集団の意思決定に対する個人の態度
組織をひとつの塊として動かすのは難しい。それぞれにはそれぞれの立場があり、それぞれの思惑があるからだ。だがそれを乗り越えた時、個にはだせない強い力が発揮されるだろう。
意思決定自体は難しい問題ではない。決定権をもつ人間が決断を示すだけである。だがそれだけでは集団の強みは生まれない。どうせ決定権はないのだから、却下されるのだから、判断する立場ではないのだから、各人がそういった態度では集団の力というものは発揮されない。それぞれの立場にはそれぞれの視点がある。現場には現場の事情があるし指揮者は指揮者の、トップはトップで予算の都合などもあるだろう。そういった情報は無駄に排除せず、意見や見解というものはあるのならばどんどんだしていくべきなのだ。例えそれが間違っていたとしてもだ。
意見を統合し判断する立場の人間はそういったものを斟酌しなければならない。間違ったならば間違ったなりの、判断理由を、能力査定を、そういった情報を常にアップデートして目を光らせることである。明らか違う判断をするならば修正していかなければならないし、特殊な判断がでたのならばなぜそれに至ったかと検討することで発覚するものもある。大事なことはめんどくさがらず意見を封殺させないことだ。複数の視点を駆使することによって状況を分析、または己の手足の状態を理解することが個にはもてない集団としての強い判断が可能となる。
逆に意見をする立場の人間の態度はどうあるべきか。まず事実と見解はわけて報告するべきである。客観と主観にはどうしても齟齬がでる。思い込みというものあるだろう。加工された情報と生データはやはり別物なのだ。
また、自分の意見は判断材料だということを忘れてはいけない。持ち出した判断はしょせん自分の見える範囲の出来事である。もしかしたらみえてないもので前提状況が覆る可能性もある。なので自分の判断は一面的なものであり、判断材料のひとつにすぎず、決定は責任をもつものが決めることであり、受け入れられなくてもけっしてくさってはならない。また、間違えも恐れてはならない。明らかに違う判断であっても求められるならばいうべきなのだ。なぜなら現場にしかみえない意見もあるし、上役は今後のこともあるので、ロジックの修正はできるときにこまめにすることが事故を未然に防ぐこととなるからだ。責任は決定権をもつものにある。仮に間違った判断だとしてもそれを通したものが悪いのだ。
方針が決定したあとはどうであろう。意見が集約し決定された時点で方針には逆らってはいけない。例え自分の意見とは違う結果となったとしてもそれには従わなければならない。あくまで自分は集団にとっての目であり手足なのだ。例えそれぞれに個別の思惑があろうと一致団結して事を運ばねば地に足がつかず、ふわふわの態度では力を発揮することはできない。筋を通した態度こそ、力を発揮するからだ。もちろん途中途中に想定されない出来事が起きた場合の報告は必要である。だがもしそれが決定を覆すほどのものであったとしてもそれを決めるのは頭であり、手足の勝手な判断で動いてはよけいな混乱を生むことを忘れてはならない。
このような風通しのよさと判断に従う態度こそがあってこそ組織の強さが発揮されるのではないかとわたしは考える。大事なのは我に囚われすぎないことだ。みんなでつくりあげるのである。