うつくしいえほんでしたか
あるマダムに聞いた可愛らしいお話です。
その方のご親戚には小さな子どもがおり、今その子は“絵本屋さんごっこ”に夢中になっています。
自分の持っている本をずらりと並べ、「こんな本が読みたい」と“お客さま”が言うと、リクエストに応え、ぴったりの絵本を選んでくれるのです。
「美しい本をお願いします」
マダムがそう注文すると、絵本屋さんはエリック・カールの『はらぺこあおむし』を選び、自ら読み聞かせまでしてくれました。
青虫がおいしいものをむしゃむしゃと食べ、最後には見事な蝶になる、というこの物語を読み終えたあと、絵本屋さんはマダムに尋ねたそうです。
「どうでしたか。うつくしいえほんでしたか」
この話自体が美しく、わずか3歳の子どもが美について考えるという美しさにくらくらします。
それよりもさらに幼く、まだ言葉を話さない赤ちゃんも、独自の美意識をもっており、美しいおもちゃや音楽・景色を好むというデータが世界中で出されています。
美に対する欲求や感受性は、人間の中にあらかじめ備わった本能のようなものなのかもしれません。
毒性を持つ植物が抗いがたいような美を湛えているのは、人や動物に触れさせるための戦略である、という説を聞いたこともあります。
美は接したものの心を揺さぶる、利用するに足るものであることを前提とした、自然のたくらみなのでしょうか。
そんな美は危険ですが、その魅力を利用しようとするのは植物だけでなく、人間もまた同じです。
身に備わった美でもって相手を誘い込み、罠にかけ意のままにする。
芸術の世界でも特に繰り返し描かれてきたテーマであるのは、人が美に否応なく惹きつけられるがゆえです。
けれど日常の中で我を忘れてそちらへのめり込めば身の破滅が待っていると予感するからこそ、私たちは本能的な欲求を現実世界ではなく空想の世界で満たそうとします。
物語の中の“美しいけれど危険な男女”ほど魅力的な人物はそういないでしょう。
フランス語でいうところの“ファム・ファタル”は日本語では“運命の女”
“運命の男”を意味する“オム・ファタル”がほとんど使われないのは、男性のほうがよりファンタジーを求めるからか、かつて芸術作品の作り手は男性中心だったからか。
ファム・ファタルは普通“運命の女”と訳されますが、私の好きな定義はこれです。
“ある男を破滅させるべく、運命が送り込んできたかのような女”
これぞ、危険な美。
こんな悪魔的な美を備えたファム・ファタルはいくらも思いつきます。
ナオミ、カルメン、ナナ、ワンダ、ジュリエット、マノン、ロリータ、イザボー、エドワルダ、ギャビー、若狭姫。
無限に羅列できそうですが、このくらいでよしとしておきましょう。
かつてある男性が、私にこんな勇気ある告白をしてくれたことがあります。
「間違いなくロリコンだと疑われるだろうけど、僕は『ロリータ』の中で、ロリータに惹かれる主人公ハンバートの気持ちがわかる。
ナボコフは天才で、あの年頃の女の子にしかない美しさと、それを手に入れて壊したいっていう悪魔的な心理を完璧に描き切っていると思う」
その人の言うには、ウラジーミル・ナボコフの描くヒロイン・ロリータの美は、手中で大切に愛でたいというよりは破壊の欲求をそそる類の美であり、自分でも直視したくない男性心理がつまびらかにされているのだ、という話でした。
そんな心理がなぜ生まれるのか、二人で考えてみたものの、すっきりとした解答には辿り着けないままでした。
美への嫉妬、支配欲、敗北感、本能的な残酷さ。
いくつかあがった候補の中に、ややもすると答えに近いものがあったのかもしれません。
それにしても、かわいい絵本屋さんから始まって、ずいぶんダークなところまできてしまいました。
もう一度、話を明るく無邪気な美の世界に戻し、私はその子が今のままの感性を変わらず持ち続けていてくれることを祈ります。
レイチェル・カーソンが『センス・オブ・ワンダー』で、子どもたちが自然の美や神秘への好奇心を失わないよう、繰り返し願ったように。
人はどのような局面でも美を見つけることができ、それはその人が生きる上での助けになると強く信じるからです。
さもなければ、生きることは時に少々厳しすぎます。
だからこそ、私はアガサ・クリスティーの問いにイエスと言います。
同じように大きくうなずいてもらえると嬉しいのですが。
「美だけが生きる目的になりうると、あなたもお考えになりますよね?むろん」