいのだが意外にバランスがとれている。何とも不思議な手順だ。

本局は37手目で渡辺が手を変えたが、これ自体はその後別棋戦で指された改良手だ。38手目、藤井の△8六歩で前例から離れた。そして観戦者を驚かせたのは、その後も互いに長考することなく激しい攻防が続いたことだった。双方持ち時間4時間の対局であるにもかかわらず昼食休憩までに56手も進んだ。ただ玉を堅く囲うような序盤とはわけが違う。持ち駒となった双方の香が乱舞し、先手の角金が盤上から消えていた。

ここまでの攻防にソフト研究の裏付けがあることは明らかだった。特に渡辺は持ち時間を32分しか消費していない。すべては事前に習得済みの手順だったのである。かように激しい攻防ながら、AbemaTVの「SHOGI AI」による勝率評価は双方50%を示したまま微動だにしない。

午後、34手

昼食休憩を終えて対局再開。結果からいえば、本局はここから34手進んだところで決着する。休憩明け最初の5手が山場であった。

▲8三香(15分)、△3四歩(39分)、▲7七歩(13分)、△8八歩(7分)、▲8一香成(1時間23分)

▲8三香は飛車取りの一手なので、まずは飛車取りを防ぐ手を考えそうなもの。ところが藤井は長考の末、これを無視することを決断。△3四歩と角の活用を優先する。対する渡辺はしばし考えて▲7七歩と受ける。このやりとりを見た鈴木大介九段は「ええっ! 腰を抜かしました」とコメント。

飛車取りにかまわず角道を通し、渡辺にいったん受けさせた。ここは藤井の主張が通ったように見える。さすれば今度こそ飛車取りを受けそうなものだ。ところがところが、藤井は強気に△8八歩と攻めを継続。

渡辺が長考に沈む。この先の地図はなく、未来はすべて二人の頭の中にある。

持ち時間の1/3にあたる1時間23分の長考の末、渡辺は▲8一香成と飛車を取って攻め合いに出る。果たしてどちらが先に相手を斬るのか。

差がついたとみられたのは、66手目が指されたときであった。渡辺が桂を跳ね出して攻めかかる姿勢を見せたのに対し、藤井も自陣の桂を跳ねてぶつけたのである。せっかく開いた角道を止め、玉の逃げ道を狭めてしまうように見える一手。ところが読めば読むほど絶好の一手だということが分かってくる。

藤井玉は狭いように見えるものの、意外に寄せきることができない。渡辺が攻めを急かされた格好になった。藤井は桂香を交換しつつ悠々と受け止め、ついに角道を止めていた桂を跳ね出すタイミングを得て、優勢を決定づけた。

90手目。見れば渡辺の飛車と玉が藤井の桂3枚にがんじがらめにされていた。

18時24分、挑戦者渡辺明名人が投了。

棋聖、藤井聡太

記者たちが対局室を埋める。インタビュワーは渡辺に問うた。「藤井棋聖の△8八歩というのはまるっきり考えていなかった手だったのでしょうか」と。もう少し言葉の選びようがあるのではないかと思ったが、当の渡辺は「そうですね、はい。まるっきり考えていなかったです」とそのままの表現で認めた。「先手番で落としたということになっちゃったわけですけれども、第2局に向けて意気込みをお聞かせ願います」という厳しい質問には、無難な答えで返していた。

渡辺は後顧の憂いのない状態で対局に臨み、徹底的に深めた研究をぶつけた。しかし藤井は正面から受けて立ち、やはり徹底した研究と持ち前の深い読みで跳ね返してみせた。

私は常日頃思っていた。ソフト研究全盛の時代に生まれて、藤井聡太は不運だったのではないかと。たしかにソフトは棋力向上を加速したかもしれない。しかしソフトのない時代にあっても彼が将棋界のスターとなることに変わりはなかったであろう。

むしろソフトにより先々まで評価付けされた序中盤を戦うことは不本意ではないのか。順位戦で敗れたときのように、あっという間に玉が露出する局面まで進むのは味気ないのではないか。序中盤に自由があれば、もっと対局を楽しめたのではないか。かつての棋士たちのように、のびのびと盤上に絵を描くことができたのではないかと。

しかしいま藤井に問えば「いやー、それほど窮屈でもないです」と答えそうな気がする。本局、ソフト研究の裏付けがあったとみられるのは午前中の56手。研究を外れたあとの指し手が午後の34手。藤井の即興は半分の17手に過ぎないとみることもできる。だがそのたった17手の深みたるや、一流の棋士たちを唸らせるに十分なものであった。

どうやら現代の棋聖もまた「実力十三段」のようである。現代の名人はいかに立ち向かうのであろうか。

第92期ヒューリック杯棋聖戦第2局は、6月18日(金)に行われる。






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