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差別ある暖かな社会

実のところ、アンコンシャスバイアスという概念が登場したあたりで
だいぶウンザリしていた。それは、例えばこういうものである。

 病院に行き、医師の診療を受け、「お大事に」と声をかけられた。
 聞こえてきたのは女性の声ですか?男性の声ですか?

この問いかけの意図することは
「医師といえば男性と想像するだろう。それは無意識の差別である」
ということだ。

確かにそれは差別なのだろうが
そこまで(こちらの内心、価値観)まで差別だとジャッジされ
「おんやあ?あなたは差別主義者の考えを持っていますね」
と言われているような気分である。
非常に不愉快だった。


マイクロアグレッション

しかしアンコンシャスバイアスは更なる進化を遂げて帰ってきた。
そう、マイクロアグレッションである。

これは相当強い言葉だ。なにせ、アグレッション(攻撃)である。
アンコンシャスバイアスは序章にすぎなかったのだ。
アレは「無意識の偏見に気づこうね」で終わりだったからである。

このマイクロアグレッションというものは
「自分では相手を差別したり、傷つけたりするつもりはないのに
結果として相手を傷つけてしまうような言動や行動のことを意味する」
そうだ。

いやちょっと待てよ!「相手を差別したり、傷つけたりするつもりはない」んじゃん!
それが分かっているんなら、「傷つきました」に
「そういうつもりはなかった。ごめん。」
で済む話じゃないの?

そもそも、多少の傷つきはコミュニケーションを行う以上
お互い甘受するしかないよ。
エヴァでも言ってたじゃん!!
(若い人は知らないか・・・ハリネズミのジレンマなんて・・・)

まあこれが便所の落書きに記されている程度なら
「フーン」で終わりになるのだが

「これも差別!あれも差別!
さあさあ、差別を撤廃しなくては!
我々が啓発してあげましょう!」

とウエメセの、よくわからんコンサルタントが説教する仕事が今や成り立ってしまっているのである。
たまったものではない。
こんなものを仕事と認めるな。いい加減にしろ。

アップデートの先にあるもの

とはいえマイクロアグレッションだの
アンコンシャスバイアスだのに異を唱え
「人に非ず」と認定され、社会的地位を喪失するのは割に合わない。

なので、薄ら笑いで「素晴らしい考えだ。差別はよくないね」と調子を合わせることになるが・・・

「アップデートされた方(傷つきを振りかざす方)」が同じ職場へいらっしゃった時には
・・・あまりお声がけはしたくないな~というのが本音である。

なにせ、傷つきを振りかざす方にとって、何が地雷になるのか
我々のような凡人俗人にはサッパリわからないからである。

最低限仕事に必要な言葉だけ交わして、それ以外こちらからは一切話しかけない。という戦略が最も生存率を上げる。

マイクロアグレッションの防止策として
共感が大事、相手の立場を思いやる気持ちが大事
と繰り返し唱えられているが

私から言わせてもらえれば、「傷つき」を感じた彼らは
相手の共感だの思いやりだのには一切の価値を見出さない。
当社比ではあるが、今のところただ一人の例外もない。

なぜかというと・・・
彼らにとって自分の傷つきの前には、相手の気持ちなどどうだってよいからだ。
「傷ついた」と思われたなら、どんなに共感していようが、相手を思っていようがすべてが裏面に出る。

「それで共感しているつもり?思いやっているつもり?
だって、私は傷ついたのよ!」


これで終わりである。
どれだけ心を砕こうとも、そんなものに意味も価値もない。

だからドライな接点しか持たず、心を傾けない
共感するフリくらいはするが、本心を動かすことはしない
それが「傷つき」を振りかざしてくる人間と接する際の最適解なのだ。

身に覚えがある方は、そういう風に見られているという自覚を持つように。
なお、全ては貴方が撒いた種である。
その結果は自身の身を以て甘受してくれ。

共感というシステム

人間の「共感」は我々が思っている以上に合理的なシステムであり
フワフワとした素敵で綺麗な何かではない。

「共感」がなぜあるのかというと
身近な人々と仲間意識を持ち、共同体を作り上げるためにある。

なので自分の家族や友人
あるいは同じ国に住む人々には共感出来ても
地球の裏側にいる顔も名前も声も知らない
何の繋がりもない人間には共感できないのだ。

仮にそれに共感できるとして
その共感力はどちらかといえば
その個体の健康を害する可能性が高いだろう。

それは「優しすぎる」というより
「そうあらねばならぬ」という抑圧による、不健全に強化された共感力とすら言える。

そうしたものは当人の心を苛むだけなので
「私は優しすぎるんだ」等と自己肯定せず
健全な共感力に修正するよう尽力したほうがよい。

愛ゆえの差別

大変残念なお知らせなのだが
人間は確実に差別を撤廃することはできない。

仮に差別を完全に撤廃したならば
その時人間は大切なものを犠牲にしなければならない。
人間には愛があるからこそ疎外・差別がある。
故に、差別完全撤廃の犠牲となるのは愛である。

犬猫と人間を例に、愛による疎外・差別を説明しよう。
犬猫を愛する人間は多い。
日本のみならず、他国であっても犬猫を可愛がる人が大勢いる。
愛らしい彼らを路上に捨て置く無責任な飼い主に
怒りを爆発させる人間も多い。

その反面、あらゆる国に家もなく路上で生活する恵まれない人間もいる。
が、人間はそのまま路上に放置されるのに対して
犬猫は人間に拾われたり保護される。
これはなぜかというと
路上に放置されている人間は「愛の対象ではないから」である。

「汚いし、臭いし、キモいし、人間は法律的にも拾うと色々面倒くさいし
そこまでして助けたくないし
税金払ってるんだから国がなんとかするだろう。」
というのがおおよその人たちのホンネだと推測している。

しかしこの場合
路上生活している人間は不当に差別されていないだろうか。

まあ一般民衆はともかくとして
アンコンシャスバイアスだの、マイクロアグレッションだの
チャラチャラした概念を提唱し差別撤廃を叫ぶ人たちは
なぜ、直接彼らを救わないのだろうか。

本当に不当に差別されているのは
本当に困っているのは
誰なのかなんて
知りたくもないくせに、わかろうともしないくせに
差別撤廃などという輝かしい旗を掲げているところに薄ら寒さを感じる。

彼らも所詮は「愛ある差別主義者」に過ぎない。
その程度の身で、偉そうに他人様にご高説を垂れる資格などない。

綺麗なことを言えば頷いてくれる人間だけを傍に置き、愛着をもち
不都合なことを言ってくる人間や
路上生活者のようなキモい人間は疎外する。
彼らのやっていることは、どこにでもいる差別主義者と同じである。

差別、平等

差別というのは「差をつけ、別ける」ことを指す。
「差別」の対義語は「平等」である。
※「差別」の対義語は「尊敬」という説もあるようだが「尊び敬う」ことと「差をつけ別ける」ことは対の体をなしていない。噴飯ものの、くだらない俗説である。

そろそろ「平等」の冷たさを、我々は学んだのではないだろうか。
窓から差し込む雪明りも使い
夜中も勉学に励む苦学生を経た東大生ではなく
実家が裕福で、両親とも高学歴で
家系はみんなエリートの東大生がぞろぞろといる社会。

例え自分の生まれた代が「少子高齢化」の煽りをまともに食らうとしても
誰一人として高齢者を切り捨てず、優しい顔をしながら
高齢者を支える負担を雪だるま式に増やして継承してくる社会。

この世のどこに、みなが望んだ暖かな平等があるのか。
生が始まる前から存在する差によって我々は別けられている。
ならば、差別があるのは当たり前のことではなかろうか。
だからこそ、格別に誰かを大切にし、その分誰かを疎外する。
それは当たり前の営みなのではないだろうか。

最近は違法移民が問題を起こしているというニュースも流れている。
日本人同士で「差別している」「ハラスメントしている」等と
下らない潰しあいをしている場合なのだろうか。

我々が本当に守らなければならないものは、何なのか。
今一度、胸に手を当てて考えなければならない時代になったのではないか。

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